Whiteのふりーとーく

2002年4月前半

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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)


4.1

@

とりあえずもやもやを強引に片付け。体調とか、能力不足とか、あれこれ不安要素はあるけど、進むことが最優先。空回りだろうがなんだろうが、回っているうちが華なのです。

@幸福駆動

気がつくと4月で、とりあえず社会人2年目である。とかく時間は泰然と回る。いかにも残酷に、いかにも冷徹に、時の流れは緩まない。この1年間でなにができたか考えると、いささかの憂鬱を感じたりもする。それでもともかく時は進む。その中で駆動する他ない身は、その中でいかに駆動するか、いかに想い描き成してゆくか、ただそこに心骨を傾けるべきであろうと思う。

幸福に、なるのだ。不幸になるか幸福になるかと言われれば、幸福になるほかない。動かずなにも変わらないのと、動いて幸福になるのとでは、やはり幸福になるほかない。動いて不幸になるやもしれぬ? 確かに、予見の慧眼を持たぬ哀れな身としては、それを否定することはできまい。であるが、否定せんと願うことはできよう。

ましてや、想いも描きもせず、成すこともなければ、駆動すら錆びていこう。それを恐怖し、忌むからこそ、我は駆動を願おう。そして、願いは、自ら進んでこそ叶う。だから、我は、駆動するのだ。誰にも、誰一人にも、この駆動は、止めさせぬ。

@

とくそんさんとこの教育と体罰話に、思ったことなど。

_体罰でもなんでも、やればよい。ただし、それを下すのは大人であることを忘れてはならない。たとえ子供に対してやることであれ、否、大人が子供にやることであるからこそ、それは大人の行為であるべきだ。そして、大人が大人の自覚を持って己の責任で下す行為に、大人の責任以外を求めるべきではない。

_子供の教育は、大人の仕事であろう。従って、それを担う人間は大人でなければならないはずだ。であるのに、たとえば体罰の禁止などは、あまりに大人を子供扱いした行為なのではないか? 大人が大人の責任で体罰を下すと思っているのを、頭越しに禁止するのは、大人に大人の仕事をするなと、そう言っているのと同じではないのか?

_大人の仕事を奪われたものに、大人の仕事ができるはずもない。教育は子供の仕事ではない。それは大人の仕事にほかならない。ときに覚悟をした上で、法を逸脱してでも職分に忠実たらんとする。それも大人の仕事のうちであろう。

_結論しよう。教育は、大人が携うべき仕事なのだ。法的な大人ではなく、質的な大人、職分を知り、法を知り、であるがこれらに挟まれず、厳然たる決断の下せる大人が成すべき仕事なのだ。そして、下した決断に責任の取れる大人であるべきだ。

_とはいえ、大人を産めなくなった車輪では、回復までに相当の痛みが必要となろうーー誠に残念なことながら。


4.2

@永劫到来

唐突に。

激情が裡より湧き上がるが如く、魔法をかけたいと願うときがある。そういうとき、私は言い淀み、密かに魔法を決意する。そうして、沈黙の下で呪文の手順を心に刻む。

無意識のままとめどなく流していた言葉が、明らかな制御の下に組み込まれる。ただ沈黙であった言葉が、私の側でだけ明白な沈黙へと転じていく。

静寂を破って声を吐く。いつもとは違う、魔法の言葉が流れ出す。声色が違う。調子が違う。違いは、魔法の始まりだ。違いは心を、意識を惹きつけ、巻き込んでいく。それを確かにするために、いつになくゆっくりと声を紡ぐ。

相手が答える。まだ、気付かれていない。口を閉ざし、目を冥り、鼓動のままに身を委ねる。相手の声が聞こえている。まだ会話だと思っているその隙を感じ、寸瞬に訪れた静寂を聞き、不意に、目を、口を、そして心を開く。かすかに小さく、けれど相手にだけは伝わるように。いっぱいに開く。

その一言で、魔法に変わる。否、変える。

密やかに積み上げた儀式の数々、そうとは悟られていなかった今はもう過去の断片が、私と、世界と、相手を巻き込んで、魔法になる。深い、静寂が訪れる。

それが如何なる末に至るか、私は何も知りはしない。けれど、かく成した以上、それはもう成されたものなのだ。魔法は何かを始める。始まったものには終着がある。それがどこへ終着するものか、私は分からぬ。ただ、始めようと私は思ったのであって――ともかく、全ては始まるのだ。

