Whiteのふりーとーく

2007年3月後半

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_ another blog@hatena/Wiki/BBS


3.16

@置換計画(4)

データ類の移植はおおむね済んだのでバックアップ関連スクリプトの整備とか。

cvsのバックアップのためにcvsupの設定。これは旧マシンの設定ファイルを取ってきてほぼ完了。

subversionのバックアップはこの際dumpをベースにしたものに切り換え。ちょっとだけ面倒なスクリプトを書く。

_daily_backup.sh:

#!/bin/sh
SVN_ORIGIN=/path/to/repos
SVN_BACKUP=/path/to/backup
LAST_REVISION_FILE="$SVN_BACKUP/LAST_REVISION"
echo '---' Backup start at `/bin/date`
echo '- Exec cvsup on master -'
/usr/local/bin/cvsup -Z -g -L 2 /opt/backup/cvs/supfile
echo '- Exec subversion dump -'
REVISION_FROM=`cat $LAST_REVISION_FILE`
REVISION_TO=`svnlook youngest $SVN_ORIGIN`
WDAY=`date +'%w'`
if (test $WDAY = 0) then
  echo 'exec full dump'
  mv $SVN_BACKUP/dumped* $SVN_BACKUP/last_week
  svnadmin dump -r 1:$REVISION_TO --incremental $SVN_ORIGIN > $SVN_BACKUP/dumped.all
elif (test $REVISION_FROM -lt $REVISION_TO) then
  echo incremental dump $REVISION_FROM to $REVISION_TO
  let REVISION_FROM+=1
  svnadmin dump -r $REVISION_FROM:$REVISION_TO --incremental $SVN_ORIGIN > $SVN_BACKUP/dumped.$WDAY
else
  echo no dump because revision fixed.
fi
echo $REVISION_TO > $LAST_REVISION_FILE
echo Backup finished at `/bin/date` '---'

このスクリプトを定期実行するために以下のスクリプトを書いた。

/etc/daily.local:

#!/bin/sh
/path/to/backup_dir/daily_backup.sh >> /path/to/backup_dir/backup.log

これだけで後はcrontabにデフォルトで書かれたperiodicが毎日実行してくれるはず。後で確認すること。

_そういった諸々の作業と並行して最終データ移行のスクリプトをまとめておく。旧マシンのとのリプレース前の手順は以下の通り:

_あとは念のためkernelとworldをbuild & install……してみたら、mergemasterの段階でこっそりミスって/etc/defaults/rc.confを吹きとばしたために共有ライブラリ解決で/usr/local/libとかを見に行かなくなって往生した。ダサい。

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@一気見

水曜日は風邪で休んで木金もわりと省力モードで早めに帰ったりとかで。

そんなわけで時間があったのでリリカルなのは無印とA'sの一気見とか敢行してみた。しかも初見。なぜか確保だけはしてあったのだが放置していた(放置しすぎ)。正確には水曜に無印を一気見したら止まらなくなって木曜日にA'sも見終えてしまったとかそんなん。大人しく休め、というのは至極ごもっともだが24時間もぶっ続けで眠れるか畜生め!

_そんなわけで以下容赦なくネタバレ交えて感想。

_無印の方はよくも悪くも低予算のスピンアウト企画という雰囲気がそこかしこに。しかし監督が新房氏だったのが終盤にきてプラスになってたような気がする。序盤はそうでもなかったのに後半になると新房の省力マジックがそこかしこで炸裂してでもそこまでの積み重ねがあるからわりと見られた。話自体はこっぱずかしいぐらいベタな話をベタな台詞の連発でやってるだけなんだが、そのベタなのをベタなまんま送れてしまうのはやっぱり才能だ。あるいはそのようにしてシリーズの背骨に原作者の意志がドカンと通っているためにアクのありすぎる監督の色がそれなりに抑えられていたのかもしれない。

