Whiteのふりーとーく

2003年5月後半

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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)


5.17

@

朝方に電話が。で、「……今日の予定は消滅ですか?」って感じに。

仕方ないのでしばらく寝る。で、昼ごろになって活動を開始して、昨日の客先ミーティングの議事録を家から編集。こういうときにWikiは便利。

このまま家から本格的に仕事をしてしまおうか、とちらりと思ったりもしたが、むしろGD#の原稿を、と思い直す。豆満江開発機構が5/25に杜の奇跡3に参加するのでそれ合わせ。本当はGameDeep本誌の次のテーマが「ギャルゲー超進化論」なのでそれを出すべきだったという気もするが半月強で作れる本ではないので却下。

原稿は微妙に進み中。遅いけど、何かがなければ間に合うだろう。


5.21

@再度。

プロジェクトの都合(フロア別々だと効率悪いんだよ!)によって再度席を移動。その程度の効率すら気にしなければいけない事態だという点には敢えて目をつむるとして。

いちおうデスクトップを移動させるのが面倒なので「適当な空きノートPCはないか」とか質問してみたが、どれもこれも余計な保守作業とかとセットになっているとか言われて断念。しょうがないので台車にディスプレイとPC載せてえっちらおっちらと移動した。

新しい席はフロアの入り口付近。コーディングを始めると普段に輪をかけて変な人化してやたらあちこち歩き回る私としては、非常に周囲に迷惑がかかりそうな気がするが気にすまい。

@影響(1)

VMware上のWindowsから、ホストOSのsambaが見えなくてハマる。入れるいくつかのUNIX系マシンでsmbclientで叩いてみると、移動前に使っていた(固定)IPを見ているようだ。およそWINSだかなんだかの問題に違いない。ということで、そのへんの担当に話をしに行って、WINSサーバーから問題のエントリを削除してもらう。で、無事動作を確認。

@思索

昼飯を食いに出て、なぜだか去年の春あたりの旧字旧かなについて議論していたときに持ちだした、「表記・文体と思考について」とかの段を思いだす(季候のせいか?)。今回思ったのは「アセンブリ言語で書くのととニーモニックマシン語で書くのとでは、考えていることが変わるか?」だった。

会社に帰ってきて落ち着いてから少しだけ考えて、これはあまりよい話ではないかもしれない、ということに思い至る。アセンブリ言語にせよ、ニーモニックマシン語にせよ、或いはLispやPerlなどの高級な言語にせよ、我々がプログラミングをするときには、ほぼ必ず記述されるもの(=プログラム)の元型となる思考が存在している。思考の中に、メタレベルのプログラムがまず存在し、プログラミングと称する翻訳作業を経て、プログラムが記述される――というライフサイクルにおいては、アセンブリ言語やニーモニックマシン語が思考の道具となるかどうかが、疑わしい。

と、書いてから、あの点の議論が何故噛み合わなかったかについて不意に気付く。気付いたと言ってもそれは私の勝手な思い込みで、もちろん真実ではないのだろうが、新しい思索の種にはなる。

確かに私は「言語」を軽く見ているのかもしれない。私は、思考という作業における言語というものを、作業の過程に方向性を与える道具としてしか捉えていないのではないか。そうであるならば、たとえば「日本語で思考する」という言及は、私に取っては(厳密には)嘘だ。

或いは産まれついてから日本語しか感知したことがない存在であるならば、「日本語で思考する」ことができるのかもしれないが――私はそのような存在を知らない。聞くにはただの音が存在するし、見るには風景や人物などが邪魔であろう。

@盲目の彼方から

江洲さんの少しは考へませうへの返答。

_自然言語とコンピュ−タ言語の混同は、半ば意図して行なっています。もっとも、私は「プログラミング」という行為を「世界の認識とその記述」だと思っていますので、この混同は大した問題には思えません。――というのは、例によって「主観」というやつですか。まあ、おおむね妄想なので妄想につきあう気がない限りは放っておいて下さい。

_去年のアレについては「与太の垂れ流し」とか書こうとも思いましたが、それではあのような与太につきあっていただいた江洲さんに悪いか、と思ったので、無難に「議論」としておきました。それも気に入らない、というかあの件を起想させる一切を他人の目に触れるような何処にも書くな、と要求されているようですので、今後は書かないように努力することにします。

_で、最後の論点ですが――「お前(中田)は話をしている相手に対して誠実か?」と問われると、確かに私は苦い顔をせざるを得ません。過去に何度も自分で書きましたし、実際ログを見ればそのような有り様が散見されますが、私はよく自分の思考に夢中になってあれこれ見えなくなるときがありますから。ただ、そのようなときに「主観」とか「思考実験」とか連呼するのは私なりの誠実の結果のつもりなのですが、だからと言って私が根っこのところで他人のことなどなんとも思っていないのが変わるわけでもありませんし、議論が始まりそうなときに結論ではなく飛躍を求めてしばしば議論をブチ壊すような態度を私が取るのも事実なわけですから。

_そういった盲目状態は私だけに起こることではないだろう、とは言いたいですが、これは余談。


5.22

@分裂的

闇黒日記の2003年5月21日付への反応。

_なんだかチョムスキーっぽい、ですか。なるほど。ちょぼちょぼWebでかじった感じだと、普遍文法の話は唯脳論とも近いような印象です。情報工学と民族学との出会いとか脳を創る、脳を見るが面白かったので紹介しておきます。このあたりは、以前に図書館でみかけた「サイバネティクス学者たち―アメリカ戦後科学の出発」あたりで興味を持ったのもあるので、いくらかかじってみたいところではあるのですが。行きやすいよい図書館を見つけたいところかもしれません。