やがてどちらからともなく静寂が破られる。魔法は過ぎ去り、私は現実に引き戻さる。世界は再び動きだす。


4.3

@失敗報告。

スタイル変更のときにちょっとばっかり失敗していた模様。ということで、ここしばらくのここへのリンク先が、正しく過去分を指していない(近頃版を指してしまっている)可能性があります。ありていに言えば、建て増し重ねたスパゲティスクリプトの罠に引っかかりました。

こちら側の問題は取り急ぎ修正しましたが、2002年3月13日〜2002年4月3日の間に、当方の日記にリンクを張った場合、http://white.niu.ne.jp/Freetalk/index.html#??????にリンクを張ってしまっている可能性が高いです。該当する場合、お手数ですが張り直しを希望しますです。

不躾なお願いですが、なにとぞよろしくお願いします>各位。

@未踏真景

たとえば、振り仰いだ月の夜空に。

脈絡なく、歌を聴くようなときがある。それはとても静かに、けれどとても深く、心の奥に忍び寄る。いけないと思い目を逸らすが、街に目を落としても歌は止まない。

ずっと、そこにあった歌を。確かに聞く。聞いてしまう。胸に手が寄る。拳を握る。掴み取った襟首が締まり、その下で、喉が音なく絶叫する。

判っているのだ。私はそれを、聞いてなどいない。そもそも聞ける耳すら持たない。なのにそれはなによりも激しく色づいて、私の視界をも染めていく。私はそれを歌えなどしない。この喉は、言葉は、それを歌うにはあまりにか細く、無力なのだ。

それは、何処から襲う魔法であろうか。いったい誰がかような呪いを、か弱き我が身に落とすのだろうか。

いいや。誰かが落とした魔法であるなら、私はただ彼を恨めばよいのだ。この魔法は、そうではない。

想い、思い、慈しみ、憎み――そうしたもろもろの思惟が沈み込む。私はひたすらに絶望する。そうして、あまりに満ちた希望に、静かに涙を零すのだ。

その涙が流せるゆえに、私は希望を抱いてしまう。とめどもなく、とめどもなく、涙は呪いを紡いでゆく。

であるが、瞬間の鮮烈はそう間もなく色褪せる――私はそれゆえ、まだ涙を流すのだ。かくて、呪いは終わらない。それはひたすらに、続いていく。

@

なんとなく「天地無用!GXP」を見て、監督ナベシンの力を思い知る。なんだってんだ、このものすごくAIC向きなアニメは。

AICと言えば「絵は確かに綺麗だが全般的にひたすらのっぺり」という印象がある。なんというか、メリもハリもなくのんべんだらりと動く。それゆえ、一歩間違えると「綺麗な絵でよく動くのに何故だか無惨な画」というものができあがる。

逆に言えば、どういう画が上がってくるかがわりと明白である。その癖を知った上で、その癖を活かすような話を立てれば、画は確実に計算できる。

正直、AICのアニメにはあまり食指が動かないが、ナベシンがそいつをどう使うかは興味深いと感じてしまう。はてさて、微妙なところである。

@負傷退場

昨日は仕事後に会社サッカー部でフットサル、だったのだけれど。

見事に負傷。右足首の捻挫。横に動いたときに残した足が引っかかったというか。筋とかにはダメージがなさそうなのが幸いか。ともかく、しばらくはおとなしくしとかんといかんようです。


4.4

@仕事増量

とりあえず、楽チンだと思っていた仕事が増量。JNIとか扱わされる風味。つっても、自分が触るべきはCでごりごりローレベルでネイティブなコーディング部分だけ風味。JNIがいかなるものなのか、なんとなく仕組みがわかってしまえば特にJavaに触るという風味ではなさそう。


4.5

@世界認識

歌っている。

ただ、歌っている。

歌は歌を産み、歌はまた歌を歌う。あるいは詠う。歌のことを詠い、また詠のことを歌う。

そうして、うたは、物語るのだ。そこに、世界があるのだと。

もうそれだけで、私の心は満たされるのだ。そして、あまりに満たされた私は、渇望するほかなくなるのだ。

もっと、もっと、物語を。そこにある物語を、無数の、果てなき、圧倒的な、物語を。私の叫びは幾万幾億の物語に埋め尽くされる。それを幾万幾億繰り返しても、物語に溺れ続ける。

