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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
江州さんの議論する氣持ちはありますか?への返答として。
_前半、私の態度についての御指摘について。
重ねて言われて時間を置いて、ようやく己の不徳に気付きました。弁明すべき点はほとんどありません。再度謝罪をとも思いましたが、手垢のついた謝罪より、少しはまともな論を展開する方がよいだろうと、判断します。
その前に一点だけ。「新かなの文章だつたら、もつと韻をふんだ文章を書くべきだ」
、「撥音が不明瞭な言葉を使ふべきではない」
などの意見がありましたら、一理はあるかと期待して話を聞くかと思います。印象論であると言われたなら、自分で理があるかを考えてみると思います。しかし、まったく理が感じられないうえ、更に意気高に主張されれば、確かに不快に思うでしょう。己の不徳を恥じております。
_表記・文体と思考について
切り替えの対象となる表記の想定の各部分で齟齬があるように感じます。この齟齬は、私の側の極端な拡大用法によるものだと思います。私は「表記」に「英語などの他言語」「音楽などの他媒体」などをも想定していました。論の発散になりますので、私の解釈を取り下げた上で考えます。
「表記」の意味する範囲を「正仮名遣い」と「現代仮名遣い」、「正字」と「当用漢字」に限れば、確かに、思考に与える影響はさほど大きなものではないでしょう。表記の違いによって産まれるのは図画的な違いに限られます。読み手の側で起こることについて、極めて厳密に留意するなら、図画的な違いは思考に影響を及ぼすかもしれません。
文体の違いは、もう少し大きな影響につながるでしょう。文体が変わることで文の持つ印象が変化するため、文章の印象も大きく変わると考えられます。文体を先に固定するなら、伝達をより正確にするためには、思考の変化が要求される可能性は高いです。
「平安王朝時代の文體を眞似れば、當時の人間の思考になれる」とは思いません。表記も文体も思考に影響は与えますが、それ以上に環境が思考に与える影響の方が大きいので。ただ、平安王朝時代の文体を真似し、身につけていくことは、当時の人間の思考に近付く一助になるとは思います。
_逸脱による違和感について
ここでは、規則からの逸脱において、当用漢字現代仮名遣い文の方が違和感が少ない、と考えた理由について述べます。
事実はともかく、現在においては、次のような認識が統計的に多数を占めるものであると仮定します。
このような認識を持つ人の割合が高いことを前提とすれば、当用漢字現代仮名遣い文に比して、正字正仮名遣い文は規則や規範がより厳密であろう、という先入観を持つ人の割合もまた高くなることが推察できます。
そして、規則からの逸脱における違和感は、規則がより厳密であれば強くなります。
これらの前提に基づけば、逸脱を混ぜ込んだ文において、正字正仮名遣い文の方がより大きな違和感を持たれる可能性が高いと言えるのではないでしょうか。
本来は仮定の部分について、統計的資料を附した上で展開すべき論です。その部分を印象論に頼り、調査・検証を怠っている点についてはご容赦ください。
_胸のすくような正字正仮名の文
具体的に、どのような、という想像はしていません。どうぞ、思うままに文を書いていただければと思います。現代口語色の強い正字正仮名遣い文はまだ読み慣れませんが、読んでいるうちによいと思えるあれこれに出会えるやもとは思っています。
何かの日記の印象で仮名遣を論じる愚かさにお返事。
_私の考えは『「現代仮名遣い風味なことば」に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わない』と言う方がより正確でしょうか。いかにも脇の甘い言い方で、論戦するならツッコミ放題でたまらんのでしょうが。
_誰がなんと言おうと私は現代仮名遣い風味の文をより多く読んで育ち、あるいは言語的以外の経験によっても私の言葉を造ってきた。その結果としての言葉こそ、私の母語。――でま、これは理屈じゃないんですよね。
あんまりお返事にはなってないけど――ここから先は私の信仰。世界をどう認識し、世界をどう想い、世界の中でどうありたいか。言葉には、そういうものが詰まってる。わがままなのが自明だからこそ、理論武装なんかしたくない。私はそう、思ってます。
それでも、多少は武装の必要性を感じる、今日このごろであるわけですが。
江洲さんの、個別にに反応……の前に恥ずかしいあれこれ。
_お詫び
何箇所か、江洲さんのお名前を御変換のため間違えていました。取り急ぎ修正いたしましたので、御容赦を。
_要請
私の側のシステムエラーが原因なので恐縮ですが、反応部分のリンクについて、URLのファイル名部分を0204a.htmlから0204b.htmlに修正していただけないでしょうか。現状では、正しく該当部を指示してしていませんので。
で、ここから反応。
_表記・文体と思考について
「書いてゐる本人が全然それを感じないのですが
」ということは、主観の問題ですね。図画的印象にまでこだわって書くような場合、言葉だけでなく印象も含めて考慮する場合に限ってではありますが、私は明確に影響を感じます。
中国人の部屋の話は、私も(チューリング・テストという形でですが)同様のことを考えました。残念ながら、その問題をまともに論じられるほど、私は哲学に通じていないのですが。
_逸脱による違和感について
個人のレベルでならば、慣れの問題であるという主張に全面的に同意します。
