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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
で、そのときに、なにに着眼してどう論理を考え組み立てていくか、という部分に向けた思索が、こないだの話です。世界認識の手法というか、いわゆるモデリング手法ってやつですが。
もっと正しく言うなら、モデリングによって認識された結果を、どう記述していくかというあたりに対する考察なのですけど。
などと偉そうに言ってますが、言われなければ気付かなかったと思います。多謝。
ところでつらつらとキリンカップの日本代表メンバーなぞを見ていて思うのは、小野を中盤の真ん中で使いたいなぁ、ということなわけで。
ということでサッカー話。いや、唐突にわけわからんこと言ってすいません。ただ、近頃の風潮というか報道というかを見てると思うのですよ。トップ下ってそんなに大事かよって。
本来トップ下ってポジションはチームを構成する上での選択肢の一つに過ぎないはずなのですが、司令塔という言葉と共にどうにも「チームには絶対必要なものだ」とか「このポジションの選手が攻撃の行方を決める」とか、そういう理解がされているように思うのです。
_確かに世界の流れの一つに、2トップ+トップ下、あるいは1トップ+両ウィング+トップ下、という攻撃スタイルがあるのは認めましょう。だけれど、攻撃的なMF=トップ下というわけではないし、トップ下=パサーというわけでもない。
中田(英)は、確かにトップ下のパサーであるわけですが、中村はヒデじゃないし、小野だってヒデじゃない。ヒデじゃないなら、そうではない使い方をするのが本来であるのに、無理矢理同じことをさせようとしている節がある。
_そうじゃないでしょ、って思うわけです。小野で言うなら、彼は広い視野とシンプルなプレーが持ち味の選手。その特性が活きるのは、フィールドを広く見ることができる中盤の深め、トップ下よりは低くボランチよりは高い位置ではないかと、個人的には思うのです。
そういう位置に小野を置くとして、左右サイドに(高さは別として)MFを置くところまでは決まり。ボランチ2枚にしてサイドを高めに持っていくか、トップ下を置いてサイドを低めにするか、というあたりでしょうか。仮にトップ下に森島を置くとすると、1トップでは森島が活きてこないから2トップ決定。必然的にボランチ1枚になって、それなら稲本かな、ということになる。
……というような程度の意図も、トルシエの采配には見えてこないのよね。大丈夫なのかしらん。
昨日変速機の調整をしたBD-1を駆って、お買いものへ。スポーツウェアにも使える服を調達した後、篠崎あたりを道に迷いながら散策。なんとかかんとか篠崎駅前に出て、モスバーガーでお食事。最後に持ってなかったスポーツシューズを自宅近くで調達して、とりあえず帰還。
ああ、日本代表がカウンターを!! ――ということで、キリンカップ見てます。今前半の20分ぐらい、小野のディフェンスラインからのパス一発で、柳沢が一点取ったところです。迎撃作戦のために、最後までは見てられないのですが。
あれっすよ。動き出しで勝負するFWがいるんだから、中盤の深い位置にパサーがいればカウンターという選択肢が発生するはずなのに、ちっともそんなそぶりを見せてこなかったチームが! まぁ、中田(浩)はそういう目的のために置かれてるような気がしないでもないですが。小野WBの怪我の巧妙な感じがそこはかとなく嫌な感じですが、ともかく必要だったのはこれなのです。
仕事――は仕事でやるとして、それ以外のところで今週の宿題など、自分に向けて設定。
PHPと格闘。きっとこのようなライブラリ関数は世の中に既に転がってるに違いない、と思いながら、ライブラリめいた関数群を構成する、まるっきり車輪の再発明な作業。