@

鬼哭街読了。ハードカバー2冊と思えば安い買い物か。拙い部分を感じたりもしたが、このスタイルの可能性をまざまざと見せつけられる。話の題材的に人を選ぶであろうが、体感する価値は存分にあろう。あるいは#gamedeepのログ参照。

4.6

@

起きてからしばらく動かしてみると、右足の調子はぼちぼち。これならいけるかと判断し、サポーター巻いてちょっとBD-1で外出。

先々週になにげに買っておいたサドルで、ちょっと長めに乗るのは初めて。京葉道路をまっすぐ西へ、で秋葉原であれこれ買って帰還、というコース。距離的にもぼちぼちってとこ。

購入物あれこれ。

とまあ、なかなか無節操に散在して満悦。


4.7

@微笑夜曲

高校時代はわりかしFMなぞ聞いていた。たまたま聞いた歌声は強烈だった。音楽に夢中になるような趣味はなかったけれど、僕の数少ない心に留める歌い手のリストに、すぐに名前が載った。

小沢健二、Eclecticを聞く。

久しぶりの名前である。あのころのポップさはなりを潜め、ソウルフルな音が満ちている。大きな少年の歌声は、艶めいた大人のそれに変わっている。理由がなくとも幸福と希望にあふれていたころから、掴み取らねばならないころへの変貌。

けれど、そこにあったのは確かに彼が好んで流した祈りだ。大人びたが変わることのない便りに、私はいくらか安堵し、続けて少し思い悩む。私は変わらず、でも強くなれているだろうかと。

幸福だった日々を思い出し、今の違う幸福を思い、その間のごたまぜを思う。もう一度今に耳を傾けては、息を吐く。

あのころのように、夜は続く。独り部屋で指先など弄んでは、様々に想う。夢のこと。親しく、愛しく想う人々のこと。自分のこと。明日のこと。過去からの混乱に身を委ねながら、小さく、微笑む。

@

高校時代からの友人達と会う。

相変わらず俺は誰とも疎遠で、要するに他人に興味がないのかもしれないが、けれどもこういう機会は好きである。俺だけが知らない話を聞き、俺しか知らない話をし、俺や俺達の困り者ぶりを棚に上げては友人知人の困り者ぶりを話して笑う。立身やら、伴侶やら、あのころに比べ随分具体的になった希望図を漏らし、次に会うのはいつになるかと笑う。

心配をしたりされたり繰り返しつつ。結局無関係ではいられないまま、人生は回っていく。も少し、交わりたい気持ちはあるのだ、疎遠になるのは性分だ。かかる声には反応すれども、かからぬ声は聞けぬような人であるので、気に留めておいて頂ければ幸せに思う。


4.8

@格闘中

だいたい二〜三ヶ月に一度ほど起こるいつもの発作であるが、/usr/includeの下を眺めつつ「わからなければmanを読め」と言う奴は頭が悪いなどと、思ってみたり。


4.9

@

雨天により本日予定の仕事が頓座。こんな私だが情報関係の仕事である。

_ところで楽をするためには家からTP220を持っていくというのがアリな気がする。憶えとけ>自分

@効率閑話

PHP-users MLでパフォーマンス話などが流れてきた。

_ソフトウェア開発におけるパフォーマンス話は、その人の力量を計るにはうってつけである。パフォーマンスを話すには、システムがどうなっているかを理解していなければならない。「どうすればパフォーマンスが上がるか?」と聞かれて、思いつけるポイントの数でその人の知識量が見えてくるし、挙げたポイントの傾向で専門分野が見えてくる。

もちろん、条件やソースコードが見えなければわからないポイントというのも多々あろう。しかしそれでも、いかにもネックとなっていそうなポイントというものはあるわけで、それを推察できるか、というのも暗に試されることになる。

_ところで、パフォーマンスに関る文章で必読であるのは、通称ラクダ本ことプログラミングPerl改訂版の「8.3 効率の問題」であろう。ラクダ本はLarry Wallの趣味を映した非常に馬鹿げた本であるが、中でも極めつけに馬鹿げたこの節は、その馬鹿馬鹿しさゆえにパフォーマンスというものをよく理解させてくれる。一見ひどく迂遠であるが、実に効率的な名文であろう。


