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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)
星の、バベル(上)[新城カズマ、ハルキ文庫、ISBN-4-89456-944-2]読了。書評風に感想など。
_なるほど、サイ工ンス・フィクションだ。
「星の、バべル」は、SFである。これ以上ないほどに、SFである。
けれど、そこから感じる匂いは、どこかSFのそれでないのだ。読みながらずっと、この違和感はなんだと思っていた。猛烈な勢いでそれが解けたのは、一冊のほとんどを読み終えた頃のことである。
思えば、新城カズマの小説は、どれもこれもそうだった。それはSFなのにどこかSFらしくなく、あるいはちっともSFでないはずなのにやたらSFの匂いがした。いったいこの匂いは、なんに由来するのかと、ずっと苦慮させられてきた。上質のストーリーテラーでありながら、どこか本質を感じ取りにくい作家。ところが、「星の、バベル」は、その本質を存分に感じさせてくれる。
_通常、我々がSFという語彙を使うとき、それは暗黙に以下のような意味を持っている。すなわち、「これは飛躍した自然科学的思考に基づいたフィクションである」と。自然科学の諸理論をベースに、少なくともどこか一点、飛躍を混ぜこみ、そうして構築されたものを、トリックなり、舞台なり、事件なりに用いて、そうして作られた作品を、普通はSFと呼ぶ。
そういうベースがあればこそ、SFは多種あれどどこかSFらしい匂いを持ち、SFとして認識される。ところが新城カズマという作家は、自然科学に基づきもしないのに、そんな匂いのものを書く、そういう奇矯な作家だった。少なくとも、「星の、バベル」を読むまでは、そのような作家に思えた。
_SFという言葉を考えてみよう。すなわち、Science Fiction――「空想科学」。ところで「科学」というものは、実に広範な領域を持っている。SFという言葉から通常連想されるより、ずっと多くの領域を「Science」は含んでいる。自然科学だけではない。科学は、社会科学や人文科学をも、その腹に抱え込む。
ここで、「星の、バベル」から、作者紹介の一部を、引用しよう。
『小説家、古書蒐集家、言語愛好家。』
『趣味は散歩・架空言語の作成・エンガチョ研究・水路地探索・ラテン語・自転車・長いあとがき。』
見えることは明白だ。無軌道ではあるが、どこか人文科学的。そしてなにより、衒学的。
_改めて言おう。「星の、バべル」は、SFである。これ以上ないほどに、SFである。それは、まさしくScienceに基づいた飛躍であり、飛躍の結果に基づいたフィクションである。
そしてそれは、多くの本を愛するものが、目を背けることのできない領域をこそ考えぬいた末裔である。だから、これが圧倒的にSFであることを承知で、敢えて言おう。「星の、バベル」、まごうことなきこの人文空想科学小説を、すべての書籍愛好家は目にするべきである。本を、知識を、愛して愛して愛した末の、飛躍がここに詰まっていると、私はそれを証言しよう。
どこか不可解であった作家の、やや遅れた、けれど早すぎるファンファーレを、本を愛するもの、言葉に目を背けずにおれないものは、この本を、読むべきである。この、星のバベルの物語、まさしく言葉についての物語は、間違いなく、あなたを魅了するであろう。あなたが本を愛すれば、愛するほどに。
午後二時ごろにBD-1で出撃し、USER'S SIDEでSound Blaster Audigyバルクを購入。これまでのサウンドカードがあまりにも安物なのに業を煮やして。
午後五時頃に秋葉原を出て、靖国通りを取って新宿に。で、ヒゲ、もとい∀GUNDAM劇場版I「地球光」。立ちあがりこそむむむと思うものだったけれど、あれだけの話をよくも見事にまとめるもんだといった感じ。とても凝縮された2時間、堪能してきました。\ともかく、続きが楽しみです。
∀GUNDAM劇場版II「月光蝶」。あっちこっちであれこれ言ってたように、結構ざっくり飛ばして話が始まる。で、後は話がどんどこ流れる流れる。ジェットコースターみたいな快感が気持ちいい。ただ、やっぱり単体の映像作品として見ると微妙にトバし過ぎな感じがあって、ちょっと尺が足りないかな、という雰囲気はある。\
というか、∀ってわりと各話にまんべんなく情報を散らして重ねていく(そのくせに捨てエピソードほとんどない)ので、総集編にするのは大変だろうなあ、と思う。その予想される大変さを考えると、劇場版はすばらしい出来なのだけど。まあ、∀という作品に興味があるなら、オススメだとは思います。総集編としても、あるいは入門用としても。
ところで会社の席が暑い。この時節だというのに、袖をまくっておかないと、暑くて頭がぼうっとしてくるぐらいには、暑い。
