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Think after RGN#1(1)

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Think after RGN#1(1)

ゲームと死、ということで言うなら日刊良スレガイド:超怖いゲームみつけたのこのスレタイトルがとても示唆的だと思う。

以下、ネタばれを気にせず書くのでやってみたい人はまずやってからにして欲しい。と断りを入れた上で。


愛と勇気とかしわもちにおいては、要は作者がプレイヤーに対しフェイクをかけている。メルヘンな見かけを裏切るように、死を暗示させる演出が挿入される。言ってしまえばそれだけだ。

だけれどそこで出てくる感想が「怖い」なのが興味深い。作者に対しての感想でないのは明らかだ。あるいはそこで使われた手法に対しての感想でもない。もし感想が作者や手法に対して向けるのであれば「ひどい」とか「悪辣」という形容が使われるはずだ。だが、そうではなくて「怖い」。

_「怖い」というのは多分に内的な体験だ。たいていのものは、自分に近しくなければ「怖く」ない。NBC兵器やその類を怖れるのは自分や近親者に使われたときのことを想像するからだし、「日本の年間自殺者3万人」というフレーズより「親友が自殺した」という事実を想像するほうがずっと怖い。

そして、プレイしてみれば確かに愛と勇気とかしわもちは、怖い。そう、「怖い」のだ。それはそこで暗示された死が近しいものであるということを意味する。画面にほんの少し寓話的なものが出てくるだけなのに、絵面で言えばより怖い絵なんて世の中にごまんとあるのに、それらよりも怖く感じるのだ。あるいは悔しいと思うのだ。

同じような構成の絵本を「怖い」と思うことはあるかもしれない。だけれどこれはそれよりずっと怖い。そしてなにより絵本では、悔しいとは思わない。絵本で物語を解決するのは読者ではないから。対してゲームで物語を解決するのはプレイヤーだから。

作者はこのフェイクをかけるにあたり、確かに計算を行っている。けれどこの物語が――プレイヤーが「怖い」「悔しい」と思ったその物語が成立するには、プレイヤーが必要だ。ゲームにおいては、小説や映画やまんがほど作者の力が強くない。プレイヤーは読者とは違う。読者はそこにある物語を読み解くだけだが、プレイヤーは物語に最後の一筆を加える役割を担わされる。

_だがそれは、結局のところプレイヤーの内的な体験だ。RGN#1の話でいけば、濱野氏からのコメントで出たプレイヤーの体験の差異による解釈・感想の島宇宙化の話、そのものだろう。

とはいえこれはゲーム特有の問題ではない。同じ問題は、「読む」という行為でもつきまとい、小説や映画やまんがもこの問題から自由ではない。だが、ゲームよりは自由だろう。読者はプレイヤーよりよほど小さい力しか与えられておらず、そこに描かれてしまった物語に抵抗することは許されない。だがゲームは、どうだろうか?

愛と勇気とかしわもちは、そんなゲームの特性をよく使った作品だ。ただプレイと関係なく、いくつかのシーンが流れるだけなのに、プレイヤーはそれを自分の責任だと思う。どうにかできないかと悔しむ。そこで起こった死を、とても近しいものと受け止める。そして、足掻く。

_しかしこの話を延長していくと別のややこしい点にブチ当たる。世の中のゲームにはそうでないものもある、という点だ(ex. FF7のエアリスの死)。

おそらくはゲーム的・動的な(プレイヤーに責任のある)死と、物語的・静的な死ということなのだろうけれど。このへんには、まだまだ考えるべき余地がある。

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