Whiteのふりーとーく

2001年5月前半

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_ 掲示板:YaPW 旧掲示板 SMIL Boston日本語訳(頓座)



5.2

@稼動

居候氏の余剰部品で組まれていた焼き&DVD用PCを私用の主機に変更。旧主機であるところのK6-2 350MHz君には、40GBのHDDを突っ込んでLinux + Sambaなファイルサーバに。これまで旧主機に存在していた共有ファイルの類いをあらかた移動。

あとはLinuxからプリンタが動かせるなら、そちらに移管してしまいたいところ。動作例捜そっと。

@粉砕

購入されたJornada680君でしたが、導入翌日に不意のお茶を食らってキーボードが死亡と相成りました。ちうことで、バラして清掃作戦実施ナリ。

以下、バラすときのポイントとか。

  • 裏面前部の3つのネジが、キーボードモジュールを固定している。(六角の星型のネジを外すと、キーボードモジュールが持ち上がるようになる)
  • キーボードモジュールは上からプラスチック、フィルム、アルミ板の順に構成されている。
  • キーボードモジュールはネジの類を使わず、一体整形のプラスチックの一部をリベット状に使用することで圧着されてる。リベット状の部分を一切破損せずにフィルムを取り出すことは不可能。思い切りよく(でも余計なところを壊さない程度に)やってしまうが吉。具体的には、適当な位置にツメなりマイナスドライバーなりを指し込んで、テンションをかければよい。
  • キートップを外すと後で戻すのが面倒なので、できるだけ外さずに作業するとよいかもしれない(外してしまい、やたら苦労した)。
  • 元通りにしようとしても、たぶん浮き上がってしまう個所が出る。適当なテープで固定してしまうべし。

それから、フィルム間の清掃にはスピリタス(*1)が多いに役立ちました。酒飲ませたら復活した、というと語弊があるけど(^^;

流石に元通りの使用感、とはいきません。キーボードモジュールごと交換しちゃうのがベストでしょうね。

*1アルコール分96%という非常に強烈なウォッカ。と言うとゲテモノのようだが、ちゃんと旨いウォッカである。ただし、冷凍庫で冷やすことは必須。

@幻想楽曲

居候氏がガンパレのサウンドトラック「幻想楽曲」を購入。ついでに試聴なぞ。

元曲を壊さず、けど大胆にアレンジが入ってるあたりが好み。なにげにサブのラインを浮き上がらせてたり、生音アドリブ全開で録ったバージョンを使ってたり――純粋なサウンドトラックとはちょっと異質ですが、良いアルバムです。



5.6

@観測問題

むしろそれはわたしよかC.F.さんの担当領域のような気がするのですが、それでも挑戦は受けねばならんのです――ということで、影王さんのこちら(5/4付)から、ゲームにおける観測のお話など。元話題からあさっての方向に突っ走ってるのはご容赦を。

_ゲームがシュレディンガーの猫状態――という言い方をするならば、ゲーム全般どころかあらゆる表現がそうだと思うのです。

そもそも、ある人が見ている作品世界というのは、その人が表現を受け入れることによって(その人の中に)生まれた写像です。その写像がどのような形になるかは、一度表現を受け入れてみなければわからない。要するに、観測者であるはずのものが、実は被観測者だったりするのです。まぁ、この話突き詰めても、観測者自身も観測によって変化する、という結論が出てくるだけですが。

_でも、ゲーム的なものとそうでないものの違いはここから先にあります。要するにインタラクティブ性なのですが、プレイヤーは観測よりもう少し能動的に思える働きかけることができるので。それにより、プレイヤーは作品世界により積極的に参加していくことができる――とかいうのが、いわゆるゲーム性の意味とか言って取り沙汰される部分だったりするわけですが。

_ところが、この事象を、観測という概念を使って認識しなおして見ると、奇妙なことが見えてきます。実は変容しているのは写像のみであり、表現やその記述自体は、まったくと言っていいほど変容しないのです。

いちおうフラグ状態の変遷、とかいうことは起こっていますが、それは最初から想定された動きでしかない。にもかかわらず、観測者はゲーム表現自体が(あるいはそれの示す作品世界自体が)変容したと感じるのです。

観測者によってゲームがプレイされるとき、その作品世界が変化し収束しているという感覚は、観測者の側で起こっていることです。それがゲームの側に起こっていると感じるのは、極論すれば錯覚です。