真摯な態度であるかどうかは、私には判別がつきません。「絶対的にこれが真摯な態度である」という基準でも定まっているのでなければ、それこそ主観の問題かと思います。主観の問題に帰着してしまうならば、客観的には、せいぜい「ある表記にだけ厳密性を求める=(複数の表記に対して)不平等」としか言えません。
真摯でないと考える主観は理解できますが、逆の主観もありうるでしょう。
ところで、私は統計的・確率的側面から先の主張を行なったのですが、江洲さんからの反応ではその視点が抜け落ちています。反応の際に考慮から抜け落ちてしまったのか、仮定以降の論に同意していただけたのか、資料がないために棄却なされたのか、お手隙であればそのあたりをお聞きかせ願えないでしょうか。
_胸のすくような正字正仮名の文
どうぞ、無理なく頑張って下さい。私も読み慣れるように努力しますので。
江洲さんの、言葉についてに、反応。
論旨のうち、統計母集団の取り方が重要である点、言語というものが使用方法において曖昧な側面を持っているものである点、については同意いたします。
一方で、その時点での社会要因を鑑みた上で逸脱の度合いの適切な測定をするためには、日本語話者全体(実際には、義務教育修了年齢以上が現実的でしょう)からの無作為抽出による統計的調査が必要になるでしょう。
この結果としての統計的資料には、調査時点での社会要因が反映されているはずです。従って、『統計だの認識だのといつた社會要因をあまり考慮したと思へない前提』
という御指摘は間違いであると指摘させていただきます。
むしろ、言葉なんて、そんなもん
であるからこそ、客観的に論じるには統計を利用しなければならないと、私は考えます。
「きちんと定義出來るものならしてみるが良いと思ふ」と言われたので定義します。
「現代仮名遣い風味なことば」とは)「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。定義できました。定義できたからといって存在してる保証にはなりませんが、今書いているこの文は「現代仮名遣い風味なことば」に相当するのではないかにゃー、とか思います。
_なお、「現代仮名遣い風味なことば」という表現は、「現代仮名使い」を味、「ことば」を料理に見立てた言葉遊びの結果です。それとはまったく関係なく、「現代仮名遣い」は料理でも食材でもないので風味などありません。
_ちなみに軽さで言えばロードバイクとかの方が軽いっす。やっぱりフォールディングバイクは折り畳み機構のせいで重くなる傾向が。まあ、そこらのママチャリよりは軽いのは確か。
_不安定なのは仕方ないです。たとえば手放しで走ることはまず絶対に無理。小径タイヤだと、フライホイール効果があんまり期待できないですし。
ある程度は慣れでカバーできますが、スピード出てしまうのもあるので、極力車道を走った方がいいんじゃないかと思います。歩行者にしろ、自動車運転者にしろ、歩道を時速20Kmオーバーのものが走っているとは想定してませんので。
車道は車道で危ないのですが、そこは臨機応変に。
_高い(歯数の少ない)ギアが変わりにくいとか、ギアがちゃりちゃり言うとかは、たいがい変速機の調整すれば良くなります。まあ、自転車の変速って驚くほどシンプルな機構でできてるので、少々の違和感が残るのはわりと仕方ないですが。
_チェーンロックは、シートポストのクイックのところにとりつけてます。人様のページの引用であれですが、ちょうどこちらで紹介されているような感じ。
_ところで週末は実家まで行ってきます。なんか部屋の荷物の整理しろと言われたので。行きが輪行の予定だったけど、天気は土曜日の方がいいみたい。これだと行きがツーリング、帰りが輪行かしらん。
江洲さんの統計についてと、妥当性の検証に反応。後ろの方で理屈と感想がごっちゃになってるのは御容赦を。なお、主観混じりにしかならないところでしか、「感想」は持ち出していないつもりです。
_仰る通り、統計は使いどころ、使いかたに十分気をつける必要があるものです。ですが、正しく調査を行なった上で、結果を濫用しない限りにおいて、統計は客観的と考えて良い裏付けを与えてくれるものでしょう。
逆に言えば、サンプル取得の方法や結果の解釈・利用が妥当であるか、常に考慮した上でないと、客観的証拠になりえないということでもありますが。
_たとえば、以下のような調査・分析を行なえば、目的とする「調査時点での、新旧かなにおける逸脱の許容の度合の一般的傾向」が得られると考えます。
この方法で得られた結果からであれば、「旧かな表記に慣れた人が、ある旧かな文に逸脱を感じる割合」も抽出することが可能でしょう。母集団全体の傾向が偏っていたとしても、異なる傾向の集団の傾向を選択的に抽出できるのは、統計を用いる利点の一つです。
_統計の結果と、なにかが「妥当」であるかどうかは、別の問題です。
まず考えるべきは、そもそもなにを持って「妥当」とするのか、であると思います。
しかし、言語・表記を「母集団内におけるコミュニケーションの道具」と見るなら、「調査時点での母集団での傾向」は妥当な判定基準になりえるでしょう。 結局のところ言葉って「なんのために、どこで用いるか」次第で「妥当さ」が揺らいでしまうものなのだと思うんですが。
_実際に言葉を使うとき、常に妥当性の検証が必要だとは思いません。
それこそTPOってやつで、妥当性なんかどーでもいいからとにかく相手を納得させたいとき、厳密な議論のためにやたらめったら論理性を要求するとき、なーんも考えずのんべんだらりと書きたいとき、などなどさまざまあることでしょう。
「全ての場合にこうあるべきだ」と主張することはできても、それが常に正しいわけじゃない。万能で絶対に正しい言語なんてありえない。怖かろうがなんだろうが、最後は度胸一発自分を信じてええいとやるほかないんじゃないか、とか思います。
