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第6章 適格者


「実に、残念だ」
 幾度行われたかもわからない、その男との対面は、しかし少しだけ違
っていた。そこには、仕切りなどなく――シンジの独房の中、二人は対
等に向かい合っていた。
 男は、東洋人にしては彫りの深い顔にいつもの悦楽をたたえていた。
 対して、シンジは敢然たる瞳を向けていた。
「こうして君と語らっているのは、実に楽しみだったのに」
 その敢然たる眼光に真向から挑むように、口を開いた男の言葉から、
シンジは、その異変を感じとった。男の声は、記憶によれば冷酷そのも
のだったはずだ。だが、いまこの独房に踏み込んで来た、対等な立場で
語りかけて来る男の声には、確かに『熱』が感じられた。
 熱を持った男の言葉はなお続く。
「君のように、強い人間と出会ったのは始めてだった。何としても、君
を負かしたかったよ、碇シンジ君。
 けれど、無理だった。私は何年かけてでも戦いたいのに、上がそれを
許してくれないそうだ。君を、放さなければならない。
 残念だ。実に、残念だ!」
 シンジは、憎悪でなく、男の視線を見返した。
 それまでは、ただシンジの怒りや不安や憎悪を跳ね返して来る鏡面で
しかなかったそこには、確かに意志が見て取れた。
「充実していたよ、実に充実していた。
 誰も皆、私を満たしてはくれなかったのにだ、君だけは違った!
 君となら、いつまでも永劫に戦っていられると思った!」
 たぎっていた。
 みつめるこちらに火が付くか、と思う程、男は熱く、昂ぶっていた。
 その、恋焦がれる少女のようでもある姿は、戸惑いをシンジに与えた。
「君が、君がいてくれたのなら、私はどこまでも戦えたのに!」
 陶酔の瞳が、シンジを映していた。
 とろり、という目のままで男の腕が伸び、ごつい指先がシンジの頬に
触れた。シンジの肌に一瞬、嫌悪がぴりりと走ったが――しかし、焦が
れるようなたぎりが飛び込んで来て――男と対峙していたときの、充足
感を思い出し、不快はかき消えた。
「そうだ、君を、放したくは、ない……!」
 狂った空気が牢を満たしているのは分かったが、それに逆らいたいな
どは思えなかった。いつのまにか男の両手がシンジの両頬を包んでいた。
黒い瞳が、いとおしげな視線を注いでいた。シンジは、それに憐憫と情
愛とを重ねた視線を返して――やおら、右手を伸ばして、男の髪を撫で
た。
 何かを告げたそうに、男の口がパクパクと動いたが――空気はちらと
も震えず、何の音も伝わりはしなかった。
 そのうち、男の両手が緩んだ。それでもシンジがみじろぎすらせぬの
で、しばらくそのままであったが、やがて男の方が手を引いて、身を少
し遠ざけた。
「けれど、私は君を捉えておくことはできないのだ。だから、お別れだ」
 覚めたのだろうか、男は平坂な声で告げた。
 けれど、寂しさばかりがこもる次の言葉で、音が決して冷めていない
事を、シンジは悟った。
「さようなら、碇……シンジ君」
 言って、男は背を向け、何も言わず出ていった。
 閉ざされるはずの監獄の戸は、しかし閉まらず、回廊への口を開き続
けていた。

「本日1400時より、初号機の起動試験を行います。搭乗被験者は1
330時までに第3ケイジに集合のこと」
 館内放送が、無機的に指示を告げていた。同時に、胸ポケットの携帯
電子スケジューラーが、ピピッという音を発しながらその指示を液晶に
表示した。
 シンジは、のそりと立ち、壁の時計を見た。
 長短の針は、丁度12時のところで重なっていた。
 ゼーレが崩壊して、あの男と別れてから、早2ヶ月半。
 あの後、NERVは一切の権限を消失し、その運営は国連の設置した
監査委員に委ねられ――実質、解体されたも同然の状況であった。
 であるから、エヴァの運用される機会も消滅する、ということで、解
放された直後のシンジには平穏の日々が巡って来た。と言っても、継続
監査中であるところのNERVに関わった以上、第3新東京市を離れる
わけにもいかないので、何もすることのない日々となったのであるが。
 シンジは、その退屈な日々をミサトのマンションで呆然と過ごした。
 街が崩壊したため、店の一軒たりとも残っておらず――代わりに、監
査委員会の人間が定期的に食材を始めとする必需品を届けてくれたので、
家を出なくても生活が成り立った。必需品を届けてくれる人間は、どう
も子供のお守りも同時に仰せつかるようで、話相手になってくれたし、