_A's。こっちは終盤に突如監督の色が増加して、などということもなく、きっと予算とか違ったんだろうなあ、とか下世話なことを思った。単に「困ったら自分の色を出しまくっちゃう監督」でなくなったからって気もするが。それはそうとOPの良く出来てるぶりはゾクゾクした。絵は全然変わらないの毎話ごとに見え方が変わるのがすごい。パーツは全部初回からOPに出ているのだが進行するにしたがってパーツの意味を知らされてこっちの見方が変わっていくのが気持ちよかった。なんだかんだでシリーズ構成が良く出来ているから作れたOPなんではあるまいか。その一方で原作者の悪役作れないっぷりはひどい。キャラクターを倍近くに増やしておいて結局最後は全員味方ってどういうことだ。まるで男塾のような勢いだ。最終決戦のあたりのヒネらなさぶりとかもどうよと思ったが、動画の勢いで押せるアニメならあれでいいのかもしれない。でもザンバーフォームの使い方だけは格好悪いと思います。折角の大剣なのに! なぜそれで突撃して斬らぬのか! お前はそんなに射撃が好きか! あとグラーフアイゼンとレヴァンティンの声のハイテンションぶりが気に入ったりとか。

_ところで話は突如変わって昨晩のひだまりスケッチ(地上波)。いくら省力マジックといってもさすがに省力しすぎなんじゃねえかと思いますよ。声の演技聞けりゃそれでいいようなモノだから大して問題ねぇって話もあるけど。それともそんなに困ってるのかなあ、監督の人。

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3.19

@購入物

TS4GSD150はSL-C1000用。動画入れ始めたら1GBとかじゃ足りなくなりそうだったので。挿したらあっさり認識したので多分動くだろう。

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3.22

@「がくえんゆーとぴあ まなびストレート」についてあれこれ。

then-dさんとIRCでやった会話を記録しておく、というのも兼ねて少し思うところを書いておく。当然最近webの一部で話題になっているのは(ちょっぴりだけど)意識した上で。あと、これとは別のチャンネルであんよさんともまなび話をしていたので、そっちもあんよさんの許可が取れるなら同様のスタイルで上げたいかも。あっちは俺のスタッフ萌え力説になってるだけって気もするけど。そんなわけでどうでしょう>あんよさん

then-d: なんかアレだね。週初めの元気の源が失われるのが惜しい
white: またなんか始まるとは思うが
then-d: まあ、旅立つ日が来たと言うことだ、学園生活と同じように。
then-d: しかし、OP歌詞同様後で分かるよだよな。自分が高校の時どうだったかというと、吹奏楽にはかまけていたけど120%燃えていたわけではなく、先を考えつつも全ての方向に不完全燃焼だったと思うわけだ。
white: ふつうそんなもんだと思うわよ。
then-d: まあ、まなびはしもじー視点でないと見られないとは思う。現役高校生が見ていたら青臭くて死ねとか思うかも。それはギャルゲーもそうか。だからこそゲンミツに(性描写の有無に関係なく)18禁にすべきなのだ(ぉぉぉ
white: 18禁云々はまあいいとして、まなびの根幹に流れてるのはノスタルジーだよね。だから今がキラキラしてる年代の人にはわかりにくいのかもなー、とも思う。
then-d: それはフタコイオルタも同じ?
white: フタコイオルタの方が青春物としての出来はよかったような気もするのだけど

フタコイオルタナティブ。まなびと同じufotable制作の、TVアニメシリーズ。いちおう原作(電撃G'sマガジンの読者参加企画)付きのアニメだが、「双恋のアニメ化だからアニメ企画もふたつ!」という無茶を承けた結果か、「オルタナティブ」の方は原作を思い切り良く無視して半ばufotableのオリジナル企画のような体を成している。

then-d: フタコイオルタの方が生活感と挫折感と錯綜性があるので、私の心証にも合うのですが。
white: 舞台の存在感というか厚みの点でフタコイオルタの方が優れているのかなあ。
white: ああ、「双子6組をごまかしでもいいから出さねばならない」ために結果として背景世界に厚みが出てたのかも。
then-d: あの夕日と河原はクるものが。夕日は特にノスタルジー喚起力が大きいし
white: まなびは芽衣の話以降はなんか微妙にダレてた感じがあるんだよなあ
then-d: だから明確な敵が出てくると(以下略)

