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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
出来もよいし面白い――のは確かなのです。確かなのですけど、この微妙な物足りなさというかなんというか。一言でいってしまえば、アクが足りない。「ノヴェラ」ってことで尺が短いせいもあるのでしょうが、ネタをすっと出してすっと使ってしまう。ところどころ、堀り下げて欲しいところがある。
そこを掘り下げていないからこの良さがあるのだけど、でも何か足りない。
むしろシリーズものとか連作短篇とかで読みたい話、なのかもしれません。
先日のP17n-KtF話は、KtFのドラマ/サントラCDのライナーノーツと微妙に齟齬があるぞとC.Fさんに指摘されたので再検討中。
指摘されたその場でも言っているけど、「作品の意図」という考え方が良くない。むしろ「作品の(読まれることによって起こる)機能」と言うべきなのだろう。というのが齟齬の一点。
それでずいぶんすっきりするけど、まだ何か残っているように思う。結局のところ言いたいのは、P17nなりKtFが、「とことんプレイヤーの動きを信用していながら、(それゆえに)プレイヤーを馬鹿にしている(*1)」という点にあるのだと思うけど。このへんで誰とでもなく意見を求めてみるテスト。
_ところで件のIRCログ部分で一見高橋直樹氏をクソミソにけなしているように読めるが、実際クソミソにけなしている。この場合の問題はまさに「真剣なのに知恵が足りない」という非常にマズイ物言いの中に隠れていて、この部分を展開すると「なまじっか真剣に考えるものだから知恵の足りなさが余計に浮き彫りになってヒドいことに」というもっとマズイ言い方が浮き彫りになる。
思案なり、検証なり、推敲なり、ともかくどこかが足りないのである。どこが足りないのかはよくわからないのだが、無茶なことを思いついては破棄してみるとか、視点を変えて考え直すとか、書いた文章を白紙として読むとか、ともかくそういう思索を文章として表出させるのに必要な何かが欠けている、ように思われる(*2)。
どちらかというと、知識ベース――自分自身のものであれ、利用できる他人のものであれ――の不足が問題のような雰囲気であるのだが、無論真相はわからない。所詮雑文であって明白な結論など気にかけていない――悪く言えば書き捨て・書き逃げ――というのならそれは正しい態度だが、それならそうとそういう書き方が世の中にはある。と私は思っている。
あるいは、逸脱を嫌うのであればこそ逸脱のことを知る必要があるし、逆もまた真である。文章を書くのであればこそ、文章では再現できないものがあるという悔しみを体感して抱かねばならないのではないか。
_――などと人を馬鹿にするような言動を取っておきながら、なにげに自分の耳が痛い。つまるところ、天才でもない人間の落ちる悩みなど、対して変わるものでもないのだろう。ともかく、自省することしきり。
仕事はドキュメント書き。
文芸的プログラミングは良い思想だが、一覧性が伴わない。機能(=ソース)と説明(=ドキュメント)の距離が常に近いため、検索には常に両方を見なければならない。
一覧性という点で見れば、機能と説明を分けた方がよい。説明だけ、あるいは機能だけ、の方が一覧性は高くなる。
_それでも一定以上にものが増えれば、破綻をきたす。そこで一覧性を高めるために、よいインデックスが必要となる。
ところでツリー構造自体は良いインデックス構造でありながら、実際にファイルをドカドカ置いてみると実は一覧性があまり良くない。ツリーを掘ると2段、3段と潜らなければ目的のものが見えなくなる――一覧性が悪くなる。整理するための構造が一覧性を下げる。むろんそのディレクトリに入ればそこでの一覧性は高くなるのだが、間に段がおかれる分、見通しは悪くなる。
_だから検索システム、索引というものが発生する。分類という垣根をとっ払って、フラットなレベルで全体から抽出する。
どちらが優れているというものでもない。要するに、整理というのは(他のものと同様に)程度の問題なのだろう。時系列整理は比較的万能に近い方法だが、それとて「参照回数」をキーにして整理するから多くの場合に最適化されているというだけで、参照回数が平均化されるデータベースではさほど有用ではない。
……などという理屈はともかく、ドキュメントは書かねばならない。整理なぞする前に、整理されるものがなくては話にならないのであるから。
試しにPOBox用の子音引き辞書を作ってみる。テキストに戻した元辞書の読み(ローマ字)をいーかげんなPerlスクリプトでガツガツ子音だけ(あ行音はそのまま)に直し、そいつを辞書に逆変換。で、インストール。
とりあえずちょっとだけ使ってみて、少々のひらがな語(助詞・助動詞)が入っていないと効率が悪いことがわかる。だが、思っていたよりはよい。
これでPOBoxの方に辞書切替えの能力があれば完璧だったのだが、世の中そう都合よくはできていない。ともかく、しばらく鍛えて見る価値はありそう。
正直に言えば、煽ってます。ここまでやればなんぞ反応するだろうと、計算してます。もちろん打算もあります。自分の言いたいことを少しは宣伝できるし、話の過程で自分の思考もまとまるし、話をまとめて文章に起こす契機にもなるでしょう。あるいはそちらの成長にもつながってひょっとすると将来面白いゲームが遊べるチャンスが増えるかもしれません。