社会全体で考えるならこの再発明は無駄であろうが、私が未知のプログラム言語を習得する階梯ということで考えるならむしろ有益なのだ、と自分をだましつつ邁進。
昔に比べて賢くなってるのは、とりあえず車輪、と思うあたりか。かくて人間は手を抜くことを憶える。ビバ不精、ビバ怠惰。
過去日記、というか「よりぬきFreetalk:Air編」を読み返す。自分の言ってることがかなり一貫してたことに驚き。てっきりガンパレ力でもっとずれが生じてると思ってたのに。
で、読み返してみてふと思ったのです。Summer編ってノベルスタイルの方がよかったかもな、と。
というのは、先日#gamedeepで行なった議論を受けてなのですが。読むのが面倒な方は、要点をよりぬき#gamedeepに抜き出してあるのでどうぞ。
_ともかく。
あれからも少し考えてみて、こんなことを思ったのです。「版面が狭いほうが読者の客観性が落ちるんではないか?」と。
もちろん本質的には書き方次第であり、たとえばPrizmaticallizationみたいに版面狭くても客観にしかなりえないモノはあります。
ただ、広い版面よりは狭い版面の方が、心情吐露や台詞の連続のような、直接的な表現が許容されやすいのではないか、と思うのです。それは、文章が連続というよりは離散でやってくるあたりに起因するのでは、と薄々思ってるのですが。つっても、裏付けなんてないです。ないからこそ、こうして日記に書き殴ってるわけですが。
_ということで、今週の宿題に基づきまして、今週はちょっとずつこの話を考えて行こうかと思います。展開場所は、ここ、irc.tomangan.orgの#gamedeep、YaPW?あたりを中心に。あるいは次のGameDeepはこのネタになってしまうかもしれません。
さて、凄い勢いで読者を置き去りにした感のあるこの話題ですが、話を整理するために、話題の発生点であるところの6/30付け#gamedeepでの議論と、それ以前の私の思考とをまとめて整理してみたいと思います。
_一概に比較できるわけではありませんが、同じ物語を映画とゲーム、あるいは小説とゲームで展開した場合、より多くの時間を要求するのはゲームの方なのではないかと思います(*1)。では、その増えたぶんの時間をなにが占めているのか、ということを考えたとき、思い至るのは操作している時間、です。
_話をわかりやすくするために、対象とするゲームをADV、あるいはノベルと呼ばれるタイプのものに絞りましょう。これらのゲームにおいては、小説などに比べ狭い版面にテキストが表示されます。そして各表示(=ページ)の間を、クリック操作などでめくります。
_この、クリック操作が曲者です。操作が入ることで、そこで読む作業が一度停止します。進める前に、今見ている版面を見直す暇が産まれます。また、見えている量も少ないので、見返してよく理解することができます。
小説では、ページめくりの頻度がぐっと少なくなります。ページ区切りが来ても、一つの版面の含む情報量が多いため、全体が読み返される可能性は低くなります。映画に至っては、入ってくる情報量をコントロールすることすらできません。
_あるいは、読み返すことについて考えてみましょう。小説では同じ版面に出てくる文章であれば即座に読み返すことが出来ます。あるいは、実際の読むという作業においては、無意識に前後の文章を読んでいるかもしれません。しかしADVにおいては、読み返せるにせよ通常にはない動作を要求されます(*2)。
_このことを、読者の状態に着目して考えてみたとき、こういうことが言えるのではないかと思いました。すなわち、入ってくる情報量を強く制限できるがゆえにADVでは読者が情報量に混乱することが少ないのではないか、と。
これを克服する一例として、版面を広く取る、というものがあります。サウンドノベル、あるいはビジュアルノベルのような、全画面を文章面とするスタイルですね。
_他の克服方法もあるのですが、今回はここまで。明日は文章以外の版面について、考えてみる予定。
