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第8章 別離が描きし邂逅


 傍らでは、ミサトが赤黒い血を、どくどくと流していた。
 意外と、呆然とはしていなかった。
「そうなりたくなければ、手を上げろ」
 黒服に、サングラス、背広姿の没個性な男は、落ち着いた声で告げた。
けれど、シンジは従わない。ただ、ひとたび蔑視を送ってから、ミサト
を見つめた。
「動くんじゃない!」
 黒服が吠えても、シンジは動じない。
「どうせ、殺せないんでしょう?」
「貴様!」
 黒服が、憤怒の声を上げた。引金に、わずかに力が籠ったが――すん
でのところで、留まった。黒服は、チ、と舌うちをしてから、「出ろ」
と命令した。
「そうすれば、その女の命は、助けてやる」
「言葉は正しく使うべきだ。彼女を助けるのは、貴様じゃない」
 が、そんな言葉とともに背後から下ろされた手刀が、黒服の意識を、
途絶えさせた。
 手刀の主は、東洋人にしては彫りの深い顔をした男だった。
「……遅かった、ようだな」
 その声に反応し、シンジは振り向かぬままで言った。
「先生を、呼んで」
 声には、一切の表情が見られない。まるで、男の傍らに立つ白子の少
女の言葉のように。男は唇を歪めると、
「すぐに来る。銃声なんて、鳴らせばな」
 あまり上等な冗談ではない。シンジの手が、きつく握られる。
「、呼んでよ」
 シンジが嗚咽と区別できぬような声を出したのとほぼ同時にだろうか、
ドタドタという足音が聞こえて来た。
 視線を向けると、白衣姿の、おそらく若い医師が走ってくる。いくら
なんでも臭いに気付いたのだろう、顔色からは血の気が失せていた。
「急患だ、大至急」
 医師が部屋のすぐそばまできたのに併せ、男は真顔で告げた。その軽
口を無視して、のぞき込んだ途端、医師の目は見開かれた。その喉から
悲鳴とも思える叫びが漏れた。
「アスカ!」
「アスカじゃないよ――ミサトさん、だ」
 淡々と、シンジが告げると、医師の顔が一瞬、安堵のものに変わった。
が、すぐに違った苦悶の顔が浮かぶ。自責を含んだ、後悔の顔。けれど、
それも見る間に消える。今度は、医学者としての、戦いの顔が飛来する。
 医師は壁のインタフォンを手に取った。
「408号室に人手と寝台を。それに、第3手術室を手配。説明してい
る余裕がないんだ、頼む」
 相手が何やら怒鳴りちらしたようだが、医師は無視してインタフォン
を戻した。
 それから、医師はシンジの肩に手をかけた。
「どいてくれ。ここから先は、私の仕事だ」
 シンジは、振り向くと、若い医師の眼を見返した。
「お願い、します」
 医師はほんのわずかうなずくと、ミサトに目を向けた。
 その背を見ながら、シンジは病室から歩み出た。
 様子を、変わらぬ表情で見ていた男が、ボソリ、と言った。
「後は、祈るほかない」
「……僕が、気付けば」
 言って、シンジが唇を噛むと、それまで男の傍らにいた白子の少女が
口を開いた。
「あなたが、悪いんじゃないわ」
「でも、僕が気付けば!」
 少年が声を荒げた所に、カラカラと心地よい音を立てて、寝台が走っ
て来た。幾人かの看護婦と、いやに真剣な目つきの壮年の医師とが、そ
れに続く。
 彼らは、408号室の前に到着すると一様に息を飲んだ。
 ミサトの躯はすぐに寝台に載せられ、一団は一刻の無駄もなしに、廊
下を戻っていった。去り際に、若い医師が、シンジに向かってだろうか、
つぶやいた。
「必ず、助ける」
 残されたのは、男と、少年と、少女達。
 けれど、じきに看護婦がやってくるだろう。少女のベッドが紅く染ま
ったままでは、不衛生だろうから。
「……血の、臭い」
 少年の口が、そう紡いだ。
「あなたが、悪いんじゃないわ」
 少女が言った。
「でも」
