Whiteのふりーとーく

2003年1月後半

About this Page |過去分一覧

原則匿名で公開・個人情報は送られません。必要に応じ御署名/非公開希望をお書き添え下さい。


_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)


1.16

@発熱状況終了

体温は36度台前半で安定。咳が結構残ってるけど。出社したら「痛ましいから帰れ」とか言われてしまいそうなぐらいには。まあ、明日の朝次第ですかね。

@システム。

当然のように暇なので、テレビが点いている時間が多くなる。

外交やら経済やら政治やら裁判やら教育やら薬害やら、あれこれ見ては似ているなあとしきりに思う。たとえば一つは「硬直化してしまったシステムと変わってしまった現状があり、システムは現状に頓珍漢な対応をする」という形。

強固なシステムを作るのに長けた国なのだと思う。ただ、構築されるシステムは対応を要求されたときに硬化するだけだ。

幸いこの国はご破算にしてやり直すのが存外得意であったりするので、それが正しく発動されればよいのだが。

@ねじれ。

「日本の政治家」にとって、利権のために動くことは正しい。なぜなら、今の日本の政治の場というのは利権の配分を決定する場でもあるからだ。ただし、その「正しい」は法律とう別の尺度で見れば正しくないだけのことだ。

だが、法律通りに活動していれば「よい政治家」たることができるのか。むしろ政治家の使命をよりよく果たそうとするならば、法を破る必要すらあるのではないか。

使命感と、利権欲と、どちらが先かはわからない。ただ、利権欲にまみれた彼らは確かに使命感も持っていて、密接につながってしまった両者を回しているうちに、たまたま槍玉に上がっただけなのではないか。むしろ彼らは、その手前で使命感を止めなかったという点において、より誠実な政治家だったとすら言える。

――かような物言いが、多分にレトリックでしかないことは承知の上だが。


1.20

@復帰。

よーやくお仕事復帰。とりあえずは溜りまくったメールチェックとかから。結局10日近く無駄にしてるし、あれこれスケジュール壊れまくりですよ。立て直し、できるかしらん。

@

同居人の日記に反応とか。

三位一体をどう取るかにもよるけれども、「キリスト(子)=神」であるとする一派も存在したはず。むしろわりとメジャーだった予感。

ローマ神話の諸神は、天使としてキリスト教の俗話に取り込まれていったのではないですかね。キューピッドとか。月の名前とかにもローマ神話の名残りがあるし。むしろこっちはものの本を調べてみたい気がするなあ。いい本ないですかね?>識者

@本分

多分ねじれにだと思いますけど、ツッコミとか来てたり。

正確に言うなら。

「政治家とは法を定める職業であり、現行法に拘ることは社会的に害である」ではないかと…

公利−利権−利己をどう区別し、どう結びつけていくかは政治家個人レベルのテクニックになるな。

広義の「政治家」とはもっと多様な形態を取り得る存在なのではないかと思います。法を変えるばかりが政治家の仕事ではない。たとえば、石原都知事は国法を定める権利を殆んど持っていない(選挙権などの一般的な国政参加権は持つ)ですが、間違いなく(現状の日本において)最強クラスの発言力を持つ政治家です。

政治家の本分とは「目的」をあらゆる手段で(多分に政治的にではでしょうが)解決していくことであって、立法も取り得る手段の一つでしかないのではないでしょうか。時には正しく「超法規的措置」を選択することも、政治家の仕事でしょう。現行法に拘るとか拘らないとかは、目的実現の上でのスタイルに過ぎず、逆にそこ(現行法の維持/変革)を目的にしてしまうのは本末転倒と言うべきなのかも。

_「利権そのものがいかん」「利己そのものがいかん」と言うのは無知で無責任な発言ではないのか、それは本末転倒な「正義」ではないのか、そのへんよく考えてみるべきなんじゃないかなとは常々思うところなのです。利己を目的として、その正当化のために公利を追求していただけるなら、その過程で若干の利権を運用しようと、政治家としては全く申し分ないわけですよ。

_目的のためなら清濁あわせのむことも必要なのに、ぼくらは綺麗事ばかり並べてたりはしませんか? その程度の政治感覚もない人間が、政治に口を挟むなよ、って主張なのかもしれません。

万民が政治に参加できるという触れ込みの民主政とやらが、本当によい政治システムなのか。小学生に組織的なプレッシングサッカーができますか?――というのと同種の問題なのかも。