例え人がなく、都市の喧騒が失なわれていても、回復しつつある自然の
息吹をたっぷりと含んだ音や匂いは、シンジを楽しませこそすれ、退屈
させることはなかった。
 その、マンションの主であるところのミサトは、解放されたとは聞い
たのだが、同時に「少々疲れているので療養させる必要がある」と、本
部病院に入院したと聞かされた。シンジは、おそらく自分が受けたのと
同様の仕打を受けて――半ば洗脳されたのだろうとは容易に推察できた。
 レイはシンジと同時に解放されたようだったが、捕まった日以来会っ
ていない。一度、暇を潰すのも兼ねて思い出したように訪ねて行ったの
だが――そのときは、いくら戸を叩いても反応はなかった。扉に手をか
けてみると、開いていたようだったが――けれど、以前訪ねた時の記憶
が邪魔をして、入るのがためらわれて、そのまま帰って来てしまった。
 もう一度、訪ねてみようと思ってはいたのだが――だが、NERVが
公開した資料の中から、エヴァンゲリオンという「兵器」の驚異性を示
す文書が発見されたのがよくなかった。それまで2週間の間、平穏な生
活をしていたシンジは、エヴァの性能試験のために急拠本部に召喚され
ることになった。
 召喚は唐突で、いつも通りにやって来た監査委員会の人間が、こう告
げたのが唯一の事前通告だった。
「すまないが、これから当分の間――そうだな、短くて数ヶ月はネルフ
本部で寝泊りしてもらうことになる」
 え、と目を丸くしたシンジに、彼は少々困ったように続けた。
「上の命令でね。君がネルフ本部の監査に必要だから、呼んでこい、だ
そうだ」
 どうみても彼が知っていたのはそれだけのようだったし、シンジは自
分の立場を心得てもいたので、
「わかりました。行きましょう」
 と答えた。
 そのまま靴を履いて玄関を出ようとしたシンジに、
「荷物はいいのかい?」
「ええ、いいんです。どうせ、欲しいものとかは、ありませんから」
 自分の荷物といってもせいぜいがSDATとチェロと勉強道具の類ば
かりだったし、いずれにせよ監査委員会の仕事の徹底ぶりを思えば面倒
を産むだけだと思い、シンジはそう答えた。
 本部に着いて、通された部屋では冬月が待っていた。
 冬月は、今後の待遇についての話をいくつかしてくれたが、取り立て
て目新しい話はなく、最初の通告以上のことはほとんど聞けないも同然
だった。
 その話ぶりからするに、ネルフの指揮権は一応は彼が握っているよう
だったが、
「私は、監査委員会の決定を仲介するだけに過ぎんよ」
 とももらしていた。
 一瞬、父さんはどうなったのだろう、と考えたが――壁に貼り着くよ
うに、監視を続けていた監査委員会の人間が、その些細な冬月の言葉に
さえ目を細めたのを見て、シンジは訊ねる機ではないと悟った。
 だが、それからの実験の日々は人という人から隔離されたもので――
整備の人間の顔を見たりはしたが、監査の目の下、人らしい接触はなく、
人とのふれあいといえば、オペレータの伊吹マヤとの事務的な会話がほ
とんどで――もう一つ、可能性があるとすれば。
「お腹、減ったな」
 そのことを考えたとき、シンジはふとそう気付いた。
 職員食堂が、残されたもう1つのふれあいの場であったろう。
 だが、シンジが使用を許可されている食堂を利用できる人間は大半が
シンジとは何ら関わりあいのない人間で、しかも数自体も極端に少ない
らしい。
 無人化された食堂では、行けはいつでも無料で食事が出たが。あまり
美味しいものではなく、あの広い所で孤独であることがさらに食事の質
を下げてくれていた。
 が、どうせ他のところに行く権利など与えられていない。選択がない
以上、生きるためには職員食堂に行かねばならぬ。
 いつもの思考プロセスを辿ると、シンジはようやっと身体を狭い寝台
から起こした。本来仮眠用のための個室が、この2ヶ月の住処であった。
本当に寝台が一つあるだけの、それだけの空間。
 指示された時間に指示された場所に行って指示されたことをする――
その義務さえ守れば、可能な範囲で本部施設内を自由に移動することが
できるということにはなっていた。けれど本部施設内のあちこちは監査
のために立入禁止となっているし、そもそも14歳の少年が暇を潰せる
ような場所が本部内に存在するはずもない。
 いきおい、自由な時間は部屋で寝ているだけになっていた。
 同様の境遇であろうレイの部屋は、場所も知らなかった。けれど、知