_人が因果があると感じるのは、なにかをしたら、なにかが起こったから、です。たとえ両者の間の関係が希薄なものであっても、人はそこに因果を感じます(日頃の報い、とか言いますよね?)。これをして「人は物語を探す生き物である」と言ってもいいですが。

ともかく、因果の綱を握ることは、人に親近の情を引き起こします。ただの恋人同士よりも自分が引き合わせた恋人同士の方が気になりますし、どこぞの誰かの子供よりも自らの身を分けた子供の方が大切だったりするわけです。

_本来、ゲーム表現と観測者の間に因果の綱はありません。ところが、観測者は表現から得た写像を得る過程で、あの手この手で働きかけを行います。働きかけを行うことによって、自分の行動が反映されたという感覚を得て、そこに因果の綱を感じていくのです。結果、実は綱が表現そのものには届いていないにも関わらず、観測者はその表現に親近の情を抱くようになります。

今あるゲーム表現は、本質的にこの片思いの構造でできています。それがこういう思考を経て届いたものかどうかはわかりませんが、この構造に自覚的な表現もいくつか存在します。

_それがたとえばクロノアとかガンパレとかだったりするわけで、だから私とかはギャーギャー騒ぎ立てるわけです。つっても、こんなに明白に理屈立てできたのは、今回が始めてですが(笑)

ただし、ガンパレにはその先を見据えてるような部分はあるかもしれません。写像越しの片思いではなく、表現そのものが変容してくれるような姿を、究極的には目指しているようですから。


5.8

@色。

Libretto C1、もとい新型Libretto

実機見るまで結論は出せないけど、なんつーか色がないというか、どこまで見た色というか。このクラスのマシンって、どのぐらい遊んでるかとかが重要に思うのだけど、あまりに優等生的な出来。悪くないんだけど、悪くないだけ。

まあ、売れるんでしょうね。売れるんだろうけど、熱狂とは縁遠そうな、印象です。

@

近頃巷で話題のMK2さんの日記、最新版など、近況とか痛話とかのふりしてなにげに単なるのろけなあたりが素敵。\

@流行りもの

気がつくと、refererが検索エンジンだったりするものが、すべてGoogleになっていたりする。さもなくばyahoo経由のgoogle(^^;

前々から、なにげに検索「検索エンジンrefererを検索フォームにあらかじめ投入」をやりたいとは思ってたのだけど、これならgoogleだけ対応すればよいような気もしてきた。いや、ほんとはそんなの錯覚だけど。

@

ということで、なにげに実装しました。Googleから検索で当たると検索語が勝手にフォームに入ります。SSIゆえに可能な技です。つっても、関係あるのは偶然ここに来た人であって、普段ここ読んでる人には関係ないですな。

@猫の住まいし遊戯の彼方

予想通り泥沼というか最初から沼にたどりついてない状態に陥ったゲームにおける不確定性の話。

_えー、とりあえずは「写像」という言葉について。

私言うところの「写像」とは、かようなものです。

すなわち、表現=観察=観察者という系があるとき、表現と観察の間に見える「なにか」です。

たぶんC.Fさん言うところの「立ち現われてくるなにか」と近しいものではないかと思います。

実はそれが存在するのは観察者の中なのですが、観察者の主観からすれば外側にあるように思う。そういうわけわからんちんなものです。そういうものを「写像」と名状したのは、観察者側からの印象に強く依り過ぎていたかもしれません。

_ときに、このわけわからんちんぶりは、内的世界と外的世界の接点がどこなのかわからない、という問題に帰結していくかと思います。接点はどこまでも外にも中にも持っていけるけど、どこに仮定しても正しくない、というモデルですな。


_多様性とか可能性とか。そんなこという人、嫌いです――は冗談として。

ゲームに挑もうとするPLには、「そのゲームをやろうとしている」という非常に強い限定がかかっていると思うのです。それをとっかかりにある程度の近似はできると思います。特殊例については考えても仕方ないでしょう。ゲームのプレイ中に腹が減るのにはゲームによる立ち現われが関係している、とか言われても困りますから。


_今更Air論。

Airという表現は、「V = 観察」によって、「S = 観察者」が変化することこそが意図だったかもしれない、と思うのです。しかも、問いかけや提起によってではなく、変化の行方そのものをコントロールするようなものだったのではないか、と。彼がそれまでの観察を行なってきた個人であることは、なにより重要なわけですし。