4.10

@絶句

言葉にであれば、魂を奪われても構わないと、思っている。

鮮烈であり、純粋であり、であるのに混沌の如く様々を孕み、それでいてただひとつの、全くなる。

そのような、完璧に美しい言葉にであれば、魂を捧げることを惜しみはしないし、むしろ喜んで差し出すだろう。無論、そのようなものがあるとすれば、であるのだが。

それは、あまりに夢想めいたところの産物であるが、しかし私はその存在を疑わない。否、疑えない。それがあろうとなかろうと絶望であることはさして変わらず、であれば届きうる絶望を私は願う。

いったいどこに見出せるのか、それすらもわかりはしない。けれど、私は信じるのだ。届きうるそれがあると、俺は必ず届いてみせるのだと。

@多相

計算機が数学の打ち立てた空虚なモニュメントであることはまがりなりにも理解しているつもりである。あるいはその上で動く論理が、かなりの割合で哲学に依拠していることも知っている。が、今日は計算機が物理の塊であることがよくわかる。

というか、何が原因かもわからないのが問題か。せめてもの救いは、これが近道ではあるが本道ではないことぐらいであろう。


4.11

@

MISXテスト実装が極めてゆっくりと進行中。更新時刻取得@ローカルはさくっと書いて、今のとこ「Perl用MIS形式データ操作モジュール」と「http経由で各種メタ情報取得なスクリプト」が同時進行。実際に書いてみると、やはりあれこれ論理のアラが見えてくる。権限委譲回りは再考するべきかもしれないとか。

ともかく、こういうふうにあれこれ哲学し、数学化する作業は非常に愉しい。やはり自分は向いているなと思う瞬間である。

@妄言馬脚

コメント部分を不本意に引用されて激怒、なくだりを読んで徒然と。

_所詮htmlはユーザーエージェントに「こう解釈されたし」ということを(暗黙に)了解させるための規約に過ぎない。たとえば「htmlレンダリングしないw3m」とか作られた日にゃ、いったい誰が「コメント扱いの部分を非コメント化」したのかさっぱりわからなくなる。まあ、この場合には「引用」でないから問題ないのか。

あるいは、html文書とは所詮記号の集まりである。それをUAの都合(ひいてはユーザーの都合)に合わせて各自で勝手にレンダリングしろと、所詮はそういうものではないかと思う。そういうものにおいて、コメントとは見せないための記述ではなく、見せる際の優先度が低いことを示す記述に過ぎないのではないかと思う。ここから、電子公開化文書に従前の著作権モデルを適用すべきでない、などと議論を持っていくことも可能だがこれは余談か。

_そもそも、言語とは本質的に誤解されるものであろう。ましてやほのめかしともなれば、誤解を招くのは必定だ。ほのめかすのであれば、まずは誤解を覚悟せよ。さもなくば書くな。などと私は思うのだが、これは言葉が好き過ぎる人間の妄言であるか。

意味も理由も原因もなく喧嘩は起きない。喧嘩を売られるのには喧嘩を売られるなりの理由があろう。などと、喧嘩を売るような文体で書くのはどうかと思うが、売るからには売るなりの理由があるのである。かくて誤読はスパイラル化するわけであるから、止せばいいのにと指摘されれば、まったくもって平身低頭謝るほかない。まあ、売る方も売られる方も悪いから、喧嘩なんて起きるのである。もちろん、どちらがより悪い、というのはあるだろうが、それで相殺されるわけはない。悪いものは悪いのだ。

_ところで、Refererを基に閲覧を蹴られると、話の流れが追い難くて仕様がない。それこそ怒りのあまりすりかえをしているのではあるまいか、と怒りのやり場の鉾先を向けられた利用者としては思ったりもするが、所詮喧嘩は喧嘩、岡目の言葉でどうにかなるものでもあるまいし、そもそも喧嘩になってしまった以上その流れごと捨て置くのが上策であろう。

かくて、我が思言の下策ぶりを見事に露呈しつつ、二束三文にもならぬ雑文を晒すとしよう。

@美意識過剰

無闇な正字正仮名に向かい、阿呆か馬鹿かと糾弾を連ねてやろうなどと、思うわけである。

であるが、如何に無闇で阿呆であろうと、人が言葉をそのように使おうと思うのであればそれも正しい言葉となろう。にも関わらず糾弾を叫ぶのは、およそ己の立脚点を崩壊させることにほかならない。と気付いて止める。

ただ、極めて現代口語的な言い回しを、文字に落すばかりか正字正仮名でやられると、これはもう見苦しいとしか思えないのだ。所詮は、私個人の美意識に依る想念でしかないのだが。


