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第10章 約束と敗北



 重なった人影が、金属の廊下を抜けていく。いくつかのカメラがその
様を見つめているが、カメラの見ている世界は誰にも伝わらない。『チ
ケット』の手配は、万全だ。
 人影のひとつである少年は、それを知っていた。
 いや、正確には知ってはいない。識(し)っているのだ。知識として
ではなく、認識しているだけだ。それは、補完の日の与えた彼の力だっ
た。
 聞こえるわけでもない。伝わるわけでもない。ただ、わかる。
 力は告げていた。今だけが闘争の機会であり、闘争の手段は一つしか
ないと。だから、彼は悩むことなく闘争を始めた。それほど迅速に決断
することなど、以前の彼にはなかったことだ。しかし彼は決断した。今
が決断の時だと識っているから。
 最初の扉を開けたとき、そこには凄惨が広がっていた。もうひとつの
人影、ほとんど心を持たなかった少女ですら息を呑むような凄惨だった。
一面の紅、苦悶で果てた骸、かすかな硝煙の匂い。
 しかし少年は一瞥だけで凄惨を乗り越え、外へ繋がる通路に目を向け
た。
 識っていたからだ。
 たとえ、骸の中に心を通わせたあの男がいたとしても、進むほかない
ことを。
 少年の意思は阻めない。だから少年は躊躇なく、骸のような少女を肩
に、歩みを進めようとした。だが、少年が進むことを拒むものがただ一
つあった。細く、白い指がそれだった。真白い肌の少女が、ただ少年を
引き留めた。
 そして少年は識った。少女が震えていることを。
「怖い」
 少女がつぶやいた。少年は振り返り、少女の横顔を見た。ほとんど感
情を映したことのない白い顔。その白さでは顔の色など見ぬけない。し
かし少女は震えていた。
 いくつかのごまかしの言葉が脳裏に浮かぶ。けれど少年はどれも選ば
なかった。
 少女に目を向けていた少年は、逡巡して目を逸した。浮かんだ全てが
まやかしであり、少女にとって本当に必要な何かが見つけられなかった
からだ。
 目線の動いた先に、あの男の骸があった。影山と言う名で少年たちを
かくまった男。骸となった今では動かない。抱擁をくれた腕も動かない。
きっと温もりもない。
 背にした少女の温もりを感じながら、少年は哀しみを想った。
 哀しみのあまり、目を背けようとしたときだ。男の口元が微笑みであ
ることを少年は知った。全てを果たしたとでもいいたげな柔らかい笑み。
凝り固まりゆく肉体の中で、そこだけは柔らかいままであるような笑み。
 笑みの理由を少年は識った。男のことを誰よりも識った。笑みが守り
抜いた満足であることを、幸運への感謝であることを識った。そして、
男は絶望へ落ちる脱力の中、満たされたことを知らせるそのために笑っ
たことを識った。
 その笑みを曇らせたくない。そう思った。
「行こう」
 部屋を出る前と同じ言葉が少年の口から漏れた。ただ、ふたつは違う
言葉だった。一度目のそれは決意であり、二度目のそれは愛情であった。
 少女もそれを感じたのだろう。不可思議な目を少年に向けた。少年の
好意は知っていた。けれど、今向けられた好意は違う。そして、彼女の
良く知る別の好意とも違う。
 そんな戸惑いを識りながら、少年は決然を言い放った。
「僕が、守るから」
 少女は目を見開いた。あまりに強い意志を秘めた口ぶりだった。まる
であの人のようだと思った。が、それを口にはしなかった。少しだけ、
違っていたからかもしれない。
 それから、少女はうなずいた。少年もうなずいた。
「行こう」
 そして三度目の言葉を口にした。今度のそれは、約束だった。
 少女は再び目を凄惨に向けた。それは既に凄惨の跡でしかなかった。
「私が先に行くわ」
 レイは言葉どおりに前に出てから、荷物を抱えたシンジに歩みを合わ
せた。遅い歩みを合わせながら、二人は紅い凄惨の場を踏み付けた。
 吹き散った肉片が、ぐぬりと二人の足を濡らす。時折天から朱が垂れ
て、三人の首や腕を濡らす。それでも歩みは止まらない。二つの意思は
止められない。
 これが、彼らの戦いだった。彼らを縛る鎖への闘争、即ち逃走。