1.21

@格闘中

Debianと格闘中。一部のパッケージをunstableにしようとしたりして。とりあえず学んだこととかを泥縄的にメモ。

慣れてないとかなり苦労します。というか、してます。

パッケージに頼らずに自力でソースから作ってしまう、RedHatの最新版突っ込んだ上でRawHideからパッケージ取って来る、などの方が楽かもしれません。それでもパッケージ管理することには魅力があるのですが、すると結局Debianのパッケージシステムを上から下まで勉強する羽目に陥りそうです。Gentoo Linuxとか、FreeBSDとかに逃げるのも手ですな。

以上、何故かperl-5.8のビルド中の空き時間のメモでした。最新版追いかけの道はかくも厳しい。


1.22

@思考のメソッド

巨大な事象の、それでも一部から判断してみることによって、初めて見えて来るものがあると思うのです。たとえば経済学や生物学なんて、まさしくそのような学問ですよね。事象をモデリングによって簡略化し、一部からでも推測し、推測に基づいて観察し、その結果からモデルを修正して行く――というプロセスは、知るための有力なメソッドの一つだと思います。

もちろん、「判断するには情報が足りない」「まだ情報が必要だ」と思うことは大切です。しかしながら、「判断してはならない」は無闇に決めつけるのと同じぐらいに危険でしょう。「判断しない」ことと「無闇に決める」ことは、どちらもある種の思考停止だと思います。

足りないことを承知の上でなお判ずることには意味がありますが、それが判断としては足りていないことは常に意識されていなければなりません。だからと言って、足りていないことを理由になにもしないのでは、始まらない。

@毒。

悪意があるから悪意を吐き、悪意を見るから悪意を感じる。全ては己の悪意以外に起因しない。

けれど明確に悪意を見せれば、それは更なる悪意を呼ぶのである。ひとたび動いた悪意の連鎖を止めたいならば、悪意の根源は重要ではない。今すぐに己に悪意あることを認識し、悪意なきことを願え。それでも己は悪意を吐くであろうが、ともかく己を戒めよ。

誰が悪いのではない。誰もが悪いのだ。

誰かが悪いのではない。まず最も身近な、己自身の悪意を鎮めよ。

なぜそこに悪意を感じるのか、その第一の理由は明白だ。己は悪意を持っている。一度悪意を知ったものは、もはや悪意から自由ではない。


1.23

@

に対して、江洲さんこばもすさんから反応がありましたので、それへの返答を。

_誰かが悪いと言っても、悪意の連鎖が止まるわけではない。「誰か」が自分自身であっても、それはなにも変わらない。連鎖が始まってしまっているなら、「誰か」に悪意が集中してしまうだけの結果になる。

そのような悪意の連鎖に陥ったとき、渦中にある全員が「自分も悪い」と認識して、めいめいがそれを正そうと努力することで、連鎖を断ち切れはしまいか、と思うのです。そしてそのためには、まずは「誰か」にまず努力を求めるのではなく、自分自身から努力を始めるべきだと思うのです。

その努力のために、まずは己の悪意を自覚し、次に悪意がなくなるようにと願う。そして、願ったその気持ちを、伝えようと努力する。

その努力を始めるときに、理由や原因などは必要ないでしょう。まずはその悪意の連鎖を止めること。理由や原因を求めるのは、連鎖を止めてからでも遅くないはずです。目の前の火事を消し止めるのに、まず原因の究明が必要だとは思いません(原因の究明が消火の近道である場合はあるかもしれませんが)。

_私の書いたものについて言うならば。

指摘されました通り、「」の段に書かれた私の言葉には、確かに悪意が含まれています。むしろ、そこに悪意が含まれていると自覚したからこそ、それを「毒」と名付けました。

それは、私の悪意に起因するものです。私は、悪意の連鎖に対して悪意を抱いています。その悪意があるから、私は悪意を吐く。吐いてしまう。けれど同時に、悪意なきことを願って、まずは己自身の悪意を鎮めたいとも思っています。特になにかがあったからではなく、常日頃から、思っています。

加えて、私は私の思っている鎮めのプロセスを、己の裡だけに留めるのではなく、誰かと共有したいとも考えています。そして、その思いを表明するのによい折であるかと感じ、だから私はそれを表明した。それが結果として悪意の連鎖を呼びかねないとも知っていましたから、その点において、私は糾弾されても仕方ないでしょう。