ところでいつかは私の童話観を書こうと思っていたのだけど、その必要はなくなった模様(他力本願)。かなり同感。
もっとも私の立場としては「ゲームじゃ童話になりにくいよね」なんて話を付加しなきゃいけない気もするけど。
とりあえず、2週間ぐらい前から(仕事で)使っているPHPのマニュアルの日本語訳を落してきて、目次をそのようにしてみる。やったことは、
target='_content'
という属性を指定という感じ。なお、PHPマニュアルの場合のインデント調整には、DL、DT、DDの各要素のマージン・パディングをてけとーにいじりました。あとはNOBRとか使って若干整形。
ということで結果がこちら。なかなか快適。
とりあえずは予告通り、文章以外の版面についての話しから。誰とはなしにレスられてる(後半部分)ような感じでもありますが、それはひとまず置いておきます。
_さて。前回はADV/ノベルゲームの文章面に着目してその版面の広さによる影響、みたいなことをお話ししました。
しかし、ゲームが持っている表現手段は文章だけではありません。文章が大きなウェイトを占めるADVであっても、音楽や絵などを無視することはできません。手前味噌な言葉を持ってくるなら、ADVは明らかにマルチレイヤ表現ですからね。
_ですが、仮に音楽や絵を考慮に入れたとしても、前回言っていた「版面の狭さ」が覆るわけではありません。
どういうことかを見えやすくするために、タイムラインという概念を導入してみましょう。実時間(*1)の中において、表現が読者にどれだけの情報を伝えるのか、という視点で眺めてみます。
_映画においては、時間の流れは連続です。読者がどうかには関与せず、映画はただ進行していきます。あるシーンの、タイムライン上での位置が変化することはありません。
対して、ADVの場合はこの流れが断片的・離散的です。その要因は文章の場合と同じく、クリック操作による「待ち」にあります。文章の場合はこれが版面の狭さとあいまって単位時間での情報量が少なくなる、と前回お話しましたが、これと同様のことが音や絵にも起こります。
というか、タイムラインと切り離されることにより、絵や音の持つ効果は下がります。特に音楽。BGMを計算したポイントで切れなくなるのはADVに限らずマルチレイヤ表現としてのゲーム全般に通じる悩みと言えるでしょう。
_もちろん離散的であるからと、なにもできなくなるわけではありません。たとえば、比較的離散的な表現である小説の手法を借り、読み切れない量の行間を用意すれば情報量の過多と、それに伴う混乱を引き起こせるでしょう。
あるいは、複数の版面――文章、音、絵――を複合的に利用することもできます。そして究極には、時間の経過を離散でなくしてしまうことすらも可能です。
_……なんかまとまってませんが、まとまってないまま書いてるものなので御容赦を。明日は、再び小説との比較、なぜゲームの文章版面が効果的に離散を引き起こすかについて。
私、同居人と議論しただけでやってないんだけど何故名指しですか(--; 参加すること自体はやぶさかではないけどさ。
……っていうか、それはあれね。やれってことね。んー。月姫も結局手つけないのに。
ところでその「ゲーム本体以外がかなり邪魔」って感覚は、ガンパレのときに電撃PSに感じたことと一緒ですね、とか言ってみるテスト。もっともガンパレは、実際にやらんことにはちっとも意味がわからんのが救いだったけど。
いいかげん疲れてきました、つーか、考えが滞りがちな今日このごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか。今週いっぱい連載の予定のこの話題、本日は「ゲームの文章版面が離散的な理由」でございます。
_版面の構成が、ゲームと書籍でどのように異なるか、についてはXNML Page Modelなる文書で論じてはいます……が、多分読んでもわからないと思います(--;