フタコイオルタでは、とてもわかりやすい形で明確な敵が出てきた。青春物の物語が本来立ち向かうべき心理だとか人間関係だとかを吹き飛ばして、「敵」として具現化させちゃうのは卑怯だがとても効果的なやりくちだ。なにしろ敵と戦うシーンで客の目をごまかしつつ、戦いの過程でキャラクターの選択やら苦悩の打破やらを(やっぱりわかりやすく)展開することもできるわけで。

対してまなびはそういう要素があまり明確にはならない。

then-d: でも、シナモンシュガーレイズドハピネスはだれではなくて白眉だと思うけどな
white: ああ、あれはすごかった。あの「なんにもない話」をやれるのは凄い。

まなびの第6話「シナモンシュガーレイズドハピネス」。これについては冒頭で述べたあんよさんとのIRCでのログで(私が)力説してるので、とりあえずはそっちを待て(ぉ ただ、あの回についてどうしても言っておきたいことを強調するならば、「あの回で脚本はなにもしてないわけじゃない。『なんでもない日』を見せるために脚本は『何か』なんてしちゃいけなくて、だから作画(と声優)を信じて『何もしない』ことを選んだのだ」と。おそらくはすごく入念な「何もしない」なのだけれど。

then-d: フタコイオルタで言えばギターと探索の回にあたる? あと、エメラルドマウンテンとコーラの回も。
white: そういう回が複数回用意できたことが、フタコイオルタの強みだったと思うのね
white: で、なんで複数回できたかというとそれはゲストキャラの存在なわけで
then-d: 12人の効能になるわけですね
white: 足かせがある方が面白い仕事がやりやすい、という話なのかもしれんけど。
then-d: ニコタマ取材による説得力はあるだろうなぁ。逆に、ホワイトベース温泉はアタマ抱えた

で、フタコイオルタにおいて「シナモンシュガーレイズドハピネス」あたりに相当するであろう回が第4話(放映時5話)「7DAYZ(...and Happy Dayz)」と第5話(放映時3話)「エメラルドマウンテン・ハイ」。これもまあ、多少の伏線は張りつつも基本的には「何もしてない」話。フタコイオルタのそれの方が、(キャラクター設定の都合上)ノスタルジーに振った部分が大きいようにも思うけれど。ちなみに放映時話数と制作話数が違うのは、7DAYZの制作に時間がかかりすぎたのだという噂。

これらの回以外でも、フタコイオルタで特徴的なのは、街の風景のカットが印象的に多用されていること。カメラが街を自由に行き来することで、生活感とか実在感がよく出ている。このへん、どうしても学校に舞台が押し込められがちな「まなび」に対するアドバンテージかも。

そんなわけで、学校という舞台から解き放たれ街に出た「シナモンシュガーレイズドハピネス」は、「まなび」中では「フタコイオルタ」にかなり近い色が出てるようにも思う。

then-d: あと運指は無視、同じカット複数使用はあるけれど、バンドのシーンへのそれなりの説得力はまああったと言ってよいのではないかしらん。
white: その発言、ハルヒ意識しすぎ(笑 でもさ、まなびのは説得力はそんな必要なとこじゃないんじゃない? つか、むしろあそこでは観客にも歌って欲しかった。なんか合唱になっちゃうイメージで。
then-d: それはあるなぁ。
white: しかしアイドルとしての堀江由衣の旬の終わりの利用という観点で見ればそれがやれないのも事実、というかキングレコード様の意向みたいなびみょさが。
then-d: そういう方向では見なかったなあ。むむむ。声優に興味が向いていない証拠かも
white: いや、単に見方が下世話なだけだから(笑

で、ようやくこの夜にみた11話についての会話。

バンド演奏のシーンについて言えば、もちろんハルヒを意識してないわけはないと思う。でも、多分に技術デモ的だったハルヒのそれと違い、「まなび」のはあくまでも悪目立ちしない範囲で作られてる。あとストーリー上ぽんといきなり出てきたハルヒのそれに対し、まなびのは初回と、新校歌と、放送ジャックって流れを受けてるシーンだ。