ということで、あのフリになにか返せばたいがい喧嘩してるように見えるでしょう。
とはいえ、敵であるために敵対する気はありません。話をする気はあっても無駄な喧嘩をする気はありません。だからと言って、喧嘩売る寸前の態度が改まるわけではありません。議論する時には極力わかりやすい(わかりやすすぎる)物言いを選択しているつもりなので、いきおいどーしてもそうなります。
以上、弁明終わり。
ということで以下各論。
_KtFの面白さ。
KtFの面白さは、元長ゲーなくせに「身も蓋もないエロゲー」である、って点にこそあると思うのです。たぶん、どちらが欠けてもKtFの面白さではない。
両者が並び立ってしまえば、単なるエロゲーではないって? 当たり前です。そもそもKtFは「単なるエロゲー」ではなく「身も蓋もないエロゲー」です。「身も蓋もない」し、「エロゲー」だし、なおかつ「身も蓋もないエロゲー」なのです。それも極めてよく自覚した上で。
そのへんが私には「えげつない」と思える。「客を信用しながらも馬鹿にしている」あるいは「客を馬鹿にしているからこそ信用している」という雰囲気がある。
で、そういうところがKtFの面白さにつながっているのだろう、と私は思います。
_作者と作品。
作品外の作者の発言は、単なる作者の発言に過ぎません。誰の手になる作品であれ、公にしてしまった以上は作品は作品として存在し、作者は関係なくなります。
もちろん関連付けられて語られる・論じられることは覚悟しなければならないでしょう。しかし、それでも作者と作品は既に直接の関係から切り離されてしまっているし、作者の発言にしたって同じです。
ただし、それらが結び付いたところに、作品周辺の面白さがあるというのなら、それには同意できます。実際に私も、そういうところで遊んでいたりするわけですし。
_煽り方
煽るのが悪いことではありません。というか、もっと煽れと言いたいです。明白な結論がないのも、もって回った言い方をするのも、目的が結論にないのも、一切問題ありません。ただ、煽るなら煽るで、もっとやり方があるだろう、とは思います。
以下、ありていに言い過ぎます。
たとえば、誰かからの反応を待つにしては、「考えたこと」と「思ったこと」の、あるいは「確かなこと」と「憶測」の切り分けができていないように読めます。ありていに言うなら、「こいつと議論しても無駄かも」と思えてしまう。「そもそもこいつ聞く耳持てるのか?」という印象を与えてしまう。これって、損してるって思いませんか?
さもなくば、「どーせ厨房臭くてズレてるならとことんまで!」と意見させていただきます。それでどうなるか、当方一切保証いたしませんですが。
ちなみにお前はどうなのかとは聞かないで下さい。それこそ耳が痛いので。
_自己投影云々
そして、自己投影はしばしば感情移入と混同される。感情移入できない物語というのはたしかに問題かもしれないが……そう呼ばれている中には、読み方ひとつ変える(自己投影することをやめる)だけで面白くなるものも結構あるのかもしれない。
引用部に限れば、目につく問題は2点。
論理性の問題。引用部で当初「感情移入できない物語」と呼ばれたものは、実際は「自己投影することをやめると」面白くなる(=感情移入できる可能性がある)ものであって、この時点で最初の言及――「感情移入できない」は嘘。正確を来すならば、「自己投影できない物語」と呼ぶべき。 必要性/構造の問題。ここの論旨は「自己投影をやめれば面白く読めるようになるものもある」であって、そうすると、そして、自己投影はしばしば感情移入と混同される。は必要ない。むしろ論旨の読解を妨げる(読者が混乱する)。もし自己投影と感情移入の混同について言及したいなら、「自己投影をやめてみよう -> たとえば、自己投影と感情移入を混同してない?」とした方が流れがスムーズ。
ところで、自己投影する読み方が下の下とは思いません。そもそも「上下」なんて意味がない。優越感なり劣等感なりを勝手に感じるのは自由ですけど。
でも、馬鹿映画にテーマ性をどうこう言っても仕方がない。そんなことしたって面白くない(*1)。深読みするのは勝手だし、そうすることで見えてくるものもある。だけど、作品にある読み方が想定されているならば、まずそういう読み方をすべきでしょう。普通はそれが一番楽しいから。
_知識境界
ある世界の話をするのに、その内部だけで話しを閉じようとするのはもったいないです。あるいは無駄が多いです。たいていのことは、外部に目を向ければ、驚くほど似たものが見つかります。
最近/エロゲー/わかりやすい、な例だと「君が望む永遠」かな? 知らない人は大騒ぎする一方で、単なるソープオペラだと言う人がいる。知っていることで、見たものがどんなものであるかをより手間をかけずに理解できる。考えを進めるときだってそう。外のことを知っていれば案外簡単に抜け道が見つかったりする。
ともかく、広範な知識――自分自身のものであれ、頼りにできる他人のものであれ――を得ておくことは重要です。必ずしもではないものの、かなりの確率で役に立つので。
_AirとPL、PC、主人公
えー。この段、本気でやると大論文になります。たぶん。仕方ないので箇条書き風味で大雑把に。
まず、以下の点を明確にしておきます。