んじゃ、私の方からも終了。以下ただの感想とか反省とか。
最後の方は統計に対しては真摯でも、言葉についてはどーでも良かったというアレっぷりでした。どーかと思う主客転倒。
統計なんてしょせん統計、されど統計。少数だって逸脱だって、信念と意味があれば、それで十分なこともあるはず。
同居人相手に感想戦。冷静でなければ文は荒れ、意図が表れるはずもないとか指摘される。詭弁と議論と論争の差異とかを説明。印象はしょせん印象だが印象で損することもある。論理は信じた己を疑うところから始まる。「真でも偽でもない」がわかるのじゅーよー。
損得勘定。誤解と石頭から迷惑と不快とお手間をかけて、かなり失墜した信頼感。おかげで正せた自分の誤解。もやもやが少しは形になった。勉強したいことも見つけた。トータルすれば結構負け。週末夜中を費やしたせいでなくした機会があれこれあれど、それは極めて個人的な話。
同僚とちょこっと会話。とあるソフトの作者の年齢の話から。
ソフトウェア開発をしようと思うなら、高校生なり大学生なりの暇なうちに、なんか作らんとダメだろう。やり方はどうあれ、そこそこの規模のソフトを作る経験なしではモデリングやら設計やらの重要性はわかりにくい。
それで、たとえば未踏ソフトウェア創造事業の対象となるようなものを作れるなら良かろう。が、凡人には荷が重い。
だから、あえて再発明だ。発明するよりハードルは低い。一見無駄な行為だが――経験は残る。そして経験は後の成長の土台になろう。
しかも、「再発明は無駄」とほんとうに知るには、あえて再発明をした経験が必要なのだ。
論理の破綻を指摘する不毛な文を書いてみたがあまりに不毛なので破棄して一点だけ。どこにもなかった文を引用するのはどうかと思います。
主に闇黒日記平成14年4月17日付、同18日付への反応。不毛だとは思うが、そこから起想される私個人の思考も含むので。
_いかにも脇の甘い言い方で、論戦するならツッコミ放題でたまらんのでしょうが。と云ふ嫌みを言ふ事で、中田氏はツッコミを躱した積りになつてゐるのだらうが、さうは問屋が卸さない。
ツッコミをかわしたつもりではなく、ツッコミどころであることを自ら指摘しているだけである。暗には「わかってて言ってるんだからここにツッコむのは野暮だと思うぞ」とほのめかしているのだが、これは所詮私が記述したときの主観であるし、ほのめかしはほのめかしに過ぎない。
_2002年4月19日に追記修正あり。
「現代仮名遣い」は書換への指針に過ぎないから、「現代仮名遣い」によつて文章を書く事自體が不可能である。文部省は、それつぽい「文法」をでつち上げて、「現代仮名遣いで文章を書ける」かのやうに言つてゐるが、その「文法」は破綻だらけで、文法と呼べるものではない。
「現代仮名遣い」が書き換えの指針であることと、「現代仮名遣い」によっては文章を書けないことについて。語「よつて」がどのような意味で用いられているかが明白でない。「用いて」の意味で使われているならこの部分の論旨は正しい。「依拠して」「従って」という意味であるなら、現代仮名使いによって文章を書くことは可能と思われる。「現代仮名遣い」が書き換えの指針であることは、「現代仮名遣い」によっては文章を書けないことの証明にはならない。まずは、述語「よつて」の定義が必要である。
文法の破綻の指摘はも、「現代仮名遣い」によって文章を書くことが不可能であることの証明にはならない。文法が破綻していても文章は書ける:「アルジャーノンに花束を」の冒頭部を見よ。
_現代仮名遣いの中に、歴史的仮名遣いの影響が潜在しているのは否定できまい。とはいえ、無限遠に存在する粒子の引力の影響がないとは言い切れない以上、少なくとも物理的事象においては世の中にまったく無関係なものは存在しない。そして、思考が脳という実体を用いて行われる以上は、人間の活動による産物はすべて物理的事象に関係する。
_「現代仮名遣い」が一義的には書き換えの指針であったとしても、それに基づいて文章が書かれば、そのうちに表記法として定着していく。そして現状では、定着していった結果の、(完全には合理的・原則的でない)記述の基準をも、拡大的に「現代仮名遣い」と呼んでいるのではないか。
厳密性を求めるなら「(特定個人名)が現代仮名遣いと考えている仮名遣い」などと呼ぶのが正確であろう。だが、実際には単に「現代仮名遣い」と言った場合、これら個人ごと状況ごとの仮名遣いを、平均的に捉えたものを指すことが多いように思われる。
そして、定着してしまった記述の基準を前提として日本語を学んだ人間にとっては、それは記述の基準、表記法にほかならない。もちろん、この現状に問題があると考えることには一理がある。
_人間の思考の生の形とはなにか。そもそも人間の思考とは何であるのか。人間はまだそれを完全には定義できていない。だが、定義が行えなくとも思考は存在している。少なくとも、多くの人間はそのように考えているだろうと思う。
次に示すのは、「思考とは何であるのか」の定義についての、聞きかじりの不完全性定理に関する知識を交えた上での、素人考えである:思考によって思考とは何であるかを定義しようとしても、完全な定義は得られないのではないか。あるいは、定義できたとしても、それが正しいという確証は得られないのではないか。完全な証明が不可能である、という意味でならば、あらゆる表現は口からでまかせ
であると言えるのではないか。
