←前章へ
次章へ→
戻る

第5章 ゼーレ、崩壊

 1月19日
 日向マコトは、解析の済んだデータチップを右手で弄ぶことで、よう
やくのところで震えを押し殺していた。
 そのチップの中でマコトに指示されていたのはただ一つ、指定回線か
ら監査部区画の管理コンピュータへの接続を、安全に、秘密裏に行うこ
と。
 一見、何でもない指示に思える。
 けれど、それは言い換えれば杉田という男――即ち、VIOが、マコ
トがNERV内部のありとあらゆるなコンピュータに潜り込んでいると
いう事実を知っているということに他ならない。保安部ですらもその事
実には到達していないというのに、だ。
 2日前の夜、チップを閲覧していて、背筋が凍ったものだ。
 そもそも、彼に命じられているのは、VIOのコンピュータと監査部
区画の管理コンピュータとを接続することだけであり、いわば第一関門
突破に際してわずかに楽をする程度の役にしか立ちはしない。自らの力
で無理矢理侵入するのと、内部から扉を開けてもらって警戒しながら侵
入するのとでは、後者の方が楽だというだけのことだ。
 その上、第一の関門を突破した後の肝心の監査部区画管理コンピュー
タのプロテクト解除は、VIOの人間が行うのだ。いわば最初の門を開
けるだけの作業しか与えられないマコトは、作戦全体にとってみればお
まけとしか呼べぬ。
 だが――あの杉田という男の目的を分析してみる程度には、マコトは
聡明であった。
 マコトの推論はこうだ。
 杉田は日向マコトが信頼に値するかどうかを試しているのだ。今回の
作戦が成功した後、NERVの監査を行う際に、協力者として考えられ
るかどうかを見極めるための試験として。
 これに協力することは、すなわちNERVへの背信行為である。露見
すれば、懲戒免職程度で済むとは到底思えぬ。死すら覚悟するべきかも
しれない。
 協力しなかった場合――けれど、それでマコトの命が危険に晒される
ことはない。VIOの計画が成功したならNERVは表立ってその力を
失い、その際に断罪されるのはマコトではなくもっと上の人間だろう。
VIOの計画が失敗したなら、これまで通りの状況が続くだけだ。
 そのことを踏まえた上で、「お前は協力する気があるのか」と言って
いるのだ。
「あと、10分か」
 時計に目をやると、誰にも取られぬ声でつぶやいた。デジタル盤が、
『12:50』の文字を躍らせている。
 最初は、ミサトを救うためだと思っていたから、指示通りにするつも
りだった。だが、推論により日向が何もせずともミサトが救われる可能
性が変らないとわかると、日向には従う理由はなくなった。
 果たして、指示通りにすべきかどうか。今なら、決断し直せる。
 いささかの逡巡に戸惑うマコトの脳裏に、突如、ヴァレンタイン体制
への忠誠を見せたときのあの顔が浮かんできた。
 あのときの杉田の顔には、一切の曇りを感じなかった。
 けれど、たかがそれだけのことで、信じるのか?
 理性はそのように押し留めたが、心が告げる真実は、杉田を信じろと
だけ。
 結果――
 悟られぬよう何喰わぬ顔で、マコトはいつもの手順を始めた。
 正式でないプロトコルで代理サーバと接続、そこから更に別の代理サ
ーバに接続し、その上で監視システムの中枢に眠る部分を揺り起こした。
 MAGIの操っている、そのラインとは別の方向から接続し、最後に
それを外部に繋がる地点に接続する。
 勿論、推論が推論に過ぎない可能性も高く、利用されているだけ、と
も考えられるのだが。一種信仰にも似たあの昂ぶった声を、そのように
思うことは、できそうにもなかった。
『Connect OK』
 画面の下端、偽装されたウィンドウに、一瞬だけ文字が浮かび、消え
た。
 手遅れ、か。
 既に運命はマコトの手を離れた。
 あとは、杉田という男に賭ける以外になかった。