別に脱水症状で死ぬとかではないが、なんとなくぐんにょりしてくるぐらいには暑い。すなわち「こんなんで仕事になるくわっ!」というぐらいには暑く、能率は大変低下する。
なんか夏場も(冷房がかかっているにも関わらず)そんな感じであった。実際、微妙な気のせい(あるいは言語化できない未知の感覚)によるものではなく、明確に肌に感じる実感として、「空気が淀んでいる」と断言できる。
対策としては、水冷、部品交換、ヒートポンプ機構による強制冷却、などが考えられるが、水冷は明らかにその場しのぎであるし、部品交換しようにも交換されてはたまったものではない(*1)。ヒートポンプ機構は当然ながら御予算の問題と言うものがある。
ということで、空冷である。窓が開いたり夏場に試験的に導入された先輩御提供の扇風機が登場したりして、空気の循環を行なってみるわけである。
非常に原始的で単純であるが、単純なだけに効果はある。むしろ問題は、この時期は日本の能率を大変効果的に下げるスギ花粉攻撃が存在することか。
(*1)第一、人材募集の要件に「暑いのに強いこと」と書いてあるのはどうかと思う。
私の言語感覚では、"last modified detected" = 「最後に更新されていたのを探知した」と思える。「探知しようとした」ではなくて、「探知された」という意味に、思える。従って、「Last-ModifiedをDetectedした時刻」 = 「Last-Modifiedの直後のDetect時刻」が、Last-Modified-Detectedだと思える。
結局のところ、"Modified"も"Detected"も時制が過去なのが違和感の正体なのではないだろうか。
現実はどうかというと、「Last-Modified-Detected」は、「最後に確認を行なった時刻」という意味で用いられている。この意味であれば、「Last-Last-Modified-Detected」あるいは「Last-Verified」あたりが妥当なのではないか。というか、昔の「Date」の方が意味的には正しいような気もする。
とはいえ、仕様としては、論理的に「こうだ」と定義されているのなら問題なかろう。そこで発生する問題は「直観的でない」という齟齬であって、しかもhina.diはそのレベルでの齟齬を相手にするべきでない、と思う。たとえば、"referer"みたいなもんだ。
――というような記述がどこかにないかと探してみたが、ないらしい。むむ。ひょっとして俺の英語の感覚が間違ってるということか。だれか指摘ぷりーず。
_そこからついでに顔文字考。確かに顔文字は便利ですが、純粋に文章だけの世界で表現しようとする人からすれば、それは「邪道」でしょう。新しいことができるからと言って、テクノが全ての音楽に代わるわけではないように。
そもそも正道、邪道なんて、自分の立ち位置で変わるもんです。そのへん、常に憶えておきたいものですが、中々そうもいかないもので。
基本的にはハードキーを使いまくるのが勝利の鍵。本当はThumbType用に、あれこれキーバインドできればいいんですけどねぇ。
個人的には、子音引き辞書とか作って試したときは結構快適でした。
ところでhina-mlに晒しageされた(<違)MISXですが、現在肝心のサイト設置場所がハウジング先のアレっぷりのせいで大変つながりにくくなっております。当然のことながら、最近のあまりのアレっぷりに組合内部では「イ○ター、捨て」動議が今にも発動しそうな勢いだったり。
_まず、現行著作権法モデルは、プログラム著作物に対しては完全に破綻しているのではないかと思います。だいたい、改変・翻訳されることが前提の配布物なんてものを、現行著作権法のベースモデルは一切考慮しておらんのではないでしょうか。
結局、現行著作権法モデルは「著作物の配布」を規定するものであって、「利用」を規定するものではない。そこで各種ライセンス条項はそのへんを無理矢理ひねり出しているというのが現状。
ときに、「黙って使うのは著作権法違反
」は微妙に嘘ですね。現行著作権モデルを厳密に考えるなら「無断での変換(≒翻訳)」であっても、個人的非営利範囲での利用ならOKのはず。
_ところでチューリング・マシンと計算可能性のことを考えれば、あるソースAをあるソースA'に作り変えるという行為は、計算可能なアルゴリズムAA'として規定可能ということが自明であるかと思われます。証明:だって実際にA'になってるだろ?(*1)
さて、計算可能なアルゴリズムとして規定可能ということは、そいつをプログラムがやろうと人間がやろうと本質的な差はないということになります。では、アルゴリズム化できることを人間がやったからと言って、それはなにか特別な意味があるのか? 人間の手が入るという精神論を、法の適用に対して強要するのか? いずれ、「思考する機械」と人が認めうるものが出てきたとき、「でも彼は人間でない」と言って彼の行為を別物と扱っていいのか?