_言語を絶する、という表現がある。この表現の存在は「言語とは思考を歪めて表現したもの」であることの証拠となるのではあるまいか。「言語を絶する」と言うとき、それは思考を正確に引き写していない可能性がある。あまり論理的でない言葉遊びに陥るが、次のように考えられるからである:言語を絶している、すなわち言語化できる思考ではないのに、「言語を絶する」という言葉はそれを言語化している。
同様の表現は、現代仮名遣いの文章だけでなく、歴史的仮名遣いの文章にも見られる。正仮名遣いの文にも見られるのではないかと推察する。
_更に言換へると、「現代仮名遣い」の文章は、本来の日本人の思考を歪めて表現するものである。中田氏は、その「歪められた表現」こそが「思考そのもの」であると思つてゐる。中田氏は、根本的に間違つてゐる。
言語と思考の関連については、言語哲学の成果などを参考できると思う。(残念なことに)不勉強であるので、私が根本的に間違っているかどうかの検証は、私にはできない。
ただ、私見でならこのように思う:それは、ウロボロスのようである。言語は思考を制約し、思考から言語が記述される。記述された言語がまた思考に影響し、そこからまた言葉が生まれる。
_と言ふか、私は美意識なんぞに基いて正字正かなを使つてゐる譯ではないので、
美意識とはなんであるか。ものの判断をするときの評価関数のことを指すのであれば、正字正かなを使うという選択は、美意識=評価関数に基づいている。なぜ英語でもフランス語でもエスペラント語でもなく日本語を使うのか。なぜローマ字表記でも当用漢字現代仮名遣いでもなく正字正かなを使うのか。「論理的に正しいから」は、評価関数のパラメータに過ぎない。
_中田氏の文章には、中田氏の考へる前提に基いて私や江洲さんが理論を展開してゐない事を詰る文句がある。中田氏は、自分の獨斷以外の意見を認める氣が、最初からないのである。
引用部は2つの文から成る。前者は事実の言及であり、後者は事実から起想された記述者の主観の表明である。
_文書記述の問題の指摘。
「現代の日本語の書き言葉に比較的強く従っている言葉
」とはどこからの引用であるのか。
また、「
」「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。
に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わない
」とはいうそれぞれの記述をデフォルトのスタイルで見たとき、記述者の編集による意図が強く入っていることがわかりにくく、また引用部が文脈から極端に切り離されたために原文から大きく逸脱した読みを喚起するおそれがある。「現代仮名遣い」で書かれた言葉
に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わない
_推測される誤読の指摘。
引用部1:「現代仮名遣い風味なことば」とは「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。
:この文は、「( X = A ) and ( X = ( B or notB ) )―(1)」という構造である。
引用部2:と言ふか、中田さんは本氣で「Xの定義」として、「Xは、Aである事もあれば、Aでない事もある」と云ふ言ひ方が通用する、と思つてゐるのでせうか。
(引用にあたり便宜のために強調マークアップを追加した):この文のうち強調部は、「 X = ( A or notA ) ー(2)」という構造である。
(1)は(2)とは異なる構造である。
しかし、闇黒日記平成14年4月17日付の記述には、記述者が引用部1を(2)の構造として捉えていると推察できるような記述がある。このことから、記述者が誤読をした可能性を指摘する。
_「 X = ( A or notA ) 」について。集合Pの要素数が2で要素の片方だけがAなら「X = [A or notA]」はPにおけるXを定めているように思う。
_誤読の指摘。『「現代仮名遣い」で書かれた言葉に強く由来する思考』
という句。思考が由来しているのは「言葉」であって「表記の規則(=現代仮名遣い)」ではない。
このため、以降の論理に破綻が生じている。これを正すには、たとえば「よく話を聞くと」
を「よく話を聞かないで私の解釈を述べると」に訂正すればよい。
_私の感想。厳密な論理的考察というにはお粗末。ということはテーゼが真実であるかどうかを判断してるわけではないのだろう。感想を述べるのは自由だ。
_世界をAとBに2分して、Aからの伝達に対するBの反応で「理解」「思考」「主観」を説明できないかと一瞬考えたが、よくあるような論の循環に陥った。というか、このぐらいのこと誰かが考えた例があるに違いないのだが。
_AはBを理解しているとはどういうことか。
Aでないものにとっての、「AはBを理解している」は、A、あるいはAの所作を観察した結果として得られる主観であろう。主観を持たないものは「AはBを理解している」とは言わない。
Aにとっての「AはBを理解している」とはどういうことか。Aより少し小さい系の主観に依るものであるとすれば、これはどこまでも縮小する。これが消塵しないためには無限に縮小できることか、どこかで唐突に主観が生じる/消滅する特異点が必要となろう。
「客観」で「AはBを理解している」と言えるのか。まずは客観を考えよう。客観はAであってはならない。BでもCでもない。そこで、なんでもないものを「客観」としよう。ところが「客観」と名付けることで、客観はなんでもないものでなくなる。
_このように考えれば考えるほど、客観というものの存在は疑わしくなる。所詮人間は主観の系でしか生きていないということだろうか。
_思っているという結果でしか、主観は主観のことを確かめられない。主観に対してしか客観という概念は存在しえないが、対する主観は実に根拠のないものである。であるから客観もまた根拠がない。