もちろん、PLがPCを操作する場合、PLとPCは非常に近い関係に置かれます。しかしながら、PL=PCという図式は常に正しいわけではない。たとえば、スーパーマリオでわざと最初のクリボーに突っ込んで死ぬ時。
_同様に、PC=主人公も常に正しいわけではない。
以上の2点から、PCはかなり主人公っぽく思えることが多い。が、本来「主人公」とは読者との距離に関係なく、物語の流れの中で見出されるものである(*3)
_Airについて。内容的にはGameDeepのこの記事の一部の再話。
_Airでは、常にはPC=主人公という図式が成り立っていない。たとえばAIR編後半やSUMMER編、前者ではPCは視点中心・語り手としての役を担っているだけ。後者に至ってはPC不在。
_AirにおけるPLの無力感は、「PLがゲーム外存在である」ことにこそ着目している。
Air編後半においては、PCのことがほとんど描かれない。したがってPCの無力感も描かれない。では、PLに無力感はないのか? → 否。むしろ描かれないからこそ、PLはなおさら無力感を感じる。さらに、自分がその世界の外側にしかいないのだ、とも思わされる(*4)。また、Air編後半の主人公は明らかに神尾の親娘(*5)である。
端的には、「引き込みのDREAM編」「見せつけのSUMMER編」「切り離しのAIR編」と考えるとわかりやすい。いったんPLを引き込んでおいて、手の平返すわけである。オーソドックスに「PL = PC」「PC = 主人公」の図式を使っている場面もある。が、それらはAirを進めるにつれてブレークしていく(されていく)図式である。
_余談。
ONEはPC=主人公です。PLとPCは乖離していますが(*6)
ガンパレード・マーチでは「PL=主人公」に極めて近い図式が発生します。「PLがゲーム外存在である」ことを利用して、PCがあまり絡んでこない形で、それも極めて密接な関係として。しかもそれは、おそらくは意識して作られている。だからこそ、Airとガンパレは対比して語られるべきだと思うし、実際語ったのですが。
――以上。つーか、長ぇ。
P17nでは、受け手の反応はかなり計算できる。P17nは徹底してゲームだから。ゲーム的思考以外の思考で、ループアウトに到達するのは難しい。KtFでは、ついてこれない読者はそもそも強烈に排除される。そういう読者を飼い慣らすために絵や声があるとも言える。
P17nもKtFも現実とフィクションの境界を曖昧にする。しかしそれはメッセージというよりは、単なる機能に過ぎないように思う。もちろんその効果が大きければ、、強烈な眩暈をもたらすことになるであろうから、その部分が(その読者にとっての)メッセージとなる可能性は高い。
世界を曲げているのはPLであってPCではない。そこで世界が曲がるのは、PLが外部から曲げる意志を持って接するからである。当然ながら、循環には「PLが継続を放棄する」というもう一つのループアウトが存在する。
_ところでKtFと言えば、東浩紀氏の近況にKtF話登場。で、これにCDドラマの内容を加味した上での会話が#gamedeepにて。
ということで一計を案じた。直接渡さず、いったん適当なCGIでコード変換して、リダイレクトしてやればよい。そのようなCGIスクリプト(Perl5、要Jcode.pm)を書き、Googleを直接呼ぶ変わりにこちらを呼ぶように設定(例)。
これで日本語が化けずに通る(例)。
改造できそうなポイントとしては、Cで書き直す、Jcode.pmに依存しないようにする、自力でサーバとして動くようにする、などなどあるかと思います。お好きに御利用ください。
ということで、高橋さんとのお話の続き。またも長い。
_身も蓋もないエロゲー
まずは謝罪。先の文における「身も蓋もないエロゲー」という言葉は、明らかに普通の用法をしていません。先の文脈において分類するならば、ナチュラルは「エロゲー」、あるいは「単なるエロゲー」でしょう。
対比的な言い方をするなら、KtFはむしろ「逸脱による回帰」なのではないかと。というか、逸脱でありながら回帰してきてしまうあたりこそがKtFの「身も蓋もないエロゲー」ぶりなのだと思っています。
_作品周辺
周辺の方が面白かったりすることはままあるし、それも正しい態度でしょう。というかKtF-元長氏の場合は明らかに前科があるし(笑)
_煽る
どんな出鱈目なことであれ、発言する以上は絶対の自信を持つべきです。そしてそれを見せつけるべきです。書き言葉であれ、話し言葉であれ、ともかく臆することなく泰然と発話がなされるべきです。――誰ですか、ハッタリだなんて言う人は? 違います。これはプレゼンテーションです(*1)(*2)。
_ソープオベラの使い方
論じるときにその言葉を使うかどうか、はまた別の問題(どんな読者を想定するかとか)だと思います。このへん、C.Fさんからの横槍も入っていますが、きちんと説明してから導入すべき場合もあるでしょう。
ぶっちゃけた話、知識なんて考えるための枠組です。知性の伴わない知識に意味はないし、知識の伴わない知性には無駄が多い。要は車輪の両輪なので、どっちが欠けても意味がない。ともかくも、我ら凡人に必要なのは努力、努力、と。
_ゲームがゲームであるということ
はっきりいうと、僕はノベルゲーをそういう意味でのゲームだとは思っていません。
どういう意味でのゲームですか?