4.12

@

私が不快を感じているのは、表記と思考の乖離にです。

読み難いことが問題なのではない。言葉の底にあるはずの思考を無視して、表層だけもって「正字正仮名」と格好をつけるところに、私は不快を感じるのです。

_英語には英語の、日本語には日本語の、それぞれ根底となる思考があります。日本人である私は、日本語という言語に強く思考を拘束され、日本語に沿ったやり方で世界を見、聞き、感じ、知っています。

そして、文語と口語でも同じこと、現代かなと正字正仮名でも同じことだと、思うのです。正字正仮名で表記するなら、正字正仮名でものを考えるべきであると、思うのです。

_しかしながら私には、その文面が単に現代かなで思われた文章を、機械的に変えているだけに思えます。その乖離に、私は不快を憶えるのです。

もし違うのであれば、謝罪します。正字正仮名で考えようとした、その失敗の結果であるならば、これは、いわれはあれども不当な非難でありましょうから。しかしいずれにせよ、私にはそのように読めるのです。そして、そのように読めてしまうことが、不快なのです。

正字正仮名の文は、正字正仮名の文として思考され、書き下されるべきと思うのです。

機械的なフィルタリングでの変換は、遊びとしてはよいでしょう。しかしながら、敢えて指摘させていただくならば、それは正字正仮名の文ではないのです。

_以上が、私の糾弾です。正字正仮名を使うならば、それに価うような思考より、言葉を紡いでいただきたいのです。

とはいえ、この糾弾は極めて私的な部分に由来するものでありましょうから、世に広く正当と謳うべきものではないでしょう。即ち、正当な糾弾ではないでしょう。ですが、私は言葉を愛しているからこそ、そのような言葉の使われ方には不快を感じるのです。

_言葉を扱う者として、極めて未熟なこの心身ではありますが、斯様に想う次第です。

@言語信仰

まあ、その、あれこれと。

_どこへともなく。

偏執的生理的不快感であることは否定しませんし、自分自身でもそのことは指摘しているつもりです。そう読み取って頂けなかったのなら、私の筆力不足ですが。ただ、私が不快を感じているところの理屈を正直に書き下したものであることには言明しておきます。それを踏まえたその上で、なお屁理屈と呼ばれるのなら、きっと私は屁理屈の中で生きている人間なのでしょう。それについても、否定しませんし、できません。

_闇黒日記、平成14年4月11日付の記述に対して。

繰り返しになりますが、この不快はあくまで私自身の美意識に依拠する問題です。いけないとは言っていないし、やめろとも言っていません。あるいは単に私が「現代的口語的思考の正字正仮名による引き写し」に慣れていないだけかもしれません。

どう云ふ事なのでせうか?」と問われれば、大した理屈もなく、ただそう思ったからだと答えるほかにありません。それを敢えて理屈に落すなら、前述の屁理屈めいた糾弾と称した信仰告白に書いてあるとおりのことです。

いけないとも、やめろとも、取り下げろとも申し上げたつもりは毛頭ありません。ただ私は不快を感じ、そこから何かを思い、記した。ただそれだけのことです。怒りを買うような文であったのなら、求められれば謝罪しますが。

_半ば自省的に、余談。

私は現代仮名遣い的な文語でもって文を書いておりますが、これが現代仮名遣いそのものであるとは思っていません。これは私の言葉、私の文語であって、私が伝えるのによしと思うことが唯一絶対の原則だと思っています。

だからこそ、糾弾を叫ぶのは、およそ己の立脚点を崩壊させることにほかならないわけですが。

私は文字を単なる表記法だとは割り切れません。私は少なからず文字で考え、文字で感じているのです。そして私の中にある文字が、極めて現代仮名遣い的であるのなら、それはまず現代仮名遣い的な文で引き写されねばならないと、思うのです。

私が「私は」と思うときは私は「Watasi Wa」ではなく「私 + は」と思っていると、思うのです。であれば、それを引き写すのに、「私わ」はまったく適切でない。それは、「私は」と引き写されねばならない。見苦しかろうがなんだろうが、私はそのように思い、故にそう書くのです。