端的に要約するなら、こういうことです。
_なんのこっちゃ、と思われるかもしれませんので、補足しましょう。手近な書籍(文字主体の、単行本とか文庫本)を手にとって、適当なページを開いて下さい。そして、見開きの先頭と末尾に注目して下さい。その位置にある文は、途中で(改ページによって)切られたものであるかもしれません。
一方ゲームにおいては、文章がページの切れ目を挟んで複数の版面にまたがることは稀です。版面が数行程度の場合、文の終わりがほぼ版面の終わりに相当し、また版面が極力段落に相当するように構成されることもあります。
_このことを言い替えましょう。着眼点は、物理的な切れ目(=版面)と論理的な切れ目(=文章)です。すなわち、書籍においては両者は必ずしも一致しないのに対し、ゲームでは両者が一致することがほとんどです。
両者が一致することにより、書籍では意味を持たなかった版面の切り替わりが、明確に意味を持ってきます。ページめくり(=クリック)動作は文字通り意味を持った行動になります。そして、タイムラインの中断が論理的な節目でもあるため、中断がより意識にのぼりやすいのです。
_中断が意識にのぼる、ということは、すなわち読者の時間の感じ方が離散的であるということです。これはかなり強引な、眉唾ものの理論ですが、一面の真実は含んでいるものと思います。
で、明日――はちょっとお休みかも、遅くとも土曜日ですか――は、離散的であるが故にできること、できないことを再話の予定。
とりあえずスポーク折れなぞしてるBD-1を修理に出す。来週ぐらいまでしばしの別れ。
で、ふらふらと上野〜秋葉のあたりを歩く。ミスドで昼飯など食らって、ふとソフマップ前で夢散幻想(1)(*1)が出ていることに気付く。たぶん同居人氏は予約してないよな、と思いながら購入。
でま、ついでにラジオデパートなぞに行ってCF-IDEアダプタも入手。にしてはCFを買っていないのは、そのままハマるのを防ぐため、のつもり。夏休み前には着手するとは思うけど。
ちうことで、聞きました。
ああ、いかにもゲームのシナリオだな、って感じ。どういうゲームになったのかが透けて見えます。が、とくにこれと言って面白い表現があるでもなし、ファン以外には不要のアイテムです。ファンにとっても(世界の謎掲示板と同様の意味で)鬼門かもしれないけど。
それから、当然予想されたことだけど、歌目当ての人には不要と言っておきます。っていうか、あれは凄くカッコいい朗読が聞きたいものだから。
*1ガンパレのCDドラマ
ところがゲーム表現では、物語の中の他人ではない、プレイヤー自身のもの(に近しい)物語を描くことが、非常にやりやすい。そう考えるなら、「前提」を体験版で渡すってのは面白いんじゃないかな、と。
というか、第2部相当の部分からだと構造的にただのギャルゲーですよね(^^; それだと、プレイヤーのジレンマがあまり産まれないから、選択肢の表現としての力が弱くなるんじゃないかと。そうなると、表現としての意味が全然変わってしまうと思うです。
ま、いずれにせよ、使い方次第なんですけどね。
えー。眼鏡壊れてみました。いえ、左側の腕のネジ穴のところがですね、こう、金属疲労の果てにボキッと。一応会社の界隈の眼鏡屋さんに、部品の取り寄せはお願いしてきました。つっても、私の視力じゃ眼鏡なしで仕事になるはずないんで、そのままかけて仕事してます。でもこれ、微妙に目が疲れるんだよなぁ……。
なんか人 々 があれ これと君が望む永遠に壊れているのを観察している今日このごろですが、一方私と言えばベストセラー小説の書き方(ディーン・R・クーンツ、朝日文庫)を再読しつつ、またまた目から鱗の日々なのでありました。
やっぱいい本だわ、と再確認すると同時に、今まさに考えてる「タイムラインと版面」な話にスマッシュヒットな感じ。ちうことで、第5回はもうしばらく遅れそうな勢いです(--;
