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第4章 今一度、神の偉光を

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「我々は何としても人類の補完を成さねばならない」
「けれど、碇は失敗した。我々には補完の手立ては残っていないのだぞ」
「それでも補完はなされねばならぬ。我々に栄光の国をもたらすために」
「左様、そのために、我々は<人>を造ったのだ」
 全てがひとたび、沈黙した。
 然る後に、全てが唱和した。
「今一度、神の偉光を」

「焦って動き出すのを待つ必要もないとは……何をそんなに焦るのか」
 碧の瞳の男は、振り向きもせずに言った。
 白銀の髪が薄暗い部屋の照明に照り返っている。
「別に不思議ではありませぬよ。ヨシュアの処刑、十字軍、教会と異端の争
い。昔から繰り返されて来た一例が現われるだけのこと。大災厄が起こった
としても、15年もすれば宗教は火種になりますから。
 まったく、理解はできますが――共感はできませぬよ」
 アジア系の男は、部屋の主がキリスト教徒であることを知りながら、その
ように応えた。振り向いた白銀の髪の主は鋭く噴怒で見返した。
 しかし、己がアジア系の男の挑発に乗ったことに気付くと、主はすぐに冷
静さを取り戻した。
「言いすぎだぞ、スギタ」
 それでも諌める口調には若干の不快が含まれていたか。
 スギタと呼ばれた男はキシシ、と含み笑いを立て、一瞬だけ嘲りの瞳を向
けた。だが、すぐに真顔になり、
「失礼、私は無神論者なもので」
 主は不愉快そうに息をついた。
 とは言え、スギタの性癖が直るはずもないし、この男が能力だけを信仰し
ているところを買われてここにいることを思い出して、心を鎮めた。
「奴らは時を望んでいるのですよ。かの書に記されたイェルサレムが訪れる
時を。もはや、一刻たりとも待てぬようですな。言わせれば、血に刻まれた
記憶とやらが欲しているとでもなるのでしょう」
 私から見れば、盲いているだけのことですが。
 そうと言いたげなスギタの口元が、主の視線に残る。浅いながらも、神の
国を信じる部屋の主としては、苛しい凝視をせずにはいられなかった。
「とにもかくにも、奴等が終焉を招くのだけは阻止せねばなりませぬよ」
 その視線から逃れるべく、という意図があるのかどうか、スギタは主の視
線から外れるように動き、呟いた。
「ならば、内偵を急げ。奴等――ゼーレは例の巨人を9体、掌握しようとし
ているようだ。動かれる前に、叩かねばならぬ」
 言いながら、主は執務机に置かれた幾つかの紙束のうちの1つを取り上げ、
スギタに差し出した。
 スギタは無言のまま受け取り、表紙をざっと眺めると、
「言われずとも、了解しております。セカンド・インパクトの二の舞は御免
ですのでね」
 と目を細めて答え、菩薩像を思わせるアルカイックスマイルをたたえた。

「では訊ねる、1月8日、君が行なったことは何だね?」
 問われた彼女は虚ろな瞳であった。
 衰弱の色濃い頬は、見るものの不快を起こす。
 だが、それを眺める男の顔は満足そうに歪んでいた。
「……NERVからの逃亡を……図りました」
 だらしなく開かれた唇からは、一筋のよだれ。
 荒く繰り返される息は、彼女の生命活動が極限にあることを示していた。
 時折思い出したように瞳が輝きを取り戻し、全身が抵抗の意も露わに脈動
するが、それは何かの作用ですぐに追放される。
「逃亡計画はどうなっていた?」
「……私と……ファースト・チルドレンと……サード・チルドレン……の3
……人で……第3新……東京……市か……らの逃亡を……企てま……した」
 望んでいた回答に、男は悦楽した。
「よくできたね、葛城ミサト」
 男は立ち上がり、机のボタンを一押しした。
 彼女と男を区切っている硝子の向こう側に、心を喪わせる快楽の煙が渦巻
いた。
「これは、御褒美だ」
 ミサトのだらしない――人間である事をやめた肉の塊を思わせる顔よりも、
果てしなく嫌悪な笑みが男の顔に浮かび、狂喜の声が喉より出た。
 煙を大量に吸い込んだミサトは、そのだらしなさを一層深め、肉塊として
縛り付けられた椅子と一つとなった。
 その顔の恍惚は、眺めるものを狂気させる程に幸福で、不快であった。