_主観も客観もなく、ただ事実だけが確かであるのか。
車道の自転車話。
_歩行者の立場から。自転車からしても、歩道走るのは怖いです。幹線道路だと特に。脇の細い道から出てくる車は、歩道の自転車のことなんて考えてません。歩行者もたいがい無茶苦茶に動くし、そうすると当然スピード出せないし。はっきり言って車道の方が全然楽。
_逆方向だと、相対速度の問題とか、原付・二輪との関係とかで凄い怖いことになるかと思うです。ただ、自転車専用通行帯を確保できるなら、逆方向のメリットは多いかも。運転者の注意を喚起できるし、左折時の巻き込みが起こりにくくなりそうだし。
_道路交通法上では自転車は車道を順方向に走るもの、ですね。
現実には自動車がかなり幅を効かせてる上、路上駐車とかがかなり問題なんですが。まあ、予め大きく動くとかで意志表示。危なそうな区間は歩道をゆっくり、ってのが妥当かなぁ。
最近は、手信号出す習慣つけるか、とか思ってます。道交法的にはこれも義務。
_参考文献あれこれ。シティバイカーからの自転車政策提案のページ、 交通とまちづくりのレシピ集内の自転車を活用しよう!、自転車の似あう道〜自転車利 用促進に関する論文・アイデア募集〜審査結果、クリティカル・マス東京。
あと、直接は関係ないけど、自転車でバリバリ動くならMapFanWebのるーとMapは超便利っす。
明日、というかもう今日であるが、実家(茨城県日立市)へ向けてツーリングの予定。ということで突発的にデジカメ購入。機種はIXY DIGITAL 300a。とりあえずメディアがCFなのと、ズーム性能とで選択。
DiMAGE Xにもかなり心揺れたが、先輩が持ってる機種なので敢えて避けてみた。巷の噂は話半分のつもりで観てきたのだけど。うむむ。ミカコの声が。素人臭さの中にもあった味というか色というかが、きれいさっぱりというか。確かに滑舌はよいが、なまじ聞きやすいせいで平板さが気になる。ノボルの方は小ながら成功と思えるのだが。
上映前の舞台挨拶で新海氏が「幸運に恵まれた」と言っていたが、確かにエヴァのときのような微妙なタイミングの良さは感じる。
_というようなこととは関係なく小耳に挟んだ話。ハコの出口のとこで客がゴダールの短編なんか上映せんの?とか訊いてた。今のとこ予定がないとか。むむ。やるなら喜んで観に行くのだけど。
ほい、近頃は何通か公開するべきでないツッコミを頂くのですが、私としては一面の勝利は得てきたかなー、とか思ってます。
そういう意味では、相手に真っ向からは向かっていないかもしれません。結局のところ、詭弁論理で冗談混じりに言ったような―ー常に自分の思索に落ち込んでいくことを期待してしまっている。
私の言葉が不正確だからそうなのか、(無意識的に)不正確であろうと思っているのか、そのあたりはわからないのですが――しかしながら、自然状態の言葉というのは多分に不正確な、論理的でないものではないかと思います。人間が、不正確で論理的でない生き物だから。
その、非論理的でありながらどこか論理的であろうとし、でも結果はやっぱり非論理・非合理なところにこそ私は愛おしさを感じる。その秩序を孕んだ混沌を愛したいと思う。――というように、やたらと飛躍を求めるのです。きっと私は、そういう人間。
たとえば私は、このぐちゃぐちゃ、頭の中に起こっている嵐、その嵐を起こしたきっかけを、とてもとても大切に思うのです。
「ほしのこえ」の新海氏の個性について、シナリオで売るタイプではなさそうなので
っちうのには同感。
氏の映像作家としての魅力は、もやもやをそのまま(ドラッグムービー的に)映像作品に載せる能力かな、と。確かに背景美術のうまさは目を引きますけど、それ以上にコンテの運び方・タイムライン上での情報の展開が魅力的。
いかにも監督向きな人なんじゃないかな。だからこそ、「個人製作」よりかは「小集団」で、自分のビジョンを実現するのにどう手駒を使うか、ってな方向で伸びてくれればとか思ってたり。予算とかスケジュールとかは、プロデューサーが頑張っていただければ尚幸い。
そのためにも、「良い!」と思った人は「ほしのこえ」を買いましょー、と宣伝活動。
土曜日はもう少し早起きするつもりだったのだけど、起きてみると十時半。頭がしゃっきりするまで待ち、簡単に整備をして、最低限の荷物をまとめる。これから行くと実家に連絡を入れようとするも、出ない。携帯にかけても駄目。しからば妹の携帯にかけたがこれも駄目。
なんだかなあ、と思いつつ正午ごろ出発。
_早々に江戸川サイクリングロードに出て、上流方向へ。順調に走って金町――水戸街道との交差地点まで。水戸街道に入ってしばらく行くと、電話が鳴る。妹から。状況を告げ、なんか知らんかと訊ねる。知らないと返事。
_松戸あたりのショッピングセンターのスポーツ用品店で買い物を兼ねて小休止。サドルカバーとバックミラーを買ってその場で追加。サッカー用のすね当てとかも買い荷物を増える。実家に電話は、反応せず。
_我孫子警察署の前でなんか物音が立ったので停止、特になんともなかったのだけど、なんぞあったかとおばあちゃんに声をかけられる。小休止だと答えると、自転車に興味を持たれたらしく立ち話。
_利根川を越えて茨城県へ。実家に電話、反応なし。何度かコンビニで水分とサプリメント類を補給しつつ、ひたすら水戸街道を北上。
_荒川沖の交差点をちょっと越えたところで車に当たる。車道の混雑に押されて歩道に入っていたのだけど、そこを見事に脇道から出てきた車に。右足首をちょっと痛めたが、それだけだと判断。中年ぐらいのご夫妻に、「気をつけてくださいね」と笑って告げて再び走る。