vっていたからと何かが変るわけではない。それに、無用な接触はせぬよ
うに、という無言の圧力のことも知っていた。
 だが、その彼女と出会ってしまったのは、何かの偶然であったのか。
 そう、食堂に着いたシンジを迎えたのは無人の空間ではなく、青白い
髪をした少女の姿であった。
「……綾波」
 シンジの唇が、名を呼んだ。
 彼女は、振り向いた。
 小さくちぎったパンのひとかけを、手にしたままで。
 けれど、視線は絡む事なく、彼女が顔をまっすぐに戻した。
 一瞬拒絶されたのか、と思ったが――違うらしい。
 顔こそ戻っているが――その時の眼は、確かにシンジの方を見続けよ
うとしていた。自分でも、良く気付いたなと思ったが――彼女を見る時
は、いつも綺麗な真紅の瞳に見入っているからだろうと思った。
 とにかくだ、拒絶されていないのなら。
 とりあえず、奥の方、食券販売機にも見えるそれに近付くと、シンジ
は胸ポケットの携帯電子スケジューラーを取り出し、販売機に向かって
掲げ見せた。
 すると、それがわかったのか、販売機はボタンに灯を点らせ、シンジ
が応えるのを待ち始めた。シンジは、ちらと背後を――レイの方を見て
から、販売機に向かった。
 と言っても、いつものように品物を確かめもせずに気分でボタンを押
すだけだったのだが。
 すると、「しばらくおまちください」という無機的な声がして、販売
機の最上段、横一列に並んだ赤いランプが一斉に点った。
 左右から少しずつ消灯していきながら、どうやら時間を数えているら
しい。少しして、チン、と誇らしげな音が鳴り、販売機の下の方、丁度
シンジの腰より少し下にある自動扉が開いて、中から湯気を従えてカツ
カレーが登場した。
 ちょっと食欲が鎌首をもたげ、シンジの欲を刺激したが――カツカレ
ーとサラダの乗ったおぼんを手にして振り向くと、食欲はだいぶ失せて
いた。
 背後で扉が閉まる動作音がしたが、気にも止まらなかった。
「ここ、いいかな?」
 シンジはレイの座るテーブルに歩いて行って声をかけた。
「どうして?」
 彼女は顔も上げずに訊ねた。
 彼女の手の中にはもうパンはなく、テーブルの上にももうサラダのほ
んの少し――食べ残しと言っても充分通用する量が残されているだけだ
った。
「ええと、その、たまには誰かと一緒に食事ってのもいいかなって、そ
れだけなんだけど……」
 困った顔をして――半分は本当なのだが、シンジは応えた。
 レイが顔を上げた。
 真紅の瞳は、記憶で想っていたようには澄んでいなかった。
 記憶が違うのではない。彼女の瞳が曇っているのだと、思った。
「どうぞ」
 無表情な声。同時に、彼女は横を向いて、無理に視線を外した。
「ありがとう」
 対称的に、微笑みを交えて言いながら、シンジはレイの向かいの席に
座った。
 百人ほどを収容できる広い食堂には、ただ2人だけ。
 いや、その2人を見守る無数の眼があるか。先ほどから知識として感
じていたが、座って落ち着いた今、シンジは確かにそれをじかに感じて
いた。
「……話すのって、久しぶりだね」
 スプーンを取って、ルーとライスとをすくいながら、シンジは言った。
「そうかしら?」
「そうだよ。会ったのも、2ヶ月ぶりぐらいだ。どっちもずっと本部に
いたのにね」
 彼女の視線が、さまよった。
「そう……そうかもね」
 止まっていた彼女の手が動き出した。
 フォークを手にして、正面を向いた。
 当然、シンジの方に向く事になる。
 ギラリ、と眼たちが警戒を強めたのを感じたが――既に生まれた会食
の場を侵すなど、いもしないはずの監視者には不可能だ。
「あれから、何かあった?」
 カツの一切れを飲み込むと、シンジは訊ねた。
 なにもないわ、とレイが答えると、次の何でもない質問が放たれた。
 ほとんど一方的な質問責めは、シンジが食事の大半を終えるまで続い
たが、けれどレイの答え方が相変わらずそっけないものだったから、何
か話が進んだような気はしなかった。
「ねえ、あれから、ミサトさんに会った?」
 カツカレーの最後の一口を飲み、後はサラダの少しを残すだけになっ
て、ようやくシンジはその質問にたどり着いた。
 訊ねてから、周囲に視線を鋭らせた。
「……会ってないわ」
「僕もだ。久しぶりに、会いたいんだけど」
「そう」
 返事はそっけなかった。
 けれど。
 シンジは、レイの右の人指し指が、しきりに円を描いているのを見つ
けた。
 だから、慌ててサラダを食べてしまって、
「じゃあ、もう集合だから」
 と告げ、立ち上がった。
「私も、行くわ」