「老人達の手が入っていたのは、監査部だけではなかったということか」
 碇ゲンドウは、中指で眼鏡を押し上げながら言った。
 NERVの総指令にして、碇シンジの父である彼の表情は、色付きの眼鏡
に隠されて、ちらとも窺えない。けれど、補完の日以前の彼を知る者から見
れば、その全身から鋭利さが失われている事に気付いたろう。
「ああ。保安部だけではない、諜報部にも幾分ゼーレの手が入っていた。こ
れまでなら露見もしなかったような些細なものだ」
 手を後で組んで立っているゲンドウの背後で、冬月が応える。
「これまではゼーレとの接触は認められなかった。けれど、それを動かした
ということは……」
「やり方を選ばないということだろう。大義名分は成った、実行するだけだ」
 ロンギヌスを使った復讐というところか、とひとりごちるとゲンドウは窓
から目を外した。
 ガラスの向こうには、薄暗いジオフロントが広がっている。
 時刻は午後6時といったところか。地軸傾の変化は、冬至や夏至などの実
感を失わせ、日々を単調にしていた。毎日ほぼ同じ時間に日は昇り、ほぼ同
じ時間に日は暮れる。今はほんのわずか冬であり、半年前の同時刻に比べれ
ば若干暗いが、ほとんど変わらぬ明るさだ。
 だが、同じ明るさは何故か同じには感じられなかった。
「待つまでもないだろうな。我々は無力にされる」
 冬月の言葉には若干の絶望を込めもっていたか。
「その前にVIO(※)がゼーレの仮面を外せばそうはならんさ」
 けれど、ゲンドウは普段と変わらぬ調子で言った。
「全てを失うわけにはいかない。封印を為すだけの力が残らなければ」
 続く言葉と共に浮かんだ眼鏡の奥の輝きは甚だ決然であった。

(※)Valentine's treaty Intelligence Organaization
    「ヴァレンタイン条約による監視諜報機構」

「神でも憑いているのか!」
 代わって任務を任された男は、絶望を叫んだ。
 晴れた煙の向こうになお敢然と立つ少年の瞳は、確かに濁っていたが、ま
だ輝きを保っていた。
 5度目及ぶ薬品の投入の末、男が得た結論はまったく非論理的と言えるも
の――たった今の、絶望の叫びである。
「そうでなければ、考えられん!」
 この薬品で屈しなかったものを、男は知らぬ。人の精神を著しく弛緩させ、
あるいは肉体をも蝕むことで最高の洗脳状態を醸し出す煙。
 その魔手に抗い、意志を向けているなど!
 けれど、無能を告げられることの意味を思い出し、男はまたもボタンに手
を伸ばした。
 だが、射抜くように少年の眼差しが男のそれと重なり、同時に男の手はこ
と切れて宙にて静止する。
 少年の瞳、濁った奥の変わらぬ煥然に、男は凍り付いていた。
 黒曜石の洗礼に体が震え、外したくとも外せぬ視線が畏れにのたうつ。轟
音の如き沈黙の後、今にもこときれるのではという悲鳴を鳴らしながら、よ
うやく男は凄睨より逃れた。
 それでも少年は視線を動かし、男をなおも睨みつづけた。しかし、背を向
けて丸くなって震える男の視線が少年を向くはずもなく、全てを射抜くであ
ろう彼の力はまったくもって無駄となった。
 そこに、不快さを携えたかの男の声が響いた。
「下がれ」
 少年――碇シンジの視線が、ガラスの向こうで開かれた扉を向いた。
 彫りの深い男の顔がそこにはあった。
 苛烈なる視線を受けて、しかし現われた男は動じずに、
「ほう……よほどの精神力、子供だと言うのに立派なことだ」
 と微笑んだ。
 その足元で、シンジに射抜かれた男が、脱兔の如く逃げ出し、開いた扉を
抜け出た。シンジは僅かに目を落として哀れな男に憐憫を与えてから、凄烈
を向け直した。
「なるほど、君はよほど補完を受けたとみえる。……それとも、最初からそ
んな存在だったのかね?」
 目を細めると、男は鏡に写った対称の視線を向けた。
「だけれど、そんな瞳は簡単に向けられる。君のようでなく――私のように
不純の極みであってもね」
 全く同じにして全く異なる2つの視線が互いを捉えていた。
 少年のそれは清らかにて、男のそれは汚れ歪み切っている。
 しかし、少年も男も苛烈にして純粋であり――炎と氷が相反しながら同種
の美しさをたたえるように、2人は同じにして異種だった。
「君の保護者は既に事実を認めた。君も、認めたまえ」
 おもむろに、男が告げた。
「事実は僕の知っている通りです。あなた達の望む事は事実じゃない」
 碇シンジを知る者であれば、違和感を持って彼を眺めたろう。けれど、そ
の者が彼の最愛の親人をも知る者であれば、こう思うだろう。
『渚カヲル――彼が乗り移ったようだ』と。
 確かに黒き瞳は真紅でない。けれども、その圧倒的な視線、己を確固とし
て誇る姿は、まさしくそれである。
 そして、男も双方を知るようで――目を一層細め、ほぅ、と愉しげに嘆す
ると、突如歪みとなってシンジに告げた。
「往々にして事実と真実は異なるのだよ。そして、我々が求めるのは真実で
なく――事実だ」
 シンジは、それに更なる視線で応えた。
「まあいい。
 今日はここまでにしておこう。
 敢然な君に免じて、ね」
 男は背を向け、言うと――髪をかきあげる振りをして額の汗を拭った。

