原則匿名で公開・個人情報は送られません。必要に応じ御署名/非公開希望をお書き添え下さい。
めでたく(?)ぐぐる様で「深淵回廊」を検索すると公式ページの次に自分らのコミュニティのWikiが表示されやがる今日このごろでありますが。
Refererを観察するに外部からのリンクもぼちぼちあるようですが、ぐぐる様による高位ランクはその兆候が見えてくる前からだったので、やっぱりWikiの持つ自己参照性の強さがPageRankに効いてるんだろうなあ。yapwにはAutomaticLink機能もあるからなおさら。
いいかげんKOMAが市販化されて欲しいのだが相変わらず情報は出てこないし。
_昨日なんとなくあちこち見て、HANDY BIKE 8は置いてあったところがあったのだけれど、畳んだサイズが「大きい」んだよなあ。占有面積で言えばBrompton並みなのがなんとも。日常的輪行アイテムとしては正直不満が出るんだよなあ。これだったらFrogとかBrompton買った方がよさそう。そのへんは高いんだけどさ。正直、HANDY BIKEは先代の方がデザインセンスとしては優れていたと思う。走行性能は極めて問題があった、とは聞くのだけれど。
_でま、やっぱりKOMAなわけですよ。
極めて合目的一直線のデザインが達成されているあたりがもう物欲刺激しまくりなわけで。UK Bromptonぐらいまでの値段だったら正直即決すると思うのだけど。頼むから早いところ俺を「一瞬でカッとなって買ってしまった」状態に追い込んで欲しいものだ。
日曜日にくわね氏、テム氏と共に仙台ライブドワピンキーズ総決起集会(事実誤認)へ。その後月曜日はくわね氏と共に常磐線経由で原発ツアーをしつつ鈍行旅という旅程で帰還。忘れ物・準備不足・遅刻・実は定休日などなどの様々なぽんこつぶりに恵まれたナイス旅行でありました。
なお、準備不足によるデジカメ充電不足により写真はあまり撮れませんでした(ぽんこつ)。
サッカーのシミュレーションゲームが作りたいなあ、という欲望がちらほらと。選手の特性を考えてフォーメーションをグリッド上に形成する、というクライフ的な思想に満ち満ちた奴を。
選手に意識を付けていく、意識が付いた選手を適切に配置する、配置が選手に更なる意識を付ける――そんな「チーム」が形成されていくサイクルを表現でき、かつあまりプレイヤー負荷が高くなく遊べるような。
フィールドのどこで戦い、あるいは誰で戦うのかを表現できるような、そんなシステム。選手が能力や行動傾向や意識付けの結果としての「ゾーン」を持ち、選手同士の意志交換によるネットワークがその「ゾーン」を拡張・強化し、結果としてフィールドに支配領域を形成していく――そんなモデル。
サッキやファンハールの思想を再現でき、なおかつマラドーナが顕現させた力をも再現できるようなものを、限りなくシンプルに。
_と思って、いろいろ考えてはいるのだけれど。はてさて、どうなることやら。
会社帰りに新宿に出てお買物。
_ まずは先日壊したCyclobagのジッパータブの代用品となるものを東急ハンズで見繕い。Victorinoxの小さいナイフ、という案もあったのだけれどとりあえず穏当に適当なキーホルダーを購入して取り付け。
_ 次にヨドバシカメラでDMC-FX1用の非純正バッテリーと小さい三脚を購入あんまり考えないで買ったわりに、三脚はPinky入れに使っていたソフトケースにジャストサイズでした。
アニメ版プラネテスも好きな人として、ひらしょーさんに反応してみるテスト。
_原作のどうにもアニメにしようのない展開・構成をアニメにするために、頑張って砕いて咀嚼して再構成している、。というのがアニメ版プラネテスのやりくちでしょう。
原作への準拠よりは、原作のエッセンスをいかに再現するかにこだわって、設定を変えることも(その結果原作ファンから多少の反感を買うことも)厭わなかった。でま、前半だけ見るなら失敗している感じが強いと思うのですが、最終的に通して見れば敢えて再構成に挑んだ甲斐はあったというレベルに達したんじゃないかと思いますです。