 レイが応えた。
「そう?」
「ええ、起動試験は私もだもの」
「なら、一緒に行っていいかな?」
「……いいわ」
 レイは、問いに、というよりは目配せに答えた。
 それから2人は何も言わずに食器を返却所に運び、手順通りに片付け
ると、連れだって食堂を出た。
 

 さて、少々時を戻すとしよう。
 2月14日、折しもヴァレンタイン条約記念日。
「君に、長官になってもらいたい」
 ジュネーブで最高に機密が守られるその部屋で、スギタと呼ばれる日
本人の男性は、唐突にそう告げられた。
「長官ですと? 確かに魅力的な話ですが、私はまだ方面部局長も経験
していない、ただの任務員です。確かに長官直属という立場にこそあり
ますが――何かの間違いでは?」
 言いながら、けれどスギタの顔はにこりともせねば、いぶかるでもな
い。ただ、ひたすらに硬質を貫いていた。
 それに不快を憶えながら、現長官たるスライフ・マービンは応えた。
「確かに、VIOが現組織のままであれば、君の長官就任は過大だろう。
 いくらゼーレの摘発に最大の貢献をしたといえ、ね」
 そこでひとたび言葉を切ると、銀髪の長官は立ち上がるとスギタに背
を向け、それから続けた。
「だが、VIOは縮小される。人類補完委員会の廃止と同時に、以前よ
り打診のあった『ヴァレンタイン後の体制』のために、『統一準備委員
会』を設立する。現VIOの大半は、統一準備委員会に併設される調査
院にそのまま移行し、現在の長官直属部分と、各方面支部のうち特に選
ばれた人間がVIOに残る事となる。
 その、新生VIOの土台を、君に任せたい。
 やってくれるね?」
 それは、一見口説き文句であった。
 最後の一言とともに振り向いた長官は、堅い面持ちでスギタを見つめ
ていた。スギタはそれに、一瞬戸惑った顔をみせ、けれど、
「了解しました」
 と決然と答えた。
「そうか」
 と顔をほころばせた長官は、
「辞令は、すぐにでも下らせる。
 明日から――いや、2時間後からは、君が長官だよ」
 言って、長官は執務机に座り、すぐに手続きを始めた。
 スギタの口元が一瞬硬く結ばれ、けれどすぐに言葉を紡ぎ出した。
「それでは、引き継ぎの用意をして参りますので」
 と。
 その3時間後。
 早々に統一準備委員会の事前会議に出席すると告げて、元長官はジュ
ネーブを立った。
 そうして、最も機密が守られる部屋の主になると、スギタは呟いた。
「……所詮、俗物だったか」
 あまりに甘いロックのかかったデータベースの向こうには、エヴァン
ゲリオンとやらの驚異の性能を示すデータが残っていた。
「ずいぶんと熱心に御覧になっていたようだな――これだけを」
 調べると、そのエヴァのデータだけアクセス回数が段違いだった。
「大方、世界の覇権でも握ろうというところか」
 ならば、とスギタは笑んだ。
「VIOの長官としての力、存分に使うとしよう」
 そうして、スギタは一つのファイルを――彫りの深い東洋人の顔写真
の貼られた、個人データファイルを呼び出すと、インターフォンに告げ
た。
「至急、この男に会見したい――回線越しでもいい。超法規的なのはわ
かっている。長官権限だ」
 インターフォンの向こうの係は、何か言いたげだったが、
「大至急だ」
 というスギタの有無を言わせぬ声に、押し黙った。

「して、私に何の御用で?」
 ホログラムで投影された男の全身像は、それでも圧倒的な空気を持っ
ていた。それに思わず緩む口元を、抑えるので杉田は必死だった。
「単刀直入に言うと、VIOの任務員として雇いたいということだ」
 告げると、回線の向こうの男は、おどけて腕を広げた。
「ほぅ、私は特別級の犯罪人ですよ。その私が、よりによってVIOの
任務員ですか?」
「関係はない。
 適任だから、使いたいまでだ」
 杉田がそう断言すると、男の歪んだ笑みが少々収まった。
「私をそこまで評価する、と?」
「そうだ。
 罪はVIOの権限で、恩赦する」
 沈黙。
 何も言わぬまま、杉田の視線と男の視線が絡んだ。
 似つかった視線が、互いを拒絶しあい――やがて。
「了解した――いや、しました、かな、長官殿」
「した、で構わん」
 互いに不遜に応じ合うと、ふたりはともに笑った。
「では、手続きをする。明日、こちらで会おう」
「期待しているよ」
 そうして、会見は終わり。
 刃は、柄を――あるいは鞘を得た。


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