 杉田、と名乗るその男と、日向マコトが接触したのはつい2日前の事であ
る。
 1月17日。
 その日、日向は第3新東京市内のとある喫茶店で、彼との面会を予定して
いた。
 彼が何を考えているのかは、ひとつも分からない。
 けれど、彼が日向の欲する情報を持っているのは確かだった。
「葛城ミサトの救出に関するプランを話し合いたい」
 そうとだけ記された電子メールに、日向は即座に反応した。
 彼の最愛の女性が行方を失ったのは、1月8日の午後。
 幾つかの噂では彼女の国外への逃亡が語られ、また幾つかの噂では彼女の
幽閉が語られていた。装って、副指令にして作戦部長代理となった冬月に訊
ねると、
「機密だ。すまないが、答えるわけには行かないのだよ」
 と言われた。
 更に上の碇指令に訊ねる、という案も浮かんだが――無碍にされるだけと
思い、取り止めた。
 それで、暇を見つけては各所にハッキングをかけ、彼女の消息を探ってい
たのだが。
 手がかりはなし。何の形跡もなし。
 そんなお手上げの所に舞い込んで来たのが、杉田からのメールだった。
 反応する以外の選択肢は日向には無かった。だが、返答に記されていたの
は店の場所と時刻だけ。それでも、日向はそれにすがった。
 午後6時。
 約束の時刻丁度に、日向は店に踏み込んだ。
 すると、奥の席で親しそうに手招きする1人の男。知らぬ顔。
 日向もまたそしらぬ顔で男に歩みより、2人用のテーブルの向かいについ
た。
「日向マコト、だな?」
 沈黙と髪一重の声が訊ねた。
 押し黙ったまま日向がうなずくと、男は中指で机をなぞった。
 何か文字を書いているらしい、それから中指で自分の胸を指すと、もう一
度机をなぞった。
 V
 I
 O
 VIO?
 日向の頭の中で、その文字列が意味を持つにはしばしの時間がかかった。
「君達の」
 言いながら、男は『NERV』の文字列を書いた。
「敵の一つだ」
 日向は意志で驚愕を抑え込み、男を見た。
 VIOの名は、数日来のハッキングで知った。
 NERVの秘密査察を繰り返す組織の一つだと思った。
「そして、私は杉田」
 言いながら、杉田は日向の手を掴み、その中に紙片を潜らせた。
 こっそりと日向が手を開くと、
『国連浄化委員諜報班長』という文字。
「ゼーレが、NERVの失墜を狙っている。
 葛城ミサトは、そのエサだ。彼女には現在洗脳が施されている。
 もうすぐ明るみになる。非人道的と理由を付けてNERV権限を取り消す。
 ゼーレは統一政府準備委員会と名を変える。
 そして、NERVを取り潰す」
 淡々と告げると、杉田は一枚のチップを置いた。1センチ角ほどの、金属
片。
「彼女と子供達を救出したい。ここに計画が書いてある。協力して欲しい」
「何故、敵が潰れるのを助ける?」
 杉田よりはいささか大きいか、押し殺した声で日向は訊ねた。
「我々の敵は国連を巣とする不正だ。NERVは自身を封じなければならな
い。せめてそれだけのNERVは、残らなければならない」
 けれど、ゼーレは消滅させる。
 杉田は言った。
 そこには、無神論者としてキリスト教徒を嘲笑った姿はない。
「私は、正しいヴァレンタイン体制のために全てを捧げているのだ」
 何故、と問われるその前に、杉田は厳粛に応じた。
 一種、信仰すら感じさせるその顔に、日向は意外な視線を向けた。
 能面に微かにある、憧憬とも畏怖ともつかぬ表情に、けれど日向は共感を
得た。であるがゆえ、うなずいた。
「そうか」
 笑むと、杉田は席を立った。
 お札を1枚取り出すと、テーブルに載せ。
「頼む」
 と告げ、席を離れた。
 日向は、テーブルの上のチップを握り込むと、自身に向けてうなずいた。

「日向君と、接触したようだ」
 冬月が告げると、ゲンドウは満足に首を縦に振った。
「それでいい。我々は力を失うが――ゼーレも力を失う。
 私の願いは果たされぬが――それでいい」
 穏やかに微笑んだその姿に、冬月は彼の伴侶を見た。
 彼らの子供に向け、彼女はこんな風に微笑んだはずだ。
「変わったな、碇」
 数日、思っていたことを口にすると。
「ああ」
 はぐらかすようにゲンドウは答え、視線を伏せた。


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