_バイパスと土浦市街との分岐点で、市街方向へ。国道六号線(水戸街道)の土浦バイパスは、自転車で走るのには危険過ぎるので。このへんは大学時代によく通った道であり、非常に懐かしく思いながら走る。土浦駅をかすめて、ちょっと北方向に抜けたあたりで止まる。土浦の先はアップダウンが結構ある。ちょいと電車で楽したい――が、実家がつかまらなければ、水戸あたりから引き返すことになる。であれば、ここで電車に乗るのは得策でない。
ということで、判断を兼ねて電話。電話に出たのは母親の声。土浦にいること、自転車で戻ってること、とかを告げる。ひとごこちついたところで、軽く食事。あとは新装備付の写真を撮ったり。
引き返して土浦駅、BD-1を折りたたんで、水戸までの切符を買う。電車の中では、良く眠る。
_電車を降りると、日が暮れている。水戸駅前でBD-1を組み立て、本筋ではなく母校の方へ進んでみる。母校入口の橋の工事現場などに寄ってみたり。
_日立までの道は走りやすい。路側帯が広め&舗装もきっちりなので、道交法違反を承知で走る、走る。日立市に入って少し行くと、坂。それなりな勾配で、それなりに長い。弱った体には堪えるが、なんとか降りずに走り切る。
直線距離的にはバイパスのが近いのだが、そっちは山を突っ切る急坂。とてもじゃないが走る気にならない。山を迂回して国道を行く。
実家のある団地への登り道では早々に挫折。降りて押して登っていく。昔――高校のころ――もよく挫折した。あのころ毎日登っていれば、とか思ったり。急なところを登ってしまえば後は大した道でもない。のんびり走って、実家到着。走行距離は91Km。
今日は昼頃起き出して荷物の整理。いるものといらんものをざっくり分けて、いるものは箱に詰めて。お昼ごはんは食べに出て、近況とかあれこれ話す。ついでにインターネット接続回線の話なんかもしてみたり。
_帰り。実家でBD-1を折りたたんで、車で駅まで送ってもらう。特急車内にはこんな感じで持ち込み。上野から秋葉原まで、京浜東北線は先頭車両で。秋葉原駅で降り、昭和通り口へ。バリアフリーとは無縁の構造。駅から出て、岩本町駅まで歩く。寄り道しようかとも思ったけど、BD-1がやっぱり大きい。本屋だけ寄る。都営新宿線では最後尾車両。最寄駅で降りて組み立て、帰宅。
近頃は思考の混沌度が高い。
_言葉というものが、自然発生し、遺伝競争的な自然淘汰を受け、その結果として現状に至ったものならば、原則論とか本質論とかをするのがそもそも間違いなのではないか。
言語にしろ生物種にしろ恣意的な環境の押し付けで滅びるなら、所詮そこまでの種/言語であったというだけのこと、そんなもの淘汰の一部だ。
_というのは極論としても。言語の保持という問題は、絶滅危惧種/自然環境の人為的な保護と似通った根を持つ話なのかもしれない。
これらの問題に、絶対的な是非がないことには注意。「滅びに瀕した種を救う」はいかにもな御題目であるが、自然淘汰的な競争空間中を破壊するという行為でもある。過度な保護が、競争空間全体の強靭性を損なう可能性もある。
_まあ、人間が御題目を掲げて歪んだ環境を作ることも含めて環境、なのかもしれない。が、義務意識とやらで保護を行なうのは人間の傲慢であるかもしれない。
とはいえ、戦略を押し通すために義務意識を利用し、そのうち本意が忘れ去られることはありそうだ。かくて人間のための社会が、人間を従えるシステムと化す。
_そのようにして回り始めてしまったシステムの結末は、縮小再生産による緩慢な死か、革命による強引な破壊であろう。でなければ、システム自体が適度に変化していくか――熱力学的に、これは正しかろう。
_民主主義はシステムの交代をスムーズに行う機能があるように見えるが、上層が替わってしまうことに慣れたシステムが(自然淘汰的に)出来上がってしまえば、最早民主主義であろうとシステムの交代は不可能だ。
つまるところ、民主主義を体現するのには絶対的に革命権が必要となってしまう。当然ながら革命と再構築は劇薬なので、使いどころを間違えてはいけない。
無責任なものを書いた報いとも。
_自然淘汰は言語には適應されない
、とのことですが、二つ(以上)の言語(話者)の混在する環境で、社会的政治的要因等(=環境)により「新しい言語が発生する」「一方の言語が駆逐される」とかが起こるとき、その系の振る舞いは遺伝競争的な自然淘汰に似ているのでは、と思うのですが。
これは適用される/されないではなく、適用してみる/してみないの話かと思います。「するべきでない」とは言えるかもしれませんが。で、果たしてそう言えるかどうか判定するなら、たしかに社会言語学とかに当たるべきなのでしょう。
_ところで後段の熱力学とか民主主義とか革命権とかは、ほぼさっぱり言語とは関係ない話のつもりです。飛躍に飛躍を重ねてるので、むしろ一連の話として読まれると困るところ(--; これもまた無責任なものを書いた報いですが。
文章がぜんぜんまとまってない、もとい電波度高なのは承知の上。
なにについて言ってるのかよくわからんのですが、熱力学的に言えば、人間が棲息する世界はおそらく開放系っす。
自浄できない場合や、停滞しちゃた場合でも、たいていは外力がそれなりに働いてくれるっす。
あのへんは特に電波文章ぶりが全開なので、もはや自分でも何言ってるのかわかりません(ぉ
確かエントロピーは嫌でも増大していくからシステムはどこかで(エントロピーが増大した状況に)適応せざるを得ない、とかいう大変アレな思考がなされたと記憶。
ところで、外力がそれなりに働いた結果として、システムの枠組そのものが機能しなくなったら、それがシステムの死、なのではないかと思います。たとえば社会システムの死ってのは、別のシステムの台頭とかの結果でしかない。その死は歴史的にしか認識できない。
