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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
いや実際、20世紀のゲームの最高到達点だとは思うのですよ。まだまだ、始まりの一歩ではあるんですけど。ゲームの歴史を体感できるチャンスですぜ、旦那方。
えー、その言葉は、Perlの(及び、その作者であるところのLarry Wallの)主張するところのプログラマの3大美徳です。Perlのマニュアルにも明記されています。
ちなみにこの美徳に従うならば、40時間も連続稼働するなどということはありえません。そんなに働かなくて済むように、不精を最大限働かせるのが正しい美徳を身に付けたプログラマです。
というか、あれです。この美徳を身に付けた正しいプログラマは、恐しく仕事をしていないように見えるはずです。なにせ少しでも手間なことは、極力自動化してしまい、どんどん仕事を減らしていくのですから。
父方の祖母が亡くなった、そうです。遠いので長年会っていなかったのですけど。
あの田舎の雰囲気は、幼心に大好きだった記憶があります。十数年ぶりの訪れは、寂しい記憶になりそうです。
ということで、葬儀に行ってまいりました。(こちらの)記憶には残ってないご老体たちの話の種にされて、俎上の鯉な気分も味わってみたり。
ちなみに婆様はそれは大往生もいいところで、俺も老いて死ぬるならこのように逝きたいものだと思うような最期だったようで。そういうふうに、立派に生きてみたいものです。
ときに私は捻挫などして帰ってきました。理由は恥ずかしいから聞かないで。
世はなべて巡るもの。情けは人のためならず。ということで、私の無精のためにもあなたはソースを公開すべきなのです。
LaTeX話。困ったことにすでにtabular環境では表が書けない体であるので、\defでマクロを定義しては\hboxと\vboxを駆使して作表、という非常に効率の悪いことをやっているわけだが、毎度毎度罫線の幅で引っかかる。あれの幅のせいで微妙にずれたりとかして気持ち悪いわけだ。
ちうことで、\hbox to0pt{\vrule\strut\hss}として幅のない縦罫線のマクロを作る。ポイントは\strut。
現在pLaTeXでコンパイルして22ページほど。つーか問題はあれよね、実験データの取得よね。あと1週間ほどでどーにかこーにか50ページ目標。中々厳しい闘いになる気がするです。
なにげにやる気が失せかけているので、充填用にと新装版の「シャカリキ!」の1巻と2巻を買う。
なにげに忘れていたが、当然のように面白いのでそのままハマる。読む読む読む。
なにげに研究室に行くのが予定より○時間遅れる。
なにげにダメな感じである。
ということで、早くも我が家には「シャカリキ!」新装版の3巻と4巻があるのです。ダメじゃん。
それはともかく、およそ屈指の山場とも言える4巻でとりあえずお腹いっぱいでした。いや、久々に敗北感を味わいましたですよ。
そんなわけで、やる気充填から本末転倒に至っていたはずが、さらに本末転倒に至りやる気がバッチリ満たされたようです。
問題は、満たされたやる気が決して卒業方向じゃないってことだけ。
ところで捻挫が捻挫で捻挫なわけで、まだ足首は回復してないのです。
そんなわけで、学校に来るのも思わず自動車で、となるのですが、ですがうちの大学には自動車の入構規制があるわけです。不用意に許可なく駐車場に止めておくと、いずれ学長様に平身低頭して恩赦を頂かねばならなくなるという特典付(事実誤認)
そんなわけで、おのずと学校に来る時間はチェックがなされない夜中になるわけです。
そんな昨日の帰り道。
いや、見事に凍っておりました。タイヤはばりばりグリップ失うし、超安全運転で帰りましたとさ。
卒論をLaTeXで書いているとですな、へっぽこTeXnicianの血が騒ぐのです。
ということでLaTeX話。調査に一時間半を要してなんとかこぎつけた、\ref{}コマンドの出力形式変更の話。
以下のようなスタイルファイルを作って読み込んでやれば、出力が変更できるです。
\expandafter\def\csname prefigure\endcsname{図} \expandafter\def\csname postfigure\endcsname{} \expandafter\def\csname pretable\endcsname{表} \expandafter\def\csname posttable\endcsname{} \expandafter\def\csname presection\endcsname{} \expandafter\def\csname postsection\endcsname{節} \expandafter\def\csname prechapter\endcsname{第} \expandafter\def\csname postchapter\endcsname{章} \def\refstepcounter#1{\stepcounter{#1}% \protected@edef@currentlabel {\csname p@#1\endcsname \csname pre#1\endcsname% \csname the#1\endcsname\csname post#1\endcsname}% }
これで\ref{参照名}とやると、「図4.2」とか「第3章」とか、普段\ref{}の前後に自前でくっつけてるあれやこれやが勝手に出るようになります。
せめて、なにか一つ、貫き通さなければ、必要も意味も理由もないこの生きるという事象に、耐えられないのではないか。そう思う。
_現実と記憶がそんなはずはないのに重なることがある。既視感、というやつだ。
それが子供のころから大嫌いで、いつかそうなった上で、思っていることと違うことをしてやろうと思っていた。
ただの脳の錯覚である。そう思考停止をすれば、なんということはない。今見ていることを、さぞ以前から記憶していたように、脳が勘違いしているだけなのだ。
だが、そうできない理由がある。くだらない、子供じみた意地だ。したくない、と言う方が正しいのだろう。
_目はあまりいい方でない。むしろ、悪い。耳もあまりいい方ではないように思う。
それをひどく残念に思う。何故俺の目は、耳は、世界をもっと美しく脳裏に刻んでくれないのだろうと。
ひどく鋭敏でいたいのだ。わずかなことにも動揺し、心震わせるようなものでありたいのだ。そうやって、あるがままに震えつづけて、生きていければどんなによいだろうかと。
そういう意味では、今の方がずっと子供だ。得られもしない知覚を、あるものと必死に信じ込んで、至れはしないかと足掻いている。無駄なことをしている。
_あのときに、重なったのだ。
拡がりと、敗北とを感じたとき。目指していたものがこの先にあるのことを、識らずとも感じ取っていたのだ。
その感覚に従えば、得られるのは絶望以下だった。従わずとも同じことだったが、とにかく従うか、従わないかしかなかった。
_どちらでもない、選びもしなかった。
己の感じたものがなにを意味するか、理解するには未熟だった。そのあまりの重さに耐えていることもできなかった。
今にいたって、まだ選択はなされていない。そもそも、選択が可能かどうかもわからない。ただ、かつてよりはずっと冷静で、成熟している。それが世の言う意味での成熟であるかどうかは別として、俺は俺の意味で、成熟していく。
_世界を憎んでいるといいいながら俺は世界を愛しているし、でありながらも世界なんてどうでもいいと思っている。たぶんもう、貫くことぐらいしか残っていない以上、貫けさえすればそれでいい。