私は、Airもガンパレも、読者と作品の距離を、「選択(*3)」によってコントロールしようとする意図の強く感じられる作品であると感じました。だからこそ、比較しようと思いました。逆に言えば、その意図のあまり強くないADV/ノベル系のゲームであれば、ガンパレと比較する意味は薄いでしょう。
私が論じようとしたのは、Airが、物語をよりよく見せる(演出する)ために、どのように「ゲーム」というものを利用したか、です。物語から切り離したところでのゲーム性(*4)ではありません。
_役割
AirにおいてPLが行なっていることは、「選択」のほかに「観察」があります。そして、Airという作品は、PLが観察者でもあることに依存していると思います。実際に行なわれているのは、選択者から観察者への推移です。
もっと端的に言うのなら、AirにおけるPLの位置付けは「読者」です。読者は「絵」や「音楽」や「文章」や「効果音」や、果ては「選択肢」を読んで(*5)います。その読みによって、読者が何を思うか、何を感じるかを計算した上で、Airではこれらが配置されています。
そこでは、PCやその他登場人物達による物語が展開されていきます。と同時に、読むことにより発生するPLの物語も展開されていきます。そして、Airという物語は、そこにPLの物語があることを強く想定した上で、綴られています。(*6)
_PL not equal PC
前段で考察したAirの演出の前提には「PL は選択肢を通じて PC と関わりを持つものである」という思考があると思います。「PL = PC」でなく、「PL is close to PC」――両者は本来別であるが、ただそれを混同しやすいのだ、という捉え方。
それを、「PL = PC」という図式を利用している(PLが想定している、その図式をブチ壊そうとする)、とも呼ぶことも可能だとは思います。ただ、それはちょっと遠回りな言い方かな、と思うのです。
ところで、PLとPCが分かれているゲームのわかりやすい例は、TRPGになっちゃうんですよね。「熱血専用!」「天羅万象」「IT CAME FROM THE LATE LATE LATE SHOW(*7)」あたりなんですけど。
いわゆるノベルゲーから例を出すと、街[チュンソフト,1999,SS/PS]かな。複数のPCを扱うPLは、明らかに(PCに没入するのではなく)PLとしてゲームをすることを要求されます――というのは、あくまで私の意見ですが。
(*1)こういうのを、一般に「言い換え」とか「すりかえ」とか言う。
(*2)何点かの注意。あまりにトンデモなことを言う時には逆効果。当然ながら演出として自信なさげに言うという選択肢もある。裏付けのない自信には、誤魔化し通す努力と覚悟が必要。攻撃されることは予期すべき。そもこの注意自体、わりとハッタリ。
(*3)ここでのこの語は、ノベルゲーム的なN択に限らない。格闘ゲームやシューティングゲームにおける入力操作、ビートマニアにおける打鍵、RPGのフィールドにおける移動など、ありとあらゆる操作のことを意味する。
(*4)毎度おなじみだが、このような曖昧な言葉を、ゲームの議論をするときに持ち出すのはまったくもって好ましくない。
(*5)当然ながら、この一連の文脈では、「読む」という言葉――あるいはその活用形――は本来の意味から明らかに拡大された意味で用いられている。
(*6)そんな眉唾な、と思うのなら、はてしない物語[ミヒャエル・エンデ]を読んでください。岩波書店版の、あかがねの絹の表紙のやつで。そこで起こることを馬鹿にせず、素直に信じて読むことができたならば、なによりよくわかって貰えると思います。
(*7)邦題: 深夜三流俗悪映画の襲来!!
ともかく何と呼ぶかに必要に応じて注釈するなりポインタ示すなりすれば、大して差はないと思うのだが、どれかを選べと言われたらどうするか。
やはり合理的な価値基準でこれを比べねばなるまい。
ということで、早速比較してみよう。
言葉の意味がわからないのがよくないということで議論しているのだから、言葉の意味がわからないときにわかることができるかで調べるのがよろしかろう。
しかし今の世の中には便利なものがある。それはインターネットの検索エンジンだ。ということで、今回は非常に科学的に、googleで適当に調べてみたッ!googleに問題の言葉を入れ、[I'm Feeling Lucky]をざっくり叩いてみたのである。
まずは昼メロ。ZDNetのとあるゲームの紹介記事だ。一応なんだか「昼メロみたいな面白さ」とかが書いてあって、少しは意味がわかるかもしれない。なかなかやるな、ZDNet。
次にソープオペラ。その名も「ソープオペラ同好会」というページ。親切にも左上に「ソープオペラってなに?」というリンクがあるではないか! 当然ながら、説明の中身もバッチリだった。流石は同好しているだけのことはある。
それではいよいよ花王愛の劇場である。出てきたのは、TBSのオフィシャルページ。この調査の時点では、「ママまっしぐら!2」がやっているらしい。なんとみどころやあらすじもわかる親切設計だ。しかしながら、このページには重大な欠点があった! 我々が本当に知りたい、「花王愛の劇場という比喩の意味するところ」は、残念なことにもともと花王愛の劇場を知っていないとわからない仕組みになっているのだ! これは片手落ちとしか言いようがない。TBSには即刻反省していただき、もっとわかりやすいページを目指して頂かねばなるまい。
以上が、私の手による詳細な調査報告書である。
また〜りと反応。
_「街」の追随者がいないのは、凄過ぎるからだと思います。最初から完成形出されてしまったせいで、誰も追随する気になれないんじゃないかと。プログラム技術的には、追随すべき要素はほとんどないし。で、成功しなかったのは実写ゲーに当たりなしという業界に流れる呪いのせいです、たぶん。