「お前の世迷い言など知るか!」と言われても、仕方がないと思います。それでも私は己の思惟を表明しました。ですから、それに伴う責任は(表明したものの常として)負わねばなりません。私の表明のゆえに、誰かが私に対する悪意を抱くなら、それは私の責任、私の悪意の成した結果です。

ただ今一度考えていただけるならば、このように言いたいのです、「あなたは私の表明から感じた悪意を、拡大の連鎖に乗せてしまってはいないか?」と。

_私は所詮人間であり、いわばできそこないの知性です。私は私の思考を表明するとき、私の感情が入り込んでしまうことを防げません。私は誰かの表明を受け取るとき、私の感情や先入観が入り込んでしまうことを防げません。防ごうと努力することはできても、私の知性は完全な清廉性を得ることはできません。

私が一度悪意を抱いてしまったならば、それはどこまで悪意として残るのです。私はそれを防げません。それでも私はその悪意がなくなるようにと願います。せめてそう願わなければ、その悪意が発露してしまうことを防ぐことなど、できないからです。

「いずれ当て嵌まる事もある」ではなく、今まさに、私は悪意を抱いていて、けれど悪意なきことを願っています。今起きようとしている悪意の連鎖について言うならば、その発端の責は私にあります。

_加えて、いささか余談になりますが、これも私の思っていることを。

己の意図を意図通りに伝えられない人がいたとき、その人に「意図を伝えられないお前が悪い」「だから意図を伝えるな」と言ってしまうのは、正しいことなのでしょうか。それは確かに、意図を伝えられない彼の問題なのかもしれません。けれども、彼の意図を汲もうとしない聞き手の側にも、問題はあると思うのです。そして私はそのような場面に出会ったとき、どちらかが悪いとは言いたくありません。それはどちらも悪いのではないかと、思います。

悪意の話についても同じ事です。どちらも悪いのならば、まずはより身近な己のあり方を正したいと思います。加えての弁明になりますが、私はそのような心持ちでありたいものだということを表明しただけのつもりです。書き方が悪かったとは思いますが、できるならば、そう私が思っていたというこの表明を加味した上で、今一度判断し直して頂ければ、と思います。


1.24

@or private letter.

はい。言われるまでもなく、私は私の思うように、私の責任の下において、私なりの想いを綴っていくつもりです。幸い、私と共にあり、共に優しさを探してくれるであろう人もいますから。世界は絶望に満ちていますが、それでも私は優しさを探し、見つけたそれを懸命な声で歌いたいと思っています。

ただ、私が欲しているのものは「私の思いで満たされた平和」ではなく「皆の優しい想いで守られる平和」であることは書いておきたいと思います。私は、世界を私にしたいとは思いません。私は、私以外のものやことを、それらが世界としてあることを、なにより愛していますから。

@

とかなんとか、小難しいこと書いてますけどぶっちゃけまとめると「もっと愛しあおうぜ!」みたいな非常に馬鹿馬鹿しい子供じみたキャッチフレーズになると思うわけですよ。「四の五の言わずにまずは優しい気持ちから始めてみようぜ」、ってね。

案外本当の大人というのは、子供じみた考え方を、実践できてしまう人なのかもしれません。そういうのに、憧れます。だから、頑張って実践したいと思ってます。とりあえずは、身近から。

@捕捉確認。

読んでますとがわアンテナ白山電波塔、の各アンテナからの捕捉を確認 & 捕捉先リストに追加しました。今後ともよろしくお願いします>管理者の方々


1.25

@

俺を攻撃するのは構わないし、俺を叩くことで自分の政治力を高めるのも構わないし、、徒に悪意を拡大させようとするのも構わないが、俺を愛してくれる/くれた人まで馬鹿にするのはやめろ。

――というこの言葉に、もちろん強制力はないのだが。


1.28

@

の段(と、それに続く一連の対話に対してだと思いますが)に、こんなツッコミが届きました。

難しいですな。いや、実は自分、whiteさんの「毒」の文に何の悪意もかけらも感じなかったのですがね。きっと同じ事を常日頃思って(考えて)いるからでしょう。まあ、2chに常駐してるからってとこがあれですが。でも、2chでは特にそうなのですが、そうやって悪意を抑えようとしても、回りって結構そういう悪意を平気っぽく撒き散らしてますよね。我慢してる自分が馬鹿みないに思えるくらい。つか、明らかに馬鹿みてますね。正直者は、善人は、馬鹿をみるんですよ。その惨めな境遇を甘んじて受け入れる心意気ってのは、結局個人の小さな意地でしかないのでしょうね。えー、何がいいたいかというと……ごめんなさい、どうやら愚痴のようです。自分のHP持ってたら、きっとリンク先のお二方にむかって「あれ? 俺は悪意感じなかったけど、お二人には何か後ろめたい悪意でもあるんでしょうなぁ」と悪意たっぷりにぶちまけていたでしょうね。反省反省。

