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第9章 逃走、或は闘争


「……それだけではありません、被告人、碇ゲンドウは、国際法違反の
疑いもあるクローニング――人間の、クローニングを、行ったという報
告も在ります」
 検察官の雄弁がそのような事を紡ぐと、形ばかりの弁護人が鋭い声で
割って入った。
「異義あり!」 椅子を鳴らしながら立ち上がった日本人の弁護人は、
壇上の裁判長を見上げた。「只今の検察側の発言は、今回の罪状とは直
接関係しません。よって、只今の発言の却下と削除を求めます!」
「検察側、答弁は?」
「今回の裁判は確かにセカンドインパクトの責任を問うものであります
が、被告がセカンドインパクトを引き起こした動機について判断するた
めには、被告がセカンドインパクト後に何を行ったかを子細に述べる必
要があるため、先程の発言は正当であります」
 しばしの沈黙。糸を張り詰めた空気の中、裁判長の頭が動き――弁護
側を向いて、止まった。それから、無機質な声が告げる。
「異義を、却下する」
 弁護人は、一瞬、裁判長を恨みがましい瞳で睨みつけたが――すぐに
目を逸らし、座り込んだ。
 ここしばらく、こんな調子だった。
 ジュネーブの裁判所の広い大法廷にいるのは、裁判官と被告人、それ
に検察官と弁護人が数名ずつだけだった。傍聴席には誰もいない。ヴァ
レンタイン条約に定められた、SI(Second Impact)緊急措置裁判には、
傍聴人など認められないからだ。それ以外でこの光景を見ていられるの
は――VIOの長官しかない。
「スライフめ……やってくれるよ」
 モニタを通して裁判を眺めていた杉田は、裁判の仕掛人でもある敵の
名をつぶやいた。VIO長官としてヴァレンタイン条約の事を知り尽く
した彼でなければ、碇ゲンドウをSI緊急措置裁判にかけるなど、思い
つきもしなかったろう。
 だが、ひどく有効な手段だった。SI緊急措置裁判は、緊急時下に於
いて絶対的な権力を体制に与える手段だ。悪用すれば、無実の者をも容
易に死罪にし得る方法である。
 しかも、碇ゲンドウには十分な罪があった。
 それだけではない。SI緊急措置裁判から別の裁判が派生すれば、そ
れもまたSI緊急措置裁判として扱われる。しかも、SI緊急措置裁判
では、弁護などないに等しい。恐怖的な絶対権力を与えることで、混乱
を乗り切ろうとしたのだ。当時としては正しい方向だった。もちろん暴
走を恐れて、VIOという監査組織も作られた。だが、SI緊急措置裁
判に対し、VIOが監査機構を動かすことができるのは、判決後になっ
てからだった。統一準備委員会の狙いは分かっていた。『補完の種子』
たる綾波レイを手に入れることだ。あわよくば、『補完の器』である初
号機と碇シンジをも。
 その後で、ヴァレンタイン条約そのものを消すつもりなのだろう。理
由は充分にある。対して、杉田ができる事は――VIOが消える事を前
提に、統一委員会に一矢報いる程度でしかない。
「随分、不利な勝負なものだ」 もちろん、この椅子に座ったときから
薄々知ってはいたことだ。ただ、予想より少しだけ敵の手腕が巧妙だっ
た。少し、上司の事を甘く見ていただろうか。「だが、負けない事はで
きるはずだ」 言い換えればその程度でしかないのだが、それでも杉田
は不敵に微笑み、再びモニターに見入った。

「これはこれは」
 東洋人にしては彫りの深い顔立ちをした男は、いささか嘲るように、
微笑した。手元に届いた命令書を開いた所だ。非常に簡単な命令書だっ
た。杉田の自筆のサインと、『子供達を連れてこい』という1文だけ。
「無茶なことを、命令するものだ」
 つい1月前は、不法侵入者であった彼だが、今ではVIOによるNE
RV本部査察の前線指揮官として、ここにいる。2週間前までは、碇ゲ
ンドウが座っていた席だ。だが、彼は名ばかりの裁判を受けるためにこ
こを去り――結果、彼はここで最大の権限を持つことになった。だが、
命令書の指示は、その彼にとっても最大級に困難な任務と言えた。
 連れて来いというのは――おそらくはVIOの本部に、だろう。今の
ところ世界で一番安全な場所だ。なにしろ碇ゲンドウをもかくまってお
けた場所なのだ。
