「……動く」
純白のエヴァの血潮で手を紅く染めたアベルが、言った。
「動く? 何が?」
「船……大きな……方船」
シンジの問いに、アベルは何かに魅入られたように応える。
「ヘクサ=アークズ……未確認情報だったけど……」
アスカが口にしたその名は、以前から報告だけはなされていた名。
シンジは、以前読んだ報告書の記憶を紐解いた。
「名前だけで実体は不明。ただ、S2機関が搭載されているらしい……
か」
「そう、神様と同じ力を分けてくれるものが入ってる。神様にしか造れ
ないはずの船。……それを造って、神様になろうとしてる人がいる」
『空間歪曲確認。規模はこれまでで最大級!』
カオリの声。
『質量の出現兆候を観測、推定質量……1000万トン』
続く男性オペレーター――長門の声。
『もう一つ、同規模のものが確認されました』
「……1000万トンか、思ったより小さそうね」
少し引き釣った笑いの、アスカ。
「……ポジトロンライフルで射撃……ってわけにもいかないのか」
いつの間にか、次の使徒が接近していた。
シンジは慌ててソニックグレイブを振るい、間合いを取る。
『私なら1人で何とかなるから、アンディを下げて!』
メイロンが言うも。
『ダメよ! いくらG装備とあなたの腕があっても、戦力は全然劣って
るんだから!』
鋭いリツコの声が、否定する。
だが、何とかしなければならないのは皆が分かっていた。
だから。
「……僕が、行くよ。大丈夫だよね、ここは?」
言って、アベルはシンジとアスカ――初号機と弐号機の方を振り向い
た。
「辛いけどね」
嘘もごまかしもなしに、ただそう告げると、シンジはアベルを追い越
し、その向こうに迫る敵に斬りつける。
「早く戻って来なさいよ」
前進したシンジに代って、彼が正対していた使徒の前に立ち、鋭い攻
撃を繰り出すアスカ。
2人の息が荒いのは気のせいではない。
疲労で限界が近いことは、容易に見てとれる。
だが、いや、だからこそアベルは決断し、その身を翻して、遥か上空、
今まさに出現した巨大な半球状の2つの方船を見上げた。
「行ってくる」
告げると、アベルは瞳を閉じ、一歩だけ踏み出した。
それを端から見ると、少年の姿が髪の色と同じ淡い金色に染まり、空
気に消えたように見えたろう。
その一瞬は、殺伐とした戦場に似つかわしくないほど幻想的だった。
「帰って来るまでどれだけかかるかな?」
「帰って来れば分かるわよ!」
それぞれにそれぞれの戦いを続けながら、シンジとアスカは言葉を交
わした。
最初の頃に比べ、動きは緩慢になっていて、力もない。
既に的確な戦闘ができるというだけでも脅威と思えるほど疲弊してい
る。
『アカリ!』
悲鳴にも似たアンディの声。
ただ、音声しか伝わらぬ中でも、その叫びは尋常ならざる事態を告げ
ていた。
『ダメ、来ないで、アンディ!』
それ以上に悲痛なアカリの声。
『アンディ、戻りなさい!』
ミサトの声も、また、悲痛。
それから、アンディの咆哮。
「シンジ!」
気を取られたシンジを襲ったのは、一条の閃光。
声にもならぬ絶叫が喉からもれる。
ただ、半ば本能的に身をよじり、その閃光から逃れると、初号機は倒
れ込んだ。
朦朧とした意識の中、アンディの猛りとアカリの叫び、それにアスカ
の雄叫びが微かに聞こえ……
『……それで、終わりか?』
唐突に響いたその声は。
『お前には、失望した』
確かに、父のものだった。
「違う! まだやれる。僕は、まだやれる!」
勢い良く立ち上がろうとする。
『帰れ』
だが、その身は動かず、ただ罵倒がシンジに降り掛かる。
『帰れ お前は不要だ』
『僕は、捨てられたんだ。僕は、いらない子供なんだ』
「違う、違う、違う、僕は、ぼくは……」
ぐるぐると繰り返される言葉が、シンジを壊し。
しかし、唐突にどこかが叫んだ。
「僕は、ぼくだ!」
突如視界が晴れ、自分が初号機のエントリープラグの中で初号機は倒
れていて自分の代りに弐号機が戦っていてアスカもまたあの閃光を浴び
て悶絶していて戦場の別の場所ではアンディが決死の突撃でアカリを死
の淵から救いなおまだボロボロになったままで戦い続けていて。――そ
して、今自分が立ち上がって戦わねばならないことを理解した。
雄叫びを上げて、立ち上がり、取り落としていたソニック・グレイブ
に代ってプログ・ナイフを構え、閃光もかくや、という速度で踏み込ん
で目の前の使徒に叩き付けた。
声にならぬ使徒の絶叫を聞きながら、シンジは両の手に力を込め、ど
こか魚介類を思わせるその使徒を指し貫いた。
そうして、はじめて自分が精神攻撃を受けたのだということに思い至
り、安堵の息を漏らした。
『アスカに精神安定剤投入!』
発令所でも同じ結論に達したらしく、そんなリツコの指示が飛ぶ。
なぜ耐えられたのだろう。
そんな疑問が首をもたげたが、答えを求める暇もなく、次の敵が視界
