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中田吉法の成分解析結果 :
中田吉法の85%は愛で出来ています。
中田吉法の9%はスライムで出来ています。
中田吉法の4%は睡眠薬で出来ています。
中田吉法の2%は呪詛で出来ています。
こんな愛あふれる私に誰か愛を下さい(謎
4月1日なので嘘をついてみる。という嘘。
_「4月1日なので嘘をついてみる」は嘘なので私は嘘をつかない。だが私は既に「4月1日なので嘘をついてみる」という嘘をついた。…眠い頭だと、いったいどこが嘘なのかがわからなくなってきたので誰か答えておくれ(ぉ
Winny 問題に関する議論軸は5つ>よりWinnyに関する議論が噛み合わない5つの理由。或いはついカッとなって逮捕する前に良く考えましょーという教訓。
_個人的に気になるのはあれこれの組織の対策のできてなさ、かなあ。
Winnyによる情報漏洩を見てセキュリティ専門家と呼ばれる人々は「情報の持ち出せる体制」に問題の本質があると考えるんだと思うけど、(マスコミの無理解が拡散された結果としての)世間とは少なく見て二段階ぐらい隔たりがある。「セキュリティ意識の低さが悪い」→「ウィルスが悪い」→「Winnyが悪い」って感じで。
官房長官が「Winnyが悪い」と言っちゃったのにはどこかの官僚の意図が働いてると思うんだけど、全部を理解したうえで(本質がそこにないことを知りつつ)やむなく「Winnyが悪い」と言ったのではなさそうなのに凄く問題を感じる。もちろんIPAあたりは問題の本質を理解しているだろう。けども彼らの専門的な意見は正しく伝達されず、最も低次の見解である「Winnyが悪い」を言ってしまうことを止められなかった、あるいは言わせてしまった、そういう組織であり体制であるということが、どういうことなのか。そのへん考えると国がいろいろと現実に着いてこれてないのだなあ、というのを実感できる。
(*1)インターネットはブロードキャスト/マルチキャストを除けば基本的にP2Pな世界であることには留意せよ。
なんとなく召集要請がきたので召集をかけてボードゲームな週末でありました。
以下プレイ順に感想とかなんとか。
_Registaについては以下のバリアントを試してみたい気が
まあ商品としての価値はボードとコマの出来の良さにあるのであって、ルールは正直…だからなあ。
_EURO RAILS、というかEmpire Builder系のゲームについては、
あたりを実装すれば随分良くなるのでは…とか考えてみたり
_ということで、そのへんの再テストプレイをしたいので近日中にプレイヤー募集〜
通称ワロス曲線がまた復活らしい。ということでボードゲーマー的視点を利用してこの話についてぐだぐだ考えてみる。
通称ワロス曲線で一部に知られるようになった韓国の為替運用が激しくダメダメな件だが、この話の笑いどころは大雑把に見て5段階ぐらいある。
以下、わかりにくい3.および4.について詳しく
_まずは3.について。
ヘッジファンド、と大雑把にくくってしまったが、そういう名前の実体があるわけではない。ここでは「国際為替市場の動きを利用して利ざやを稼ぐ意図を持って売買を行っている人々(個人も法人も含む)の集合としての群体」という意味で捉えている。
為替市場におけるヘッジファンドは、為替市場の持つ本来の機能を歪めている。彼らの規模は年々大きくなっており、潜在的には従来国家レベルでしか動かしえなかった資金を動かす能力すら持っているかもしれない。
そんなヘッジファンドに対する(為替市場での)戦い方は大雑把に考えて3つあると思う。情報戦と頭脳戦と物量戦だ。
抽象的な書き方をしているが、(私が)その程度でしか理解していないということであり、その程度の理解でもとりあえず議論ができるということでもある。
おそらく為替介入の先鋒的な責任者はこれらを同時に視野に入れながら複雑なゲームを戦っている、はずである。
_翻って、ワロス曲線が実際に出現しているということを考える。
政府みずからも現在の韓国の外貨準備高が過度に多いことを認めているとかいう記述が超危険。物量戦術を認知していない可能性は極めて高い。
_4.について。
こんな状況が続けばいずれウォンが破綻する可能性がある。韓国通貨危機再び、である。過去の事態では周辺諸国は打撃を受けたはずであり、にも関わらずこの明らかな予兆に対し有効と思える手を打っているように見えない。
どういうことか。以下仮定ばっかりになるがいろいろ書き散らす。
4.あたりまで考えを進めると周辺諸国の動きは既に「見捨てる」すら通り越している気もする。陰謀史観的には水面下では南北ひっくるめた大草刈りゲームが画策されてること間違いナシ、という勢いだ。
_当然ながら、韓国人が誰一人問題が見えてない、なんて言ってはいない。だがそこらの韓国人に問題が見えても国家としてそれが実現できていない以上、国家としては問題が見えていないも同然である。このへん、先日のWinnyについての記述と似たような話だろう。
RGN#01に行ってきました。
学術的な肩書きだとかゲーム関係の所属や職歴だとかはありませんが、まあこういうのは行って参加したもの勝ちだろー、ということで。
_研究会本体。会場はほぼ一杯かなー、という感じの人の入り。発表の方は初回に(多分時間が少ない中で)持ち出した話としては釣りとして有効に機能するあたりを突いていて、それもあって面白い会だったと思います。タイムキープがいまいちで質疑応答が短かったのが残念。
その後もツッコミを入れる機会がなかったのでここにちろっと書いておくと、
_で、個人的にはこっちが本番と思って突入した懇親会。
座った席の関係もあって本体の続きみたいな話はあんまりできなかったものの、本体より興味深いトークがあれこれと。
で、個人的に後で書きたいとか書いて欲しいという願望も含めて何点かメモ。
_あとは懇親会でも提案しましたが是非次回には名札の実装を! ゲーム語りをするのに相手のスタンスってマジ重要なので!