_おそらく。それは本質的に結論が出せる問題ではないでしょう。程度を調べて、意図を調べて、情状酌量の余地があるか検討して――利益衡量の結果として、そのときの妥協点を見出していくべき類の問題でしょう。
だからこそ、余計な手間を減らすためにも、必要な利益衡量の枠組(=「利用」についての権利)をとっとと決めていただきたい、とか思うわけですが。とはいえ、日本の法理論では難しいでしょうな。
しかしこうして考えると、現在の人類社会の法律とは、なんと人間中心原理に満ちているかと思います。いや、人間が人の間のいざこざをどうにかするために作ったものである以上、至極当たり前のことですが。
_で。
突然話は変わると言うか元に戻るというか、ともかく要するにCopyleftというのは、そんなこといちいち考えてプログラムが組めるかッ!というプログラマの本音の表出だと思うわけです。四の五の言わずに好き勝手利用させろ!と。いちいち出どころなんぞ憶えてられんし気にしてられるかと。
そういう本音がまかり通るようにするために、そんなん考えるのも面倒だからえーかげんなところで手打ちにしようぜ、なあ兄弟、っちうのを性悪説的に実装するとGPLになり、性善説的に境地に至るとBSDライセンスになる、と。
_でま、そういう精神を踏みにじってでも利益追求をしたいのなら勝手にやればいいと思います。無論、行為の意味を理解しているなら、ですが。無責任に無責任な行為を取るのは、まったくもって許し難いことです。
協調論的アナーキストを自認する私としては、こういうのは法律の問題よりは仁義の問題で片付けたいもんですが、仁義で世の中うまくいかないから成文法があるのですな。まったくもって、最大多数の最大幸福はかくも遠いのです。
(*1)一応、冗談。しかしながら、人間が作業して作業が終わっているということは、それはほぼ間違いなく計算可能であろう、とも指摘しておく。
先刻の電波文章は、個人的には計算可能性のあたりがお気に入りなのですが。あるいは人間中心原理が云々とか。自分でも惚れ惚れするぐらいの話の逸れっぷりが素敵、と自画自賛なのですがそんなアレにツッコミがあれこれ。
_性善説性悪説は、わりとよくある対比だと思う、のですけど。むしろ今回の記述のウリは「実装」と「境地に至る」のつもりだったり。
_性善説でもなんでもない――ふむ。確かに表出しているライセンス自体は、そのように記述されています。実際そう機能するとも思います。ただ、協力の申し出を拒むわけでもないでしょうから、「関知しない」というのも微妙に嘘かと。ま、論文等で自ずとフィードバックが発生する学術系らしいライセンスだとは思います。
「日本の法理論では難しいでしょうな」ってのは、違います。
著作権法は、国際条約で定められているので、これは日本固有の問題ではありません。
む。そなのかー。またひとつ賢くなたよー。でもこんな話もあるらしいし、まったく一枚岩というわけでもないようで。
この雑誌、Numberに比べると優等生的というか教科書的で、手堅さゆえに際どい面白みは薄いのだが。
東京国際マラソン日本最高順位選手の話。異様なほど端的に、日本マラソン界の寒い現状を曝け出している。
UEFAチャンピオンズリーグ連載、バイヤー・レバークーゼンの回。親会社の色濃いクラブでありながら、極めて地域的なクラブ。トップではないがよいフットボールたろうとする姿勢。興味が湧いた。
週末はあれこれ見たり話したり。
_土曜日。"The Lord of the Rings" 第一部 "The fellowship of the ring"をレイトショーにて。私個人といたしましては真夜中に見てそのまま夜明かしとか希望だったのですが、同居人氏とか某たつや氏とかの意向を汲んで19時からの回で。ちうか、後から着くと既に並んでいた某氏、チケット買わずに漫然と列に並んでいたのはどうよ。
で、肝心の中身。素晴らしい。それに尽きます。映画のために再構成された新しい指輪物語は、原作ファンならずとも必見。まだ第一部でありますが、全く不安を抱かない完璧に近い出来。この映画なら、「もうひとつの指輪物語」として、新しいファンタジーのスタンダードとして、原作に恥じない位置付けに値するでしょう。
出だしこそ、前章としての「ホビット」がないぶんのしわ寄せがあったもの、中盤以降の展開、映画ならではの疾走感、いや増していく映像美――この幻想を、見逃すべきではないと思います。
_で、終了後は茶などしばきながら同居人様、たつや氏とあれこれ駄弁。エヴァの収拾のなさ、という話から対比にウテナを持ち出したたつや氏に対し、「ウテナは(全体を通じた)構成が完璧なのではなく、最初から箱庭の中で箱庭を壊さない話をしているだけだ」という論旨で今回もたつや氏を微妙にやり込める。更には、「箱庭を作った時点で、ウテナに許される結末は箱庭の破壊だけだろう」とか。破壊をやらないと延々とマンネリを繰り返すことになる、とも。