つーか、このへんの話はやっぱりGameDeepで要リベンジなのかも。

_失敗談。話ができなかったのは、奴が悪いということで決着しときましょう(笑)


5.9

@進捗

まったく予想外の方向から「月姫やれ電波」を飛ばさないで下さい。余暇時間はProgressiveの原稿書いてて忙しいことになってるんですから(--;

ときに、肝心の原稿はまったく無軌道に書いておる最中です。半分ぐらいは書けたけど、アトランダムな半分だから間埋めが地獄っぽく。軌道は見えてきたので、そろそろいーかげんGo/NoGoの判断せんといかんですか。鋭意努力しますです>関係各位

そんなわけで俺様が月姫始めるのは来月になりそうです。今月中に始めたら原稿が間に合わなくなることは大確定っぽいし。

@ふにゃふにゃ。

なんちゅうかあれだ、やる気が起きない日はとことんやる気が起きないのだ。

ということで、今日は新規のコーディングはほとんどなしに、ad hocに組んでたあれこれのモジュール化。こういういいかげんな仕事してると、大規模開発で痛い目見るんだろうなぁ。


5.10

@収束と発散

わざわざ別ページまで立てていただいて、とにかく議論は続きます。

実は自分でも用語が混乱してたりしたのを実感してて、非常に申し訳ない気分なのですが。

_そのいち。おわび。

私が発展させた部分は、そちらから提案された話とはちっとも関係ありません。ゲームの話というより、作品と読者の関係、と言ったほうが正しい話ですし。どちらかというとたつやさんに吹っかけるべき議論なのかもです。

これはこれで面白い議論なのですが、とりあえず後回し希望。

_そのに。認識できないなら存在しない、について。

たぶんこの件については、影王さんの推測がちょっと違っているというか、あるいは誤解させてしまっているのかと思います。

私なりの解釈では、かように考えております。

  • 私が確かに認識することのできる、世界を認識できる存在は、唯一私だけである
  • 私にとっては、認識できないところの世界が、どうであろうと、意味がない。それが存在していようがいまいが、認識できないのだから考える必要もない(というか、認識していない以上考えることもできない)

これは非常に主観世界に重きを置いた物言いです。客観世界を信仰する人とは相容れない考え方かもしれません。

_そのさん。補足。

「それ以外のなにか」について。

これは議論の過程において「主観世界以外のところに存在するなにか」を名状するときに、冗談めいた意味を含めて使われた言葉です。どのような冗談であるかは推察してください。むしろ違います。帰れ

_そのよん。観測問題(主観世界)。

客観世界と主観世界、という話については、同意します。ただ、先の発言においてポイントだったのは、「写像は主観世界の側にあるにも関わらず、客観世界のものであるように思っている」という点です。

これについては謎企画で議論されることもあるでしょー、ということで。

_そのご。観測問題(客観世界)。

ようやく本来あるべきレスポンスです(笑)

影王さんが仰られている、選択、収束のサイクルは、ゲームそのものです。「ゲームの正しい因数分解。」的に言うならゲーム理論のゲームに近しいもの、私がやりたいと思っている利得状況の一人遊びへの拡張に相当します。

ぶっちゃけた話、そここそがゲームです。で、私言うところのゲーム表現という言葉のうち、狭義のものはそういうゲームを利用してなにかやっているもの全てを指します。広義だとそんなことちゃんちゃら考えてないものも含みます。

ちなみに狭義のゲーム表現には「狂ったようにパックマンをさせるゲーム表現」とか「あまりのできそこないぶりに大笑いさせるゲーム表現」などというものも含まれます。

_そのろく。表現とは、何ぞや。

表現とは、作者の主観世界を基に生成された客観世界です。これは、作者の主観の投影ではありますが、作者とは独立して存在するものです。

一度確立され、読者の手に渡った表現が、読者によってどう扱われようと、作者にはそれに干渉することは不可能です。この不可能性をもって、表現はほぼ完全な客観世界となります。ただし、作者と読者との間に双方向性が維持されるような表現では、その限りではありませんが。

ゲームにおいて、選択によって変化するのは表層でしかありません。ページをめくったからと言って本が変化してしまわないのと同様に、その本質までもが変化するわけではありません。いわば分岐は、特殊なページめくりでしかないのに、そこに強く収束を感じるのはなぜか。このへんに、ゲームの効能があるように、思います。

それから、影王さんの誤読を一つ指摘しておきます。「変化し収束しているという感覚」があるからと言って、変化や収束が起こっているわけではありません。起こっているのは、「変化し収束しているという感覚」を観測者が得ていること、です。