仕事。いろいろ設定を変えて試すも、さっぱり。問題の特定もできません、という状況なのが辛い。
_乱暴云々についてはメソッドの違い、と認識しておきます。
ブレインストーミング的な、検証ナシの無茶苦茶な思考も、ときには有益だと思います。乱暴なのは確かですし、検証行為が足りないのも事実ですが。
社会言語学については、課題に積んでおきます。言語哲学とどっちが優先か。どっちも放置されそうな気もしますが。
_ところであの文章は立派なトンデモ文章だと思っていたのです。むむむ、修行せねば。
また、「自然淘汰」も「人為淘汰」の対義としての、拡張的用法かと思います。とはいえ、先の「遺伝競争的な自然淘汰」
という記述は(人為淘汰が含まれなくなるため)あの文脈では妥当でないですが。
誤読と曲解を繰り返すのは、人間という曖昧な存在が自然言語という曖昧なものを使っている以上仕方ない側面もあると思うのですが、それは余談。
_土台となるシステムがあるにせよ、統合された形で機能するならそれもシステムでしょう。
フィルタであるなら「元のシステムの出力+フィルタ」の結果から、構成側が生成できるはずです。この構成則は、現代仮名遣いの構成則となりうるのでは? もちろん、それに整合性があるかどうかは別の話となるでしょうが。
_そもそも、日本人がなぜ日本語を使ふのか、と云ふ疑問を呈する事自體が異常。日本人が日本語を使ふのは當り前の事だ。
なぜその「當り前」を疑わないのですか? そこにこそ論理の破綻が含まれる可能性は考慮しましたか? 必然と思われるものすら疑ってみることは、論理的思考に必要な態度ではないですか?
(とはいえ、こう問う私もそれを完璧に体現できているわけではありませんが)
_中田氏の、
「現代仮名遣い風味なことば」とは「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。
と云ふ主張は、所詮「『現代仮名遣い風味なことば』は、『現代仮名遣い』に從つてゐる事もあれば、從つてゐない事もある」と云ふ主張である、と云ふ主張である、と私は指摘したに過ぎない。
その読解からは、「比較的強く」「いくらかの」という句の意味が欠落しているように思います。これらの語の含有は定義としては不適切だという指摘は正当と思いますが、これらの語の示す割合的な意味がこの定義には必要であるとも思います。
_中田氏に尋ねたいが、あなたは、論理的であらうとして論理的になり切れなかつた文章を書いた筆者を、見下すのか、愛ほしく思ふのか。どつちなのか。
場合によります。見下すときも、愛おしく思うときもあるでしょう。両立するときもあるでしょう。これらは、私の中では両立する思考・感情ですので。
_「社会」の附かない言語學の立場から判定するならば、「現代仮名遣い」は間違つてゐる。
素人考えではありますが、言語学とはある表記則が間違っているかどうかを判定する性質のものでないと思います。本来的な言語学は「ある表規則Aが整然としていない」という言及をするものであり、あるいはなぜ整然としていないかを探求するものであると思います。
そして、言語学の立場からある表規則が間違いであると言及することは、(良くても)言語学をイデオロギーの正当化の道具として使っていることにあたるのではないでしょうか。
今日の昼食のとき。同僚の味噌汁の貝に貝柱が二つついてるのがあったので激写。
一連の話の中からでは、江洲さんが「自然」という言葉について、拡張的な用法を考慮していないように思えました。ですから、「自然」という語の意味の取り方狭すぎ
と発言しました。これは、私の想定していた文脈が理解されていないのでは、という指摘以上のつもりではありません。
_なぜ疑はなければならないのですか? 日本では日本語が使はれてゐるのであつて、「どうして日本では日本語が使はれてゐるのか?」等と疑ふ方が異常です。
人間が論理的思考を行うには、必然と思われるものすら疑ってみることが必要だからです。これを異常と感じるのは、あなたの主観です。
_しかし、イデオロギーから獨立したものの見方に基いて、物事の正邪を判斷するのは、イデオロギー的ではない。
判断の基準として言語学を用いること自体はイデオロギー的ではありませんが、正邪の判断をすることはイデオロギー的です。
繰り返しになりますが、社会科学的な文脈や、明確な意図の強くない人間の行動を対象に使われるときなどに、「人工」という語の指す領域が若干狭まり、「自然」という語の指す領域が若干広くなると思います。
ですが、私には江洲さんが「自然」という語を「天地間の森羅万象」、「人間が全く関与しないもの」という意味として使っているのではと読めました。
実際には、このような検討の結果としてではなく、もう少し自然な気持ちから「ここが齟齬になっているのでは?」というつもりで発言したのですが、そこがさらに齟齬になってしまったようです。文脈理解がうまく働けば、これらの齟齬は埋まっていくものと思うのですが、今回は逆に作用してしまったのでしょう。
つまるところ、私が言いたいのは「(お互いの)誤読・誤解・完全に正確ではない記述が原因だったのではないか」ということです。私の起こした問題の方が多分であるかとは思いますが。
貝の写真、ちょっと気持ち悪い(笑)
てか人の食った後の貝のアップがこんなにキモいものとは思いませんでした。
横で貝殻詰まれてもなんとも思わないのになぁ。
あ、そう言えば最近同じ職場の後輩が、貝柱残して貝殻入れに突っ込んでいたのですが、そういうもんなんでしょうか? いえ、俺はそのくっついた貝柱こそぎとって摂取するのですが。どっちが多数派なのかふと思ったり。
