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第11章 大切、の意味



 けれど、少年が呆然としていたのは、ごく一瞬だった。
 レイの叫びの助けもあった。しかしなにより、シンジ自身が、己を呆然から救い出した。
「たったこれだけのことで我を失うなんて、君は不完全なんだな」
 <彼>は驚いたような、それでいて皮肉るような表情をし、厭らしい笑いをそのままに嘲った。
 シンジはそれで冷静を失うこともなく、ただたぎる視線を向け続けた。
 カヲル君を殺した、アスカを壊した、ミサトさんを助けられなかった。たとえ敗北してでも、もう誰も傷つけない。深く静かに誓いを立てると、シンジの力は研ぎ澄んだ。
 何かできる、そのはずだ。
 シンジは、腕を伸ばし、真白い肌の少女を背に隠した。
 そんなシンジを見て、<彼>は笑った
「不完全で、不十分な君が何をしたって無駄だ。もう勝負はついている」
 嘘ではない。<彼>は本当にそう想っていた。
 笑いの隙に生まれた間隙に、シンジは力を潜り込ませた。
 <彼>は――自分は、補完の力で壁を完璧に操れる。碇シンジのように裏返った壁ですべてを識ることもできるし、綾波レイのようにすべてを拒むこともできる。
 そして、こんなこともできる。
 <彼>が愉悦を浮かべた。シンジは危機を識ったが、間に合いはしない。
 <彼>は、大仰に腕を振った。レイとシンジ、それにアスカの三人を不可侵の壁が取り囲んだ。
 もう逃げられない。
 そのことを、碇シンジは深く識った。
 <彼>が、確信の後で笑いを隠した。
「これで、終りだ」
 勝ち誇るわけでもなく、蔑むわけでもなく、ただ事実だけを告げた。
 それから、ほんの少しだけ、綻びを創った。少女には気付けない、ほんの一抹の希望らしきもの。その実、そこには決してありえないもの。
 少年が、驚きで目を見張ることすらなく、希望の瞳を曇らせた。
 もう、識ったらしい。<彼>はますます笑った。気に障るあの瞳の後に、どんな顔をするのだろうと身が震えた。そして、シンジは<彼>の期待通りだった。彼は痛ましく愛おしい絶望の顔をにじませ、すぐにその色を濃くした。
 <彼>は快感に身を震わせた。
 あまりにも完璧に、彼の思い通りだった。