 モニター越しに、少年たちの様子を見ていた杉田は、とりあえずの息
を吐いた。チケットの手配――脱出路確保のための工作が完璧ならば、
もう後は見ているだけでも少年たちは檻の中から杉田の元へと逃れてこ
れるはずだからだった。
 幸運だったのは、あの惨状に少年も少女も凍らなかったことで――補
完の日の、成果だろうか。特に少年――シンジは強かった。
 あの惨状に臆せず、なおも突き進むだけの強さ、決然とした瞳の輝き。
「よい監査員に、なれるかもな」
 そんなことをつぶやいてから、頭を振った。そんなふうにさせないた
めに、呼ぶのではないか。いくら優秀なエージェントを失った直後だか
らと、不謹慎な考えだ。
 あの男――東洋人にしては彫りの深い、『影山』と名乗った男――は
本当に優秀なエージェントだった。補完の日が彼の感覚を鋭敏にしてい
たにせよ、彼は元からひどく優秀だったに違いない。あれほど優秀なエ
ージェントは、他には一人しか知らない。
 その一人とは、杉田自身に他ならなかった。
 今にして思うと、自分がここに座ったのもスライフの策かもしれない。
VIO長官の席は、確実に杉田を釘付けにできる唯一の場所、VIO長
官にしてしまうというデメリットを飲み込んででも、押さえ込む価値が
ある、そう思われたのだろう。
「そうだとすれば、光栄なことだ」 皮肉めいた笑いを浮かべたが、そ
れで最強の手駒を失った痛手が消えるわけでもない。
 杉田は、再び画面に目を向けた。画面は、少しずつ移動していく三人
の少年少女を捉え続ける。歩みが遅いのが気掛かりだった。工作が完全
であったとしても、あまり時間がかかっては、何かの拍子で見つかりか
ねない。無論、少々のことであれば、碇シンジの識(しき)があれば避
けられるだろう。だが、システムの障害が発見されては、無力になる。
 いかに碇シンジの識が強力であれ、所詮は無力な子供。闘うための本
当の力を持つ大人には、敵うはずもない。せいぜい、感知能力に勝って
いるだけだ。隠れ通せるのであれば逃げられようが、牙を剥いた狼の群
れから、兎は逃げられない。影山さえ生きていれば、なんの不安もなか
った。牙と知覚とを併せ持った、最強の存在――
 不意に、杉田の脳裏を疑問がよぎった。
 何故、私はあの男を知らなかったのだ、と。
 あの男は確かに杉田の最強の手駒だったが――杉田以上ではなかった。
ならば、杉田があの男のことを知らなかったはずがない。それほどの相
手のことが知識に入らぬはずがない。
 だが、杉田はあの男を知らなかった。ただ、いっしょくたに送られて
きた元エージェントたちのうちでは、比較的打算を知っている方だと思
っただけだった。
 彼が最強の手駒だと知ったのは、彼の仕事ぶりを見てからだった。迅
速、かつ正確。しかも、実に忠実に。あまりの忠実さに、罠ではないか
とも思ったが、『碇シンジに再びまみえたい』と熱望する姿を見て、そ
うではないと直感した。
 似ていたのだ。杉田が、ヴァレンタインの理想を想うそのときに。
 杉田自身が行くのでなければ、あの男ぐらいにしか任せられないこと
もあった。それでもあの姿を知らなければ、自ら赴いていただろう。そ
れほど危険に、有能だった。
 それほどの男を、知らなかった。
 何故だ? 身を隠していたから?
 違う。
 あの男は優秀でなどなかったのだ。おそらく『補完の日』までは。そ
して『補完の日』を境に、あの男は優秀になった。
 杉田はそれを偶然手にいれた。そして、杉田に偶然があったのなら。
「祈るほか、ないとはな」
 見ているのも辛くなり、モニターを切ろうとした。だが、それは逃げ
ているだけのような気がして、切るのを止めた。
「考えろ。どうすればいいのか、考えろ」
 杉田は、己に言い聞かせながら、再びモニターに見入った。
 少年たちは、間違えることもなく逃走経路を進んでいく。もはや賭け
るとすれば、碇シンジがどれだけのことを識れるのかぐらいしかない。
ただ、神に祈るよりはよほどマシな選択に思えた。だから杉田は、少年
の幸運を願った。