_はてしない物語は、できれば今もう一度読んで欲しいです。でもって、エンデの極悪なまでの計算高さに憤慨しつつ感動して頂きたい。というか、ゲームを作る/論じる人間なら必読の一冊だと思います。みんながみんなあんなもん作れとは言わないけれど、心には留めておいて欲しいので。
とりあえずは雪駄さんよりの指摘から話を始める。
最近の中田さんのKtFへの言はなんかずれてるんじゃないかという気がする今日このごろ。
>KtFは「考えるな」と促すとか。KtF自体からなんらかの指向とかアジを読み取っちゃってるように読める文章はどうかと。
まったくもって仰る通り(--; P17nに引きずられてついついそんな物言いになってしまっていたと思う。
敢えて言い換えるなら、『「考えるな」と促しもしない』となるだろうけど、既に何言っても無駄か。ともかく、読者貴兄に謝罪しよう。あの思考はかなーり間違いでした、はい、と。
_自省は棚に上げるとするとして、もう少しだけ思考をやり直す。
では、結局のところKtFとはなんなのか。
なにものでもない、KtFが自ら宣言する通りのものだと思う。あれこれ紆余曲折を挟みながらもKtFが結局提示するものは、まさしく「一つの"恋愛"についての物語」(*1)でしかないからだ。
それはまさしく恋愛の物語だ。問題は、これが恋愛物語ではなくて、恋愛についての物語だってこと。ともかくも恋愛というものを(あるいは、擬似恋愛装置であるところのギャルゲー・エロゲーを)語るもの。結構綺麗に答えを出してはいるのだけど、結局それは理屈じゃない。ただ、「こういうものだろ」って提示するだけ。主張も、主義も、示さない。ただあるがままを、見せるだけ。
もちろんそれを紐解いてもあれこれぐちゃぐちゃ考えても構わないし、読者がそれを考えてしまうように作っているってのも事実だ。だけど、結局のところ、そのぐちゃぐちゃな混乱にむけて、恋愛というものの一つの結論を示す、というところにKtFってものの魅力がある。だから僕は、もう論じるなら技術論に徹するしかないんじゃないか、と思うのだ。
うん。今度はそれなりの自信作だ。そうすると、今度はP17nとの対比が問題になるのだけど、それは後日。
_もう一つ。
近ごろの一連の議論がうっちーさんへ若干の飛び火。というか僕が飛ばしたみたいなもんだけど。
僕は、ノベルゲームはN択総当り作業でいいやと割り切ってます。なんですけど、多分Whiteさんが反応すると思われるので、私は逃げます(爆)。
だなんて無責任なことを言われてみた。いや、巻き込んだのは僕なんだから、お互いさまかと思うけど。
とはいえ、僕の言いたいことはこれまで何度も繰り返し言ってきたし、ここ数日でもやっぱり繰り返した。
N択総当りでしかない、ってのは問題じゃない。じゃあ、そのN択総当りをどう使うのか、ってことのほうが大事だ。N択総当りを起こさせる、選択肢だってゲームの中に出てくる要素だ。文章や、絵や、音楽や、その他もろもろと同様に。なのに、無思慮にN択総当りを入れ込むのは、あまりに作りが雑だろう。それだったら、そんなのないほうがいい。決して「このへんで適当に入れておくか〜」で入れるべきものじゃない。
逆に言えば、そこに選択肢があるということに、一抹でも意味があるのなら、どんな使い方でもいいと思う。ただ単に間が取りたいだけでも、立派な理由だ。あんまり多用されて、そればっかりだと食傷気味になるだろうけど。
それとも、せっかく入れるのだったら、面白い方がいいじゃない、なんてのは贅沢なんだろうか。残念ながら、僕は作るほうの専門じゃないからわからないけど。まあ、大変だとは思う。
ともかく、それが僕の考え。よければ、みんなもちょっとだけ考えてみてほしい。少しは気付くこと、あるかもしれない。
(*1)KtFのパッケージより引用。
シックス・ボルト[神野オキナ/電撃文庫/ISBN4-8402-1993-1]、読了。これなら最終章の頭で「それから五年」とかやってくれたほうがマシです。これ尺足りないだろと思っていたら、予想よりずっと足りていませんでした。前半それなりだっただけに、尻切れトンボな雰囲気が強烈に。
「ノベルゲーム」という死ぬほど曖昧な語の云々に、次のGameDeepの予稿も兼ねて突っ込むかね、とか思ったがパス。だいいちこの場合の問題は、お互いに「相手の発言の文脈読もうぜー」で済むと言えば済む。定義の曖昧さに関わる問題はゲームに限らず起こるものだけど、ゲーム論議では特に曖昧だよなぁ。だから面倒なんだけど。
むしろ春ごろに出すProgressiveの短編集用のプロット出しが間に合いそうにないのでそっちに重点中。そろそろ寝ないと明日の仕事がアレだけど。
先日のGaleon-Googleツールバー日本語文字化け回避ブリッジに、utf8での文字化け問題が出たので改良。Jcode.pmがutf8をeucと判別してしまうことによるエラー。
仕方がないので、Galeonから送るクエリの中に'incode=utf8'とか入れてもらうことにして、スクリプトの方を改造しました(改造済スクリプト)。適当なところに設置した上で、Galeonのブックマーク設定のところで、[ http://localhost/galeon/?lr-lang_ja&hl=jp&q=%s ]みたいな感じで設定して下さい。あ、URLはスクリプト設置先な。
ところでバグ報告していただいた先輩に「inetdで動かすのはどうだろう」というアイデアを頂戴。HTTPのリクエストを受け付けてやらんといけませんが、確かにそっちの方が場合によってはお手軽かも。
それでも考えれば後から後から沸いてくるのは事実だし、ついでにいろいろ言ってみよっと。
_ところでゲーム性原理主義者は、SF者に似ていると思います。「これは(ゲーム/SF)じゃない」とか。ゲーム性原理主義者の方が偏狭だと思うけど。
起きたら昼でした。豪快に朝寝坊。とりあえず急いで会社に連絡して、着替えて出達。
今週のサンデーのリベロ革命!のカラーの使い方が贅沢でした。そりゃあもうこの上なく。
