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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
_ 突っ込まれてることに気付いてみたのでKanonな話。栞シナリオのこと中心にあれこれ。
_ 物語ってのは、「前後」を描き出すものだと思うのです。始まりの状況があって、出来事があって、その結果何かが変わる。あるいは、変わらない。
んでは栞シナリオでなんか起こってるかというと、"boy meets girl"以外、ほとんどなんも起こっとらんのです。
出会って、惹かれあって、気持ちを確かめて。そんだけ。言うなれば、「起承結」です。一応、惹かれ合うのを阻害するような話は起こりますが、印象薄いんですよね。
「約束の一週間」の威力がもうちょっと高ければいいのですけど、「萌え」による脳内補完ぐらいしか仕込まれていない。ちうことで、栞シナリオは「萌え」がないと話にならん、と。
_ 構造把握なんて、目が肥えてないとできません。
ところで近頃(ビデオで)チャップリン映画を観てたりするんですが、いやもう、これが昔の(中学〜高校の)自分の目は節穴だったんだなぁと気付くことしきりだったり。
_ 私「まごころを君に」もとい「アルジャーノンに花束を」は中編版の信奉者です――ってな余談は置いといて。「アルジャーノンに花束を」は、「知能の増進と衰退」をフィルターにした「人の心」の物語だと思います。でも、真琴シナリオはそうでしょうか?
真琴シナリオって、本当に「知能の増進と衰退」がモチーフなんでしょうか? 「妖狐」という超常的な存在からすれば、一方なに衰退とも考えられますよね。むしろ、参考にすべきは「人魚姫」じゃないかな、と。
_ とりあえずは、「会いたい」よりは「逢いたい」がいいなぁ、と言ってみるテスト。
で、私としては「素材=モチーフ」「味付け=ストーリー」「料理の技術=演出」だと思うんですが。ちうか、そもそも料理だと「ラーメン」こそが作りたいものだったりもするから、イマイチ例として適当でないかも(^^;
_ 「物語」というのは、「物語世界」の断面だと思うのです。ストーリーってのは「物語世界」でどんなことが起こるかであり、演出ってのは「物語世界」で起こった出来事をどう切り抜くかであると。そして、引き抜いた断面(の連続)が「物語」になる。
私は物語を、そんなものだと思ってます。創る方を志す人間の見方だとは思うのですが。
_ その後の顛末っちうか、ビジュアルorサウンド ノベルは、小説とは違うものという話について。TabrisさんからXNML BBS:No.33にてお返事&に移行希望の要請。
っても、書き捨て御免という腹積もりだったゆえ日記に書いたというのが真相だったり(--; まあ、GameDeepの記事にする予定もなきにしもあらずなので、てきとーに考えてそのうちBBSに書き込んどきます。目標今週中。
_ 表現のレイヤーが増えるってのは、劇的な変化を招くと思うのです。
その劇的な変化の過程で重要なのは、増えたレイヤーを無闇に使わないこと。絵にしないからこそ視える光景、言葉にしないからこそ伝わる言葉。そういうものがあることをきちんと識って、その上で上手くレイヤーを使い分けること。
などと強く思うのは、近頃チャップリン映画を観てるせいもあるでしょうが(^^;
_ えー、私は元来から二次創作の人だったわけじゃありません。元々創作志望の人で、二次創作に手を出したのは気の迷いというのが実態です。その気の迷いはトータルで見ればプラスだったんじゃないかなー、とは思いますけどね。Progressiveとか考えると。
自分の立ち位置ってどのへんだろーなー、というのは近頃自分でも疑問です。小説書いて、電源要不用問わずにゲームやって、かと思えば「近頃のIT関連株は明らかにバブルだろう」とか考えていたり、まあ大学生らしいっちゃ大学生らしいですが。
_ さてさて、この一週間、映画見たり小説に手を入れたり長編のプロット考えたりと、悠々自適な生活でした。
そんなことをしている間に、面白そうだった話はすっかり収束していたり。まあいいや。ツッコミついでにもっとツッコんで無念を解消してみようっと。
_ たとえば、普段はなんでもない音楽でも、すばらしい夕焼けのBGMとして聞いたなら、全く違うものになるのです。
だから、「ストーリー」だけを抜き出せばってのはあんまり意味のない話。
ストーリーなんて、単体ではほとんど意味を成しません。あらすじだけ聞いたって、感動できるはずがない。ストーリー中に現れる場面を痛感させる音や言葉や絵、そういったものが組み合わさって始めて、ストーリーは感動的になる。
それを音と言葉と絵とストーリーにばらして、「どれに感動したのか」調べるなんて無意味です。
_ テキストが分析されやすいのは、テキストは分析評価しやすいからだと思います。だって、コンピュータにだって要素分解(形態素解析)できるんですからね。絵や音楽じゃ、なかなか難しい。
でも、テキストの分析評価ってブロックみたいなもんだと思うんです。
さしあたり、世界で最も有名で精巧な(はずの)レゴブロックを例に挙げてみましょう。
えー、写真かなんかで見たことあるかも知れません。世界の有名な建築物を、レゴブロックで再現したミニチュアの街。でも、あれもバラせばレゴブロックです。
では、ホワイトハウスのミニチュアをバラしたブロックで一発ロボットを組み立ててみましょう。それっぽいものができると思いますよね?
