Whiteのふりーとーく

2002年9月後半

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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)


9.16

@改造依頼

BD-1はリアホイールの36H化を依頼してきましたとさ。ついでにボロボロになってたグリップシフトの交換も。上がりはリムの在庫次第、だそうで。運がよければ木曜か金曜かな。ということで、今週は電車で通勤。

@確認作業。

江洲さんのfashionable nonsenseに対する反応。

「モデルが疑はしい」という記述について、私の誤読があったようです。江洲さんの発言であるそれは、もう少し強い否定であるかと思っていました。結局、私が言いたいことも江洲さんの、適用の幅を狹めたりモデル自體の微調整を施せば使へるやうになるかもしれません、という記述とほぼ同意のことでした。

ですので、今回の議論について、私は次のように考えます。

以上、本来の論については「話すことなんか実はなかった」と確認して終わりたいと思います。

@think about thinking.

前項「確認作業」と同じく、fashionable nonsenseに対する反応ですが、こちらは逸脱気味に。本質的には別の議論であるかと思われる部分です。

すなわち、先に挙げた齟齬についての、わたしなりの考察です。あるいは、弁明と言ってもいいでしょう。なお、反応は期待していません。

_私の読解する限りにおいて、江洲さんは十分らしき精度のある主観について、これを「事實」と呼んでいるようです。私は、これを無邪気な言い方ではないかと感じます。

_この点について、私は次のように考えています。

  • 我々は主観でしか、事実なるものを認識しえない。
  • 「主観に基づく判断」は事実なるものの一面の表出である。
  • 我々は事実なるものを把握するために、主観か、主観に基づく判断しか用いることができない。

_ある場において「事實」と認めたそれは、結局のところ主観的判断でしかありません。それらが主観的判断でしかない、すなわち当初から歪みの可能性を持つという事実(*1)は、人文科学や社会科学をとても難しい学問にしていると思います。これらの学問は、常にこの問題に直面し続けなければならないでしょう(*2)

_悪い言い方になりますが、ある時期の多くのドイツ国民にとって、ナチスの主張は「信じることのできる主観的判断」だったのではないかと思います。すなわち、江洲さん言うところの「事實」でした(そして、今の多くのドイツ国民にとってはそうでないでしょう)。

_一連の議論の中で私が明にしたかったのは、江洲さんの思考がその問題から来る罠に捕われてしまっているのではないかという危惧そのものでした。ですので、私はそのことを直接に記述しようとしました。そして、江洲さんが仰られるような「事實」に対する反論では、私のこの意図を反映しない議論になってしまう恐れが高いと思います。

_これを不健全と感じるかどうかは、思考というものに対する考え方の違いに起因する話だと思います。私は、この問題について指摘することを健全だと考えます。

_なお、この差を明にしようとした私の態度が、齟齬の一因であったであろうことについては、これを認めるところです。また、その言及の際に、私の主義を上と見るような態度で臨んでしまったこと、結果として私の思考というものに対する考えを押しつけるような論調になった点について、自身で言及した上で、謝意を示したいと思います。


(*1)ここで、事実、という語を用いることは本来適当でないのかもしれません。あるいは、主観的判断でしかないかもしれないという危惧など、本当は全く無用のものである可能性も否定できません。今のところ、この話を突き詰めても堂々巡りにしかなりませんが。

(*2)自然科学であってもこの問題から逃れられるわけではありませんが、回避可能な局面は比較的多いかと思われます。

@不完全類似機構

江洲さんの「惡意とかなんとか」に対しての、酷くずれた、結果としてまったく返答になどなっていない記述。

_悪意がないと言えば嘘になります。馬鹿にしていないと言えば嘘になります。私は人間であり、純粋理性などというものを持ち合わせてはいません。ですから、私の思うこと、為すこと、話すことに、そのような感情や先入観の入り込むことを防ぐことができません。これは、私が人間であること、私が脳というデバイス以外に思考する道具を持たないことに起因する根源的な問題であり、私が思おうとする限り決して逃れ得ない鎖であろうと常々感じています。

