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第16章 方船は、在らず

 プラグスーツに着替えたシンジがケイジに出ると、そこにはアベルが
いた。
「僕の力とエヴァを結ぶんだ。神様の力をいつでも分けてあげられるよ
うに。僕のもらった力は無限だから、エヴァもずうっと動ける」
 何かを確かめるように、左手を閉じたり開いたりしながら、アベルは
言った。
「おとぎ話か何かだな、まるで」
 アベルの言葉を聞いて、シンジは素直な感想をもらした。
「そう? そうかもしれない。僕だって、いまいち信じらないからね、
こんな力」
「いいかげんだな、随分と」
「うん。でも、信じていなくても力はあるんだ。それを使えば、みんな
を助けられる。だから僕は力を使う……シンジも一緒でしょ?」
 シンジは僅かばかりの苦笑をもってアベルに答える。
 アベルはやはり微笑みで応えると、軽く手を振るった。
 何か、見えないもの――けれど、確かにそれはある――がエヴァとア
ベルの手を結ぶと、その何かは空気に溶け込むように消えていった。
「これで僕が生きてる限り――違うな、僕のもらった力が残ってる限り、
エヴァは動き続けることができる」
「すごいんだな、アベルの力は」
「神様の力だからね」
 アベルはくすり、と笑った。
「さ、行こう。敵は、待ってはくれないもの」
 シンジはうなずいて、それから扉を開いている初号機のエントリープ
ラグに向かう。
 無機的な扉の向こうの微かな血の匂いは、記憶どおりだった。
「乗れるのだろうか」
 そんな逡巡が飛来するが――しかし、選択の余地はない。シンジは意
を決して、大人用のシートに身を預けた。
 搭乗確認キーを差し込み、捻る。
 プラグが微かな金属音と共に密閉され、暗闇が全てを支配する。
『準備はいいかしら、シンジ君?』
 闇の向こうから、リツコの声。
「ええ、いつでも」
『では、エントリープラグ、投入』
 すぅっと、落ちるような感覚。
 それから、ゴボゴボというLCLの満たされていく音。
 照明が点き、すでに腰までLCLに浸っているのが明らかになる。
『エヴァの内部に微弱なエネルギー反応……アベル、これ、異常ではな
いのね?』
『はい、大丈夫です。僕の力を分けてるだけですから』
『了解……と、シンジ君、いい?』
 大きく息を吸い込み――しかし、LCLの中では何も吸い込めはしな
い。肩透かしを喰らった気分を払うように拳を固め、シンジは答えた。
「はい」
『なら、起動プロセス、始めるわよ』
 それから、おなじみの専門用語の羅列。何のことだかさっぱり分から
なかったそれらは、今はどれも意味のあるものとして入ってくる。
『起動臨界……突破。エヴァンゲリオン初号機、起動しました。現在、
シンクロ率、70%依然上昇中』
 マイク越しに、オペレーター達の驚嘆の声が続く。
「信じられませんね。前に乗った時はぜんぜんダメだったのに」
 14年、最後にエヴァに乗った時のことを思い出しながら、シンジは
つぶやいた。昂ぶりを抑えるように息を吐こうとして――呼気をどうこ
う出来ないと言うことに気付き、苦笑する。
『シンジ、調子はどう?』
 アスカの顔が大写しのディスプレイが出現する。
「ああ、息をしなくていいってのにちょっと戸惑ってるよ」
『へぇ、随分初歩的なことで悩んでること。往年のエースパイロットも、
ブランクには勝てないってわけだ』
 すこし、ニヤニヤとした笑いのアスカ。
 沈黙。そののち、アスカの顔が引き締まる。
『シンジ……約束して欲しいの』
 Private――個人間通話を示す文字列が、アスカのモニター上に点いて
いた。
『ここに、私達の家に、絶対、帰ろうね』
 真摯な瞳。
 その瞳に、幾度となく見て来た子供達が重なる。
 仕事に出かける度に見る、まるで2度と帰って来ないと思っているので
はと感じるような、あの視線。
 そう、きっとこんな気持ちであの子達は何度も何度も僕達を見送って来
たんだと、ようやくシンジは気付いた。
 今度はもっと優しく出際の挨拶をしてやらないと、などと考えながら、
シンジは質問の答えを紡ぐ。
「……ミサキにカオルにナギサが、待ってるからね」
 その答えに、モニターの向こうのアスカがにっこりと微笑んだ。
『発進30秒前!』
 和らいだ雰囲気を引き締めるように、カオリの声が割り込んだ。
『15秒前……5秒前、3、2、1』
 突如全身を襲う猛烈な加速度。
 微かにカオリの声がゼロを告げたようにも感じたが、それどころではな
い。もっとも、LCLのおかげでその重圧にも関わらず呼吸困難に陥るこ
とはないのだが。
 そして、再び視界が開け、重圧が最後の余韻を残して消えた時、そこに
は全てを埋め尽くすような純白の天使の軍団が待っていた。