で、後段はそのへんについての下世話な見方について。でもさ、初回ではまなびが一人で歌ってた校歌を、この回でみんなが歌うってのはストーリー構成としても正しいように思うんだよね。なんでそれをやらないかというと、オイシイところは最後に取っているのでなければ「大人の事情」だろうね、と。バンドリーダーの配役が茅原実里だったことも合わせて考えると、どうしてもそんな印象に。

white: あとまなびはあれだ、映像作品としてみたときにアクが弱くて面白みが欠けてるのかな。共同監督なせいで、「監督の色」みたいなのがすっぽり抜けてるというか。
then-d: もっと藍ぽん視点で遠く離してしまえば、というのもあるかもしれなかったが、それをやるとひとり取り残されるばかりで目的と喧嘩するし。それはめぇーちゃんでやった。
white: 全6話とか8話だったらよかったのかなあ。プロットに対して尺が長いのかも。もう一個ぐらい脇道のエピソードが入っててもよかった…という感想が出るのは珍しいなあ。「足りない」とはよく思うのに。

で、このへんからシリーズ構成に対する批判的な話に入る。前半でやりたいことをやり尽くしてしまって、後半はなんか息切れしている感があるのだ。「脚本が頑張る回」とか「作画が頑張る回」とかいう分担でやって、そしたら総まとめがおろそかになってしまった……みたいな? そんな印象を吹き飛ばす最終回を期待したいのだけど、どうかなあ。初回冒頭の伏線を見事に回収してくれるといいのだけれど。

then-d: (構成上は)学園祭が通過点でないともたない?
white: いや、学園祭が最後でもいいと思うんだけど。むしろ問題は、夏休み最終日で構造上やること全部やって終わってることの方で。それ以降はおおむね一度やったことの繰り返しで、そのわりには変奏が足りてない。
then-d: 全員クラス一緒なのがまた微妙で。
white: 演劇部の部長(?)とかがもっとキャラとして立たないとダメだと思うんだよね。いや、出番のわりにはすごい立ってるんだけどさ。
then-d: 確かに、生徒会室移動の件とか変奏にはなってないが、そこが学園祭実施に直結しているのでねぇ。
white: だから「もっと尺を短くすれば」というすごい珍しい感想なわけさ。
then-d: しかしそうすると序盤の期待感→挫折→復活の大筋が崩れるのですが。最初期待感がないと引きが弱すぎるだろうし
white: ああ、それは確かにそうだ。
then-d: 私はむしろ、敵としての愛洸学園理事長ではなく、背景に隠れた、学校通わなくても、という面子とのなんとか、という方も……と思わなくもない
white: それは……それこそ出しどころがない。
then-d: 最初から相容れない面子と処理されているとそうなるけど。
white: いや、キャラクター一人出せば見せられるものじゃないでしょ。だからって重層的に描いちゃうと話のバランスが崩れるし。最悪「がくえんゆーとぴあ」のお話ではなくなっちゃう。(社会と対比されることで)モラトリアム性がより顕著になるというか、ディストピア的に見える可能性すら出てきちゃう。
then-d: この世に不在のゆーとぴあだからねぇ  ♪they say it was in Animation〜って。
then-d: まあ、ありえないことをもって(まなびのキャラクタ造形を含め)そこを批判してしまう人も多いと思われるのでありますが、それはわかってないね、と言っておこう。

「ありえないことをもって」というこの一言、とても大事。ぼくらの(ちょっと歳の行った人間の)ノスタルジーを喚起するのは、「ぼくらの学生時代そのもの」よりも「ぼくらがこうでありたかった学生時代」なんじゃないかと思う。

以上が放映直後のお話。で、以下が翌日夜。

A: ログ読んでなんだけど、まなびの校歌のシーンはなんで合唱にならなかったのかが未だに不思議でならない
white: マーケティングの問題だろう、やっぱり
then-d: まあ、堀江声はいろいろヴァリエーションつくって二枚目俳優から性格俳優への転進みたいな試みもありそうな悪寒(と声優評論家でない私が邪推しすぎ)