設定収拾つながりでONEはどうよ、という話も。あれで完璧だと主張するファンタジー萌えのたつや氏に対し、「そりゃあーお前さんの嗜好だろーよ」と激しくツッコミ。
_日曜日。午後4時ごろに家を出て、私は自転車、同居人は電車で秋葉原合流のパターン。で、秋葉原に行くと予期していなかった顔が。大学の同期で学類卒が私と同じ年の彼、と言えばわかる人にはわかろうて。なにやらひょっこり出会ったらしい。で、彼を交えて食事。ひたすら私と同居人が馬鹿電波会話を交わすのに、彼が圧倒されていただけだったような気もするが。
_で、帰り道にシルマリルの新装版を発見したので上下巻まとめて入手。高校時代に図書館で借りたときはあまりの読みにくさに挫折したもんですが、果たして今回は如何に。聖書かなにかとみまがうばかりの、まさしく「神話」な文章がなんとも。
_書き忘れ。日曜日に見たもの。ギャラクシー・エンジェルを初体験。やりすぎ。客はひたすらおいてけぼりだし、オチもつけずに放り出すし。どうも今回は結構やりすぎな方らしいんだけど、それにしたってこりゃすげえや。ちうか、ここまで無法なことができるってだけでも、もう十分価値ありまくり。突然変異的になんぞ出てくる土俵として、またーりとシリーズが続いていくことを期待したい、かのう。
お昼休みにお買いもの。で、微妙に気力が沸かないこともあってそのままパラパラと流し読みモード。
_WEB+DB PRESS vol.7。
なんかちょっとトピックが増え過ぎで散漫としているというか。紙幅が足りなくなると理屈が削れて実践部分ばかりが並べ立てられるようになる、という一般的傾向を忠実になぞっているような。精読すれば印象変わるかもしれないけど、ちょっと厳しい雰囲気かも。図表類の色気のなさとか、トピックの印象の薄さとか、Software Design誌の悪いところがそのまま継承されてるなぁ、と。
_WebSite Design vol.3。
結構、理想のムック形式雑誌なんじゃないかと思う。定期的に購読しているコンピュータ系の雑誌の中ではピカイチ。理屈をこねて図表で納得させるとか、図やソースやコラムの置き方とか。流し読みするものとしても、精読するものとしても、高いレベルで機能するようにできている、と思う。記事の内容も良いものが多い。Web関係で仕事するなら、わりと必読。
以前構築したcvsupでレポジトリバックアップのサーバの挙動が不安定に。社内サーバ群再構築に伴って廃止される見込みなのも手伝って、別の機体で環境を作ってみるも、cvsupの負荷の前にNICだかドライバだかが死ぬ罠。間近に迫るサーバ群再構築までは現状 + 適当な頻度でtar+gzバックアップ、で誤魔化す方向かのう。
輪行ってわけじゃなく、極力そのまま自転車を列車に持ち込んで、移動して、乗るってスタイル。現愛車のBD-1は、スポーツ性と携行性を高い次元で兼ね備えた名車だと思うが、やっぱり畳んだサイズが大きい。
ということで、Transit Compact、STRIDA、CLICK Folding Action 1あたりが2台目候補。Traincleという選択肢もあるけど。ちなみに目下最大のライバルは今更感絶頂のキックボード。携行性・走行性能のバランスということを考えると、あれは相当優れていると思う。
絵的な側面での「模倣における逸脱」が、あんまり起こっていないってのもあるかと。なにせジャンルがジャンルだけに、絵だけは絶対的に正しく量産品であるべきなので。
あー、でも漫画とかアニメでは「頭がおかしい(=意図的に構図やデッサンを崩した)」絵/画が存在しますな。単に絵主導でやりすぎる人がゲームに走らないだけかもしれんけど。
絵でやりすぎない理由の、jagarlさんの説明に妙に納得。確かにシナリオ書きが発注するなら、シナリオ書きの都合・思考が最優先になってしまいますな。
そこで敢えてすんごい絵をぶつけるという戦いもありだろうけど、それは「商品」作りではないでしょうな。
鍵が(というか、麻枝が)見ているのは、細部にいかに神を宿らせるかなんではないかと思います。彼らは良くも悪くも物語しか考えてないので、「俺にゲームをやらせろ!」とか叫んでも無駄。アントニオ・バンデラスに小津映画の髄を求めるが如く。
葉には素振りが足らんのです。前提となる模倣もなしに無闇に逸脱したって、カラ振りするのが関の山。\そりゃあ当たればデカいけどさ。
と書き散らしてから、微妙にこのあたりにつながるかもとか思ったり。