 それまで手持ち無沙汰にただよっていた杉田は、いきなり目を輝かせ
ると、オペレータの一人が座っている椅子の背もたれに手をかけた。
 そのまま体を低くして視点の高さを合わせると、オペレータの背後か
らスクリーンを覗き込んだ。
「なかなか手強いらしいな」
 と言った杉田が覗き込む画面には、ほとんど何も映っていなかった。
 ただ、画面の下端の方に点滅するカーソルと、いくつかの文字列。ど
うも、命令待ちの状態らしい。
「これでもう、プロテクトは外してます」
 興味深げに画面を見る杉田が、何かを期待しているのを察すると、オ
ペレータは短く告げた。
 すると、杉田はひゅう、と口笛を吹き鳴らした。
「なるほど、監査部のシステム管理者は、貧乏症とはほど遠い性格らし
いな」
 杉田は視線を外すと、オペレータ席から手を外し、しゃんと立つと天
井を仰ぎ見た。
「明るみにできないこととは言え、裏帳簿すら残さないとは、ずいぶん
思い切ってるじゃないか」
 ひとりごちるような杉田は、どこか愉しそうにも見える。
 だが、しばらくしてから顔を下ろして、再びスクリーンに視線を移し
たときには、そんなそぶりはかけらほども残っていなかった。それどこ
ろか、目には容赦のない視線が宿っていた。
「それでも、何かが残っているはずだ。絶対に見つけろ」
 命じた声は、怒りを孕んでいるようでもあり――応じるオペレーター
達に、いくらかの戦慄を与えるに充分だった。
「捜し出せぬなど、あってはならんのだよ」
 けれど、慌てて自分の担当に集中したオペレータ達を眺めながらのそ
の呟きは、誰にも届かぬながら、より戦慄であった。あるいは――焦燥
やも知れぬが。

