←前章へ
次章へ→
戻る

第7章 「絶望」なる魔手


「ありがとう。上がっていいわ」
 久しぶりの再開を成し遂げた後シンジは、3時間弱にわたった起動実
験のメニューを全て終えた。レイは、まだ実験を続けている。意図的に
実験終了をずらされるのは、いつものことだったが、そのことを悲しく
思ったのは始めてだったかもしれない。
 けれど、プラグから降りて、待機室へ戻ったとき、そこに人の影を見
て、シンジの意識はそちらに向けられる事となった。
「おつかれさま」 
 待っていたのは、マヤだった。珍しい、と思いながら彼女を見やると、
何やら手に握りしめていた。
「これ、差し入れ」
 言って、渡してきたのはジュースの缶だったが――むしろ重要なのは
一緒に握り込まされた紙片であったろう。
「じゃあ、仕事があるから」
 笑いもしていない――緊張の極みで、とても差入れを持ってきたよう
には見えない姿に、シンジは首を傾げた。
 とりあえず、紙片を覗いてみれば、何か分かるかもしれない、と期待
して、そのようにした。
 けれど、文の内容はは期待外れに近く、『第B17区画食堂、18:
00』と書いてあるだけだった。しかし、それは十分な衝撃をシンジに
与えることとなった。文字は殴り書きであったが――確かに、ミサトの
ものであった。
 混乱した頭でとにかく着替えを済ましてから、自室に戻った。そこで
天井を見つめ、考え始めた。
 紙片は、飲み干したジュースの缶とともにダストシュートの奥に行っ
てしまっていた。だから、もう確認は出来なかったが――あの短い手紙
の意味を取ろうと、全力で思考を回転させた。
 ……またも、脱出を試みようとしているだろうのか。けれど、監視は
ずっときつく、状況は以前よりも悪くなっているのだ。確かに、このま
まの状況がいいとは思っていない。だが、少なくともこのままであれば
安全なのだ、それを荒だてる必要は無い。――それとも、焦らねばなら
ない何かがあるのだろうか?
 行って、確かめれば分かることだ。
 そんな考えが首をもたげたが――リスクが大きすぎると、思った。
 結局、結論が出せないで、何か判断するための情報があればいいのに
と、そう思った時、扉を叩く者があった。
 え?
 ここに、来客があるなど。
 一応、部屋には鍵がかかることになっている。けれど、この部屋に用
があって来るような輩はまず鍵を持っていて、有無を言わさず侵入して
くるものだったので、戸惑いを持って扉を見つめた。
「開けて頂けますかな?」
 扉の向こうより、声。
 男のものだ。優しく――けれど、烈しい。
 聞き覚えは――あった。
 それは、狂おしいまでの鮮明さで、記憶の底より蘇った。
 一瞬、疑念がシンジを貫いた。
 だが、あの最後の瞬間の瞳が、絡めとる腕が、全てをかき消し。
「開けて頂けますかな?」
 再度の問いが、とどめとなった。
 開かれた扉の向こうから出て来たのは、あの、彫りの深い東洋人の顔。
「久しぶりだね、碇シンジ君」
 男が冷徹なる声を紡ぎ終えたとき、パァっと、赤色の明りが部屋を満
たした。シンジは驚いて天井を見上げたが、
「私の侵入に対する警報ですよ。驚かなくていい」
 当然、の響きのある男の言葉に、少々の冷静を取り戻した。
「いいんですか?」
 と問うと。
「構わない。彼らが私を捉えようなど、片腹痛いよ」
 自信にあふれた言葉は、シンジを尋問――否、洗脳していたときのそ
れだった。けれど、そこに何故か温かみを憶え、シンジは安堵していた。
「とりあえず、用件だけを済ませよう。
 碇シンジ君、協力してくれたまえ」
 唐突に言うと、男は1枚の紙を取り出した。
「綾波レイの処置についての監査委員会の報告書だ」
 差し出され、受け取ったシンジは、目を通した。
「どう思うかね?」
 男が問うた。
 けれど、返事はない。
 だが、読むその手がぶるぶると震えていた。
「……どうすれば、いいんですか?」
 その文面だけで全てを察したのだろう、シンジは応え、瞳を上げた。
 戦いを決意した輝きに満足そうに頷くと、男は懐より一通の書簡を取
り出した。
「お願いするのはごく簡単な事だ。ただ、これを葛城ミサトに渡せば、
それでいい」
 男は翻り、戸に手をかけた。
 続けて告げる。
「これから、少々手荒なことをする。その混乱に乗じて、渡してきてく
れたまえ」
「大丈夫、ですよね?」
 男の背にシンジの不安をたたえた声が届いたが。
「当然だ。私が、やられるはずがあるものか」
 答えた声は、実に傲岸な――シンジが監禁されていたのころの姿その
ままであった。だから、シンジはそれ以上何も言わず、そして男は部屋
を出た。
 律儀にも閉めていった扉は、鍵が開いていた。
 もとより鍵は渡されているので自由なのだが、籠るときはいつも鍵を
かけているものなので、奇妙にも感じた。鍵のかかっていない扉を出て
いくなんて、と微笑みながら、ちょっとした興奮と共にシンジは廊下に
歩み出た。
『A37ブロックにて侵入者を捕捉、該当区域を緊急閉鎖』
『A20からA47までの全職員は、第3種警戒にて、直ちに退避』
『対人戦闘A班、B班は、E107シフトに移行』
 たったひとりにおおげさな、とも思える、けたたましい放送の群が、
スピーカーから流れ出ていた。
 シンジは、しばしその喧騒に耳を傾けていたが、やがて決意を込めて
手を握ると、ミサトの待つ食堂へと駆け出した。