そのように常々思うからこそ、私は話を混ぜてしまったのでしょう。思うということについてそのような視座があり、それが先入観として機能し、ゆえに二つの話に類似性を見出したのだと思います。そしてそのときに、二つの話に関しての対話の相手が同一の人物であったがために、これらを包括して議論できるのではないか、と私は考えました。

_帰納とも演繹とも言い難いこの方法に、拒否反応があるのは当然であると考えます。なんの予告もなく、このような方法を採ったこと、それが結果として江洲さんの怒りを招く結果になったことについては、謝罪します。

ですが、私が二つの話に類似性があると思ったこと、そしてそれゆえに、私が思っているこの視座のことを、江洲さんに上手く伝えることが可能なのではないかと考えたことについては、改めて強調しておきたいと思います。

_私は、極めて不完全な「思考するもの」です。私は私の思考、私の言葉、私の行動についてさえ、完全な理解をすることができません。

――私は、江洲さんの言葉からは、そのような絶望を感じ取ることができませんでした。その意味で確かに私は、江洲さんの言葉を馬鹿にしているのでしょう。あるいは、すべてを論理によって明にできると確信しているようなその振る舞いに、悪意を感じたりもしているのでしょう。

私はそれを否定できません。私は人間であり、純粋理性などというものは持ち合わせず、思うこと、為すこと、話すことに、そのようなものが入り込むことを、防ぐことができないのです。

そしてこのような、まるきり相手を見ない言葉に落ちていくその事実こそ、私の悪意を露にしているのかもしれません。しかし究極的には、私はその事実すら、知ることができないのです。


9.17

@love letters

そんなことを考えていると、ぼくはひどい絶望に包まれる。

ぼくはあまりにも盲いていて、それでいながらぼくのことしか見ていない、ほんとうにちっぽけな奴なんだってことに気付かされる。それはぼくの想い描いているあの音とは絶望的に遠ざかっていることを告げるような事実で、泣き叫びたいぐらいに苛まされる。

――こんなときに、君がいてくれたら。ぼくの触れられるちっぽけな距離のなかに、君がいてくれるのなら。

なんの脈絡もなくそう思い、それがぼくの切望なんだということを知る。見てくれなくても、知ってくれなくても、それでいい。ただ、そういうとき、黙ってぼくを抱いてくれるなら、あるいはぼくを引き起こしてくれるなら。それはとても都合のよい考えで、だからこそぼくは君を愛するならすべてを賭して愛するほかないのだと思うのだけれど、ぼくはぼくがあまりに盲いていることを知っている。ぼくの目はぼくのことしか見ることができず、たぶん君を愛するに必要な光を受けることすらできない。あるいは、見ようともしていない。ともかく、ぼくの視界はあまりに小さくて、君のことなどなにひとつわかりはしないし気付くこともできないし、ひょっとしたらそのせいで愛することなんてちっともできないのかもしれないけれど。

でも、君が、好きだ。

名前は呼ばない。ぼくは君をどう呼べばいいかわからない。だから、今は君としか呼ばない。だけど、ほんとうは、ほんとうに、君に聞いて欲しいと思っているのだ。

君が、好きだ。

君が、好きだ。

君が、好きだ。

それが届いたりしないことを、ぼくは知っている。ぼくはあまりにも盲いていて、それでいながらぼくのことしか見ていないほんとうにちっぽけな奴だからわかる。だけれど、ぼくは、君が好きだ。

このささやかな、あまりに深い絶望の中で、それでもぼくはそれだけを頼りに生きていく。ほんとうは、君がぼくの触れられるところにいてくれればいいのだけれど、今のぼくには無理だから。だからぼくは、それを呪文のように唱えるのだ。

君が、好きだ。


9.18

@

 もうだれか指摘しているかもしれませんが、記述内容についてひとこと。「すべからく」の用法が違っています。

すべからく【須く】
〓副〓(為=ベカリのク語法。多くの場合、下の「べし」と呼応する) なすべきこととして。当然。三宝絵詞「抑説き給ふ経の文についてすこぶるうたがひあり。―あながちおぼつかなさをあきらめむ」。徒然草「―まづ其の心づかひを修行すべし」。「学生は―勉強すべきだ」
→〓―‐は【須くは】
(広辞苑より)