 だが、残念なことにそこまでの道はあまりに困難だ。
 だからこそ、彼に命令が下されたのだろうが。
「とりあえず、確実な味方に相談するか」
 VIOからは査察要員としてとりあえず30人が派遣されて来ている。
しかし、確実に味方というわけではない。VIO保安条項に抵触する任
務に協力してくれるほど、VIOを愛してはいまい。むしろ、その方が
正しい態度だ。
「幸い、荷物の管理はしやすくしてあったから――連れ出すだけだな」
 滅入りそうになる気分を抑えるためもあって、男はわざと軽妙につぶ
やいた。本当は、連れ出すことこそ困難なことなのだが。
 問題の、荷物――3人の適格者達は、2週間前に同じ部屋にまとめた
ばかりだった。単に、その方が監視の手間が省けるからだが、今になっ
てみると好都合だったわけだ。急に変えると、怪しまれる。そのぐらい
の間隔が空いていた方がよい。
 机上のモニターには、3人にあてがった部屋の入口と中との、幾つか
のカメラ画像が写されていた。ふかふかとしたベッドに少女が横たわっ
ていて、その寝顔を見守る張り詰めた表情の少年と、その少年を見守る
わずかに微笑んだ少女の姿がある。策謀の渦巻くNERV本部内には思
えない、安らかな光景だった。
 その光景を見ながら、男は思案した。障害となるのは、本部内のゲー
ト、本部出口のゲート、第3新東京市よりの脱出ルート。本部内のゲー
トは彼の出す命令書で通れる。だが、残りの2箇所はどうにもならない。
VIO特別査察状況下では、査察要員ですらも出入りは禁止されている
からだ。
『影山査察官』
 机の上のコンソールが、声を立てた。影山というのは、彫の深い東洋
人が、便宜的に名乗っている名だった。
『監査スケジュール、予定通り完了しました。以降は特に指示のない限
り、資料整理だけで終了します』
 コンソールから流れ出る声は、形式上では影山の直属となっている査
察官の一人だった。彼は実質最高の責任者であり、彼の部下がまとめた
仕事を影山とVIO本部に伝える。影山は、必要ならばそれを再調査し
た上で、VIO本部に連絡する。
 ただし、影山が再調査したことはなかった。コンソールの向うの彼は、
優秀なVIOエージェントであり、彼の報告は真実だった。たとえどん
な報告であっても、それは真実だった。
『それから、先日話していた外出の件、申請しました。明後日には許可
が降りると思います』
 影山は、目を細めた。外出の許可など、VIO特別査察状況下ではあ
りえない。いいや、規定には存在している。だが、ありえない。
 合図だった。
 影山は立ち上がった。
「わかった。チケットの手配は?」
『済ませておきました。関空からファーストクラスです』
「そうか」
 それだけ聞けば、十分だった。
 影山は通信を切ると、懐の銃の中の弾数だけ確認すると、司令室を飛
び出した。
 最寄りのエレベータまで、おおよそ3分。全力で失踪すれば、2分に
縮む。エレベータで上がること2分。エレベータを降りて、通路を進む
こと、5分。息切れするのが怖いので、ここは普通に走る。
 そして、目的地の寸前に来ると、影山は歩みを止めた。
「待ち伏せされている、か?」
 どこにも気配がないことを悟り、そう判断した。いくらセキュリティ
システムが万全とは言え、最重要機密――適格者を保管している区画な
のだ。当然歩哨が立っているし、彼らが気配を隠すこともない。だとい
うのに、この気配のなさは――プロの仕事だろうと思った。影山自身ほ
どではないが、優秀なエージェント――統一準備委員会の、おそらくは
マービン前VIO長官のお抱えの一人、といったところだろう。
 ただ、優秀すぎた。
「敵の数も分からないのに、行くのか?」
 小さく自問した。
 だが、待てば状況が変わるものでない。たったあれだけの連絡で、こ
こまで手を回されたのだから。そして、手段は強硬以外にない。
「やるか」
 影山はもう一度、弾の数を確認した。
 抑音機構付きのオートマチック。弾数は十四。侵入者は五人といった
ところだろうか。となると、一人当たり三発弱で無力化せねばならない。
 相手もプロである事を考えると、いささか無茶な話だが――他の選択
はない。
 行くぞ。
 影山は息を整える暇もなく、角を飛び出した。