 鎖が放たれると、彼女は怪訝な目を向けた。
「どういうことなの?」
 憔悴に曇った視線はそれでも鋭く保安部職員の顔を捉えていた。
「私は赤木博士を解放しろと命令を受けただけです」
 職員は視線を向けもせずに事務的に応えた。
 少々痺れの残る手首をさすりながら、リツコは狭苦しい個室を見渡し
た。
 監禁が始まったのはレイの予備を破壊した次の日であったはずだ。日
付は、確か12月21日であったか。
 職員が、部屋を出るよううながした。ここに運ばれたときのように目
隠しは求められなかった。
 それでも疑問であったので、リツコは訊ねた。
「今日は、何日なの?」
「1月、19日です」
 これまで幾度も繰り返された、なしのつぶてであった問いは、始めて
功を奏し――ようやく、リツコは自分が解放されたことを実感した。
 区画の出口――機能保持のために他職員の立入が禁止になっているは
ずの保安部区画の出入口から踏み出すと、職員はネームプレートを取り
出した。
 そこには、リツコの名前と、職名が記してある。
 手渡すと、職員は告げた。
「通常通りの勤務に戻るよう、だそうです」
 おそらくはゲンドウからのものであろう、そうとだけことづけると、
職員は背を向けた。
 独り残されて、しばらく呆然としていた。が、突如リツコは何らかの
異変を嗅ぎ取った。
 感じとった理由には、釈放されたことを疑問に思ったのもあった。け
れどなにより、勘、というものの導きが特に強く感覚を喚起した。論理
的でない、と思ったが――何かがあったのは確かに思えたし、疑問にも
思えなかった。
 だから、何があったかを知るには、どうすればいいかを考えた。
 色々嗅ぎ回っていたミサトなら、知っているかもしれない。けれど、
彼女は頼れないだろう。おそらく、嗅ぎ回りすぎて保安部か監査部に捉
えられたであろうから。
 ならば、それに情報を横流ししていた日向では? ダメだ、彼とリツ
コの間にはさしたる繋がりはない、ミサト経由ならいざ知らず訊けるは
ずもない。
 マヤなら? 無駄だろう。彼女がそんな汚さに触れるわけもない。
 手詰り、か?
 いや、可能性を2つだけ見つけていた。
 ただし、片方を満たすことはもう片方を満たすことでもあるのだ。
「仕方ない、か」
 どうせ通常勤務に戻るなら、嫌でも顔を合わせることになる。
 その時に泣き伏せるかもしれないが――幸い、牢獄の1ヶ月は心を落
ち着けるためには十分な時間だった。まだ傷はむき出しだろうが、触れ
られなければよいことだ。
 そう割り切ると、リツコは慣れた道を辿り始めた。
 しかし、着いた時、発令所には期待した人影はなかった。
「先輩!」
 ひどく驚いたのだろう、ずいぶんと大きな声で、マヤが叫んだ。
 彼女は立ち上がり、駆けてきて、リツコに飛びついた。
 マヤの声に、ざわり、と発令所のほぼ全体が動いた。
「どこに行っていたんですか! 失踪なんて、私心配していたんです!」
 今にも泣き出しそうな歓びで顔をくしゃくしゃにしたマヤは、だだを
こねているようでもあった。
 そんな無邪気な彼女の姿と裏腹に、「失踪」という言葉に、青葉と日
向はビクン、と震えた。
「ごめんなさい。……多分、疲れていたのね」
 微笑んで、応えると、リツコはマヤの腕を振り解き、左右と奥との3
つのオペレータ席に囲まれた位置に移動した。
 マヤは、まだなにやら言いたそうであったが、リツコは意に介さず、
青葉と日向とに向け訊ねた。
「司令か副司令は?」
「不在です。……多分、補完委員会の召集ではないかと」
 丁寧に答えたのは、青葉だった。先刻まで少々呆然としていたが、今
の質問で醒めたのだろう、体を半分だけリツコに向けていた。
 だが、日向は背を向けたままだった。
 見渡す。
 雛段状になっている発令所の、下層にいる下級職員達までもが、視線
をオペレータ台に集中させていた。職員達は、リツコが見ていると知る
と、仕事に意識を移すようだが、その大半はどこか上の空で、やはりち
らちらとオペレータ台を気にしていた。
 けれど、日向はちらとも反応していないのではないか?
 振り向いてもいなければ、問いに答えようとしたでもない。
 ただ、一心腐乱にディスプレイを見ている。
 首が動いていない。視点が固まっている証拠だ。
 画面は目まぐるしく動き、次から次に情報を表示しているのに、だ。
 キーもあまり叩いていない。時折、申し訳程度に、かしゃり、とは打
っているが、速度はとてもプログラムを組んでいるようには見えない。
 リツコは、目を懲らして日向の視線が向いているであろう点を見た。
 画面の下端、そこだけが、移ろい続ける画面の中で異質に見えた。
「日向君」
 声を、かけた。
「なんです?」
「いえ、何をしているのか、気になって。見せてくれる?」
 言うと、リツコは日向の席に寄った。
 カシャリカシャリ。
 日向の手が、にわかに動き――下端の異質が、隠れて消えた。
「定時報告の処理です。退屈な仕事ですよ」
 振り向きながら、日向は言った。
 向けたその顔と、かがんだリツコの顔との距離がだいぶ近い。
 互いの息がかかりそうなきょりに、しかしどちらも身じろぎしなかっ
た。
「あら、それにしてはずいぶん熱心ね」
「最後の使徒も倒されたらしいですし――他に仕事も、ないんですよ」
 非論理的な言い訳に、リツコは嘘の匂いを感じた。
 けれど、その嘘を探る必要はなくなった。

 異変が感知されたのは、1330時であった。
「外部からの侵入です。サードの状況を盗られました」
 緊張した面持ちでオペレータが告げると、上司は間断なく命じた。
「撃退しろ、ウィルスを送り込め、何としても阻止するんだ!」
 けれど、悲鳴のような声の果ての瞬間に、画面に『VIO』のロゴが
浮かぶと、部屋の空気が凍り付いた。
 しかし、その報は本来もたらされるべきところではなく、その一つ上、
裁判にも似た円卓へと持ち込まれた。
 1345時、召集。
「VIOの侵入を許しただと?」
「しかも、サード・チルドレン監禁の事実を証拠にされた?」
「VIOのことだ、すぐにでも槍玉にあげてくるぞ」
「情報改竄は?」
「行わせている。一切のデータを、偽造したものに置き換えている所だ」
「猶予はほとんどなかろう。即刻、VIOに圧力をかけるべきだ」
「敵対を明らかにすることになるが?」
「放っておけば我々の立場が危うくなる。計画の再興を必要とする今、
それは致命的になりえる」
「計画さえ成ってしまえば、VIOなど関係はないのだ。それまで保て
ばよい」
 12枚の石板が並び立つその円卓で、会議が交わされていたのはそこ
まで、召集からわずか3分ばかりの間であった。
 そこまで来たところで、突如、円卓の間を赤い光が包んだ。
「何事!」
 誰かが、当惑の声。
 それは、皆も同様で、浮き足立った空気が訪れた。
 その問いに、その場の誰も答えられようはずがなかった。
 しかしながら、答えがどこからともなく響いた。
『国連VIO規定に基づき、人類補完委員会――いや、秘密結社ゼーレ
をVIO監察下に置く命令書が発効した。君達の計画は、ご破算だ』
 声は、円卓を構成するいずれのものでもなかった。
「貴様!」
 誰かが叫んだ。
 応える声は、自信に満ちあふれていた。
『おっと、名乗っておこう。私はVIO長官、スライフ・マービンだ。
以後、お見知り置きを』
 円卓の中央に虹彩が走り、人の影が浮かんだ。
 その影の白銀の髪が、妖しく石板達を照らし出し、碧の瞳が不敵に笑
んだ。
 時に、1350時。
 ゼーレ、崩壊。