結局プラネテスって「人間と愛」の物語であって、それを「人が宇宙に立ち向かう」ことをモチーフに描き出している――そういうものでしょう。そしてそのエッセンスの点で考えるならば、アニメ版は確かにもうひとつの「プラネテス」と言ってもよい。
_ひらしょーさんがどこまで見て判断してるかが気になるところですが、シリーズとしてのベースが固まるのが13〜14話ぐらいで、本格的に面白くなってくるのは20話前後だと思います。その遅さはそれだけで失敗なんじゃあ、という気もしますが。
ただ、少なくともラストの処理の仕方は原作よりよっぽど上です(苦笑 まあ、風呂敷広がり過ぎて「とりあえず終わらせた」原作と比べるのが間違いですけど。
「遊び」の変質はなぜ許されるのかへの反応はまた後日ということで。数日じっくりと考えてみる予定です。
GameDeepのvol.5に「ゲームの変質」という内容で文章を書いたりもしたのですが、これは今回の直接の回答にはなっていないと思うので。
ファイルシステムのツリー構造を使ってベタ書きというyapwのデータストアの簡便っぷりを利用して、インチキな方法でページをざっくり追加してみた。速度が犠牲にして平易な方法を使っているため、荒業を使いたいときには便利だ。
なんか自室のWindows PCのネットワークが不調。同居人から文句は出ていないので、自分PC←→ハブ間が悪い可能性が高いかなあ、と思いつつ予備ケーブルと交換してみると直った。LinuxBox周辺から自室ハブへ引いている長いケーブルが原因でなくてよかった。
「雲のむこう、約束の場所」を日曜夜の最終回で同居人と共に観賞してきた。いろんな意味で想像以上だった。100点満点で評価を付けるなら96i点(iは虚数記号)を付けたい、という感を抱いた。
_とにかく驚嘆するべきは、90分間見れてしまうことだろう。
凄い映像作品だった。だがしかし、これは映画ではないと感じた。にも関わらず、確かに90分間を客を楽しませることができる作品であり物語であった。
単なる映像美でではない。展開される映像には、物語を感じさせる演出力の裏付けが確かにある。個々のシーンは単に綺麗な画面ではなく、それぞれに情感を訴えてくる。そしてそのクオリティは、全篇に渡って保たれる。
_だが、通してみたとき、それは映画ではないのだ。
映画としては、およそ褒めるべきところがない。おそらくは、ストーリーとしての芯の弱さなのだろう。構成は稚拙と言ってもよい。或いは、いわゆるバカ映画にあるような「他のあらゆるものをぶっちぎってでもこれだけは見せるぜ!」的な割り切りも感じない。
だがしかし、そんなものだったにも関わらず、確かに「雲のむこう〜」は90分間観客を引きつけ、物語を感じさせるのだ。
_これは、「ほしのこえ」のやりくちそのままだ。あれもまたストーリーとしては散漫としていてしかし物語を感じさせるものだった。丁度、「ほしのこえ」をそのまま三倍に引き伸ばしたような。「雲のむこう〜」はそんな作品だろう。
正直、そのまま三倍に引き伸ばせるとは思っていなかった。だから、三倍に引き伸ばしてそれでもなお作品として成立していることに驚嘆した。そしてそれを成立させる演出力が想像以上のものだったことを知った。そして事前に想像していたよりずっと「映画」ではなかった。
_とんでもない才能を感じると同時に、とんでもない袋小路をも感じた。あるいは自分の知らない「映画」が存在するということなのかも知れない。画面の持つ高い密度と裏腹に、限りなく低い物語の密度。しかしそのアンバランスを成立させる演出力。
そのアンバランスさが魅力なのだろう。だが同時に、欠点でもある。
_とにかく「とんでもない」ものだった。それだけは、確かだった。