そもそも、コスティキャン論はゲームを作るとき、その思考過程において分析に活用するためのものだと思います。
あくまでもデザイン論であって、プレイヤーのための話ではない。これさえ守っていれば面白くなるというようなものでもない。
もっとぶっちゃけた話、「俺様の思いついたこのアイデアは絶対面白いゲームに違いない!」という幻想をブチ壊しにして、見るべきエッセンスを抽出するためのもの、なんじゃないでしょうか。
この一週間で「動物化するポストモダン」「オタク学入門」と読了。現在「定本物語消費論」捜索中。
_オタク学入門は、要するに岡田斗司夫が面白いのね、というのが良く分かる本でした。なんでも突き抜ければ道になるから突き抜けろと、大変無体なことを仰る本。一理はあるけど、みんながみんなそんなことしてたらすごいことになりますね、はい。
_動物化するポストモダンは、要するに「データベース消費」という発想のプレゼン本。ががが、肝心なところの説明が下手すぎです。ごうさんの説明が非常にエレガントにそのへん語っておられますが。ちなみに我々が語ったのがこのログとか。あるいはそのサマリー的な文章がうっちーさんの近況報告1/20付けとかに。
ともかく、東氏提唱するところのデータベース・モデルによる分析はかなりうまく機能します。問題は(微妙なすり替えを交えれば)それがどこまでも遡って適用可能なところ。試しに工具を作ってみたら、切れ味よすぎていらんところまで分解してしまった、というのが動物化するポストモダンの真相ってところではないかと思います。
あとは、新しい伝家の宝刀をどう使うか、でしょう。とはいえ、審美眼的なものを養う以外にないのですよね。
かくてオタクはますますオタク化する必要に迫られるのですが、「オタクの定義だけで3時間もしゃべってしまう(*1)」ような輩が、門外漢に扱いやすい理論化をするはずがなかったりするのです。ダメじゃん。
(*1)オタク学入門より引用。但し文面正確な保証はせず。
_物語消費について。DB消費モデルで、切り分けの前提になるデータベースに「物語の類形」を突っ込んだら、従来の物語まで全部DB消費で切りとれてしまいます(*1)(「切れ味よすぎる」ってのは、そのへんへの言及のつもりです)
ですから、DB消費論の重要なところは、旧来のモデルの拡張に今起こっていることを乗せるための枠組を提供した点にあるのだと思います。で、あとは試しに使ってみました、という感じ。その使い方が下手なんだけど。
_「動物化」について。このへんの話から、今後予期される社会構造の変化(国家主体ツリーモデルから、個人主体ネットワークモデルへ)とか、GNU/FSF的な修正アナーキズムとか、そのへんを絡めていくと話としては面白いかもとか思ったりします。――ってのは単に私自身の趣味ですか。
_データベースについて。同時にJAGARLさんへのツッコミにもなるのですが、まず誤読を一点指摘。C.Fさんもそういう意図のことを書かれてますが、物理的に実体化したデータベース(*2)は、東氏の論のいうデータベースではないと思います。
東氏言うところのDBとは、誰がまとめるでもなく、作品消費集団の行動(反応)から自動的に見出される、抽象的な概念だと思われます。以下(めんどくさいので)これを概念DBと呼びます。
で、実体化DBとは、概念DBに対するDB消費の結果としての産物にあたるのでしょう。もちろん、そうして形成された実体化DBが、極端なまでのDB化の流れのベースになった
というごうさんの指摘にはまったくもって同意するところでありますが。
_ところで最終章のYU-NO話について。門外漢が見たら、ノベルタイプのゲーム(*3)の最先端に位置する作品ってのは、YU-NO、Prismaticallization、街、あたりになるのではないでしょうか。
というか、最終章に限らず全般に、東氏の概念DBへの魂の接続の弱さは感じられます。取り上げ方、切り方が違うように見えるのとかは、そのへんから来るのでしょう。とは言え、本の目的(こういうことを議論するための風通しをよくする)のためには、それが正解なんじゃないかと。
ともかくも、反応してみる。DB消費論の泡沫が入り込んでいたり、あるいは自分語りが入っていたりもするし、さらにはこれを書く前に同居人と散々話し込んでから書いていたりもするのだが。
_ガンパレとワーネバを決定的に隔てているのは「不如意性」――幻獣の存在に集約される。ワーネバにおいては、のほほんと暮らそうと思えば暮らせてしまうが、ガンパレではそうはいかない。のほほんと暮らすためにさえ、最低限幻獣を駆逐する必要に迫られる。そうでなければ、のほほんとした日常はクラスメイトの死で壊れうる。
ガンパレはオーソドックスなSFでも、キャラ萌え作品でも、恋愛AVGでも、タクティカルSLGでもない。ガンパレは同時にそれら全てであるように見えるが、そのいずれでもない。ガンパレにはただ部品と、それを取り巻くゲームがある。ゲームを進める、部品が見える、部品を見て思い込む、ゲームを進める。以下ひたすらに繰り返す。
似たようなゲームにウィザードリィがあるし、あるいはRogue系のRPGがある。
ただ、WizやRogue系のRPGに比べ、ガンパレはテキスト的な部品の配置が巧妙で――ずっと思わせぶりだ。そしてその思わせぶり度合いが、ガンパレをSFやキャラ萌えや恋愛AVGやタクティカルSLGに見せる。しかしながらそれを分解していくと残るのは、テキストとミニゲームの集合体――たとえばFinal Fantasyの近作と同様のものが、ただ残る。
しかし、FFとガンパレの間には決定的な差がある。FFは物語を語ろうとするが、ガンパレはなにもしようとしない。ただ、プレイヤーの心の赴くままに、任せる。
ガンパレは正しくデータベース的だが、ゆえに最もデータベース的でなくなった。そういうシロモノであると思う。