 少年の唇が、揺れたが。
「あなたが、悪いんじゃない」
 男はただ、立ってその様子を眺めていた。
 少女が少年に歩み寄ったのも、少女が腕を広げて立ち尽くす少年を包
み込んだのも、少女が振り向かせた少年の額にそっと口づけしたのも。
 柔かさと温かさとに、顔を上げたシンジに、少女は告げた。
「あなたが、悪いんじゃない」
 少女が言って、抱きしめた。
「でも!」
「あなたが、悪いんじゃないもの」
 もういちど、少女は腕に力をこめた。今度は、返事はなく、代わりに
少年の身体から、力が抜けていた。少女の胸にもたれかかるような、そ
の格好は、丁度懺悔のようであり。
「あなたが、悪いんじゃないもの」
 少女が繰り返すと、少年が最初の嗚咽を漏らした。
 少女は腕の一本が解き、少年の髪をなぜた。すると、少年の嗚咽は高
鳴り。すぐに隠しようもない泣き声になった。
 コツ。
 靴音が、廊下に響いた。
 コツコツという小気味良い音とともに、男がその場を離れた。
 不愉快を隠しもしないその音は、しかし少女の抱擁を崩すことなく、
霞んでいった。

「助からん、だろうな。狙ったのか、偶然かは知らないが、見事に急所
を射止めている。葛城ミサトが死ぬのは――時間の問題だ」
 葛城ミサトが凶弾に倒れたその数十分後、スギタは客人達に伝えた。
 予想外の急変だった。葛城ミサトが死ぬなど、計画の範疇にはなかっ
たのだ。
「……計画が、狂ったかね?」
 豊かな髭面の男、碇ゲンドウが、訊ねた。色眼鏡の向こうの眼光は、
薄暗いこの部屋では見通せない。スギタはその視線から逃げるように、
目を逸らした。
「少なくともあの子達をここに連れてくることはできなくなった、そう
ではありません?」
 だが、もう一人の客人、金に髪を染めた東洋人、赤木リツコがそう問
うと、スギタの唇は歪んだ。
「……そうだ」
 重い沈黙の後、スギタの喉より洩れ出た言葉は、わずか、苦悩を滲ま
せていた。
「これであの子達は、立派な当事者、だからな。
 ……葛城ミサトが倒れたことで、やりやすくなった仕事もある。だが
ね、あの子達は、それに捕らわれるのだ」
 やりきれない色を宿した瞳を、杉田は向けた。
 その瞳を悟ったゲンドウの目が、細まった。品定めするような鋭い凝
視だ。リツコの方も、ゲンドウと同様だった。ただ、こちらの方がいく
らか疑念が強いか。
 杉田は、2つの視線をつぶさに感じとると、眼を閉じた。それから、
いくらかの間を置くと、杉田は語り始めた。
「私はね、ヴァレンタインの理想のためなら、全てを投げ売ってもいい
と思っている。
 ヴァレンタイン条約の目指した、共立による世界平和を達するためな
ら、だ。
 セカンドインパクトは、災いだったよ。だけれどね、同時に、ヴァレ
ンタインの思想をも、産み出した」
 杉田は目を開いて、災いの張本人を見据えた。彼は、まっすぐに杉田
を見たままで、目を背けはしなかった。苛責のないその光に、杉田は微
笑んだ。
「だが、苦難の時が過ぎて、世界はまた元に戻った。結局は、統一か敵
対かしかないと、そう思わせてくれるぐらい、絶望的だ。
 けれどね、私は理想を信じたいのだ。ヴァレンタインの理想を、その
担い手達を。
 だからね、私は、子供達を、助けたいのだよ」
「……夢物語ですな」
 ゲンドウは、ゆっくりと言葉を選びながら応えた。
「それに、全ての子供達が助けられるわけでもない」
「……確かに、これは私のわがままでしかない。だがね、大人達のわが
ままで子供達が苦しむことはない、はずだ」
「だが、君には時間がないのではないのかね?」
 ゲンドウの言葉に、杉田は一瞬、ためらったが、
「……委員会は、VIOの不要をすぐに提言するだろう。新しい時代を
築くためには、旧態を維持するための組織など、あるべきでないからな」