「……気に入らないわね」
 テーブルの上には、一枚の紙片。
 そこには、葛城ミサトが全精力を傾けて仕上げた、脱出プランに対す
る多くの指摘、そしてよりよい修正案とが書き込まれていた。
 そうして、一番下には署名がしてある。
『VIO、スギタ』
 その名は、聞いたことがある。VIO最高のエージェントの一人だっ
たはずだ。
 だが、そんなことが不満なのではない。
 問題は、どこからミサトのプランが漏れたか、だ。
 プランを話してあるのは、伊吹マヤだけだ。
 リツコとは、接触が許されなかった。
 マコトについては、VIOとの関係があったことが露見していた。
 だから、一番情報を漏らしにくそうで、かつシンジとレイに接触でき
る人間、となるとマヤしか残らなかったわけだ。
 なんとかしてシンジとレイに連絡を取り、彼らを連れてここから逃亡
する。以降の身柄については、どうにかしてどこかの大使館に転がり込
めば、なんとかなる。
 そのための、およそ考えられる限り最良のはずの案を、立てた。
 だが、紙片には、それ以上の情報が、実に簡潔にまとめられており、
そしてそれが真実ならばこの新たなプランに従うべきだとは、一目で理
解できた。
「どこまで、本当なのかしらね」
 ミサトは、紙片を、見下した。
 それから、鼻でひとつ笑って、視線を上げた。
 手元の時計に目をやる。もうあと5分で、一八時。
 扉に目をやる。
 まだ、誰もあらわれない。
 と、けたたましく警報がなった。
 ミサトは、ビクン、と震え、思わず懐に手をやった。
 別に、見つかっても、正規の職員証で入ってきているので問題はない
はずだが――しかし、監査委員の連中が、正規の職員証などをアテにす
るとも思えない。
 だが、すぐに流れて来た放送で、それが別の侵入者への警報である
ことを知ると、ミサトは一瞬、安堵した。
 けれど、その放送で渦中となっている場所が、丁度シンジの部屋のあ
たりであることに気付くと、ミサトは息を呑んだ。
 しかし、動くわけにいくはずもない。
 今できることは、待つことだけなのだ。
 手が、じっとりと汗ばむ。
 首筋にあたる換気の風が、体温を奪って逃げていく。
 だらしないわね。
 左手で、頬の汗を拭う。
 ここまで来て、冷汗とは。
 加持であれば、もっと冷静であるのだろうか。
 だが、彼は協力してくれない。自分で、やるしかないのだ。
「そうね」
 放送が、警戒体制を告げている。
 それをいいことに、ミサトは懐から銃を抜いた。小柄なその身の、握
りに手を当てると、重たい感触と、冷たい匂いが、他の感覚をも刺激し
た。
 心が、筋肉とともに引き締まり――目を閉じる。
 そのまま、落ち着いて全てを砥ぎ澄ます。
 扉の開く、空気の音。
 目を開け、見ると、少年の姿。
「ミサトさん!」
 彼は、駆けてきた。
「静かに!」
 けれど、ミサトは再開の間をも惜しみ、冷たく告げた。
 ビクン、とシンジは震え、急制動したが、ミサトのまなざしの強さに
気付いたのだろう、おとなしく、彼女の言葉に従った。
「ミサトさん、これ」
 近付いて来た彼は、封筒を一つ、差し出した。
「なに?」
 いぶかしくおもいながら、手に取り、見ると――VIOの、秘印。
 途端に、表情が険しくなった。
 慌てて口をやぶき、中身を引き出すと、テーブル上の紙片に似た、紙
が一枚。
 一番上には、殴り書き。
『綾波レイ救出作戦についての指令』
 そうして、ミサトのするべきことの羅列。
「ただの手駒って、わけ?」
 ギリリと、奥歯を噛みしめる。冗談ではない、と憤慨が襲って来たが。
 しかし、冷静な頭脳でそれを押し留めた。
 VIOが、こんな確実でない方法で人手を求めるのだ、おそらくは多
分に無理を含んだ賭けなのだろう。そして、VIOであれば、監査委員
会――そして、その裏側の『統一準備委員会』よりはまだましである、
という計算もあった。
 それに、どこか出張ってきたところを使うのは、予定のうちだった。
「……シンジ君、ついて来て」
 だから、命令書の最初にある通りに、動き出した。
「はい」
 シンジは、疑問もなく答えると、油断のないミサトにあわせるように、
迅速に動き出した。
 こんなことになるなら、日向を使っておけばよかったか。どうせVI
Oと組むことになったのだ、彼に情報が漏れたとしても、問題はなかっ
たはずだ。
 と思ったところで、後悔が先に立つわけでもない。ミサトは素早く頭
を切り替え、雌豹のような鋭い容貌を露にした。
 通路を一気に駆け抜けては、シンジがついて来ているのを音で確認し
た。
 自分でも意外なほどに、神経が澄んでいた。