マルチレイヤ表現は、あくまでマルチレイヤ表現である。たとえ「ゲーム」という名前で売られようとも、ゲームであることに拘る必要など全くない。まず最初に思うべきことは、「ゲーム (*1)」であろうがなかろうが面白いものは面白いということだ。
さて、マルチレイヤ表現において、あることを表現するのには様々な選択肢が考えられる。音を、絵を、文章を、動画を、様々に組み合わせて使うことができるからだ。そして、組み合わせることの可能な要素のひとつにゲーム要素もある。
それは、選択されるべき手段の一つに過ぎない。マルチレイヤ表現中において、ゲーム要素がいったいどんな効果を発生させるか、ということについては数多の論を読んで(あるいは考えて)頂くことにして、ここでは省く。しかしながら、ゲーム要素が他の媒体より安価に(あるいは効果的に)あることを伝える手段になりうるのは事実である。無論、主は物語であり、従はゲーム要素である。とはいえ、四六時中マルチレイヤ表現のことばかり考えてないと無理な選択だろうし、ゲームのことを良く知らないとやっぱり無理だ。
_ぶっちゃけた話、私は「エロゲーのシナリオライター」を信用できないと思っている。彼が、自分自身がマルチレイヤ表現の作者であると認識しているなら、自分の仕事が決して「シナリオ執筆」に留まらないことを知っているはずだからである。彼はむしろ「ゲームデザイナー」や「ディレクター」と名乗るべきであって、にも関わらず自らを「シナリオライター」と認識するのは、「シナリオ」で想像するイメージがあまりに巨大であるか、さもなくばそこのところに無自覚的であるからではないかと、思う。無論、この文脈での「シナリオライター」という語が示すところが、他の世界のそれより大きいということは理解しているつもりである。その上で、自らを無自覚にシナリオライターであると認識しているものは、自らの仕事に対する自覚が足りているのかと問うているつもりである。当然ながら、自覚した上で自らシナリオライターと名乗るのであれば、私のかような偏見はまったくもって偏見そのものであると認めざるを得ない。たとえば、一シナリオライターとして、問答無用で扇情的なものを書くような人に対しては、私はもう平謝りする以外の弁明の方法を持つまい。
(*1)この部分、「SF」「小説」「漫画」「映画」その他もろもろに置換可能
自作の検索用ライブラリを修正。Perl5の % 演算子(剰余)の計算桁数に限界があるせいで、なにげに正常に動いてなかったのと、「ー」とかの非漢字/非カナ/非かな/でも日本語文字な文字の扱いを修正。
ところで、なにげに「街」は自分ではやってない(他人がやってたのを適当に観てた)のであれこれ言うのも微妙ですが、ともかく第一義には「ゲーム」であることが先立って作られたもんじゃないかと思います。「メモも取らずにゲームができるか!」――とかく、中村光一の作るゲームにはそういう匂いがつきまとうというか。
で、たぶん、失敗しろ、と考えていると思うのです。プレイヤーが予想して正しく選択するなんて、どうでもいい。的中率がどうであれ、少しは失敗するはずだ。むしろ失敗で見せるものが面白ければ、積極的に失敗してくれる。そうやって、失敗してバッドエンド見ることも含めて、「街」というゲーム。
重要なのは画面の向こう側の物語ではなく、画面のこちら側の物語なのであって、そういう意味でまさしく「ゲーム」を作ろうとして、「ゲーム」を作ったのでしょう。
_失敗して、同じところをやり直せる――これは、ほぼ(媒体としての)ゲームにしかない特徴です。たとえばノベルゲームでは、わざわざクソゲーになるように置いて、不条理というか不快感というか思い通りにならない感を出す、なんて演出だって可能です。あんまりやりすぎると客に見捨てられますが。
ノベルゲームというのは、少なくともサウンドノベルシリーズというのは、「的確に正解を選んでいくゲーム」ではなく、むしろ「失敗も含めながら、反復される表現」なんだと思います。ゲームは、失敗の後の反復を成立させるために、利用されている。
_結局のところ、ゲームを考えるときに、失敗して悔しいと思ったことを無視するのはよくないと、それが言いたいだけなのですが。
C.Fさんから「物語もDB的に作られる」という私の発言に対してツッコミが。まったくもって全面的に同意したい内容なのですが、「枠組み要素」についてはもうちょっと考えてみたいところ。
あ、「実体DB」は今の議論においては、わりと無視してもいい存在かも、とは言っておきます。概念DBとDB消費の系においては、実体DBの存在はDB消費の一形態に過ぎないと思うので。
「枠組み要素」については宿題ってことにさせてください。もしなんならIRCででも。
「動物化するポストモダン」とか「網状言論F」とかの話は#網状言論F サマリーの方でもやってます。俺様自作なWikiEngineで運営してるので、わかる人は適当に使ってやって下さい。
ちなみに現在QuickIRC使ってWebベースからでも(Javaで)IRC入れるようにしようかとか画策中だったり。
――というひどく曖昧な語が私は嫌いであるし、議論に使うこともよろしくないと思っている。
もちろんきちんと定義をしてから議論に導入するならその限りではない。はずなのだが、前提なしでこの語を聞いた時に思い浮かべる概念は、人によってあまりに多岐にわたる。従って、よほど厳密に定義をした上で、しつっこいほど繰り返しがなりたてることなしに議論に持ち込みたい言葉ではない。つまるところ、議論に持ち込みたくはない。
しかしながら、そう呼ばれるなにかがあるのは確かであるし、それを指し示す語として、これ以上に適任な語も存在しない。したがって、やっぱり使ってしまいたくなる。
_C.Fさんの指摘にあるように、私は敢えて「ゲーム性」という言葉を説明するときには、「如意性と不如意性のせめぎあい」という。先日とか、あるいはGameDeepなIRCとかでも何度か使ったと思う。