同居人と、問題は「認識から思考に至るメソッド」にあるのではないか、というような話をしました。「彼らには、まず怒りや反発の感情があって、その感情をぶつけるために論理で武装しているように思える」「認識以降の論理に破綻がなければ、認識を疑わない限りその論理は正しく思えるのではないか」「でも『認識を疑え』って指摘は人によっては世界観の破壊の強要なわけで、そんなことされたら怒るだろう」「そもそも認識を疑うことをしない人にとっては、認識に疑いを持つことは非論理的なんじゃないのか?」「非論理というか、むしろデムパ扱い」「というか対話のメソッド(『伝達を正確にしろ』と『伝達はどうせ不正確だから修正しながらやっていこう』)もまったく噛み合っていない」などなど、あれこれ無軌道に。「俺らはSF者だから、認識の枠組みを取り換えてみる思考実験には割合慣れているのかもな」「というかSFにおける『センス・オブ・ワンダー』って、枠組み自体の破壊と入れ換え・再構築の楽しさだよな」という話の流れで、結局SF語りになってしまったりもしましたが。

閑話休題。

周囲が協調してないのに自分だけ意地を張ってもあまり効果は上がらないかと思います。それでも構わず馬鹿を見る、というガンジーばりの闘争方法も存在するわけですが、これとて周囲の目がなければあまり意味がないやりかたでしょう。

_私は、(意図せぬ)悪意の連鎖なんてものは「お互いの想像の欠如」から産まれるものだと思っています。書く側の想像不足のまま書いてしまったものを読む側が想像不足のまま読んでしまう、真意が伝わらないままに読む側が「真意だと思った」ものを手がかりに悪意の連鎖をつなげてしまう、とそんな感じで。

多分に場所にはよりますし、きっと相手にもよりますけれど、そういった類の想像不足に気付いたら、私は可能な限り想像を巡らせたいと思います。そういう、対話しようとする努力なしに、想像不足を解消することなんてできないだろうと思いますから。

もちろんまだまだ未熟ですから、努力不足とか言行不一致とか、そういうことになってしまうとは思いますけど、ね。


1.29

@

昨日の記述に、ツッコミが、ありました。

28日分のツッコミの掲載とそれ以下の「彼ら」への文章ですけれど、一連のFLAME?の中でのWhiteさんの文章群の中、初めて不快に思いました。主張には共感できますが、それを表現する方法として、肯定してくれているツッコミを自らの手で載せるというのは、うまくいえませんが、違うと思います。

#ところでツッコミの方、「我慢してる」とか、正直者うんぬんとか善人うんぬんとか、自分の正当性に自信ありすぎるというか、酔っていそうで危ういのですが。


想像不足、想像の必要性についてですけれど、こうしたFLAMEの起こった場合、見逃されている想像があるような気がします。

何故自分が攻撃されているかという根本的な問題についての想像。悪意を向けられた理由。

相手が悪意を向ける理由が「自分の」どこにあったのか。

自身の何が相手の悪意を刺激してしまったのか。

事態が「自分の中の悪意」や「言葉の行き違い」のような理由で起こることは意外と少ないと思います。

#犯罪行為への反発、或いは(うまくない例えですが)生類憐みの令のような行き過ぎた正しさへの反発とは、悪意だけが引き起こすものなのでしょうか。

また逆に、何故「自分が」相手に悪意を持つのか。その理由は何かを考えていくということも考えるべきでしょう。

相手のことの想像だけでなく、自分のことの想像。

いわゆる自省、ですね。


これまで、Whiteさんは皆に自省を促していたように思ったのですが、今回のやり方は自省とは逆ではなかったでしょうか。

悪意を持つ読み手が自分でなく相手だと自然に認識してしまった彼らと同じような思考メソッドに陥ってはいなかったでしょうか。

ツッコミの方のように自分の正当性への自信を持つことは大切であり、また、自身を肯定してくれる言葉は力になりますが、それに溺れることは自省を忘れ、誰かの悪意を刺激してしまうことにもなるのではないでしょうか。