 ついでにいうと、このひとことエリアも狭すぎます。

御指摘、ありがとうございます。他にも闇黒日記の2002年9月16日付で指摘されているようです。該当部分について、注記のうえで訂正しました。慌てて修正しただけなので、再修正とか入るかもしれませんが。

_ツッコミ記入エリアについてですが、これはわざと小さくしてます。目に付き、本文読むのに邪魔でなく、でも一行フォームよりは大きく、と考えた結果です。使用頻度は低かろう、という判断もあります。

本格的なツッコミならメールやら他文書からリンクやら直接会ってやらいろいろ方法あるだろう、ということで。

@謎リスト。

必要に迫られて謎リスト提示。数字はうろ覚えの目安。順番は俺がやりたい順。


9.19

@近頃。

行き詰まって多方面に現実逃避めいたことをかけた結果首が回らなくなって戯言を書く暇もなくなる罠。いや、久々に精神的に充実だけはしている日々ではあるのですが。

_ということで、RO_GPS.pmを順調に育ててます。そろそろ第一次再設計の季節。関数指向モジュールとして作ってる構造をやめて、IO::Socket::INETを継承し、受信バッファとか頑張ってハンドリングするRO_GPS::Clientモジュールを作るのが正しいのかなぁ、

_仕事状況。テスト前後のモジュール内部状態を保存しておいて後で差をチェック、というあたりを実装してマクロに押し込め。ということで、異常系テストをぼちぼち書いてます。自動化テストというものがだんだんわかっていく悦。

_GameDeepの原稿。書いてません。対象ゲームであるところの誰彼はぼちぼち進めてます。このテキストでどーして狭窓表示かなぁ。明らかにまとめる人不足を感じてます。あとついでに、「ゲームと不公平感」というネタを思いついたのでそれでも一本書くかも。週末の合宿がなにげに(時間的に)ボディーブローなのですが、気にしない。

_それはともかく昨日は秋葉原イエサブRPG店に行ってBlokusを購入。ビバリーから出たばかりの日本語版。シンプルなよいゲームです。二人でやってゲームになるあたりが素晴らしい。

_そんなわけでProgressive方面の原稿は停滞中。実はこれが一番時間的に厳しいという話もありますが。


9.21

@断絶があるということ

ちょっぴり思考の走り書き。

SF者的には共通認識なんかちっとも存在しない環境でもコミュニケートが発生してしまうし、であってもコミュニケートは成立するのではないかと夢想するわけです。FCSとか。

FCSという馬鹿げた(褒め言葉)思考実験は、その実我々の認識というものがいかに我々の「人間」というハードウェアに依存しているかを洗い出す作業にもなったりするとは思うのですが、それは単なる与太ですか。

もし完全客観なるものがあるのなら、我々はまったく未知の異邦人に対しても、それを用いることでコミュニケートを成立させることが可能なのではないかと思うわけですが、それではファーストコンタクトもののSFはちっとも盛りあがらないわけでありまして。

まあ、SFに限った話ではなく、近代・現代的な物語に、人の間の断絶という概念がしつこいほどに出てくることは、なにかを示唆しているようにも思います。単なる勘ですが。

@出発

ということで、力の限り遊んできます。


9.24

@

自転車が修理中でつまらないので、今更と思いつつキックボード購入。JDRAZOR-A、なのかな?

ノーマルのままちょろちょろ運用してみての感想。可搬性は凄い。走行性能は非常にアレ。路面の状況に左右されすぎ。まるで路面状態計測機だ。結論:このままでは使い物にならない。

しかし望みを感じてしまうのは、平滑な路面上で叩き出す凄い性能だ。試しに路側の白線上をなぞってみたら、恐ろしく走った。

ということでネット上でいろいろ見ると、それなりに乗る気ならベアリング変えるのは必須っぽい。あとは新型サスが自主開発&販売されていたり。ただ、可搬性の高さは圧倒的だ。改造によってノーマルの平滑路上程度の性能が引き出せるなら、かなり実用的なHumanPoweredVehicleになりうるように思う。