元々ホワイトハウスのミニチュアだったはずのものが、バラして組み立て直したらロボットになってる。
テキストの分解ってのも似たようなもんで、どうとでも組み立てられます。
_ 当たり前ですよね。同じ文章を読むとき、心穏やかなときと怒り心頭なときとでは印象が違う。聞いてる音楽だって影響してくる。
同様に、読んだ人がそれまでの人生でなにを積み重ねて来たかも違う。だから、同じ文章を読んでも受け取るものはちょっとずつ違う。
だから、どこまでバラすか、バラしたものをどう使うか。分析のための分解をする人は、そういうさじ加減を常に意識すべきだと思うのです。これが結構、難しいんですけど。
_ (コンピュータ)ゲームの評論って、難しいと思うんですよ。
ときには映画的な分析を要求され、ときには文芸的な分析を要求される。かと思えば、「ゲーム的」な分析を要求されることもある。
だからと言って、ゲーム批評の相変わらずの質の低さを弁護できるわけではありませんが。つーことで最新号読みました。
何本か批評になってる記事はありますけど、やっぱり大半はレビューどまり。
もっとも、批評なんて年季と知識がものを言う世界なわけで。しかも、映画評論とか文芸評論とか、一本の道だけでもそのぐらいの年季を要求する。これらを複合させなきゃいけないゲーム関係のライターに、40越えてる人がどれだけいるのでせうか。
(コンピュータ)ゲームは、まだ批評ができるまで成熟した文化じゃないのかもしれません、などと言うのはGameDeepなんか立ち上げた人間の言うことでないかな、たぶん。
_ ドラクエは「ゲーム」というよりは「冒険」であると考えてみる。
コンピュータRPG全般に言えることだが、プレイを進ませているのは「ゲーム」的な競技性・競争性ではなく、物語の展開や見知らぬ世界を知りたいという知的好奇心に因っているのではないだろうか。
_ コンプティークの読者賞でKanonがやたら強かったのは、アニメージュでナウシカがいつまでも人気があったのと同じようなことなんじゃないのでせうか? 明らかにファンを狙って囲い込んでるしさ。そもそも読者の投票で選択している時点で、ベースとなる層が選別されているわけだし。
_ どっか、CESA大賞とは別にゲームのアワード作ってくんないかな。商業的成功はCESA大賞がその役を担ってるから、それとバランスを取るようなの。売れた本数とか無視して選考する。結構大々的に授与式とかできるのが理想かな。
_ ところで、日記更新スクリプトを賢くしようとあれこれ画策していて気が付くとXMLのパーザー書き始めてる俺様はダメだと思います。つーか、人間の書く手間を低減するためにスクリプト化しているんだから、XML書くのを要求するのは本末転倒。
まあ、XMLパーザーをベースに略記法やらなんやらブチ込んでいけばそれっぽいものができるだろうから、それで良しと――するのか?