@

こんなものを読みなどし、普通はAirみたいなシロモノは、彼岸の物語なんだよなぁ、とか思ってみる。従って、以下Airのネタバレ。自己責任で読むように。

_彼岸のものとして見ていては、たぶん表現の持っている狙いは掴めないであろうと思う。その根拠になるのが、いつぞやのコンピティークの麻枝コラム:ガンパレにハマッたと宣言してた回、の記述だったりするのは微妙に嫌な感じだが、とにかくAirがプレイヤーというものの存在を明確に意識して構成された物語であることは、おそらく間違いがない。

_それにしたってこの文章、よくもあんな個人的な物語から、こんなたいそうなテーマ性を見出せるものだと思う。っていうか、Airなんてホンマに個人的な、ミクロな視座の物語であろう。あれこれ準備したはずのメタファーもモチーフも投げ捨てて、クライマックスに母娘の物語がやってくるあたりが如実にそれを物語っている。その後なにやら凄い勢いで話がマクロに持っていかれるが、あれはワイドスクリーンバロック的な、ありていに言ってしまえば、だましのテクニックでしかない。

_ところで私ののたまうような立場からすれば、最後に観鈴が死んでしまうのは、それが完璧なまでの母娘の関係を(物語上で)成立させる唯一の方法であるからで、結局あの一瞬を極限まで高めるための演出でしかない、とか思うわけだ。

とか言うと、観鈴萌えとか言ってる人々に恐ろしい勢いで反感を食らいそうだが、しかしそこで観鈴萌えとか言ってしまっていること自体、Airという表現の演出の所作である、と私は思っている。そこで観鈴萌えとか言っていることで、あのシーンの衝撃は何倍にも増大されるのだから。

_要するに何が言いたいかというと、Airというのはあの一瞬の衝撃のためだけにある作品だったのだろう、ということだ。たいそうな設定もモチーフも、すべてはあの一瞬にプレイヤーを激情させるためだけの演出であり、あるいはテーマがあることですら演出に過ぎないのではないか、とか感じてしまうのだ。

だからこそ、用意して与えるのではなく自ら発見させるガンパレに麻枝氏は敗北感を覚えたのであろうし、それゆえになお違うものを目指そうと決意したのであろう。

_とかなんとか言っているが、結局はこれも私の内にあるAirの写像を使った遊びであって、表現は作者の手を離れた瞬間に読者のものになるのであって、それがどんな解釈されようが手の出しようがない、という事実を再確認しただけの作業にすぎないわけだ。

ただ、こういう再発見を私にもたらしたと言うだけでも、値段分の価値はあったように思う。

@

異体字検索の仕方。どこかで「内部コードに変換してインデックス生成、内部コードに変換して検索」という話を読んだことがあります。コンピュータ上で検索する場合限定ですが、これだと重複登録はしなくて済むはずです。インデックスサイズを減らしたいなら、良いかも知れません。以上、御参考までに。

@拡張の果て

そろそろいいかげんここの日記用スクリプトの公開でもするかと考えて、サンプルだのソースだのに手を付けるも、あっさりと挫折。ものすごいスパゲッテイをほどくのは断念するとしても、SSIに依存し過ぎです。

基本的にとことん静的生成なので、ログ取りとかは仕方なくそうなってしまうですよ。

まぁ、あれだ。週末に小説書きの息抜きに作業するかと思います。


5.11

@果てない夢

「本当に変化する」ゲームは、ゲームを作る人間なら一度は憧れる夢だと思うのです。それができれば、仮想世界を本当に無限にできる。作った自分さえ知ることのできない世界を見せてくれる。

実は密かにダビスタとかサカつくとかがそういうものなんじゃないか、と思ったりもします。しかし、そういうものも結局どこかに越えられない枠があるわけです。スポーツの世界新記録みたいに、どこまでも伸びていけるわけではない。どこかで「ああ、これはやっぱりゲームで枠を越えられないんだ」と知覚してしまう瞬間が来る。

_それが、来ないこと。

ゲームにとってそれは究極の目標のひとつです。たとえばティル・ナ・ノーグはそれに大きく近づいたために今なお語られ、ガンパレはこれまでないほどにそれを感じさせたためにデジタルご本尊と化した。あるいは限られた人々は、TRPGの中にそれを見出して熱狂した。