ここだけもう一人出てきて、この話を蒸し返し(苦笑 というか、蒸し返されたからこれ以降の会話になったんだけど。

で、堀江由衣の話だ。実際そろそろ転換期にはきてるように思う。というかそういう視点で見ると「まなび」って、林原めぐみと堀江由衣が両方使われてるんだとな。で、野中藍までいてなんとなく歴史のラインが見えるわけで。他のキャスト陣もまあ、なんかそういう意図が透けて見える感は当然する。ま、最近じゃあ珍しくないことだけど。

then-d: 交代で仮眠を、のところの声は吹いたな。あとなつのおしまい(ばいばい)もえがった(むろん、これもみかんのところだが)。
white: 実はストーリーを駆動させちゃいけないってことなのかも。
then-d: 学園祭に向かう方向性が強く現れている部分はつまらなく、淀みのほうが断然面白い。これはフタコイオルタも同じだった。その点なかたさんのストーリー駆動×というのは同感。
then-d: まあでもこの回でみえなかったところから、わたしにもみえるよ、に繋がるのでそこは認めないとね。
white: まなびの口ぐせを実践してストーリーをまっすぐ進めるとダメになる、と考えてみるとひどい話だ(苦笑
then-d: まなびとは、遠くにありて想うもの、そして楽しく騒ぐもの(笑

「まなび」の良いところ、悪いところ、の話。短い会話だけど、「まなび」という作品の方向性をよく語ってると思うのだ。ノスタルジーを喚起させるような、後で思い返して思い出に残ってるようなシーンはとてもよく見せてくれている。でもそこから踏み出して、ストーリーとして動かし始めると、なんだか無理が出てきてしまっている。ノスタルジー喚起装置としては目的を達成してると思うんだけど、でもちょっと寂しくもある、かなあ。

white: 脚本と作画の仕事の位置関係が逆だったものとして、ファフナーと比較すると面白いかもしれないとか思ってみた。
then-d: 前半見ていないのだ
white: 後半だけ見てればわかるよ。ええとね、前半の出来がガタガタだったところを、冲方せんせーが脚本全部握った上で作画をちっとも信じないで台詞だけでブン回した(苦笑
then-d: 確かに言葉責めだったなぁ
white: あの絵の作品はよくそうなるんだがなー(笑
then-d: 平井絵は動かしにくいのか?
white: 動かしにくくて、あと表情が付けにくい
then-d: リヴァもまあ……詰め込んだのもあったけど。しかし私はリヴァイアスは好きだ(変態マゾ)
white: 儚いとか物憂げとか、そういうイメージを払拭しにくいのね、極端に。
then-d: んじゃたあたんちぇっく絵は逆にそういうイメージが表現しにくいとか言ってみるか
white: 多分それはわざとやってるからなあ。なにしろあの絵で芽生のトラウマ話やっちゃうわけだし。
then-d: うん、ひぐらし(ぉ

最後は絵柄の話。でも「まなび」の絵って、実はそれなりに使いやすい絵なんじゃないか、という気もしてる。動かすことのできるスタジオ(ufotable)の力ってのは多分にあるけど。むしろ演出自体は実はエグかったりするのを、あのかわいい印象のキャラにやらせることで和らげてるという気もする(このへん断言する気なら見直して要検証だな)。特にまなびという物語上の「不変点」となるべきキャラの不変性を出すためには、あの絵柄でないといけない(あの絵柄だからあの天真爛漫さ、そこから導かれるひたむきさが出せている)と思うのだ。

以上、まとまってませんが俺の中でもまとまってないのでまとまってないままお送りしました。

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3.23

@どうせやるなら。

巨人は銭ゲバ野球をやるならこの際徹底的にやったほうがいいと思いますよ。FA年限は短縮、FA獲得選手数制限なんてもちろん撤廃して、ガンガン金で選手を買いまくると。そういう球団が出てくれば、2〜3球団ぐらいは「育てて売る」で資金を回していけるようになるかもしれないしね。「FAされるぐらいならポスティング」という雰囲気ができあがりつつあるのを見るとなおさら。