_私の誠実の出し方については、単に方法論の違いの問題だと考えています。

結論を出すための話の組み立てをしない点においては確かに私は不誠実でしょう。しかし、私の望むブレインストーミング的な対話においては、素直に発想を述べてみる(そしてその一部分でも有用かどうかの検討を行なう)ことはむしろ誠実な態度であると思います。

「そんな対話を相手に求めるのがそもそも不誠実だ」と仰られるなら首を垂れるしかありませんが、だからこそ私は「これは妄想だからその気がなければつきあうな」という意図をもって(それが読み取りやすいように)文章を記します。これは、私なりに誠実な態度だと思うのですが、如何でしょうか。

_ところで今回の私の文章について自分の事を誠實だと主張・宣傳してというのはさすがにダウトでしょう。私は自分がふざけたことを書いているという認識ぐらいしていますし、にもかかわらずそれを表出しているわけで、むしろ「こいつは本当に不誠実な奴だ」と思われても仕方ないとも思っていますよ? というわけでこんな与太に更につっこむ気があるならお好きにどうぞ。

@

とりあえず訂正。調べもせずに書いたので語の用法を間違えていたこと発覚。

「アセンブリ言語とマシン語」あるいは「ニーモニックとマシン語」と言わないとわけわからんちんですね(参考:ニーモニック)。「アセンブリ言語における命令記述=ニーモニック」だっての>俺

_ということで仕切り直し。

二つの言語の間で根底の考え方がまるで異なる場合(ex: COBOLとC)には、話は比較的簡単だと思います。

ここで「アセンブリ言語とニーモニック」もとい「アセンブリ言語とマシン語」を引き合いに出したのは、この二つが非常に似通っている(*1)点に着目したからです。で、「でもプログラム組むときプログラム言語そのもので考えたりしないだろー」という仮の答えに至った、というのが思索の段の前半部分でした。

_しかしその後よくよく考えたら、論理上は等価の記述が可能であっても、アセンブリ言語とマシン語には決定的な違いがあります。マシン語の記法上では単一の述語で表現されるものが、アセンブリ言語においては主語(?)+述語の形で記述されるという点です。ということは、アセンブリ言語とマシン語とでは、メタレベルの思考から異なってくる可能性が存外高いのかもしれません。

ということで、「表記・文体と思考について」の例としてはぜんぜんダメだということが判明しましたとさ。


(*1)というか、高度なマクロ機能を持たない原始的なアセンブリ言語でなら完全に1対1の関係になる、はず


5.25

@

江洲さんのまた責任逃れですかへの返答。

罵られても仕方ないことをしたという自覚はありますし、これ以上何を言っても言い訳にしかならないとも思いますが、ひとつだけ素直に言わせていただきます。

怒りにかられて若干の盲目状態に陥ってはいませんでしたか? たとえば、私は「特定の条件下における誠実な態度」についての記述は行いましたが、「誠実」という言葉の再定義は行っていません。また、私の文章に対するいくつかの断定についても、(大筋こそ否定する気はありませんが、)悪意の強すぎる解釈・思考・記述がされているように思えます。

@

アセンブリとマシン語で思考は変わるか話のまとめ。

_「マシン語は述語+目的語」。むしろ「すべて命令語」ってのが(よくよく考えればあたり前だけども)目から鱗だったり。

_「マシン語も慣れれば主語+述語。たしかに、ふつうにニーモニック割り当てすればそうなりますね。アドレス記述能力からスタイルは変化するだろう、という御指摘にも納得。


5.29

@

江洲さんの面倒のコメント部分の記述を読んで、加えていくばくかの思索をして。

_今の私は結局「私が世界をどう見ているか、どう見ることができるか」ということにしか興味がない――のでしょう。他にもいろいろと根があるのだと思います。ともかくそのような根があり、そして私は(私がどう意図していたにせよ)自分ではそれと気付かぬうちに、相手に対して不誠実な、責任逃れと思われても仕方がない発言をした。未熟な発言や行動があれば、糺弾される。これは至極当然のことだと思います。そして聞く耳もまた未熟であるから、解するまでに時間を要する(或いは解せないまま終わってしまったこともあったでしょう)。このまま糺弾され続けるのが嫌ならば、私が変わるか、変わらずに済む方法を探すかが必要なのだと思います。

とりあえず今は、ただ謝罪したいと思います。


5.31

@サッカー日韓戦

日本のチームの型のなさが、という感じの試合。後半はほんとうに攻められっぱなしで、1点で済んだのはむしろ幸運。

あまりにチームに核がなく、あまりにチーム内の役割がない。このチームに必要なのは戸田だか明神みたいな猟犬だと思うのだが、監督はそういうタイプを嫌っているらしいし。

現代表はある意味谷間(*1)の世代なのだから、ある程度は仕方ない――とは言い切れないんだよな。わざわざ前監督が作った型を壊してるわけだから。なのに代わりの型が見えてこない。下手するとこの先三年は暗黒時代だなあ、というような雰囲気が。

逆に長期的にはあまり不安がないはず(*2)なんだけど、今露呈しているA代表の継続性のなさを考えるとなんとも微妙な気分になるっつーか。


(*1)下の世代はフランス的な将来を見据えた代表チーム形成を行っているのに対し、現代表にはこれといった型がない。

(*2)下の世代(現五輪代表世代)は、ここ数年一貫したチーム作りをしてきている。まともに考えれば、数年後のA代表ではこの継続性を重視して、チームコンセプトをそのまま持ち上げるはず。


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