「……これで……12!」
 8度目のアンディの射撃。
 彼の手にしたポジトロンライフルが、一気に2体の敵を貫く。
『……そろそろ砲戦は無理よ。次の作戦に移行して!』
「まだだ、あと1発は撃てる!」
 ミサトの指示にそう言い返すアンディ。
「あれだけの敵だ、一つでも多く撃ち落とさないと!」
 空薬莢を排出するように切れたヒューズを交換し、焦るように充電を待
つアンディに向かって、一つの火線が走る。
「!」
 声を出す暇もなく到達したそれは――
 いち早く立ちはだかったアベルの掌で押し留められていた。
 しかし、その光景に呆然としている余裕もなしにミサトの声。
『……充填完了!』
「了解っ!」
 アンディは躊躇なく次の射撃を行った。再び閃光。
「これで……13! ミサト、残りの敵の数はっ!」
『残数168よ』
「……アベルも入れて……一人24……か」
「はいはい、計算してる暇があるならさっさと次の用意!」
 心なしか疲れた声のアンディに、メイロンが声をかけた。
「わかってるよ! でもこっちはこっちで疲れてるんだから、せかすなよ」
「はいはい、ごくろうさま。でも、休んでる暇はないからね」
「了解!」
 半ばヤケ気味――うわべだけだが――に叫ぶと、アンディはポジトロン
ライフルを手放し、射撃位置を離れた。
『アスカとシホ、メイロンとシンジ君、カオリとアンディが組んで頂戴。
後は、任せるわ』
「なによ、その指示。随分といいかげんなのね、ミサト」
 軽くすましたメイロンの感想。
『いいかげんとは何よ。予測不能なんだから、仕方ないじゃない』
 これでミサトが生身なら、今頃舌を出しているんだろうな、という軽妙
な口調。
 多分、気分を軽くするのを狙ってるんだろうな、と気付いたシンジの口
元が緩んだ。
「ま、勝たなきゃ明日は来ないんだし……勝てばそれで万事解決なんだか
ら!」
 先程の冷酷なまでの冷静さとはうって変わった陽気さのアスカ。
「……勝とう!」
 強い決意を込めた、アベルの言葉。
 そんなふうにしてみんなが互いを支えあっているこの姿こそが、もしか
したら楽園への一番の近道なのかもしれないと、そんなことを思いながら、
シンジは敵の方角を見やった。

「こんなことがあってはならぬのだよ、こんなことがな!」
「全てのE兵器を……敵の30倍にも及ぶ戦力を投入しておいて、負けた
では済まんのだ!」
「だが、もはや痛みわけどころではないのだぞ」
「なんだというのだ、あの力は」
 言う彼らの眼前には、第3新東京市が写っていた。
「あの女の……我らの雷を破壊した、あの女のものと同じ力だ」
「ならば、使徒の――30年前の神の力だというのか?」
 だが、あまりにも強すぎる。
 それまで自分達の威光を信じて疑わなかった彼らは、始めて恐れを得た。
 故に、その座の首席に座る彼は決断した。
「……シュミセンと、ラピュタを第3新東京市へ」
「馬鹿な! あれは神殿、神の威光を示すための座なのだぞ!」
「勝つためだ。そのためには、何もかもを犠牲にしても構わん」
 焦燥とも遅すぎる決意ともつかぬ輝きが、首席の瞳を包んでいた。

「ゼーレの、忘れ形見か」
 戦いのさなか、そう言ったシンジ――初号機の目の前にはやはり純白に
染め上げられたエヴァンゲリオンが、7体。
『そんなことはどうでもいいの。今は、倒すべき敵なんだから』
 応える傍らのアスカの言葉に曇りはない。ただ、それは冷酷なほどで。
「でも……あれにも、子供が乗ってる」
 対するシンジの言葉にあふれる熱情と情愛。だが、吐き捨てるようにア
スカは言葉を続ける。
『優しいのはいいこと。でも、今は優しくなるべきときじゃない』
「わかってる……でも」
 そこに割り込む、一つの言葉。
『あの中にいるのはね……あそこにいるのはね……僕だ。シンジに出会え
なかったままの、僕』
 凛とした瞳で、純白のエヴァを見つめていたアベルは、鈴の音の息を吐
いた。
『でも、あの子達はね、今度は、シンジに会うことすら許されないんだ。
だから、僕が……倒す』
 アベルの目の端に、涙。
 何かを押し殺すような拳。
 シンジはそれ以上言葉が出なくなって、だから、ちいさくうなずいた。
「……ごめん、シンジ」
 涙を流し続けたままで、アベルの謝罪。
 謝ることはないのに。
 言おうと思ったその言葉は、悲しみでつかえてシンジの喉を通ることは
なかった。
『……行くわよ』
 冷静なままのアスカの声が、戦いの現実へとシンジを引き戻す。
 わざと砥ぎ澄ましているようなその空気が、今のシンジには暖かく。
「わかった」
 その暖かさを身に深く感じるしばしの沈黙の後、シンジは応えた。
 今度こそ、その瞳に迷いは無く。
 容赦なく手にしたソニック・グレイブを純白のエヴァに降り下ろす。
 肉を断ち切る感触が手に残り、赤い液体が視界を染める。
 その凄惨な光景に心惑わされもせず、シンジは初号機を進めた。
 ひしゃげたエントリープラグが視界に――足元に、あった。躊躇なくそ
れを踏み潰すと、嘔吐感がシンジを襲った。
 それでも、シンジは顔を上げ、次の敵を――純白のエヴァを睨みつけた。
 己の罪に打ち震え、赦しを乞うのは後でいい。
 ただ、今は罪を負ってでも、戦わなければいけないと、そう思った。
 だからシンジは次の一撃で可哀想な子供をまた1人殺し、子供達のため
にほんのわずか祈った。祈ることで自分の罪が消える訳ではないことを知
りながら。
 同様に、アベルも涙を流したまま恵まれなかった自分を滅ぼしていく。
 一方、アスカは何の感慨もなく敵を倒し続けていた――否、その姿は哀
しみの狂戦士のようでもある。ただ、嘆きを吹き飛ばさんと武器を振るう
その姿は、むしろアベル以上に哀しみに満ちているのかもしれない。
 神と反逆の熾天使との戦いを思わせる戦い。
 その熾烈さは、或はこここそ地獄であるかのような錯覚を思わせる。
 視界の何処にも、救済は無く。
「……方船など、ないというわけか」
 ただ、冬月は無力さを噛みしめながらつぶやいた。


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