なに? お前の言っていることそのものが見苦しい? まったくもってそう思います。そう思いながら、それでもこんな見苦しいものを書かずにおれない心持ちなのですから。

@

正字正仮名的思考――江洲さんへの、返答として。

_少なくとも私は、そのようなもの(=正字正仮名的思考)があることを確信しています。

_私が私の裡より来たる無銘の音楽をこの喉で奏でるとき、私の思考は音楽に支配されます。私が空気の一粒までをも見通したいと視覚に意識を向けるとき、私の思考は視覚に支配されます。同様に、私がいくつかの文語(*1)を使い分けるとき、私の思考はその表記に支配されます。口語のとき、プログラムを書くとき、どれもほんの少しずつですが、確かに思考が違うと思います。あるいは、魔法を使おうと願ったとき、などもそうでしょうか。

私はこのように考えます。油彩のためには油彩のための、水墨のためには水墨のための、世界の見方・感じ方があると。油彩と水墨の違いは、一次的には「タッチが違う」の一言で済むでしょう。ですが、それらを使おうとするとき、違いはそれだけでは留まらなくなる。認識の仕方、思考の仕方までも変わってしまうであろうと、思うのです。

そして、それらと同様に、正字正仮名で私が文を書くならば、私の思考は正字正仮名に支配されるだろうと思うのです。

_思考を変えるのではありません。思考が変わってしまうのです。絵を描くための認識・思考と、文字を紡ぐための認識・思考は自ずと差異を持つ。であるがために思考は自ずと変わってしまうと。

それは特殊な思考などでは断じてない。それは自ずと発し、自ずと至る思考でしょう。読者など一切関係なく、書き手の裡で変化は起こってしまうものでしょう。

これより先は、言葉の話というよりは認識の、脳の話に至るでしょうか。

_たかが表記と割り切れない私は、確かに偏執的だと思います。ですが私は、そこに偏執してしまうような思考の枠組を持ち合わせているつもりです。

端的に言ってしまえば、私が、江洲さんのそれとは、大きく異なる世界を見ているだけのことかもしれません。であるのならば、馬鹿げた文句をつけるんじゃない、この気違いがとでも、あるいはもっと酷い罵倒であっても、構わず思い、お言い下さい。私はそれに甘んじますし、それでも構わずそう思い、そう見続けるでしょうから。

_私の結論として、繰り返します。私は、表記をただ表記と割り切ることができません。思考は少なからず表記に支配されると思っています。しかし、表記の変更を単純に表記の問題として捉えているなら、それはあまりに無自覚な行為ではないかと問いかけたいと思うのです。

_余談。

むしろ、現代口語を正字正仮名で記述するという試み自体には興味を憶えます。それにより己の思考、己の思惟がどう変遷するのかと考えると、心惹かれるものがあります。私がそれを試みるなら、そのような着眼のゆえにそれを試みることでしょう。

しかしながら、私に反論を下さる方々の試みは、私の行なうであろうそれとはあまりに異なる、ゆえに私は不快を憶えるのかもしれません。どちらが上でも下でもなく、それは正しく認識の違いでしょう。私はかように世界を見る、貴方がたはそうではない。ただそれだけのことに帰着するかと思います。


(*1)書き言葉、の意。

@

表記話の関連としてしゅがいさんとこ片桐さんとこの記述を挙げておきます。どちらも、私ほど(私以外にとって)不可解な(ものであろう)情念に因われていない、比較的客観的な意見かと。


4.13

@

少しは冷静になった頭で。

_闇黒日記平成14年4月11日付の記述について。

私には、野嵜さんが、文のあげ足だけ取って、文章を読もうとしていないように思えます。正直、意思の疎通ができるとは思いません。対話する気があるのなら、私の文をこねくりまわすのではなく、私の文章を読んでください。そんな気など毛頭なく、持論の株を上げるための叩き台が欲しいだけなら、どうぞ勝手に愉悦に浸ってください。

とんでもない非礼だとは解していますが、少なくとも、野嵜さんよりの私に対する反応の文章には、そう思わせるだけの何かがあると忠言させていただきます。これが私の誤読であるのなら、よいのですが。

_江州さんからの返答、相違点について

使う漢字が変わるのは、私には大事に思われます。あるいは、かなづかいが変わるのも。それらが変わると、見たときの印象がもう圧倒的に変わってしまう。

私は、文語は字面も含めて表記だと思っています。漢字仮名交じりな日本語の文語は、表音的であり、表意的であり、そのうえ図画的でもある。その多面性に、私は魅力を感じるのですが。