今日も今日とてPHP4 + PostgreSQL7.1と格闘。ぐっちゃんぐっちゃんなコードを書きつつ、フォーム側で(PHP4の)配列に適当に値を突っ込めば、それっぽい検索用のSQLを吐いてくれる汎用っぽいコードなぞ書く。なんかそのコードを使うためにDBに制約をかけてしまっているような気もするが気にしない。
つーか、わかりにくいコードになるのはRDBMSが人間の思考形態と乖離しているからじゃー、とか無茶苦茶なことを思ってみたり。無論それでPostgresSQLが大変身するわけではないので無駄。
今はもう昨日のお話。
夕方にふにふにと仕事してると、眼鏡の部品来たよ、と電話。ちうことで、上司に断りを入れて眼鏡屋へ。予定より半日ほど早く、無事修復。なんか世界の見え方が違う漢字で、会社に戻って気持ち良くお仕事。
で、家に戻ると自転車の修理が終わったです、との留守電が入っておりました。今日は早めに会社を引けて、乗って帰るってのもいいかも、とか考え中。
ということで、修理づいてるついでに以前お茶攻撃を受けて使いにくくなってたJornada680君のキーボードを処置。ありていにいうなら、テープの量&力が足りず浮き上がってしまってたので、これでもかという程に補強。打つのにストレスを感じていたのが、まぁ打てるか、というぐらいまでは回復。理想的には他の故障機から部品取りして2コ1しちゃうことなんですけどねー。
行きの電車は確実に座れるから、ここが有効に使えるようになるのは大きいですな。
仕事を普段より早めに(つっても定時でですが)引けて、修理を頼んでおいた自転車屋さんへ。そこからそのまま乗ってお帰り。車道は自転車向きじゃないけど歩道はもっと向いてない――なんてジレンマを(例のごとく)感じながら、わりと順調に帰ってまいりました。上野から、だいたい1時間ぐらいだから、会社からなら1時間半ってところでしょうか。
少しは運動しなくっちゃ、ってことで来週から週1ぐらいは自転車通勤のつもりでいたりします。いつの間にか関東の梅雨も明けたらしいし。
ところで後輩から、やりすぎなアイデアのお便りが届きました。シレンマの有無から考えたことだそうですが、それにしたってやりすぎな考えのような(--;
体験版の部分を第二部における選択で構築する話にすれば、普通のギャルゲーとは違うと思います。で、うまく過去が作れたら、過去にヒロインと過ごした日々を主人公が回想できる、と。
それともこういうゲームはもうあるんでしょうか?
既存のものかどうかは寡聞にして不明です。識者の意見求む。
_ただ、この方式だと、プレイヤーとPCの距離関係が近い場合には快感があまり得られないように思います。前提があって、状況に対して選択を重ねて、よい結果(=未来)を求めていく、という図式から、あまりに外れてくる。
プレイヤーとPCの距離が遠い場合、要するに、プレイヤーが物語の外部から「よい物語」を模索していく、ような形であるなら別ですけど、それはギャルゲー的なものではないんじゃないかな、と思います。
いや、そもそもギャルゲー的ってなんやねん、と問われると困るけど(--;
今日から週一の自転車通勤をば、とか思っていたのだけれど寝坊して断念。普段だったらそれでも構わずやったろうけど、今日は10:30から余所様と打ち合せなのさっ。
――ということで、いつもよりちょっと早く、っても10時そこそこなんだけど、そのぐらいに着くように出社。先方もう来てる。うぎょぎょ。
とは言え、まだ来てないのは私だけではなかったらしく、打合せ開始までは少し時間があったり。
で、打ち合せ。やること自体は面白そうなんだけど、開発環境とかテスト環境とかでちょっとしんどそうなことになりそうな。私の担当分と目されるあたりは、先方の別部隊との仕様交渉が勝負っぽいですよ。いわゆるあれですか、ソフトだから機能増やせるだろ?との勝負ですか? ぬぬぬ。頑張ろう。
熱い。もとい、暑い。空調は動いてるはずなのに微妙に暑くて仕事やる気が減衰。しかもどうやら同じフロアの我らの部署のあたりだけが暑い。試しに余所の部署の人に移動してきてもらう――「あー。ほんとだー」