 ここから、部屋までは廊下は一直線。どこにも遮蔽など存在しない。
 案の定、扉の前に数人の姿が、あった。数は、四。一人頭三発半。少
しは楽かと、安堵した。服装はいずれも普通のスーツ姿だったが、銃と
防毒マスクを装備している。間違いなく、侵入者だろう。そのうちこち
らを向いていたのは、二人。残りの二人は、扉の方を向いて――ロック
を解除しているのだろう。こちらを向いていた二人は油断なく構えてい
た。
 だが、突如出現したこちらの姿を認識するのは、一瞬遅い。影山はた
めらわず銃の引き金を引いた。
 過たずに一人の頭蓋が貫かれた。
 血や脳漿が飛び散るよりも早く、影山は身を引き、再び角に隠れた。
後を追うように銃声が鳴り、影山のあった場所を銃弾がかすめた。
 できればもう1人倒しておきたかったが、それでは反撃を避けられな
かったろう。
 じらしてから第2射にいきたいところだったが、そうもいかない。ガ
スマスクがあるからだ。マスクだけだったから、皮膚から浸透する型で
ないのは幸いだ。だが、大立ち回りを演じつつ息を止めていられる時間
など、60秒がいいところだ。
 その間に、遮蔽から飛び出して2人を倒す。なかなかの無理難題だ。
こちらが相手の立ち位置を知る事は出来ないが、向こうはこちらの出現
位置を知っている。構えていれば的は現れる。こんな楽な話はそうそう
あるまい。
 迷う時間は、あまりない。それに、ガスが散布されるだけでも最悪だ
が、ロックが解除されるのはなお悪い。人質まで取られては、打つ手は
消える。
 弾倉を引っ張り出すと、弾丸を一つ、取り出した。残りはそのまま装
填し直す。右手に銃を握ると、左手で弾丸を放った。
 カラカラと、心地よい音を立てて弾丸は廊下に飛び出した。
 少しだけ遅れて、身を飛び出させる。
 銃声が二つ――正確には、二連射が二人分。物音に対し、反射的に放
たれたとおぼしき銃弾は中空をかすめて飛んで行く。
 銃弾がかすめたばかりの中空に、影山は飛び出し、銃を放った。
 射撃の反動に体制の崩れた姿。そこに火線が飛び込んでいく。
 影山はしたりと笑う。
 だが、感激に止まりはしない。しゃがみこみながら第2射。しゃがん
だところで、第3射。
 共に目標を捉え、狭い廊下に鮮血がしぶく。ロックを解除していた男
がもんどりうって、崩れ伏す。だが、もう片方は――わずかに外れたの
が見えていた。影山の手が、反動にしびれたせいだ。
「チィッ!」
 侵入者の最後の生き残りが、舌打ちし、制音機でくぐもった銃声が一
つ鳴った。
 影山は、慌てて次弾を引き絞った。ろくに狙いもつけず、神に祈り―
―そう、神に祈り――わずかに遅れて、けたたましい銃声が鳴った。
 そして、熱い塊が影山を貫いた。
 全身を脱力が襲ってきた。膝が折れ、首が垂れると、視界が朱いこと
に気付いた。自分の血だなと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
だが、気付いた時には視界の全てが朱だった。
 ただ一つ幸運だと思ったのは、廊下が静寂だったことだ。自分の息遣
いしかしていない。盲いながら放った銃弾は、どうやら幸運の女神に祝
福されたらしい。
 祈った甲斐が、あったようだ。
 影山は、微笑むと、目覚めのない惰眠へと、堕ちて行った。

 碇シンジがそれを感じたのは、不可思議としか言いようがない。なぜ
なら、そこにはなんら因果というものが存在せず、ただ隔絶された向う
で事実があったというだけなのだから。
 ただ、補完の日を越えた彼は、男と深く繋がっていた。男だけでなく、
世界と繋がっていた。だから、音も光も通さない壁一枚きりでは、彼が
知るのを阻むことなどできなかった。
 彼は深く男のことを知っていたから、彼の願っていたことも知ってい
た。だから、少年は哀しみもせず、ただ、立ち上がった。
「行こう」
「どこへ?」
 少女が訊ねた。少年は純白のその少女に視線を重ねただけで、何も言
わなかった。
「闘うんだ」
 それから少年は、骸に近しいもう一人の少女の腕を取り、肩にかけた。
 純白の少女はしばし逡巡したが、少年の瞳の決意を見て取ると、立ち
上がった。


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