逆に、それが気になってしようがない私には、正字正仮名を使うことはできないのだと思います。使い慣れた新字新仮名でさえも、扱うのに不安があるのですから。

_今回の私の発言が契機となった無用な論争についての、極めてぶっちゃけた感想。結局のところ「お前、一人だけ明後日に向かってるってばさ」と言われればそれまで。もう立脚点とか視点とかまったく違う。私がしてるのは実際のところ脳の話で、みなさまがしてるのは日本語の表記の話。論点噛み合うはずもなし。――とか書くのはフザケすぎ、でしょうか。でも正直な感想です。

_最後に。かかる件について与えた不快について、謝罪します。たとえば、比喩として「糾弾」などという過激な語を使ったのが適切でなかったのだと思います。あるいは、書き捨てで言葉が足りなかった、もう少し言葉を選ぶべきであったとも思います。あれこれ矛盾した物言いもありました。冷静でないまま重ねてしまった言葉にも多々、非があったでしょう。非礼を重ねた上での謝罪など、信用できないかとは思いますが、それでも謝罪します。――ごめんなさい。


4.14

@Protocol Error Description

闇黒日記平成14年4月13日付に対して。

_非道い言はれやうだが、私の指摘に何一つ答へてゐないところを見ると、中田さんは當方とのコミュニケーションを一方的に拒絶してゐるやうです。

私は、文章として理解されることを期待して、いくつかの文章を書きました。それらは、一通り全体を読んだ上で、全体を通じて受け止めていただきたく思って書いたものです。

ですが、野嵜さんはそれに対し、部分部分について微細な指摘をした上で、それを統合せずに、私への返答として記述されました。私はもう少しまとまった形として返答があることを期待していました。

これでは、あまりに対話の前提が違いすぎるとほとほと困り果てました。

今度こそ間違いなく比喩として申し上げます。

私は野嵜さんの返答に、「作文の課題を提出したら書き取りの課題として評価された」ような感覚を憶えました。

確かに、「書き取り」のレベルで問題の多い文であるのでしょう。そのあたりは、微細に御指摘下さった野嵜さんの方がわかっておられるかもしれません。ですが、私は「作文の課題」として、先の文章を書いたつもりです。作文には作文としての評価や反論を返すのが適切な態度なのではないでしょうか。

_それから、私は野嵜さんの文章を誹謗することはあっても、野嵜さん個人の人格を誹謗しようとしたつもりはありません。結果としてそうなった部分はあるかもしれませんが。

ですが、野嵜さんは明らかに私個人の人格を誹謗されています。誹謗を受けた以上、そこにはいわれがあるとは思いますが、何故に私の文章ではなく、私の人格を誹謗されたのでしょうか

_一応指摘点全部に答えるようなものも書きましたが、それより先にこの前提を理解していただきたいので、そちらは(まだ)公開しません。これ以上、私などと対話する気があるのであれば、以上の2点に返答をお願いします。

@

えすさんも仰ってるように、「んー」とかを正字正仮名で書くこと自体は、悪いことではない。

_ただ、「んー」とか思ったのを、正字正仮名で引き写すのは、「現代仮名的な日本語を基調言語とした思考」を「正字正仮名で引き写し」ているように思えます。で、私はそのねじれに違和感を感じる。

_正字正仮名を思考の基調言語にした上で、なお「んー」とか思ってるのなら、この指摘はまったくもって的外れ、単なる私の誤読です。

でも、そうでなく、ねじれ状態の産物であるなら、「正字正仮名で引き写し」は遊び以上にならないんじゃないの、と。現代仮名的な日本語で思考してるなら、現代仮名的な日本語で引き写すのが「正しい」んじゃないの、と。私はそのように思います。

_もちろん「訓練中」とか「いずれ自ずとそうなる」とか仰るのなら、まったくもって文句はありません。それはそれで正しい態度。まあ、「そんなこと気にするのは偏執的」と言われれば、それまでの話。

@模様替え

同居人部屋の収納空間がいいかげん不足しまくりなのを決め手に模様替え。

旧宅から引き続き使ってるスチール棚の中でAV機器をあれこれ詰め替えたり、利用率の明らかに低い俺様's ビデオデッキ(BSチューナー付)を手元に持ってきたり、同様に有線放送チューナーを外したり。

結果、450mm(D)×900mm(W)×600mm(H)程度の空間を創出。「ここがエロゲーで埋まる図を考えてしまった」とか言う同居人。ということで、自室でJリーグ仙台―浦和戦などTV観戦しながらこれを書く。益々夜更かしの供が増えた。