そんなわけで、まだしばらくは試すつもり、だったりする。

@終了形。

先日の合宿より。

_カタン最終戦終了形[写真]
緑:C.F 赤:とくそん 茶色:くわね 青:Phantom オレンジ:中田、という面子(敬称略)。C.Fは配置初手:3-6-9全部森という超絶奇手。
序盤、くわねが道を伸ばしつつ羊港の確保に向かう中、順調に道を伸ばす中、とくそんvsPhantomの2-4-5争いがポイントとなる。C.Fは当然のように遅い展開。中田もほとんど動きがない。
中盤、くわねが最長交易路によりポイントで抜け出る。羊大地も着々と蹂躙するが、2-4-5争いを制したとくそんが突如道王を奪取。8羊を中心に盗賊が留まり続けたこともあり、展開が全体として遅くなる。
中田がカードを引きつつ都市化、C.Fも苦しいながら港確保&3-6-9を都市化で形を作る。
終盤。騎士2枚を表返したままカードを引きまくる中田、盤上に9点を置いたC.F、を中心とした争い。
おそらく丁度一周早く、3枚目の騎士を出して中田が盤上+騎士力+1点で勝利。独占・木の12枚で稼いだ時間が勝因か。
くわねは中盤の世論、とくそんは鉄不足で息切れ、が敗因か。一度は沈んだPhantomの都市化・3:1港での復帰は見事も届かず。
_Euro Rails 終了図[写真]
時間制ゲームで、終了点に連結都市数×10を加算、というルールで。
しかしゲームは早々に目的を喪失し、くわね氏(青)の東欧→北欧→イングランド→フランス上陸という歪んだ発展ぶりや、C.Fスペイン路線の真っ直ぐぶりが目立つ遊びとなった。むしろ「なぜマルチゲームなのに他人と相談してるんだ?」というC.F氏の台詞が多くを物語ろう。赤の私の反省としては、「鉄道会社には長距離路線が必要だ」であるか。

  • 9.25

    @

    アニメ版の「彼氏彼女の事情」を見ている。まだ庵野が監督をやってる序盤1-8話。やけに押井っぽい体育祭の回とかに苦笑しつつも、つくづく「低予算」を思わせる作りだと思う。

    もちろんアニメーションとしての予算の低さもあるのだけれど、それ以上に手法が「低予算風」だ。止め絵、心象風景の多用、モノローグの多さ、なんてあたりに顕著なところ。

    これをアニメーションと呼んでいいのか、そのあたりからして疑問にすべき作品だとは思う。しかしながら、映像作品としてのコンセプトは明快だ。10分なり20分なりの中で、「ある感情」を強烈に伝えようとする。

    ここで新海誠の「ほしのこえ」を思い出すと非常に面白い。よくエヴァやトップとの類似で語られる「ほしのこえ」だが、映像作品としての作りでなら、カレカノ序盤の方がよっぽど近い。

    「低予算の短編映画」と言ってしまえばそれまで。しかし「何かを、ともかく良く伝える」というその姿勢は、むしろ王道だと言ってもいい。

    _とかなんとか考えつつ見た9-10話、芝姫登場のエピソード。これが辛い。キャラクター増えて、話の線が錯綜気味なステロタイプになって、典型的なシーンが並ぶ。普通に「少女漫画のアニメ化」。当然、短編映画的な構造も消える。すんげーつまらない。頑張ってそれまでで培った演出を重ねるのだけど、まるっきり空回りする。

    _もう一点、よくも悪くも榎本温子に頼りっきりだ。鷺巣劇伴の力も大きいのだけど。

    @

    UNIX Magazine2002年10月号、のインターフェースの街角とか読んでつらつら思案。

    MMORPG用支援ツールには並列プログラミングスタイルが向いているかもしれない。ただ一つだけゲーム本体からイベントを抽出するアプリケーションを用意し、これがシステム全体に共用のキューバッファの役目を果たす。各アプリケーションはキューバッファからそれぞれのペースでイベントを受け取り、必要なものだけに反応する。取得するイベントを変更できれば、各アプリの必要な機能だけを選択的に使うこともできよう。イベントはバッファに一定時間留まった後自動的に消滅すればよいか。おとなしくマルチスレッドプログラムでやれ、というのは結構まっとうな意見だが、個別アプリを気軽に立てたり落したりできるのは利点かもしれない。あるいは、MMORPGアプリケーション自身がこれを提供しても面白い。BOTの氾濫とか招きそうな気もするが、BOTの価値が低いようなゲームデザインをしてしまえばさしたる問題はあるまい。