 そのころだ。
「ようやくのことだよ、君達をここに連れてこれたのは。だと言うのに、
君達は」
 世界で一番安全な部屋の主は、珍しくも息をついた。
「あそこには、まだやり残したことがあるのです」
 立派な顎髭をたくわた男は、色つきの眼鏡越しに鋭い視線を叩きつけ
た。
 一方の主は、珍しくも表情などと言うものを浮かべていた。特に、嘆
息の表情など、スギタという主にしては、珍しいものである。
「NERV権限の処理なら、我々で十分遂行できる」
 スギタは、不可解だ、という目でゲンドウを見た。
「それに、冬月、と言ったか。彼も存分に働いてくれるのではないかね?」
 だが、ゲンドウの目は柔らかくも、敢然なままだった。
 誰にもその意思を歪めることはできそうにない。
「それでも、戻った方が、よいのですよ」
 代わるように、リツコが応えた。
 これも、柔らかい声だった。
 資料が示す彼らとは、全く違っている。
 だが、それは確かに彼らの真意であり、彼らの願いであった。
 だから、スギタは、仕方ない、とつぶやいた。
「むこうで守らなくとも、ここまで適格者達を連れてくれば良い事では
ないか」
 本当は、このことを話したくはなかったのだが。
 そんな顔を浮かべて、ふたりの様子を見た。
「それは」
 ゲンドウが、なにやらを言いかけた。
 だが、スギタはそれを手で制し、自信にあふれた無表情で応えた。
「私を、誰だと思っている。
 VIO長官、スギタ・キローだぞ?」
 と。