 しかし、<彼>は碇シンジのように完全にすべてを識っていたわけでなかったし、完全にすべてを識れる碇シンジは<彼>の力のためにすべてを識ることもなかった。だから、ほんの近くといってもいいその場所で、密やかな警鐘が告げられたのを、知ることはできなかった。
 けれど、警鐘はほんのかすかなものだったから、彼女がそれに気付いたのは幸運だったのかもしれない。
「どういうこと?」
 つぶやきを口にした女性の名は、赤木リツコといった。
 彼女が行なっているのは不確実な作業、理論レベルでしか構築されていない作業だった。予想されない異常が起ることもままあった。だが、それは明白に異変だった。
 彼女の作業――葛城ミサトの生体脳を直接移植し、MAGIとは別タイプの人格移植OSを構築する――は、まだ始まったばかりだった。脳を取り出し、生命維持装置に組み込み、モニタリング接続を行なった。生命維持管理を、利用されることなく保存されていたMAGIのプロトタイプフレームに移行し、経過観察を行なっていた。理論上は稼働する段階であるが、まだ問題が残っていた。
 ときどきモニタリング情報が暴れだすのだ。
 それはすぐに、「脳が覚醒したときに、情報が流れ込んでこないため恐慌状態に陥るのではないか」と結論づけられた。生体ユニットが、コンピューターであることに慣れていないのだ。MAGIのときは、生体ユニットは最初からそれを目的として作られていた。今回は、そうではない。稼働を期待して活性化すると、必ず暴れだす。
 徐々に慣していくしかないかと、定期的な非活性化処置が行なわれることになっていた。活性化するたび、いくらかの時間放置したあと、非活性化を行なう。
 しかし、今回のモニタリング情報の異変は、明らかに違った。
 脳全体が活性とも非活性とも言えない中間的な状況下に置かれていた。それから、運動中枢が信号を発していた。不規則に、けれど明確に。
 フレームの自己診断機能は、フレーム自体に異常はないと告げていた。モニタリング情報は正常であり、すなわち異常なのは生体部分――ミサトの脳であるということだ。
 だが、これは異常ではない。リツコはそう直感した。
 安定した状態、ぎりぎり非活性処置にかからないレベルでの覚醒。そして明確な意思の伝達。
「モールス符合かなにか、かしらね」
 ミサトは、一応の軍事教練を受けているはずだ。そういった、なんらかの符合を知っている可能性は十分にある。疑念に思いながらも――そのささやかな奇跡に、赤木リツコは賭けをした。違反と知りながら、彼女はキーボードに手をかけ、ちょっとした侵入を、解析をかけるためのMAGIへの接続を行なおうと、した。
『対侵入排除勧告』
 手元の端末に文字が躍ったのは、本部管理システム――MAGIへ、モニタリングシステムからMAGIへの情報ラインを開いた瞬間だった。
 別の文字がメインモニターに現れた。
『非活性処置開始』
「ミサトなの!?」
 慌ててキーを叩いたが、受け付けない。
 見る間に、非活性処置のための投薬量が上昇する。いつもなら鎮静するラインを越えても活性が収まらない。モニタリング情報が乱れ、ミサトの脳に生命の危機が訪れていることを知る。
 それでも、止まらない。
「冗談じゃすまないわよ!」
 リツコは慌てて、緊急用ボタンを叩いた。誤動作防止用のプラスチック板の欠片が拳に傷をつけたが、さしたる傷でもない。
 メインモニターの文字が消え、モニタリング情報だけが残った。
 MAGIからの排除勧告が、消えた。
「やっぱり――動いてる」
 それが、後にHANNIBALと呼ばれるようになる、第8世代思考強化型OSの、最初の稼働だった。


 そして、HANNIBALの最初の仕事は、至極簡単なものだった。
 誰もいないエントリープラグに、たったひとことのメッセージを添えて、ミサトは紫の巨人へと送り込んだ。
 大量の非活性投薬で、ミサトは意識を失い、それ以上は動けなくなった。
 ただ、それで十分だった。


 力が動いたのを、知るものは少なかった。
 それは、彼女の本当のちからのほんのわずかな一部だけを呼び覚ますものでしかなく、いくつかのささやきを伝えるだけのものでしかなかった。
 けれど、これも十分だった。


 むしろ、それでよかったのかもしれない。それがささやかであったがために、ささやきは彼らの元へと届いたのだ。ささやきであったからこそ、<彼>の創ったささやかなほころびを通り抜けることが出来たのだ。


 正確には、それはささやきではない。
 ただ、それがささやきのようなものであることを、シンジは識った。
 ささやきを知り、彼は絶望だった顔を、逡巡の顔に変えた。
「いまさら、何を思い悩む? 無駄だと、知っているはずだろう?」
 <彼>が嘲った。
 <彼>はまだ知らない。シンジが何を囁かれたのかを。
 シンジは背後に目を向けた。
 彼女も聞いたはずだ。少年の母親からの、そのささやきを。
 けれどだ。彼女は、優しく微笑んで待っていた。シンジが逡巡で顔を向けるのをわかっていたかのように。
 そして、シンジの逡巡を振り払うために。
 うなずいた。
「相談しようが、協力しようが、無駄だ。君たちでは、僕の壁は壊せない」
 <彼>が笑った。そして、嘲った。
 確かに、<彼>の言っていることは本当だった。
 だけれど、<彼>が言っていないこともある。<彼>が知らないこともある。
 シンジは再び、<彼>に目を向けた。
 背から真白い手が伸び、シンジの肩に優しく触れた。
「……君だって、完璧じゃない」
 少しだけ哀れむような視線を向け、シンジは言った。優位者であるはずの<彼>は、その言葉に不快を感じた。
「戯言を」
 シンジは何も答えなかった。かがみこんで、背にした少女を静かに下ろしてからまた立ち上がり、それから、<彼>に、背を向けた。
 その一挙が、一動が、不愉快だった。
 シンジの目に、顔に、指先に、粉砕されたはずの希望が産まれ息づいていた。
 ありもしない希望のくせに!
 <彼>は激情した。激情のあまり、顔を歪め衝動に身を任せようとした。
「潰れろ!」
 <彼>はイラナイモノ、回収の必要はない、赤い金髪の少女を滅ぼそうとした。
 けれど。
 <彼>がその決意をしたその時に、少年は少女に手を差し伸べていた。
 <彼>が決意を現そうとしたそのときに、少女は少年の手を取った。
 そして、<彼>の決意が顕現しようとしたまさにそのとき、少年と少女は決意を重ねた。


