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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
それよりも、机上の狭さが問題か。液晶ディスプレイの早期導入が必要な模様。
ともかく、そんなふうに遊んだりしながらあれこれ考える。
会社にまだ勢いがあるから巡って来るチャンス。見通しがいいからわかる、自分を置くべき位置。どう解けばいいかもよくわからない難題。自分が名乗りを上げていいのかという躊躇。
自分は攻めるべき場所にいるはずだ。攻めても構わない場所にいるはずだ。なりゆきでかもしれないけれど、選んだ以上はそれに相応しい成長をしようと思っているはずだ。
――まだ定まってもいないきっかけで、それだけのことを考え出す。仕事人間になってしまうのでなかろうか、という危惧。
やっぱり動的生成がいいかなぁとか、軟弱なことも考える。トレードオフの争点は、
技術レイヤが増えれば、トラブルの種も増えるので。デバッグとか、よそで立ち上げとかのときに面倒。だったらいっそ、CGIレイヤだけで実現してしまった方がよいかもしれない。
日記突っ込みCGIが404で動かないっすよ〜。
HHK Lite2 って HHK Lite に比べて、キータッチ{重く|軽く}なってます?
場合によっては買おうかと思ってみたりして。でもぐりぐりがないので
SS2K英語版に逃げるかも。
えと、突っ込みの方は多分修正しました。あとで過去分まとめて直さんといけないですけど。
で、HHK Lite2の感触について。自分的にはLite(無印)に比べ、若干軽くなったかな、という印象です。ただ、悪くはなってないと思います。
むしろ、カーソルキーの存在が気になりますね。誤って押すこととかはないのですけど、動かした手が時々当たってしまうのにまだ慣れてないです。
サッカー、ワールドユース、日本-オーストラリア戦。
この年代の試合をまともに見るのは初めてなのだけれど、なるほど、面白いサッカーをしてくれそうだ。
試合は、あまり笛を吹かないレフェリーとの相性の悪さが出てくる。特にペナルティエリアで笛を吹かないタイプらしく、デフィエンスがかなりゴツゴツと押してくる。動いて崩しはするものの、決定打を出すことができないで前半終了。
後半、よりによって主将の羽田のオウンゴールで先制される。こうなると、萎縮を取り戻すのが難しい。不運の重なりを打破できないまま、もう一点決められて勝負アリ。
展開しているサッカー自体は面白いから、あとは勝負強さみたいなものが出てくればいいと思う。そういう意味で、こういう敗戦はいい経験になるかもしれない。
何故かデスクトップ環境がGNOME + sawfishから退化。学生時代に使いなれたctwmへ。比べるのも可哀想なぐらい軽くなる。KDEも入れてはみたけれど、ctwmなら既に手に馴染む設定ファイルが構築済みである。
色ぐらいはあれこれ変えて、環境確定。あとは必要に応じて必要なshやらtcl/tkやらperl/tkやらでTipアプリを書けばよろしい。
……なんかものすごく時代に逆行している気がするが、気にするまい。
CONTINUE vol.1(太田出版)。濃い。自分がメジャーになろうと言う意識のなさが素晴らしい。意識して極北を突っ走ろうという心意気、やたらひたすらおバカに徹した記事展開。なのにときどき出てくる良質記事。良いです。こういう本を待っていた。今後に期待、ちうことで己が(コンピュータ)ゲーマーだと自負する人間は買え。義務として。
しかしLarry Wallもほざいてのたまっているように、世の中はそもそも混沌としてどうしようもないものなので、むしろどうしようもなく多様なことこそが正しいのかもしれません。
そのどうしようもなく多様な系において――「これは正しい」「それは正しくない」という言い方は正しくありません。それらは多様性を否定してしています。というこの言及自体が矛盾している? その通りですが、矛盾しているから正しくないというのもまた正しくありません。
世の中なべて正しくあり、正しくなくもあり。だったら一番都合良くやっていくのが賢いというものです。かようなところから我が座右の銘「万事適当」が導き出されたのかと言うと、それもまた正しくあり正しなくもあり。結局何が言いたいのかと言うと、なにもいいたくないのかもしれず、あるいはそれによって何かをいってるのかもしれず。以上、未完。
たとえば道端で目に止まったお地蔵さまの由来を、電子の泡の中から取り出してみるなんて、ちょっと素敵だと思わないか?