@勧誘目的

同人仲間がPacific-18(BD-1の同型車)買ったらしいです。ちうことであれこれ。

_結構ズボンの裾が巻きこまれるので、遠乗りするなら裾止めは必須です。裾のところがアレなことになったズボンが数本。

_Birdyぐらいの走行性能があれば、都心部でなら電車で移動するのとそんなに所要時間変わりませんね。運動不足解消を考えれば、自転車通勤もいい選択肢になるかと思います。郊外でも、サイクリングロードが使えれば、車で一般道を行くのとそうそう変わらないかと。

_荷物が載らないのは大きな難点ですか。まあ、荷物が大きいときは素直に電車で移動しましょう。のんびりゆっくりいーかげんにも移動できるのが、街乗り自転車の魅力ですし。

_ただ、Birdyって、乗ってると徐々に2台目以降が欲しくなるんですよねぇ。バランス取れすぎというか、器用貧乏というか。いい自転車なのは間違いないんですが。ともかく、そんな気分になるまでは乗り込んでみること推奨。

ま、言われなくても、そのぐらいは乗り込んじゃうかと思います。なんつっても楽しいですから。


4.15

@謎。

じゃあ滑稽ということにしといてください。矛盾してるけど。

@Protocol Error Result.

闇黒日記平成14年4月14日付、同じく15日付のあれこれを読んで、反応。

_洒落です。矛盾の指摘でもありますが。

別に、日記なんだから、私の思つた事とかを書いてゐるだけなのにと思ふのですよ。日記なんだから自由に書ける環境が良いですよねー。

餘所から一々「おまえのかなづかいはうざい」とか不當な壓力を受ける謂はないですよねー。

別に、日記なんだから、私の思った事とかを書いているだけなのにと思うのですよ。日記なんだから自由に書ける環境が良いですよね―。

余所から一々「公共の場では客觀的な意見を述べるべきです」とか不当な圧力を受けるいわれはないですよねー。

_意見の否定を人格の否定とは思いません。ところで、私を評してものと思われる馬鹿野郎僞善者自己中心的獨善的、等は人格攻撃ではないのですね。また、客観的に見て、私はそのような人間なのですね。了解しました。

_私では、野嵜さんとまともに対話することは無理なようです。残念ですが、これ以上の対話の試みは諦めます。お手数をおかけしました。

@誤解訂正

江州さんの「貴方は遊びと云ふけれど」に、反応。

_「貴方の印象を理論附けてそれらしくみせたもの」であることは御指摘の通りです。一連の意見表明において、私は一貫してそのようなつもりで文章を書いています。「私は〜思う・考える」を多用し、それが私見に過ぎないことを常に示しているつもりです。

_私が言いたいことは、表記がかうなら文體と思考もかうなのが正しいではありません。「思考がこうなら、文体と表記はこうなのが(私には)良く思える」です。そのうえで、常に自分の誤読の可能性を念頭に置いた上で、主張をしてきたつもりです。

_確かに表記と思考は違うものです。文体と思考も違うものです。

ただ私は、それらの間には強い関係があるだろうと、主張しているのです。強い関係があるために、強い相関、強い影響があるだろうと、主張しているのです。その前提の上で、私はこう考える、と主張しているのです。

この捉え方が恣意的であることは否定しません。それが見方・考え方というものですから。

_現代仮名遣いのみの特権的自由など、ないと思います。現代仮名遣いであろうと、正仮名遣いであろうと、同様に逸脱は認められるでしょう。

ただ、現代仮名遣いのほうが、逸脱があったときの違和感が少なかろう、とは思います(あいまいさ、論理性・妥当性のなさと引き換えの部分ではあるのかもしれませんが)。なお、これがあくまで私の印象論であることを、念のため強調しておきます。

_個性を否定する気はありません。そう読める文を書いたことについては、謝罪します。私が発端となった件ですが、これ以上互いを悪し様に言うような論戦に使われねばならないのでは、言葉が可哀想だと思います。

_その上で、お願いします。格調高い文体も、厳然なルールの遵守も、求めるつもりはありません。ただ、読むだけで気持ちよい、胸のすくような正字正仮名の文を書くよう努めていただけないか、と。これは正字正仮名で書かれた文であるからこれほどよい文なのだと、そう思わせる文のことを心に留め置いて頂けないか、と。

_加えて、理解が足りないとはいえ正字正仮名の文にいくばくかの想いを抱いているからこそ、一連の論戦の発端となる発言に至ったということをお分かり頂ければ、なお幸いに思います。


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