「そうか」
 ささやきを聞いた彼は、すぐに辛い顔をした。
「あの子達に、任せるだけだ」
 それでも、最愛の声に答えると――彼は、無慈悲な被告席へと腰掛け、審判の下るその瞬間を、待ちはじめた。


 それから、それは始まった。
 世界を無に帰すあの作業、少年の父親が少女で初めたあの手順。
「ほんとうに、よかったの?」
 はじまりの最初の世界、2人きりの世界の中で、彼は訊いた。
「ええ」 彼女はうなずいた。「わたしたちで、決めたことだもの」
「貴様ら、まさか!」
 第3の声が割り込んだ。<彼>の声。
 明確に聞き取れたのは、そこまでだ。

 次々に流れ込む声、
 混じり合う心の全て。
 それは圧倒的な速度で広がり――

 混じり合った心はどれかが想った。
  これは、知っていると。
 かすかに、あるいは明確に記憶するこの在り様。

 それは、少年の父が望んだことだった。
 それは、少女が秘めた力だった。

 全ての心が形を、形を保つための壁を失い、潰れ、崩れる。
 崩壊した心のかけらは 溶けあい、混ざりあい、つながりあう。
 あまたの声、あまたの想い、あまたの記憶
 ひとつになり、すべてになる。

 すなわち、欠けた心を満たしあう、そのためのこと。

 ただ、その中にあって、いくつかだけ、心を保つ、壁があった。
「――補完、計画」
 壁を保つ一人、<彼>が言った。
 海の中、相手の姿は見えない。けれど、届いているはずだ。
 すべてがひとつのここでは、距離は意味を持たない。識る力と同じように。
「これが抵抗のつもりか?」
 <彼>は吼え、空虚を睨めた。補完に巻かれた心が渦巻く中を、はじまりのふたりを見通すべく。彼らは確かにいるはずだ。彼らなしでは、この海は維持されない。この海を作り、広げているのは彼らなのだ。
 だから、当然声は届いた。
 同じ壁に包まれて、はじまりの場所に残るふたり、碇シンジと綾波レイ。
 少女は己の細い裸体を抱き、少年は少女の体をやはり細い腕で抱く。
 少年の顔は彫刻のように澄まされているが、少女は時折顔をしかめる。
 けれど、少年は声をかけたりしなかった。
 これは彼らの選択なのだ。
 ひるまない、おそれない。立ち止まりもしない。
 だから、少年は声をかけない。ただ、彼女のことを信じる。
「どこにいる!」
 けれど、あまたの溶け込む海の中、<彼>にはふたりが見つけられないでいた。
 少年が、閉じていた瞳を開けた。
 首だけを動かし、声の方を見た。
「ぼくは、ここだ」
 良く通る声で、シンジは告げた。
 <彼>は声を頼りに、シンジの姿を捉えた。うすぼんやりとではあるが、<彼>は確かにシンジを観つけた。
「補完計画を再始動させて、どうする? 物理的に攻撃されないと、それだけか!?」
 シンジは、腕に力を込めた。
 少女は戦っている。
「その女を捨てて、自分だけ安穏とするのか?」
 <彼>は知っていることで、シンジを嘲った。
 けれど、<彼>の知らないことがある。
 <彼>の力がどこから来ているのか、あるいはシンジの力がどこから来ているのか。
 それを、<彼>は知らない。
 少女が戦っているのなら、少年も戦わねばならない。
 これは、二人の戦い。
「それは面白くない」
 突如、声が現われた。
 声だけでない。彼は、壁の外側で、うすぼんやりとした姿をくゆらせながら、シンジのことを見つめていた。