『1351時:国連VIO規定に基づき、特務機関ネルフをVIO監察
下に置く命令書が発効』
 その文字が躍ったのは、今まさにリツコが日向の背信を暴くために動
こうとした瞬間であった。
 日向は興奮して立ち上がり、軽くその拳を握った。
「どうしたんだ!」
 青葉の当惑の声が響き、職員達も動揺、ざわめいた。
「こういう、こと」
 リツコは冷静に呟いた。日向の様子が動揺でないことには気付いてた
が、それどころでないことは悟っていた。
 ざわめきで満ちる発令所の中マヤがリツコの背後から肩に手をかけた。
「赤木先輩、これから、どうなるんですか?」
 はかない言葉に、リツコは嫌悪を感じた。だが、いつもどおり視線を
合わせないままに振り向き、力強く答えた。
「何も変らないわ。VIOが手を出してくるまではね」
 視線を向けると、それでも不安露わな顔があった。
 リツコは一瞬、目を細めた。が、次の瞬間には発令所全体に向け、隙
なく告げた。
「通常通りの勤務体制に戻って。指示あるまで、通常シフトを維持して
頂戴」
 その声に少しだけ騒ぎは収まり、収拾の契機を見せた。
 

「マービン長官、お疲れ様でした」
 1907時。
 ジュネーブ、VIO長官室。
 薄暗い部屋の照明を照り返しているのは、執務机に座る部屋の主の銀
髪と碧の瞳、それに向かう男の黒髪と黒い瞳。
 それ以外には、何もない。
 黒髪の男――スギタの顔には、達成感があった。
 たった今、日本からジュネーブに戻ったばかりだと言うに、疲労の影
もない。
 対して、部屋の主たる銀髪の主、スライフ・マービンはまざまざと疲
れを見せつけていた。
「ああ、流石に疲れたよ。国連の根底を揺るがす大摘発劇だったからな」
「しかし、報われるだけの仕事です。これで、ヴァレンタインの理想が
成るのならば」
 スギタは、少しだけ熱っぽく語った。
 普段は冷静なくせに、ヴァレンタイン体制について語るときばかりは
わずかに昂ぶるようだ。スライフ本人としても、よりよいヴァレンタイ
ン体制の維持は悲願であるが、この男ほど手放しでは喜べぬだろうと思
う。
 いくらか蔑した目でスギタを見ていると、スギタが口を開いた。
「ですが、長官。仕事はまだあります。今回の報告書の承認をお願いし
ます」
 無慈悲にもスギタは手にしたブリーフケースいっぱいほどの紙束を取
り出し、ドン、と机に載せた。
「何故データの形で持ってこない」
 小学生のノートにすらコンピュータが使われる時代だと言うに、スギ
タはいつも報告書を紙で出す。それが、いつものように紙数枚、多くて
15枚程度なら赦せもしようが、どうみても200枚は下らない、ひょ
っとすると300枚には達している紙束には、流石に幻滅する。
「データは改変が効きますが、金庫に収めた紙には改変が効きませんの
で」
 いつもの釈明が返って来て、スギタは例のアルカイックスマイルを浮
かべた。


戻る ←前章へ
次章へ→