ほい、お目汚し申し訳ないです。人の食った後というか、単にアップがキモいだけのような気もしますが。
私は貝柱まで食べる派かな。手間なので、全部は食いませんが。貝柱二つに当たった同僚氏については、御覧の通り。ちうことで現在サンプル数4、食わない:食う=2:2の模様。
_厳密に論理的に思考するには、真偽いずれかであることの証明がない限りは、あらゆるものを疑わなくてはなりません。疑う理由がないことは、真偽いずれの証明にもなりません。
_「判断をすること」ではなく「正邪の判断をすること」がイデオロギー的です。「正邪」という概念は、そもそも相対的にしか成立しえない、イデオロギー的なものであるでしょう。
_たとえば、人文科学や社会科学の文脈では、「人工」という語の指す領域が「人間の手が加わること」から「明確な意図に基づいて人間の手が加わること」へと狭まることがあります。これに伴い、「人工」の対概念である「自然」の指す領域が、人工から失われた意味の分、広がります。「人工言語」「自然言語」がその例です。
このような変動が起こるのは、その言及・分析において「人間の手が加わったかどうか」よりも「それが明確な意図に基づいているかどうか」がより重視され着目されるからでしょう。
_私がある記述Aを読んだ結果の解釈を説明するには、私のことを話す以外にありません。そして、私の解釈が誤読であるかを決定的に判定できるのは、記述Aの記述者だけです。
_悪意があれば悪意を読む。皮肉があれば皮肉を読む。人間にとっての言葉とは、そういうものです。先入観を払いきれていると、ほんとうに明言できますか? 私にはできません。
(他人の)ちょっとしたいざこざを見る。あんまり正論を言うのも考えもの。論点のずれから更なるずれの原因となる。気付いて誠実な応答をしても、既に喧嘩で返すような有り様。
そのまま自分にもふりかかることばかり。人ののふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもの。完璧ではないけれど、できうる限りで冷静に。いくらかの嘘もときには必要。もちろん、悪心ではなく誠実をもって。
昨日は会社帰りにフットサル。チーム分けしたら味方が強すぎてGKの私のやることがなくなる罠。前線からプレッシャーかけてボールを奪う、敵陣内でボールが回る、見事なゲーム支配ぶり。私はと言えば、ゴール前を無人にするわけにもいかないのでボーっとしてた。
まあ、元場所を選ばずあれこれと。
_Wind Report - 2002年4月下旬より、イデオロギーと判断の話。人間の脳というハードウェアの枷なども思い出したり。かくも我らの思考とは不自由なのか。
_同居人と会話。1+1=2を(公理でなく)定理にしちまうあたり、数学ってのは実に徹底してイカれた学問だなあ、とか。まったくすばらしい偏執ぶり。体系そのものを否定しかねないような証明までしてやがるしな。
_「真偽」と「正邪」は別の言葉で、私はこれらを区別して使っている。推論Aが偽であることと推論Aが邪であることは独立した事柄で、相関の有無はまた別の話。
_そもそも真偽を求めるなどというのは日本語という言語の背景思想に反しているようにも思うのだけれど、真偽を求める文化に触れた以上、きっと必要な変化なのだろう。
_それでも言葉を使おうとするものは、それを記述せずにはおれないのだ。無謀であろうとなんであろうと、彼らはただよりよく記述することに喜びを憶えるものなのだ。
_私信。もうやらなくていいかと思ってます。ただ、関連がないと指摘したつもりはなかったです。起こったのは認識のずれから来る読みのずれ、かな? どっちが正しいかは、自分の不勉強を認識した上で、判断しません(できません)。
午後もいい時間になってから、同居人と算段をつけてお出かけ。私は自転車、同居人は電車で、秋葉原合流というお馴染みのコース。
ルートは京葉道路をひたすら西へのいつものルート。家から新中川までのルートだけ、ちょっと工夫してみたぐらい。あとはひたすら西へ西へ。昭和通りで北に折れ、適当に中央通りに筋を移してウエノ クラシックへ。で、あれこれ購入。
キックスタンドは先週駅駐輪場に止めていたら謎の破壊に至っていた[1 2]ので。でま、そのほか[写真]は衝動買いだと思いねェ。
_電話をかけて、同居人を捕捉。本日の用向きはこんな感じ:
キーボードは同居人所望。スペースを取らずマシなキーボードが欲しい、らしい。家には私所有のHHK Liteが余っているのだが、ファンクションキーが独立しているのが希望とのこと。おまけに私のHHK LiteはASCII配列だ。
DDRメモリは、同居人からのパーツ借り受け代価として私が調達する約束になっていたもの。約束後に値上がりして非常に萎えていたのだが、また値が下がってきたので買っておくことに。
微妙なオーダーのCeleronは妹PCの強化用。現状はCeleron333MHz。ヘビーに使うわけでもないので、これで当面は乗りきれよう。
_他はともかく、キーボードばかりは足を使わねばならぬだろう、ということで歩き回る。メカニカルは嫌、ストロークはしっかりあるのがいい、テンキー邪魔、とあれこれ条件を見ていくと、IBMのSpaceSaver Keyboard IIぐらいしか候補が残らない。他にもいろいろ回ってみたが、結局すべての条件を満たすのはそれだけ。で、決定。
他の2品は巡回の途中、TSUKUMO eX.で購入。Celeronは1GHz。
_書泉ブックタワーで少々買い物をして、帰途。当然私は自転車、同居人は電車で。同居人は途中で寄り道をしたらしく、私の方が帰宅が早かった。ちょっぴりだけ優越感。本日の走行距離25.74Km也。