 そして、彼――杉田貴狼――のことを、シンジは識った。
 ただ、不思議だったのは、初めて識ったのではないような気がしたこと。シンジが良く知る、誰かのような気がしたことだった。
「君たちの勝手で世界中を巻き込んで、二人だけの戦いなんて勝手も過ぎる」
 杉田は海の中に、『立って』いた。
「それとも、お前は、自分のためだけに戦うのか?」
 杉田の口調は、責めるようでもあったが――そうではないと、思った。
 シンジは首を横に振った。
「お前ならわかるはずだ。なんのためになにをすべきか。わかるなら、迷う必要はない。
 君にはかつて、できたことだ。破綻の逆流の中で、誰よりも早くやったのだから」
 シンジは、うなずいた。
 できることはただ一つ。そのために、この海を初めた。
 すべてを、あるがままに戻すために。
 はじまりのときとは違う決意で、シンジは壁を解き放った。海に己を放り出し――そして、彼の力をすべて、振りまいた。
「なにを!」
 <彼>がわめいた。
 それは、シンジの力だった。
 破綻の折、補完の種子より譲り受けた補完の実の一つ、それがシンジの力だった。
「君だって、完璧じゃない」
 シンジは、<彼>に告げた。
 <彼>は異を唱えようと口を開いたが――その瞬間、<彼>を覆う壁が崩れ、そして<彼>はすべてを識った。
 <彼>はひどくおそろしい絶望を顔に浮かべたが、それを保っていられたのも束の間でしかなく、すぐに、海へと崩れ落ちた。
「それでいい」
 誰かがやさしく、ささやいた。それは杉田の声だったような気もするし、彫りの深い東洋人のそれであったような気もするが――それより、父の声であるような気がした。
 シンジは己の力――頑なな壁をも壊す、反転された心の壁を、全てに広げた。
 傍らの杉田も、あるいは腕の中の少女でさえも、崩れ落ちた。
 無論、彼自身ですらも、崩れ落ちた。

 海はすべてを溶かし、呑み込んだ。
 それは、達成されなかった夢、人類補完計画の、成就に思えた。


 やすらぎの海だった。
 欠けたところのない、完全な心。
 すべてが満ち足りた、完璧な世界。
 そこは果てしなく調和であり、ゆえに、どこまでも静寂であった。

 なにも、なにもない、平穏な世界。
 ただ一つしかないがために、無である、世界。

 けれど。
「でも、これは本当じゃない」
 かつて、少年であった部分は識っていた。
「すべてをひとつにしたって、本当じゃない」
 たとえ海に溶け込み、永遠の閉塞の内側にあろうとも、少年は識っていた。
「だからぼくは選んだ。立ち上がることを」
 だから、形の溶けた海の中、それでも少年は己を想い、意思を刻む。
「けれどぼくは識らなかった。本当に、立ち上がることを」
「だから、ぼくは立ち上がらなきゃいけない」
「ほんとうの、やり方で」
 少年は、なにをするべきかを識っていた。
 少年は、なにを想うべきかを識っていた。
  なにより少年は、大切を知っていた。

 ほんとうのためにすべきこと、
 ほんとうのためにやるべきことを、
 今の少年は知っていた。
 たとえ無に等しい海に溶け込もうとも、今の少年は知っていて忘れることはない。

 だから、立ち上がるのはほんとうに簡単だった。

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