_ ここで宣伝して役に立つかどうかはしらんけど、2000年度星雲賞非公式ノミネートのページが昨年に引き続き立ち上がったようです。
_ 相当久々に小説の部屋更新。掌編「骸の指先」 冬コミに間に合わなかった超短編本の原稿流用。
ちうことは、他にも何本かストックがあるはずなので順次出すかと思いますです、はい。
Progressiveの原稿についても、解禁されてることでもあるしそのうち掲載したいな、とは思います。できれば書き直した上で(^^;
_ ええと、ふと思い立って(Visual or Sound) Novelは小説でないという話。
まだ考えがまとまりきってないので、いまいち中途半端。
ちなみに、某所に流したメールからの転載&改稿だったりするのはヒミツ。
_ 小説においては、確実に状況を伝達したければ、逐一文章で描写する必要がある。
たとえば、
「それっ!」
威勢のいいかけ声と共に、彼女は水に飛び込んだ。
跳ねたしぶきが、俺の体に襲いかかる。
「なにすんだよ」
小言を上らせた俺の口は、そこで止まった。
すっかり濡れた彼女の体に服が張り付いていて――
「スケベ」
からかうように笑いながら、彼女はTシャツを脱ぎ捨てた。
あらわれた水着姿にがっかりしながら、それでも胸の鼓動は、
おさまりそうになかった。
のように。
_ しかし、ゲーム表現においては、多数の表現レイヤーが存在する。
先のシーンを、ゲーム的なスクリプトに変換すると、次のようになるだろうか。
「それっ!」
(画面揺れ -< ブラックアウト -<水しぶきの音)
(メッセージウィンドウ白紙に・クリック待ち)
「なにすんだよ」
(メッセージウィンドウ白紙に・クリック待ち)
(画面切り替わり、服が濡れて張り付くグラフィック、IN)
……。
(メッセージウィンドウ白紙に・クリック待ち)
…………。
(メッセージウィンドウ白紙に・クリック待ち)
「スケベ」
見とれていた俺をからかうように、彼女が言った。
(画面切り替わり、服を脱いだ水着のグラフィック、IN)
_ ここでは、小説にない以下のような表現が用いられている。
そもそも、静的な文面しか持たない「小説」と違い、「ノベル型ゲーム」には文章・画像・音声と複数の表現レイヤーが存在する。しかも、それぞれを動的に扱うことができる。
_ そのため、ゲームの文章をそのまま小説に持っていっても「よい小説」にはならない。
広がった表現の幅に対応するために、小説に必要な様々な文章表現が削ぎ落とされているためだ。
「ノベル型ゲーム」では、文章は小説のそれにぐっと近くなるが、それでもゲーム表現であるゆえの表現は登場する。最低でも、それらの置き換えに文章を起こす必要が発生する。
_ では、それら別レイヤーの表現を、文章に「置き換え」れば小説になるのだろうか?
回答は、Yesでもあるし、Noでもある。
置き換えが、単純な置き換えだったならば、Noである。
画面に同じキャラ絵が出てくるのでも、場合によってその意味は違う。
あるいは、音楽による盛り上げで効果的に見せたシーンなどは、相応に効果的な文書を書き連ねる必要がある。
構成の中で表現がどのように用いられているか、それを認識した上で置き換えていくのならば、Yesになるかもしれない。
_ だが、そうした置き換えが、置き換え以上のものを要求する場合もある。
たとえば。ガンアクションを、文章化してみよう。
結論から言ってしまえば、ガンアクションとしての面白さに、文章で映像に勝てるはずがない。アクションとは「動き」であり、「動き」を見せるのに、映像は最高の表現方法だ。
それに立ち向かう文筆家はどうすべきか。多くの場合用いられるのは、比喩の多用である。インパクトのある比喩を多用し、文章それ自体の面白さをふんだんに活かしながら、動きを織り込んでいく。あるいは、アクションの中には直接現れない心理の動きを描写するのもよい。
これは、再構成と言ってもよい作業だ。より小説という媒体に適した形に、表現自体を変化させてゆく。あるいは、独自の解釈を加えていく。
_ なにも、小説とゲームの間に限った話ではない。映画、漫画、音楽、etc. メディア変換とは、翻訳と同じ作業だ。両方の特性を良く把握し、元メディアでしか表現できないことを、なんとか別メディアに移植していく。ときには欠損を補うため、創造的な仕事を要求される。
そしてそれぞれに、高度に複雑な技法が存在するのだ。優れた漫画の絵が、優れた絵とまったくイコールでないように、ゲームと小説に要求される文章は、違う。