「だから、その前に委員会の力を削ぐ、と」
「時間稼ぎにしかならないが、10年あれば、やってくれる、はずだ」
 そう、君の息子がね。
 続くべきその言葉は、杉田の口からは漏れ出なかった。ただ、分かる
はずだ。あの、『補完の日』のことを、憶えているのなら。
 しばしの沈黙があり、やがてゲンドウが口を開いた。
「助言者が必要だ。あの子達が育つまでのと、育ってからとの。育って
からの助言者は、君なり、冬月なり、赤木君なりができよう。だが、育
つまでの助言者が必要だ。本来ならば、葛城君が適任なのだが」
「でしたら、ミサトの体を冷凍して頂けるよう、連絡して下さい。助言
者としてなら、彼女を人格移植OSにすれば、十分なはずです」
「だが、人格移植OSでは、人間の意識の完全な保存までは出来ないは
ずだ。MAGIシステムは、あくまでも論理判定機構に有機人格ユニッ
トを使用しているだけと聞いているが」
「……MAGIとは別系統の……母が使わなかった設計案に、人格を完
全に温存するタイプのシステムがあります。これを使えば、『OSの論
理ユニット』ではなく、『葛城ミサト』を保存できるはずです」
「それに、新システムの作成を開始してしまえば、それを盾にネルフと
いう組織を保持できる、というわけか」
「はい」
 リツコが小気味良い返事を返すと、杉田はしばし思案し、それから客
人達に向かって頭を下げた。
「……お願いする」
 客人達は、ただ微笑してそれに応えた。

「マービン前長官はひどく御立腹の御様子ですな」
 3日後、ジュネーブにて、東洋人にしては彫りの深い男は、上司――
杉田に、そう報告した。
「場合によってはネルフ本部施設の爆破も辞さないつもりのようです」
「適格者よりも、エヴァの確保が優先と言うわけだな?」
 杉田の問いに、男はうなずいた。
「ですが、確保しないというわけでもないようです。3日前のネルフ本
部接収時に、綾波レイのDNA情報だけは持ち出したようなので――」
「……なんてことだ」
 杉田は、息を吐き、奥歯を噛みしめた。両の手は、今にも血が出るの
ではというほど、固く握られていた。
「おそらく、碇ユイのデータは確保済でしょう。鑑定に1週間として、
タイムリミットまでは4日です」
「……確か、碇裁判は、ぎりぎりで逆転無罪という判決だったな」
「ゼーレの工作あっての無罪ですがね。今度は、確実に有罪でしょう。
碇ゲンドウの極刑は確実ですな。それだけでない、冬月コウゾウ、赤木
リツコ――ひょっとすると、ネルフ全職員が、共犯として裁かれる可能
性すらあります。それになにより――彼らは、全人類の半分を殺したと
いう罪を背負っているのですよ」
「そして、ネルフとゼーレの遺産を、統一準備委員会がすべて受け継ぐ、
と……見事な筋書きだよ」
「クローニング技術に対する倫理の追求は、中途半端な所で放り出され
ていますからな。格好の攻撃対象になるはずです。坊主憎けりゃ和尚も
憎い――セカンドインパクトへの件とまとめれば、実に効果的です」
「阻止は?」
「……検討します」
 なんらかの返答を期待していた杉田は、その返答に落胆した。
 自分でも、この男でも無理だとは。どうやら、葛城ミサトへの発砲は、
相当に仕組まれた罠だったということだ。
「……してやられたな」
「どうせ、元から負け戦です。そのぐらい、仕方ないでしょう」
 軽口は、場の雰囲気を明るくしてはくれなかった。
「とりあえず、碇ゲンドウに、この件について連絡してくれ」
 杉田は命じると、疲労しきった体を椅子に預けた。

 碇ゲンドウは、久方ぶりの司令室で、息を吐いた。
「最後にしてやれることが、その程度か」
 今は、1人だけで、ここにいる。
 届いた報告から導かれる結論は1つだった。
 リツコは、人格移植コンピュータの有機ユニット作成のため、病院に
