原則匿名で公開・個人情報は送られません。必要に応じ御署名/非公開希望をお書き添え下さい。
実家の犬が亡くなった。亨年17歳。自分が小学生のときに拾ってきた犬なので、ずいぶんと長生きしたもんだ。ここ数年は帰るたびに弱っているのが見てとれて、それを寂しく思いつつ、時を感じたりもしたのだけれど。何度かもうダメかという時期を乗り越えてようやく終着に至った、という感じであったので、寂しいけれど悲しさはそうでもない。唐突な別れのそれに比べれば、よほど。
1: 昼前に社内にてC.F氏から週末の仙台方面遠征用の土日きっぷを受け取り。
2: 夕方にちょっと会社から抜け出して、会社の近くの自転車店に注文しておいたSPACE GRIPを。KOMAへのCyclobagの装着用に。
3: 帰りがけに。以前カッとなったときのヨドバシ円が丁度26kぐらい余っていることに気付いたのでなんとなくPSP購入。
靖国神社がどうしたこうしたというニュースを見ると、あんなどうでもいい二流神社(失敬)がさぞ大事な場所であるかのように思われるのはどうよ、というかなり外れたことを思う。いや、靖国神社がなんの価値のない場所かと思っているかというとそんなこともないのだが、以前行った宗像大社のちょっとばかり奥まったあたりの場所が持っていた聖性とかと比べると、なんとも格が劣るのだよなあ、とか思ってしまうのだ。
_それは一方が日常の中でその脇を頻繁に通ったりしておまけにあのあたりの石畳が死ぬほど走行しにくいくせに車道は車道で危険なんだよなあ畜生といった具合に非常に近しく(ゆえにどうでもよく)バインドしているのに対して他方が遠方であり記憶の中の存在でありゆえに内的に理想化されているゆえの感想なのかもしれない。
が、それを置いたとしても双方には違いがある。靖国の聖性ってのは社会的要請によって作られたもので、いわば「近代的な」聖地だ。対して宗像大社の持っていたそれは(もちろんかつては社会的要請によって作られたのだが)聖性自体を長きに渡って維持することによって積み重ねられた聖性だったように思う。そういう問答無用の聖性を持ったものを差しおいて靖国靖国と騒がれるのはいかがなものかー、というのは全く的外れな感想なのだがともかくそんなことを思ったりするのだ。
_ところでA級戦犯どうこうというのなら、結果としてイラクの(独裁の下の欺慢のものとはいえ)ある程度の平和を踏みにじったどこぞの大統領を「平和に対する罪」とかで訴えてみたらどうかね、などと思わないこともない。まあ現実には、喧嘩を両成敗してくれる神様なんていなくって勝ったもん勝ちってことなのかもしれない。少々悲しいことではあるが。
江洲さんの問題の認識と歴史と政治と無知ととか読んで適当にツッコミ。
「琉球民族」を「縄文系日本人の末裔」とせねばならない、は誤。
日本の歴史の中で無視されたところで何の問題があるのかというと、無視していること自体が問題でしょう。それはまさしく「史觀や事象を恣意的に選擇する」行為ですから。
で、私には江洲さんの言いたいことが「俺の史観と違うことを言うな」にしか見えないのですが。というか、そこで黙ってスルーできずに反発しちゃうことで逆説的に「琉球民族」意識の存在を証明してしまっている江洲さんの芸だか天然ぶりだかが萌えですよ。ハァハァ。
気付くと家のプリンタ(HL-1650)がトナー切れ警告を出していた。考えられる対応は…
まあ大人しく補充かなあ。次にトナー切れたら本体更新を考えるぐらいが無難っぽい。
在庫が切れたり血迷ってHTMLで作ってたりHDDクラッシュに巻き込まれて印刷原本が消えていたりするGameDeep vol.1〜4の総集編の仮組をやっつけてみた。
横2段で少々詰めて組んでみて64頁。もう少しゆったりさせるかどうか、表紙と各号対応分の扉をどうデザインするか、あたりが思案のしどころ。家プリンタのトナーをどうにかしてから見本を出してみて考えるとしますかね。
江洲さんの終了の後段に対する反応。
_私が主につっこみたかったのは、議論を混亂させるだけの要素を持ち出す
ことに対してではなく、この二つが別民族といふ見解が歴史的政治的に問題となつたことはなかつた筈
という見解についてです。政治的にはともかく、歴史学ではそれこそが問題とならねばならないのは言うまでもないことでしょう。私が問題としたい引用部を敢えて正しく言い替えるなら「この二つが別民族という見解が政治のための歴史の解釈として問題となったことはなかった筈」となるのではないでしょうか。
_さて、上段で指摘した事実をもって江洲さんが歴史と政治の話を混同させるためにある種のレトリックを駆使している、などと勝手な断定をしてもいいのですが、それは不毛ですしたぶんそんな意図もないと思いますのでやりません。むしろ問題は、'nation'と'ethnic group'が共に「民族」と訳されてしまっている現代日本語の罠にそのまんまはまって混乱していることだと思うのですが如何でしょう。(参考:WikiPediaの「民族」の項)
'nation'と'ethnic group'の区別がついていたのなら、今回の話は「琉球民族はethnic group」「日本人はnation」と言ってしまえばそれでかなりの部分がすっきりすると思うのですが(*1)。しかし実際の対話の中身を見るに、江洲さん、Vidさん共に(ついでに私も)両者の区別を欠いていたように見えます。
_江洲さんの望む文脈にのっとって議論を進めることを考えるのであれば、Vidさんの指摘は確かに議論を混乱させるまぜっかえしであるかもしれません。しかしそれ以前に、議論をするための土俵にすら乗っていないのであっては、議論を混乱させるもなにもないのではないでしょうか?
(*1)本当にそれで済ませてしまっていいのかどうかはまた別の話として残りますが、それは純然たる歴史学の問題となるでしょう