    9.28

    @北伐

    わけわからんちんな本が刷りあがったので、出発します。仙台まで。日曜日の夜には帰還の予定。


    9.30

    @Love Letters IV ( or first love letter )

    もちろん前触れなんてなく、いきなり愛しさが持ちあがる。

    馬鹿だって、思う。
    声聞きたい。
    会いたい。
    話したい。
    顔を、口ぶりを、言葉を、名前を、気持ちを、記憶を、忘れかけてる。
    そういうもろもろに気付いて、知って、それがたまらなく悔しくなる。
    時計の秒が進んでく、その間さえもが残酷で、泣きそうになる心を目を閉じ強引にねじ伏せる。
    安らぐまで無理矢理に安らいで、後には鮮やかになった気持ちが残る。

    この気持ちは、波涛のようだ。
    この気持ちとあの子の言葉の板ばさみになって、結構痛い思いをした。そういうこと、何度もあった。そのたびにもうたくさんだって思うのだけど、やがてまた波涛が来る。
    次の波を見つけたい。そう思っていたはずなのに、あのときの波が戻ってくる。猛烈な勢いでぼくをさらって、
    海に――投げ出される。
    狂い始めた気持ちがぼくをほんとうのほんとうのほんとうにぐちゃぐちゃにして、それは要するに混乱だ。
    苦しい。
    愛おしい。
    畜生。確かに好きでい続けてやるとか苦し紛れに言ったけど、こんなヘタクソな気持ちになんかなるつもりなんてなかっただろ? なのにこんな最低な有り様で想いはいきなり戻ってきて、とんでもない混乱の中に投げ出されてる。この欠落、この痛み、この加速を、必死で抑えつける。それはあれに対してならとっくに存在していた絶望だけど、あの子に向かうこれはもっともっと痛烈だ。
    なまじ、手が、届きそうなだけに。
    結果手に入れられるものはずっと小さくて、そう、それはちっとも欲しいものじゃないって知っているのに、心はそれを無視する。(たとえばこうして書くことで)それをどんなに言い聞かせたって、走り始めた気持ちが止まってくれるような気がしない。

    ……もちろんぼくは意気地なしで、あるいはとんでもなく理性的で、だからすごくよくブレーキをかけて、必要ないぐらいにブレーキをかけて、青信号のうちに突っ込めば良かったものを、突っ込まなかったり赤信号になってようやく走り始めたり、そういうことばっかりだったのだ。だからたいがいこっぴどくフラれることになるのだけど、

    止まらない。止まってくれない。悔しいぐらいに胸が鳴ってる。馬鹿でもなんでも鮮やかになった気持ちがあって、それしかリアルに感じられない。どうしようもないほど、恋している。引き裂かれるぐらい、恋している。

    @謎。

    恋文の書き過ぎはあなたの健康を害する恐れがあります。ちなみにIIとIIIは杜の奇跡2合わせで作ったわけわからんちんな本に収録だったり。

    @瓢箪から駒。

    さて先日は杜の奇跡2に行ってきた、わけですがその折の持ち込み商品の話。

    GameDeep vol.6をそこそこの部数生産して持っていき、当日朝に会場で折り&綴じをやっていたわけですが。そしたら表紙のうちの一枚について、生産を失敗していたのです。が、しかし。

    論より証拠、実物みていただきましょう。[全体][URL][ここがポイント][ロゴとか]

    ということで、C.F氏と「こんな感じの台紙用意しとくのはアリかもねぇ」なんて話をしたり。


    御意見・御感想の宛先white@niu.ne.jp