ところが実際は「金はそんなにかけたくない、でも選手は若手もベテランも取りたい」というわがまま放題。ケチくせえこと言うんじゃねえよと。少しはヤンキースを見習ったらどうだ。

_なにより解決するべきは選手流動性の低さと、選手枠の少なさだと思うわけで。なんであの高校野球の規模があって(一年齢での競技人口が30万近くは行くはず)、プロの枠があんなに狭いのだろうか(日本プロ野球の支配下選手枠は最大840人、15世代でこれを分けるとしても1世代あたり56人……30万で割ると0.02%)。メジャーの1チームを成立させるために、裏側にどれだけの選手が抱えられているかを考えると、日本のプロ野球は本当に上澄みの美味しいとこだけをすくい取る形で成立しているという図式が見えてくる。裏金はある意味それを適正分担に近づける役割を果たしているのかもしれないけれど、だったら2軍のゲームを興行として成立させるとか、チーム数増やすとかそういう方向に努力してくれないものかなあ。

_わがまま放題言うなら言うで、せめてまともなビジョンを持って欲しいものだけれど。ちゃんと全体を考えての上なら、外国人枠撤廃とかだって視野に入れてもいいだろうに。きっとそんなふうには動けないのがまたなんとも。

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3.28

@非ハンデ戦アプローチ/機甲装兵アーモダイン

D端子セレクタを買って配線した。配線をしたのでPS2がAVアンプにつながった。というわけで、「AVアンプのD端子の口が足りなくてPS2がつながってないから」というダメな理由で買わないでいた機甲装兵アーモダインを購入した。

アーモダイン、実に素晴しいデザインだ。これは、とても革命的な作品かもしれないと思う。

戦術級SLGをコンピュータ上に実装するときの最大の問題は、「人間の頭が良すぎる」ことである。「AIが馬鹿だ」と言い換えることもできる。まあどっちでもいい。肝心なのは、「人間とコンピューターの間に実力差がありすぎる」点だ。コンピューターが動かす陣営と人間が動かす陣営とでは基本的に勝負にならない。互角な条件で戦うと、どっちが勝つかはおおむね明白だ。人間がルールさえ把握していれば、でもってちゃんとそれ用の思考さえすれば、だいたい人間が圧勝する。そのうえ、決められたアルゴリズムで手を進めていくことしかできないコンピューターに対し、人間は試行と思考を繰り返してガンガン戦術を発展させてしまうので、差はどんどん開いていく。

_そこで多くのゲームは、人間側とAI側とで保有戦力に差を付けることでこの問題を突破してきた。物量やパラメータ、あるいは初期配置に差をつけ、その差を人間の知性で突破させるというデザインである。「ハンデ戦アプローチ」とでも言うべきか。

ハンデ戦アプローチはコンピュータSLGが登場して以来、基本的にはずっと採用され続けてきた。パワードールシリーズなどはこうしたアプローチの極みで、「状況把握のために何度か負けて、最後に本命の一回で勝つ」というプレイスタイルを要求する一種のパズルゲームのようなものにまで到達していた。

やや毛色の違うアプローチとしては、リアルタイムストラテジー(RTS)における「手数を大量に要求して人間の思考を飽和させる」があるだろうか。しかしこれも結局は形を変えた物量アプローチであり、人間が十分な操作錬度を得れば再びAIと脳の差が立ち現れてきてしまうことになる。