技術的にできる&基本的にオープンソース思考な奴を奴を焚きつけてカッとならせるというのがもっとも妥当な解決案なんじゃないかと思います。
_他人もメンテナンスできるソースを書くためのコストというのは正直バカにならなくて、1日10分を6人で持ち寄ろうとすると各人5分合計30分ぐらいは解釈のために持っていかれる、というのは多分(それでもまだ甘いけど)現実的な想定です。60分の取り方も、5日間遊んでいたうえで突然カッとなって1時間つっこんだほうが効率がいい。
_結局1人で完成させられるレベルのプロダクトにおいて、開発効率だけを考えるなら断然1人でやるのがオススメです。どーせ他に誰も触らないからリファクタリングも自由自在、その気になれば常にメンテナンス性の高いコードを維持しておける。どうせ利用者にとっては外見だけが重要で中身で何が動いてるかなんて大概どうでもいいので。
_もうひとつ思うのは、「完成させる」必要なんてあるのか? ということ。ぶっちゃけ商売として完成品を納める仕事じゃないんだから、(その時点で思うところの)90%の完成度があれば十分でしょう。残り10%を詰めるコストははっきりいって労力に見合わない。
_以上、社内においても「正規の仕事以外にカッとならせてなにかでっちあげさせる」用途に用いられているプログラマーの妄言でありました。
ゲームと死、ということで言うなら日刊良スレガイド:超怖いゲームみつけたのこのスレタイトルがとても示唆的だと思う。
以下、ネタばれを気にせず書くのでやってみたい人はまずやってからにして欲しい。と断りを入れた上で。
愛と勇気とかしわもちにおいては、要は作者がプレイヤーに対しフェイクをかけている。メルヘンな見かけを裏切るように、死を暗示させる演出が挿入される。言ってしまえばそれだけだ。
だけれどそこで出てくる感想が「怖い」なのが興味深い。作者に対しての感想でないのは明らかだ。あるいはそこで使われた手法に対しての感想でもない。もし感想が作者や手法に対して向けるのであれば「ひどい」とか「悪辣」という形容が使われるはずだ。だが、そうではなくて「怖い」。
_「怖い」というのは多分に内的な体験だ。たいていのものは、自分に近しくなければ「怖く」ない。NBC兵器やその類を怖れるのは自分や近親者に使われたときのことを想像するからだし、「日本の年間自殺者3万人」というフレーズより「親友が自殺した」という事実を想像するほうがずっと怖い。
そして、プレイしてみれば確かに愛と勇気とかしわもちは、怖い。そう、「怖い」のだ。それはそこで暗示された死が近しいものであるということを意味する。画面にほんの少し寓話的なものが出てくるだけなのに、絵面で言えばより怖い絵なんて世の中にごまんとあるのに、それらよりも怖く感じるのだ。あるいは悔しいと思うのだ。
同じような構成の絵本を「怖い」と思うことはあるかもしれない。だけれどこれはそれよりずっと怖い。そしてなにより絵本では、悔しいとは思わない。絵本で物語を解決するのは読者ではないから。対してゲームで物語を解決するのはプレイヤーだから。
作者はこのフェイクをかけるにあたり、確かに計算を行っている。けれどこの物語が――プレイヤーが「怖い」「悔しい」と思ったその物語が成立するには、プレイヤーが必要だ。ゲームにおいては、小説や映画やまんがほど作者の力が強くない。プレイヤーは読者とは違う。読者はそこにある物語を読み解くだけだが、プレイヤーは物語に最後の一筆を加える役割を担わされる。
_だがそれは、結局のところプレイヤーの内的な体験だ。RGN#1の話でいけば、濱野氏からのコメントで出たプレイヤーの体験の差異による解釈・感想の島宇宙化の話、そのものだろう。
とはいえこれはゲーム特有の問題ではない。同じ問題は、「読む」という行為でもつきまとい、小説や映画やまんがもこの問題から自由ではない。だが、ゲームよりは自由だろう。読者はプレイヤーよりよほど小さい力しか与えられておらず、そこに描かれてしまった物語に抵抗することは許されない。だがゲームは、どうだろうか?
愛と勇気とかしわもちは、そんなゲームの特性をよく使った作品だ。ただプレイと関係なく、いくつかのシーンが流れるだけなのに、プレイヤーはそれを自分の責任だと思う。どうにかできないかと悔しむ。そこで起こった死を、とても近しいものと受け止める。そして、足掻く。
_しかしこの話を延長していくと別のややこしい点にブチ当たる。世の中のゲームにはそうでないものもある、という点だ(ex. FF7のエアリスの死)。
おそらくはゲーム的・動的な(プレイヤーに責任のある)死と、物語的・静的な死ということなのだろうけれど。このへんには、まだまだ考えるべき余地がある。
ライトノベル「超」入門{新城カズマ/ソフトバンク新書}読了。著者の名前とタイトルを見た時点で直感したけど想像以上にひどい(褒め言葉)本でした。
もうね、「はじめに」に書いてあるまた、お急ぎの方用に、本文冒頭に四百字ほどで僕の現在の結論をまとめてありますので、よろしかったらご覧下さい。
とか、その肝心の四百字がちっとも説明になってないとか、その後もぐだぐだと繰り広げられるエッセイと文化史検証と個人的経験談の混ぜこぜ
とか。
その他あれこれとひどい話のオンパレードみたいな本ですが、読み物として値段分ぐらいには面白いので、まあ興味があるなら買ってもいいかと。