 廊下はどこまでも続いていた。
 廊下はどこまでも不安に続いていた。
 用意された道筋はどこまでも安全で、それは地上まで続いているはず
だった。
 だが、不安になる。いかに少年が道を照らしてくれようとも、少女は
着いていくだけだった。そして、完全に信じるには、少年の肩はあまり
に頼りなさげに思えた。
 無論、「補完の種子」たる彼女は少年の力のことを知っていた。その
力がどれだけのものであるかも、知っていた。それを知っていてなお、
少女は不安にだった。いいや、知っているからかもしれない。
「どうしたの?」
 シンジが振り返り、訊ねた。
「なんでも…ない」 答えながら、レイは「すっかり逆だ」と感じた。
たった数ヵ月前、出会った頃は彼が不安を感じる役で、自分には逡巡が
なかった。それが、今では。
 シンジが惑い顔を見せた。レイの心を識ったのだろう。
「そう」 惑い顔のままそう答えて正面を向いた。
 心を見透かされた恥ずかしさと、嘘を吐いたと識られたこと。何かを
言おうと思ったが、それらがレイの口を凍らせた。
 そして、彼はそのことも識る。
 こんなにも何もかもを識ってしまう彼は、いつか遠くに行くのではな
いだろうか。ふとそう思った。自分が知った、溶け合っていた直後の彼
とは違っていく。いつかは全く違うものになるのではと思った。
「僕は、守るから」 不意にシンジが言った。あまりに図ったような、
タイミングで。「なにがあっても、僕にできるかぎり、君たちを、守る
から」 小さく、か細い声。まだ少年の、頼りない声。だが、それは図
ったものでもまやかしの言葉でもなく、少年が想うとおりの言葉だった。
識る力はなくとも、レイにはそれがわかった。
「うん」 だからレイは笑った。
 そして、笑うと同時に、その音が響いた。
 ア、アァアゥウ!
 赤子の嬌声と聞き違えるそれに、しかし識る力を持つ少年は意味を聞
いた。
「アスカ!?」
 少年は驚きの声を上げながら、嬌声が示したそれに眼を向けた。上方、
金属の層の向こう。意思を向けて、初めて識った。そこに、それがある
ことを。
 もしもアスカが警告しなければ、気付きもしなかったろう。
 ただ、遅かった。
 轟音もなく、閃光もなく、突如天井が、消え裂けた。ぽかりと空いた
空穴から、黄金色の輝きをまとった人影が降ってきた。
「ァア…ウィ」 アスカの口が再び音を紡いだ。
 碇シンジは識っている。
 背負った少女がうっすらと瞳を開き、かすかに息を継いでいるのを。
心が癒えたわけではないが、彼女は閉ざされていたまぶたを開き、光を
その眼に捉えたのを。
 碇シンジは識っている。
 傍らに立つ少女がこの事態を何も把握しておらず、しかし男たちのま
とう光輝が彼女自身がまとえるその輝きと同等であることを。
 そしてまた、碇シンジは識っている。
 激変したこの場を、遥か異国の執務室で睨みつける一人の男があるこ
とを。
 けれど、碇シンジは識らない。
 光輝をまとう彼のことを。彼の想いを、彼の意思を。彼がまとってい
るからだ。全てを拒む、心の壁を。
 すなわち――ATフィールド。
 壁の一つにわずかな綻びが開き、勝ち誇るように、声が言った。
「君の力を通さない、壁だ。それだけじゃない。君と同じ力だってある」
 シンジの力が、にゅるんという裏返る感覚を識った。光輝が消え、人
の姿がそこに現れた。その瞬間、二人は互いを完璧に識った。
「チェックメイトだ、碇シンジ。補完されたのは、君だけじゃない」
 不意に冷酷な笑みが彼の顔を満し、同時に再び裏返る感覚が訪れた。
途端に彼の全てをシンジは忘れ――けれど、たった一つだけ彼のことを
知った。
 彼の笑いは、シンジが殺した親友にひどく似ていた。肌と瞳の色こそ
違えど、彼はあまりに似ていた――最後の使徒、渚カヲルに。
「安心していい。君はエヴァ初号機に乗れる唯一の人間だし、君は補完
計画についてのデータの宝庫だ。殺すには、勿体ない」 最初にシンジ、
次にレイが指された。「そして、彼女も殺さない。君たちに逆らわれる
と、困るからね」 今度はアスカを視線が舐めた。彼の言葉は、言われ
るまでもなく識っていることだった。けれど、それすら耳に入らなかっ
た。
「ダメ!」
 心を呑まれたシンジに、レイの警鐘が衝きささった。

 突如現れた少年が笑ったのと同時に、全てのモニターが暗転した。
「!」
 荒々しく机を叩きながら、杉田は立ち上がった。
 怖れていた通り――スライフも、補完されたものを手に入れていた。
 逃亡者たちは力を持たない。彼らだけでは、逃れえない。
 だが、杉田はNERV本部に潜入し、彼らを救い出せるほどの手駒を持た
ない――否、一つだけある。
 彼自身、だ。
「いいのか?」
 彼までもが介入すれば、VIOは乗っ取られる。おそらくは、スライ
フの息のかかった者に。それでは誰もスライフを止められない。
 誰にもVIOは渡せぬ。VIOは、強すぎる刃だ。
 結論は、至って簡単だった。
 杉田は、紙に短い命令書をしたためると、コンソールを叩き、事務官
を呼び出した。
「大至急、ハコネへの便を用意しろ。高軌道からのステルス突入、携行
人員は私一人。予算は好きなだけ使ってかまわん。絶対にハコネの例の
場所に叩き込め」
 ブツリ。
 文句が出る前に、杉田は回線を切った。
 それから、したためた命令書に、一カ所を除いてサインを入れた。
「これで――いいか」
 それを胸ポケットにねじこむと、杉田は執務室を出て、血相を変えて
いるであろう事務官たちの部屋へと向かった。


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