コスティキャン論や、クロフォード論や、その他数多のゲーム論者たちが「ゲームとはなんぞや」というのを散々議論しているのはわかる人にはわかって頂けるだろうが、それら数多の結論をさしおいても、かなり自信のある説明である。ところが、これを理解するのには、コンピュータゲームのことはすっぱり忘れた方がよい、かもしれない。C.F氏はレースゲームによってこれを解釈したようだが、端的にはスポーツのことを思い描いた方がよい。
_私が直接に実感するのは、自転車でだ。一応自転車好きであり、それなりな自転車に乗っていて、ママチャリの倍ぐらいの速度を出す。スポーツとしての自転車としては、最低限のレベルだが、それでもともかく実感がある。
もっと速くするにはどうすればいいのか。やれることはいろいろある。シートの位置、ペダルの踏み方、ギアの使い方、など。こうやれば速くなりそうだが筋力が足りない、というようなケースにも遭遇する。やってみて、ああ、これは長続きしないな、と実感するわけだ。そこで仕方なく、別の手段を採る。
もちろんそこで筋力を付けるという手もある。というか、頻繁に乗っていると筋力の方が高まってきて、前には無理だったことができるようになったりもする。不幸にも昨年末の病気以来あまり乗っていないが、わずか数ヶ月の間でも、実感できるぐらいのあれこれはあった。
_さて、この件を巡る議論で重要なのは、如意と不如意を発生させるものはなんでもいいということだ。
たとえば自分の肉体の限界でもいいし、対戦相手の行動でもいい。あるいはまったくの偶然が相手でもよかろう。ともかく、不如意を発生させる何かがあり、それを如意に抑え込んでいくところに、ゲームのゲームたる構造があるのではないか、と思うのだ。
_最後に、重要な指摘をしておこう。ゲーム性、すなわち面白さ、ではない。数式風に書けば「ゲーム性≠面白さ」。ゲーム性なぞ所詮味の一つに過ぎない。辛いのが好きな人もいれば嫌いな人もいる。なかには絶妙な甘辛さというのもあるが、ケーキにタバスコをかけるのは基本的に馬鹿だ(*1)。
(*1)もちろん、その馬鹿さ加減が芸術だと主張することはできる。そして芸術とは、多分に主張の産物であろう。
なんにせよ、単に論じるときの叩き台としてでも、あの本の価値はあると思います。いままでもやもやしてきたあれこれを、(正しいか間違ってるかは置いといて)あれをベースに論じられるわけですから。
あるモデルが演繹的に導出されたのなら、確かに「何かのモデルを提唱している人間が、そのモデルの適用範囲を知らない」
ということはありえないでしょう。
しかし、「動物化するポストモダン」で提示されるモデルは、おそらく帰納的に導出されたものです。そして、証明はなされていません。あの本で東氏が行なっていることは、確立したモデルの提示ではなく、未検証のモデルの提唱なのでしょう。
あのモデルを、無責任に弁護する気はありません。たとえば「痕への適用例は乱暴だろう」とかは議論してます。そういう洗い出し、あるいは検証は、読者やこれ以降の東氏自身が負うべき役目だと思います。まあ、まるきり望みのない無茶な提唱だったら、誰もそんなことしませんし、本当に徒労に終わるならいずれ誰もが忘れていくでしょう。
_ぶっちゃけた話、「思いついたからとりあえず言ってみよー!」以上の意味があの本にあったとは思ってません。ですが、ともかく声があがったことが大事、だと思います。
一見徒労でも、考えて、考えて、考え抜いたその先に一片の真実を見出す可能性もある。研究って、そもそもそういうものだと思うのですけど?
_たとえば、ゲームを取り込んだ物語表現が、「発病→絶望→なぐさめ→希望→でも死ぬ」をやっちゃいけないわけではないです。むしろやると面白いことになります。
実際にやった例がたとえばAir。半端にゲームなぶん、「でも死ぬ」の衝撃が凄いことになる。しかしながら、そこの衝撃が凄いってことはこりゃ物語表現としては大成功なわけで、別に「ゲームっぷりが足りない!」とか主張されても馬耳東風で「だって物語表現だも〜ん」と言ってしまえばそれまで。
あるいはゲームっぷり全開の「街」に「物語っぷりが足りんよチミぃ」とか言っても、「だってオイラ、ゲームだもん」と開き直られて終了かと思います。だからゲーム評論ってのは難しいんですが。
_極端な話。小説というのは読者が最後まで文章を読んでくれるという読者の寛大さに依存しています。映画というのは観客が最後まで映画を観てくれるという観客の寛大さに依存しています。ゲームも同じことです。媒体がなんであれ、受け手にはそれなりに受け手としての責任がある。作品との関係において最低限必要な寛大さを示せないなら、それは明らかに望まれる客ではないということなので帰るべきでしょう。映画館に言って暗いから本が読めないと文句をいうのはナンセンスです(*1)。だからといって送り手が責任放棄していいわけではなく、客の寛大さに泥を塗らないだけの努力(あるいは自制)が要求されるわけですが(*2)。
_ところでハッピー/バッドという考え方が既にゲーム的なものに拘泥された結果のものであることは理解していただけるでしょうか? 単に物語を考えるなら、分岐の先のそれぞれの終わりは単に並列な(等価値な)物語の終わりであって、そこにいいも悪いもありゃしない、はず。なのにそこにハッピー/バッドを見出すのは、プレイヤーがゲーム的構造を見出し、それに捉われているからだ、という理屈。や、無茶苦茶なもの言いなのはわかってますが、そういう側面も確かにあると思うのですよー。で、作る方も読む方も、暗黙にその構造を認めていると。
逆に、そこを無視した物語表現を作ったっていいわけです。どの結末がいい/悪いとかほとんど無視して「分岐している世界そのもの」を見せるようなゲーム。話が多様に分岐している、その分岐木全体を見せる、そんなもの。さらにそこを突破した先にYU-NOなんかがあったりするわけですが、そりゃあ誰もついていけないよなぁ。アイデア飛躍しすぎだっつの。