_もちろん世の中には例外というものがあって、チェスや将棋や囲碁などの古典的なゲームにおいては、「ルールが最初から決まっている」ためにハンデ戦アプローチが使えなかった。ということで、これら古典的なゲームでは、AIのアルゴリズムの研鑚や巨大な演算能力の投入という別のアプローチが採られてきた。だがそうしたアプローチが採れるのは、チェスやら将棋やら囲碁やらが、いわば研究の対象となっているからだ。どれだけの人間がどれだけの労力を突っこんだのかと考えると、かなり現実的でない数字が出てくる。いずれのゲームもコンピューターの土俵に乗せる以前のところで数多のプレイヤーが大量の戦譜を残し、それらの中から多くの定跡が抽出され、その土台を礎に盤面評価や手順探索のアルゴリズムが構築されてきた。いったいそれにかかった時間と頭数がどれほどに達するか。その「総労力」からすれば、チェスのグランドマスターに勝つためにIBMが大人気なく専用ハード(DEEPBLUE)を作ってしまったことなんてそれこそどうということもなかったようにすら思えてくる。

_なんにせよ、コンピュータSLGを一本作る予算と比較すべき数字でないのは確かだろう。そんなわけでコンピュータSLGはまだまだAIの頭の悪さを克服できそうにない。ということで目先のシステムはごちゃごちゃと入れ替えられつつも、結局は戦力差によるハンデ戦アプローチでSLGは脈々と生産されてきた。

_ところがアーモダインは、ここのところで根本的なアプローチにメスを入れた。導入したのは「人間が操作しない」というアプローチである。人間(プレイヤー)は指示を出すことこそできるものの、ユニットの行動を最終的に決定するのはAIとなった。「人間が頭が良すぎる」なら人間にやらせなければいい、というわけだ。これでユニットを動かすのは人間側でもAIでコンピュータ側でもAI。ユニットの行動の質の差で致命的に戦いの趨勢が変わってしまうようなことはずいぶん減る。

そして、細かいところでの決定権を持たないために、人間の思考はもう少し戦術的なレベルに引いた部分を中心に行われることとなる。手元の部隊をどの程度に分割してどこに戦線を作るか、作った戦線が維持できるか否か、維持できぬなら援軍を送るかはたまた退くか。

そんなふうに方針を決めて指示を出す。しかしここで再びAIは基本的に頭が悪いという問題が鎌首をもたげてくる。AIは目先においてそれなりの行動こそ取れるものの、思い通りに動いてくれるわけではない。その結果「兵隊は基本的に言うこと聞かない」「その兵隊をどうやって思い通りに動かすか」という極めて現実の軍隊っぽい動きが展開される、人間は馬鹿な自軍AIの行動を先読みして、できるだけ思い通りの戦闘が展開されるように兵隊たちに指示を出すことになる。

_この戦闘を思いきってAI任せにする、というアプローチだけでも実験的作品としては一本成立するだろうが、アーモダインはここから先にちゃんと作りこみを開始するあたりがえらい。導入されたのはサカつくとかダービースタリオンとかそっち系の育成ゲームのエッセンスだ。あるいは「俺の屍を越えてゆけ」。兵隊に名前を付けて育成させる。そいつが戦場で見事に働いてくれれば愛着が涌くし馬鹿なことをしでかしてくれれば罵声のひとつも投げたくなる、というあたりで戦闘部分の方向性とも一致する

「AI任せにする」という最初のアプローチを定めた上で、それをゲームとして成立させるためにきちんと肉付けが行われている。それが破綻なくまとまって見事にシステムとして結実している。このデザインは、実に美しいと思う。

あとはこの手のゲームの基本とも言えるユニット及び武装の選択とカスタマイズは完備して、ロボット燃えの心をそれなりに満たしてくれるのも「わかっておられる」点だろうか。

_そして特筆すべきはロード時間のなさ。「短さ」ではない。ゲームを始めてしまえばあとは本当に光学ディスクで動いているのかと疑いたくなるようなスムーズさで進行していく。惜しむらくは画面がショボイ点か。正直初期PS2かPSPぐらいのクオリティだと思うと。技術力の高さが、ひたすらにロード時間のなさとか操作のスムーズさに徹底して振り向けられているあたりのストイックさがすごいと思うのだが、それで損もしてるなあ、と思う。

なんにしても、「AI任せアプローチ」には大きな可能性が秘められていると思う。正直アーモダイン自体の売り上げは厳しいようであるが、めげずに同様のアプローチの作品を作って欲しいものである。

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