判形はオライリーのリファレンス本と同じだが、こちらの方がずっと見やすく検索しやすい(と思う)。情報の取捨選択もしっかりしている(オライリー本はそのへんサッパリだし(--;)。しかもなにげにawkとsedのリファレンスもくっついていたりするので、非常に重宝する。これなしでは生きていけないと思うぐらい便利。
へれへれと、YaPW?のコーディングを夕方までやった後、お出かけ。北上し、小岩界隈をかすめるようにして千葉県に入る。そこからそのまま南下して、行徳あたりを回って帰還。河川敷でオフロード走行なんかの感触も確かめたりしながら。だいたい2時間ぐらい。というか、まともな自転車に乗るのが久しぶりなので、それだけで十分楽しかったり。
ついでに千葉県の道の悪さをいつものように痛感。いや、茨城とかと比べるのが悪いって話もあるけど(--;
起きたのが遅くて、観たのは後半ぐらいから。ただ、ツボにはまると強いチームである、というのを見せつけられた。相手が流していた部分というのもあるだろうが、きちんとラッシュして攻めるチームである。今のA代表によく感じる、「それじゃ点取れるわけねーだろッ」というあの感じはない。
ゴール前の密集防御に対して、後ろからどんどん入っていって崩す、という形がある。一見強引な突破が、ビッグチャンスにつながると言う意識もある。A代表にフィットしていくにはまだまだ厚い壁があるだろうが、順調に伸びていってくれることを望みたい。
粉砕されていた過去日記(今月分)を修復。会社と家の両方に書き環境があるのが幸い。ちなみに原因は、家側スクリプト改造時のファイル名のクォートし忘れ。
同種の感情は、私の中にもあるかもしれません。ただ私は、そうして得たものを歌い上げたいとも思うゆえ、純全たる少女に(あるいは少年に)なりたいとは思わないのですけれど。
あるいは、仰られているみたいなかたちで、なにごともなく愛し愛されたいという気持ちもあります。と同時に、それにはただシンプルになればいい、ぼくは誰だって好きになれるし誰にだって好きになってもらえると、そういう確信から世界を始めれば届くだろうという確信めいたものも抱いています。少なくともそういう姿勢からしか、届かない形なんじゃないかとも、思います。
もっとも、世界を巡る音楽はそのように綺麗なものばかりでなく、汚らしいがゆえにひとかけの美しさを放つようなものにも満ちているので――それらの音を愛してやまない身としては、子供でいることも、大人になることも満足できないのです。
会社マシンでXFCEをお試し導入。
なるほど、統合デスクトップ環境っぽいものとしては、それなりに軽くていい感じかもしれない。
ちなみに日本語化は、一回起動した後にできる$HOME/.xfce/xfce3rc のフォント設定のところに、日本語フォントの指定を追加すればよいっぽい。あるいは、/etc/X11/xfce/xfce3rc.jaをコピーしてきてもよいか。
もっとも、あれこれ手を入れればそれなりに幸せになれる環境かもねーとかは思いつつも、結局は手慣れた(=設定練り込みの済んでいる)ctwmに逆戻り、でありましたとさ。
一日経って落ち着いたので書くですが、BD-1が早速壊れてみました(T T)。
駅からの帰り道。変速器回りでちょっとジャムった拍子にどこぞかがタイヤに巻き込まれて、とりあえず走行不能状態に。幸い部屋の近くまでは来てたので、部屋に持ち込んで状況確認。
巻き込まれたのはチェーンガイドらしく見事にひしゃげ、巻き込まれてスポークも一本折れ。とりあえず変速器のネジを外してチェーンガイドを取り除き、折れたスポークを処置してなんとか乗れるように。通勤にちょろっと使うぐらいならこれでオッケイ、だけどチェーンガイドが外れて変速器の塩梅が変わってしまって、入らないギアがあったり。
ちうか、Jornada君の時といい、なにか買うと壊れるのではないかしらん、とか疑ってみたり。
ともあれ、週末に修理かのう。さめざめ。
仕事の合間に何故かXULチュートリアルなど読み。ソースのやたらな読みにくさを別とすれば、まあ面白そう。YaPW?が一段落ついたらいじってみようかしらん、なんて気分。
――なんか早々に「XMLベースである」ことに(に起因する読みにくさ)ブチ切れてる自分の姿が想像できたりもするけど。
仕事。やる気起きず。ぼちぼちと考えはするんだけど考えがちっともまとまらない。散漫な日、というか、一昨日あたりから頭がすっかり物書きさんモードになりつつある。プログラム脳はかなり減衰状態。結構日程ぎりぎりなんだけどなぁ。
オブジェクト指向言語とは、その実かなり自然言語的に近いアプローチを持ったものなのではないだろうかと思う。
多くの自然言語は、主体を明示し、その動作(述語)を明示し、必要に応じて目的語、形容語句などで修飾していく。対して、オブジェクト指向言語では、オブジェクト(=主体)のメソッド(=述語)を引数(=目的語等)と共に呼び出すことによって構文が成立する。
_こういう自然言語的な文の形成は、SQLとかにもかなり誓いものが見られるが、いかんせんSQLでは主格の明示が存在しない。見方を変えれば常に「そのとき使用しているデータベース」が主格となっている、と考えることもできるものの、そういう意図があって構成されているものではないように思う。
_一方、オブジェクト指向言語では主体が常に明らかである。メソッドが(主体なしで)独立して存在することはほとんどない。たとえばオブジェクト指向言語では、以下のような記述が用いられる。
sampleText.print();
_ならばこれを、以下のような記法に展開できないだろうか。
sampleText prints itself.
あるいは更に発展させて、
sampleText prints itself into STDOUT. sampleText is printed by STDOUT. STDOUT prints sampleText.
のような記法へと展開することはできないだろうか?
_ところでこのようなプログラム言語系(仮にNaturlangと呼ぼう)におけるオブジェクトの生成・定義には、おなじみのnewという文法を用いるのはあまりふさわしくない。
それはたとえば、
Naturlang make sampleText as text. sampleText is text and able to print itself.
のような記法こそがふさわしい。
_もちろん人間の広大な語彙空間すべてに適用可能なようにルールを構築するのは不可能だろう。しかし語彙空間を上手に絞ってやることができれば、かなりそれに近いものが構築できるのではないだろうか。
_――というようなことをつらつらと考えてみたり。きっと誰かがとっくに考えた概念なんだろうけどねー。つーか仕事しろっての>自分。
本当は自転車の修理&調整に、なんて思っていたのだけど、降ったりやんだり半端な天気。ちうことで、自宅にて自力で調整にチャレンジ。変速器と格闘中。ずいぶんコツは掴めてきたから、もう一歩、ってとこだと思う。これはこれでいろいろ発見があって楽しい休日かもしれない、とか思ってみたり。