に現われる。
アスカは、未だ回復せず。
1人で、粘るしかないのか。
でも、アスカを守るためなら、戦い抜いて見せる。
そんなひどくシンプルな考えで、シンジは足元のソニック・グレイブ
を拾い上げ、武者震いを1つ。
負ける気は、しなかった。
逡巡。
これを壊せば、沢山の命が消える。
その事実は、わかっていた。
勝つ。
そのことと、沢山の命が消えること。
どちらが大事かは、知っていたつもり。
壊さねばならぬ。
決めたはずなのに。
僕自身を、純白のエヴァを倒したときに決めたはずなのに。
二律背反。
それでも、アベルには決断できなかった。
彼自身の『強さ』故に。
コアを指し貫いたソニック・グレイブが引き抜かれ、それに呼応する
ように輝きが失せた。
「……次は!」
頭を上げたシンジの視界に入ったのは、真紅の巨人。
『アスカが、回復したわ』
リツコの声で、なんだ、と安堵の息を漏らしそうになる。
だが、それはすぐに戦慄に変化した。
その巨人の頭部の形状は、明らかにエヴァのそれなのだが――だが、
どうみても弐号機のそれではなかった。
しかし、なによりシンジを驚愕させたのは真紅のエヴァからの通信だ
った。
「……久しぶりね、シンジ」
From EVA-09の文字が鮮やかに浮かぶその画面。
一瞬、何かの冗談と思った。
「驚いてるみたいね? シンジ」
その彼女の口ぶりは確かに惣流・アスカ・ラングレーのもの。
『シンジ、どうしたの?』
別のウィンドウが開く。From EVA-02の文字列が、シンジを凍らせる。
「……アスカが……ふたり?」
『どういう事なの、シンジ君?』
ミサトの問い。
しかし、シンジが反応するより早く、九号機の中のアスカが口を開い
た。
『クローニング、って知ってるわよね?』
微笑み。
『わたしと、弐号機のアスカと、どちらかがクローン。……どっちがそ
うだと思う?』
愉しささえ覗かせる、その瞳。
それは確かにアスカの表情。
『さあ、アスカ、あなたの記憶に残ってるかしら、記憶を写すために脳
をすっかりスキャンされた事?』
「……その頃の事は、あいつらが私を洗脳するときに、消されたもの!」
必死で抵抗の声をあげても。
『違うわ。ネルフに教えたくなかったから、写さなかっただけ。
私は、覚えてるわ。全身くまなく調べられた事も、脳をスキャンされ
たことも』
弐号機の――シンジの知るアスカの顔は、嘆きに染まっていた。
もう1人のアスカが、冷酷に告げる。
『消えなさい、偽物の私』
「そんな……そんなはず、ない!」
魂の悲鳴。
『さあ、シンジ、どいて。その偽物を、歪んだ魂を滅ぼさなきゃ』
シンジの知るアスカの顔で、彼女は言った。
「……違う……違う、私は、偽物なんかじゃない!」
アスカの嘆きは、続いている。幼子が泣きじゃくるようなその声は、
シンジの中でレイの最後の涙と重なった。
「……それが、どうしたんだ?」
だから、シンジは、ありったけの想いをぶつけるように、言った。
「僕にとってのアスカは、弐号機に乗ってる、この5年間を一緒に過ご
したアスカ! それが造られたものだとしても、ここにいるアスカが僕
にとってのアスカ!」
まっすぐに、見慣れぬ真紅のエヴァを見据え。
「さよなら、アスカ」
憐れみと哀しみの詰まった目で彼女を見ると、シンジは駆け出した。
躊躇いなく得物を振るう。それは、間一髪で避わされるが。
『本気なの? 私は本物の、アスカなのよ!』
狼狽した声。
『お願い、やめて、シンジ』
止まらない。
ただ、嘆きと哀しみを込めて、斬撃が次々に繰り出される。
閃光。
真紅のエヴァの左腕から生えた剣が、紫のエヴァの長刀を受け止めて
いた。
『……本気、なのね』
シンジの答えはない。
ただ、繰り出される次の斬撃。
真紅の右腕の剣がそれを阻み、左腕が紫に突き出される。
それは容易く装甲を貫き、深々と初号機に突き刺さる。
絶叫とも吠えともつかぬ声がシンジの喉からあふれ、素早く引き抜か
れたナイフが、真紅のエヴァの頭部装甲を貫いた。
紅い液体が溢れ出し。
断末魔の悲鳴が轟く。
それは、ひとひらの涙をシンジに誘ったが。
まだ残る敵が、それ以上の悲しみを許さなかった。
だから、最後の悲しみを込めて、もう一度つぶやいた。
「……さよなら、アスカ」
『あなたの力は、そのぐらいじゃないでしょ?』
???
『できるわ、あなたになら』
……母さん?
アベルは、目を見開いた。
目の前に、光を放つ球体――S2機関。
これに手を添え、わずかに願えば、この方船は力を失くす。
「でも、どうすれば!」
『願えばいいの。あなたの思った通りに』
「願う……願う」
そう、何をしたいのか。
ぼくが、ここになにをしにきたのか。
使い方は、ぼく次第。
ぼくが、何を願うのか。
アベルは大きく頷いて。
そのとき、そこにはもう、彼女の姿はなかった。