_別にうだるような暑さではないが、じわじわと微妙に不快なぐらいには暑い。当然能率が上がらない。というか、今日はなんとなくやる気なしモードなのも手伝って仕事にならん。
空調の設定をいじってみたり、うちわで涼を取ってみたりと、抵抗してはみるものの、やっぱり暑い。原因は日照量とかモニタの配置密度とかにあるのではないかとか推察してみるが、推察したって暑いものは暑い。
_あー、もうこういうときは仕事やめやめ、ということで、趣味なんだか仕事のための環境整備なんだかたいへんグレイゾーンめいたことをする。でも暑い。
たしかに過去を選択していくというシステムは、「キミエソ」のような物語ではプレイヤーとPCの乖離をひきおこしそうですね。プレイヤーのモチベーションを、主人公とシンクロさせるのは困難でしょう。
二重人格、憑依、(他人を装う)スパイなどの話であれば、「他人と(その他人を装う)主人公」の関係が「プレイヤーとPC」の関係と、うまくシンクロするのですが・・・。
「レレレ」の構造とよく似ているので、けっこううまくいくとおもうのですが、どうでしょう。(「レレレ」ではプレイヤーと俳優がかなりシンクロできるように、この構造なら主人公に感情移入できると思う)
しかしやりすぎな考えであることには違いない(笑)
多重人格は鬼門です。つーか、多分それは「主人公自身を描いていく」のが面白すぎて、そこだけで物語が(あるいはゲームが)成立してしまうでしょう(^^;
プレイヤーのモチベーションと主人公がシンクロせず、でもカタルシスがあるというと、最近の私がやった中ではPrizmaticallizationがそんな感じでしたが。まぁ、あれはプレイヤーにメタ的な視点を要求するものですね。
_結局、PCとプレイヤーを上手に乖離させて、客観視できる(でも感情移入はしている)物語にするのが一つの回答であるように思います。でもって、物語としてゲームの外側でプレイヤーへの目的づけを行なう。Prizmaticallizationもそうですし、あとは「痕」とかもそうかな。
ときに、レレレの構造とは微妙に違うようにも思います。レレレは場を楽しむものであり、ゲームの外部でプレイヤーが大笑いしてるのが前提にあると思うので。そこで自分の演じるPC(が演じるキャラクター)が馬鹿なことをしている(させている)のが楽しい、という。
今日やる(かもしれない)こと。
そんなわけで出達〜。
ということで、遅ればせながら昨日の行動結果報告。
リファ漏れとおぼしきrefererから、2chのイタいエヴァ小説作家を観察するスレッドへ。
あー。昔のここの記述の一部がコピペされてたりするなぁ。
つーか、座談会に関してはアンケートとかどーでもいいから読んで笑って(怒って?)ネタにして頂けるんならどーとでも好きにしちゃって下さい、って気分。あ、ネタに使った場合には一報求むですよ。俺も読みたいから(笑)
と、余計なことしてたらすっかり遅くなったけど、これからお出かけの予定。湾岸に出て、千葉方面へ疾走の予定ナリ。
嘆きつつも途中のコンビニATMで資金補給。千葉街道へ。道はおせじにも良いとはいえない。が、渋滞で車がほとんど進まないため車道の路側が使いやすく、案外快適に走れる。途中、後ろから迫ってきたロードバイクを先行させてペースメーカーにしてみたり。何度かフライホイール効果というものを見せつけられそうになる。
江戸川を渡り、今度は江戸側沿いに南下。南風の強靭さに負けそうになる。途中、河川敷でやってた数多の球技の中からサッカーに思わず見入り、しばし観戦。強烈な風の中、風下側のチームが得点する。というか、風下側の右サイドの動きが違うのに、やたらめったらフリーでは仕方あるまい。
前半終了と思しきところで離脱。篠崎駅界隈で遅めの昼食。風邪で倒れている同居人の言付け通り、野菜ジュースなど購入して帰還。