けれどいずれも、完成には至っていない。いちおうネットワークゲームがその夢を大きく広げそうな位置にはありますが。たぶんそれでも完成はしないでしょう。

_本当に、こちらからの干渉によって、変化を遂げるゲーム。それはもう、ゲームと言うよりひとつのパートナーとなるのかもしれません。


5.12

@連続への補完

好評かどうかもまるきり不明なゲームと観測の話、まだしばらくは続きます。

_ゲーム表現について。補足させていただきますと、ゲームは、「状況」と「選択肢」があったときに「利得」を鑑みて選択を行うことそのものを指すのであって、表現が選択されるはその結果として起こる事象です。(ADVの場合特に)そうでないことがないんでどっちでも一緒なのですが、今後のポイントになるかもしれないので突っ込んでおきます。

それから、それ(ゲーム)を表現として利用する方向としては因果を感じさせるのもありますが、逆に選択をまったく無駄にすることで絶望感を与えるというようなベクトルもありますな。つーか、GameDeep的にはAirがそういうものだったと主張して憚らないのですが。

_分岐していく表現について。

一つ、重要な観点が抜けているかと思います。表現が排他的に分岐していくこと自体が、表現である、という視点です。

実は、分岐性を持つADVというのは、プレイヤーに選択させ変化させ収束させる、という表現なのではないかと思うのです。かなりの極論だという自覚はありますが、完成した表現としてゲームを見るなら的確な指摘なのではないかという自負はあります。

あるいは、「作品内世界」についての認識の違いもあるかと思います。

_以下、無茶なことを言います。

実は、よくよく考えて見ると、ADVのテキストから与えられる情報が連続したものであるという保証はどこにもありません。どこにもないのに、普通プレイヤーはそれを連続であると思います。

なぜかというと、人間というのがそのようなものだからだ、と思うのです。実際連続を保つように書かれているのもありますが、なにより人間がそこに連続を(物語を)見出そうとする生き物であるから、なのではないかと。

そこに収束が見出せるのは、それが収束であると意味付ける存在がいるからであり、しかし客観世界のものはそもそも意味付けをされるような性質のものではないはずです。ならば、そのようなもの(収束という意味付けを与えられるもの)は、主観世界にしかありえないでしょう。

それゆえ、それが客観世界での収束だと感じるのは錯覚である、というような発言がでてくるわけです。

@スパゲッティ

日記スクリプトの公開準備を試みて、スパゲッティに発熱してみる。

htmlのパーズとかしないで、よくこれだけやってるよなーとか思わなくもないが、その影響は限りない可読性の低さとして見事に反映されてるわけで。

非常にダメダメな感じである。いやまったく。

@いきなり

フレッツADSL開通。

んが、いきなりブロードバンドルータのファームウェア書き換えに失敗して不通状態に。シリアルから復旧できるとの事だったので、まさしく秋葉原に出かけていた居候氏に連絡してシリアルケーブルを入手していただき、事無きを得る。


5.13

@トラブル

問題は続いて、ADSL導入直後からSambaのパフォーマンスがやたらと低下。ネットワークの向こうのデータを、オンデマンドにCD-R書き込めていたものが、どんな小さなものでも数秒かかるという有様に。

まーあれこれ原因探って、得られた結論はネットワークケーブル換えたこと。前のが短かったから、しばらく使ってなかったケーブル引っ張り出したんだけど、外れを引いた模様で。別のケーブルに換えたら、笑えるぐらいに速くなりましたとさ。


5.14

@最果て行き

写像――この言葉もあれこれ無用な混乱招いているような気がしますが――の形成の個人差っちう話は、狭い意味でのゲーム論の話の人である私としても重要なのです。

いや、ゲームとしての利用を考えたときに、理屈が立つならかなり便利になるので。

ただ、鍵っ子とか、そういう妙な集団化しちゃう層の生成とか考えると、こんどはちょっと作品論とは違うところにとんでしまうかなと思います。まさしくNordland行き、が望ましいネタですな。


5.15

@人として

おうちマシーンが常時接続になったのを記念して、screenを試してみる。

で、速攻で虜に。

つーかあれだよ。なんで俺様今までこんないいもの使ってなかったのだよ。ダメじゃん。むしろ人として間違ってるね。これで俺様人としてどうかと思うところから、ひと皮むけたって感じですか? UNIX使う人なら、使わないのは嘘だね。かなり圧倒的に嘘。

あー。でも、TP220では使う気にならんかな、流石に(--;


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