父の手が緩むと、兄の手がこぼれ落ちた。沈黙のなか、兄の手が無機的にシーツに沈み、乾いた音が響いた。
涙は出てこなかった。父の嗚咽を聞きつけるまで、悲しいこととも思わなかった。
母の手が父の背中に触れ、まるで夫婦のように寄り添っていた。母の指先は、歳のわりに綺麗で細かった。
漠然とした脳裏で一つだけ、鮮烈に認識していた。
兄はもう帰ってこない。
悲しいとは思わなかった。ずっと知っていたからだ。私か兄か、どちらかがいなくなる。こんな形とは思っていなかったが、似たようなものだ。
最も恐れ、それでいて覚悟していたことが、兄の死という形で来ただけだった。
「母さんは、帰ってくると思うよ」
母が最初に見舞いに来た日、兄は言った。
きっとその通りになるだろう。私と兄と父の家は、私と父と母の家に変わる。家事に汚れぬ母の手は、けれど兄の死で強く結ばれるのだ。
兄の上に、父の手が力無く投げ出されていた。太く血色の良い指が、嗚咽に合わせ小きざみに震えていた。白く細く決して動かぬ兄の手とは、似つかなかった。
それは僥倖だった。似ていれば、私は母に嫉妬し、父の指を求めたろう。私が欲しかったものに、一番近いものだから。
ふと、自分の手を見たくなった。父よりは兄に似た指だった。けれど、やはり兄のそれとは違い、むしろ母のそれに近かった。ひとすじの嫌悪が走ったが、兄に似た亡骸の顔を見てそれを鎮めた。
「ごめんな、芹香」
触れて欲しいと懇願したとき、兄は私の手だけを握った。思っていた通りの、柔らかな拒絶だった。私は泣いた。本当に欲しかった唯一のものを、失ったと思ったから。
泣きながら、兄の命を繋いでいたか細い糸に手をかけた。
どうしても触れて欲しい。
その行為がどんな結果になるか、知らないわけではなかった。だからこそ、私はそうした。
けれど兄は黙って首を動かした。縦に、小さく一回。動いているかどうかもわからないぐらいささやかに。それだけしか、動かない。
私は、外せなかった。もうそれで十分だった。
兄は全てを私に委ね、私は兄を手に入れたのだ。兄はそれを、拒まなかった。
それから、兄に触れることはなかった。骸になってからも、なかった。通夜でも焼香でも涙一つ流さなかった。父のように喪失に苛まされることもなかった。泣くはずなどなかった。記憶からずれていく亡骸が灰に戻ったとき、私は安堵すら憶えた。
記憶の中の兄の手はもう変わらない。亡骸の指先はもう動かなくても、私の中の兄の手は私の心を掴み取る。他の誰かのものになって、私以外に向けられることもない。
私の、私だけのための、兄の指。
それは幻かも知れない。だが、たとえ幻であれ私は兄の指先を手に入れた。
いいや。手に入れたのは、私ではない。兄の指先は、死の向こうにありながら、私の心を鷲掴みにしているのだ。
それが骸の指先であるなど、構うものか。それだけが、私の切望なのだから。