赴いているはずだ。有機ユニットの完成まではおよそ10日かかるとい
う。
「だが、そうしなければ、その10日も稼げないか」
 当然と言えば、当然の結論だ。
 それだけ悪辣なことを繰り返して来たのは事実だし、『補完の日』以
来、覚悟していたことでもある。
 だが、分かってもらえるのだろうかと、それだけが不安だった。最後
の父としての振る舞いは、息子には落胆だけしか与えられなくとも、不
思議ではない。
 もちろん、息子とて以前のままでないことは分かっていた。『補完の
鍵』のすぐそばに、もっとも補完されるべき存在の1つだったのだ、
『侵されざる者』に近しい者として、どんな現実にも耐えてくれるだろ
う。
「……怖い、のか」
 たった1つのやり方で伝えられなければ、もう2度と機会は巡ってこ
ない。それが怖いのだろう。これまで散々なにも伝えなかったくせに、
だ。
 だが、躊躇している余裕はあまりない。
「冬月を、呼んでくれ」
 意を決し、インターフォンにそう告げた。
 頼りになる副官は、すぐにやって来る。ゲンドウは、彼に決意とこれ
からの事とを話した。冬月は快く引き受けて――そして、それ以上に受
け止めてくれたようだった。
「息子には何も言わなくて、いいのか?」
 冬月が時折見せる、父親のような振る舞いが、ゲンドウは秘かに好き
だった。あまり心を許してくれていない事を知っていても、その振る舞
いを見ると、彼に全てを任せる気になれるのだ。
 こうなれればよかったのかもしれないと、ふと思った。
「ああ、構わん」
 けれど、そんなそぶりは見せずにいつも通りの返答をすると、ゲンド
ウはあらかじめ作っておいた文書を1通、ジュネーブへ向けて送った。
冬月に目を向けると、最後まで無理をすることはなかろうに、とでも言
いたげな口もとがあった。

 その3日後。
「父さんが……裁判を受ける」
 そう聞いた時、脳裏を何かがくすぐった。自ら封じ込めていた記憶に
は、すぐたどり着いた。あまりに幼かったから、意味を知らなかったの
だろう。そして、大きくなってからは誰もそんなことを口にもしなかっ
た。だから、なんとなくは知っていたが本当には知らなかった。
 実際、どうでもいいことだった。
 ここに来るまでは、父のことなどシンジに関係があるはずもなかった
し、ここに来てからは、父が再び裁判を受けるようなことになるなど考
えられなかったからだ。
「どうして、なんです?」
「……子供が知る必要は、ない」
 冬月が、苦い顔をして答えた。
 教えたくないということだと、すぐにシンジは悟った。
「一つだけ、教えて下さい。父さんは、帰って来れるんですか?」
「…………多分、無理だよ」
「そう、ですか」
 目を伏せたシンジを、冬月は見つめた。
 そのシンジが、ポツリ、と言った。
「……何も、言ってくれなかったんですね」
「道は、お前が選べと、言っていた」
 冬月は、視線を逸らしながら、答えた。
 嘘ではなかった。ただ、遺された言葉のごく一部であって、本当に残
された言葉であったわけでもなかったが。
 ゲンドウは、何を考えてあんな言葉を遺したのだろうと、思った。少
なくとも、この儚げな少年に、それほどの重責が似合うとは思えない。
けれど、『補完の日』が何やらを告げたのだろう。ゲンドウは何も言わ
なかったが、きっとそのはずだ。そうだとすれば、納得は出来た。
 ただ、それよりも、今かけてやる言葉を残しておいてくれればと、思
う。
 結局、碇シンジにとって父親とは誰あろう碇ゲンドウ以外にはありえ
ないのだ。
「そう、ですか」
 もう一度、シンジが目を伏せながら、応えた。
 その声と姿とに、この別離を皮肉なことだと、思った。


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