先に寄せられた文を載せることについては、実は結構悩みました。仰られる通り、寄せられた文はあまりに私の側に好意的なものでしたから。

ただ、私のポリシーの話になるのですが、載せないことも「違う」と思うのです。「原則匿名で公開」と書いてある以上、私には寄せられたツッコミを掲載する義務がありますし、今までも特に私的な通信を除いては極力掲載するようにしてきました。そこで私の論の都合を優先して載せないと判断するのは、私のポリシーにそぐわないと感じました。

しかし、載せると決断したのはともかく、載せる際の取り扱いには失敗した点が多々ありました。たとえば、草稿では「好意的すぎる」と指摘する文を書いていたのですが、収まりが悪くなったために外してしまいました。あるいは、バランスを取ることを優先するなら、コメントを付けずにただ掲載するか、あるいはもう少しネガティブなことを書くべきだったのでしょう。私の悪い癖も出たと思います。なんでもかんでも思考実験の対象にして、思考実験そのものに夢中になって酔っ払ってしまうという。

――結局、「否定も肯定もせずに逃げようとしたところ、思考実験の罠にはまって、自ら想像不足に陥った」というようなことだったのだと思います。

_想像不足の話については、名状と着目の違いに過ぎないと思います。意志が疎通できておらず、悪意を抱いてしまっている。その原因をなんと見るか、そしてどこを手がかりに連鎖を修正していこうとするか、ということでしょう。

話がわからないときには、見えていないことがある。相手が戸惑っている、混乱している、怒っているという事実そのものが、何かを示唆しているはずである。――そういう小さなサインから、想像し、観察し、想像を修正していくこと。そういう作業の繰り返しが、きっと必要になるのでしょう。

たとえば犯罪行為への反発などは、悪意だけから引き起こされるものではないでしょう。しかし、ネガティブな意志は容易に悪意と結合しうる。善意や正義感(*1)を元にしていても、それが悪意となってしまっていないか、それを自らに問い続けるような姿勢が大切なのだと、私も思います。

_最後に、私の自分語りと、謝辞とを。私は自身の思考による探求に興味を持ち、それを動機として動いているのであって、思考の結果がどう実践されていくかということについては無関心とは言わないまでもあまり興味がない――というような傾向のある人間なのだと思います。だからこそ、人と関わろうと思うなら、あるいは関わってしまうことをするならば、そういった想像を極力巡らせなければならないところなのですが――今回の件に関しては、思慮が足りなかったようです。御指摘、ありがとうございました。


(*1)この文脈で、これらの言葉(善意、正義感)を使うことは、あまり良いことではないのですが、簡単のため使ってしまいます。


1.30

@

東京地裁、日本MMOの著作権侵害を認める中間判決──JASRACとRIAJ「高く評価できる」の最後、「たとえば、カラオケ店でビールを飲みながら音楽を利用するといった場合、ビールにお金を払うのは当たり前でも音楽にお金を払うことに違和感を感じる人もいる。音楽もビールと同じように、楽しむにはお金を払う必要があることを理解してほしい」を読んで、無伴奏ソナタ(*1)を思い出す。

音楽というものを考えたとき、そこに代価を払うと言う考えは、プリミティブなものではないように思う。誰かの口ずさんだ音色を、誰かが誰かに伝えていく。誰かの声に声を重ね、唱和の中に喜びや、悲しみや、怒りなどの、そういった感情を共有していく。音楽とはそのようなものであったはずだし、広がりを阻害するようななにかもなかったはずだ。

金銭だけが利益ではない。もちろん貨幣経済の世の中で生きていくには金銭が必要だが、生きていくだけの金銭さえあれば、あとは金銭以外の価値を優先して生きることもできるだろう。

成果に代価を払おうと言う考えには、賛同できる。しかしながら、代価が常に金銭であるとは限らない。

音楽に代価を払う人間は、まず音楽のもたらす喜びを知っている人間だろう。ひたすらに代価を求める行為は、音楽の喜びを知る人間を減らそうとする行為でもある。まるで、大地から実りを絞り尽くすが如く、だ。


(*1)同名書に収録の短篇小説。オースン・スコット・カード著


御意見・御感想の宛先white@niu.ne.jp