 けれどもだ、計算外というものは存在する。
「まずい、な」
 つぶやいた男は、続けて思案した。
「……綾波レイの確保、よもやケイジで直接行うとは思わなんだ」
 せめてが、ケイジから出て、部屋に戻るまでの間だと思っていたのに、
だ。
 おかげで、計画は完全に狂った。
 NERV職員も残っているケイジで、半ば強制的に連行すれば、漏洩
の危険も付きまとうであろうに。
「よもや、読まれたのか?」
 確か、統一準備委員会には、今の上官の上官だった男、スライフ・マ
ービンが入っていたはずだ。そう考えれば、統一準備委員会が綾波レイ
の確保を早めたのは、いたく当然にも思える。
 だが、そのようなことをつぶやいてる割には、徹底した無表情が、東
洋人にしては彫りの深い顔を支配している。
 その様は、あるは何処か愉しげでもある。
 そうして、変わらぬその様で、男は云った。
「となると……賭けねばならぬか」
 素早く計算し、決断した。
 おそらくは、建設時に使われたものだろう、よい隠れ場所であった作
業坑を経由して、その地点に向かう。
 通常では入り込めぬところにあるため、無警戒なのが絶好だったのだ
が。
 こんな、正規どころか隠匿された情報にも乗っていない所まで含め、
NERV本部内の構造についての情報は、完全に記憶している。
 だから、迷うことはない。全速力で、予測していたその地点に近付く
と、多分捕捉されたのだろう、今いるこの場所が、放送で告げられた。
 だが、もう遅い。
 これからの無謀な行為で頭を埋めると、呼吸を整えもせずに、足下の
金網を蹴り破った。
 華麗に着地すると、狙った通りの目標達がそこにいるかいないかも良
く確認しないまま、それでも実に正確な狙いで、
 撃った。
 最初の一人が弾け飛ぶ。
 鮮血が壁面を濡らすよりも早く、男は次に狙いを定める。
 視界に一瞬、白子の少女が飛び込むが、すぐに見えなくなって、目標
だけが全てになった。
 引金を引く。快い、重たい衝撃が手に伝わる。
 目標に向かう、弾けた鉛が、見える。
 ニぃ、と唇を歪めきらぬうちに、視界がまた開け、
 こんどはいままでもよりもだいぶゆっくりと、銃を向けて来た残り2
人を、2連射で葬った。
 白子の少女は、呆然している。
 その背後には、頭蓋より血を吐き出す、憐れな骸達。まだ、痙攣が続
いているか。
 ピクリ、ピクリと蠢く、その姿は、ようやく浮かんだ男の笑みを、ひ
ときわにした。
 だが、笑んでいる暇などない。
 だから、すぐに無表情を取り戻した。
「ここにいるのは、お前のためにならぬ」
 告げても、少女は応えない。
 構わず男は背を向けた。
「ついてこい」
 男は歩み出した。
 少女の足音が、続いた。
 その間に、まったく逡巡が見られなかったのに、男はすこし意外を得
た。
「理由を、訊かぬのか?」
 せめて、そのぐらいはあると思っていたが。
「葛城三佐から、聞いています」
 背を向けたままで、ほう、と目を細めた。
 だが、すぐにその顔は元に戻り、間断なく全てを警戒する、いつもの
さまが戻った。

「意外な、ものね」
 ミサトは思った。
 病院区画は、全くの無警戒で解放されていた。
 それどころか、外の喧騒とは無縁なように思えた。
 たやすく入り込んだ病室は、人の香りがしなかった。
 けれど、目前では赤い金色の髪の少女が、笑っていた。
 だらしなく開かれた口、無造作に投げ出された四肢、何も思わぬ、蒼
の瞳。
 あまりにも均整で、一目ではよくわからぬほどであったが。
「……アスカ」
 シンジのようやくのつぶやきが、彼女の惨状を明らかにした。
 けれど、その陰鬱さに浸っている余裕はない。
「手伝って。運ばなくちゃ」
 声の調子は、冷徹だった。それにシンジも冷静さを取り戻し、
「はい」
 と落ち着いた声で答えた。
 そうしてだ、そこで一瞬が、凍り付いた。
 全てを止めたのは、銃声だった。
 誰もが、それを夢だと思った。
 だから、ミサトがアスカの上に倒れ臥し、白いシーツを彼女のはらむ
紅で染め上げても、夢のままに思えた。
「手を上げろ!」
 引き戻したのは、よく通る男声。
 振り向いたシンジの眼前に、黒く鈍い、鉄の塊。
 そこには、無慈悲な銃口が、あった。


戻る ←前章へ
次章へ→