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第3章 果てのない回廊

 1月13日、水曜日、晴れ
 朝食はトーストが2枚とスクランブルエッグが少々。
 カメラとレーザー銃との合部屋の中、黙々と食べることが許される。
 口を開く度に喉に滑り込む涼気が、かろうじて保たれている少年の体
温を奪う。苦痛を味わいながらも、食欲の方が勝ったのだろう、十分と
は言えぬ食事はあっという間に食道へと投げ込まれた。
 少年の口が沈黙を取り戻してから10分もたった頃だろうか、把手も
ない扉が音も立てずに開いた。同時に、レーザー銃の砲口か向きを変え
る動作音。
 音にせかされ、立ち上がると、少年は撃たれる前に部屋を出た。
 背後で閉まる扉、果ても見せずに続く回廊。
「進みなさい」
 声合成に命令され、少年は歩き出した。
 廊下に、裸足のぺたぺたという音が響く。何の変哲もないコンクリー
トの床面は、しかし少年の足には残酷な牙を剥いていた。
 足の裏の幾箇所かが擦り剥けていて、ところによっては血も滲んでい
た。彼の歩いた後の床には、足跡のようにポツリポツリと血が並んだ。
 かれこれ10分も歩いたろうか、少年の視界に見なれた扉が現われた
。金属製の、のっぺりとした扉。やはり扉把手などなく、そばの壁にコ
ントロールパネルがあるわけでもない。
 だが、少年が扉の前に立ち止まると、歓迎の意を示すように扉は開放
された。
 けれども、少年はその歓迎をよしとしないのか、立ち止まったまま開
いた向こうの深渕の闇を見つめただけだ。
「入りなさい」
 音声合成が命じても、少年は動かぬ。
「入りなさい」
 2度目の命令に合わせるように、近くの壁が開いて、幾つかのレーザ
ー砲口が姿を見せても同様。
「入らなければ、発砲するよ」
 闇の向こうより声。
 今度のは音声合成ではない、人間の声だ。
 それでも、少年は動かぬ。
「反抗の意志を見せることには反対しない。けれど、もう少しやり方を
覚えた方がいい」
 ややあって、再び放たれた声は、先程よりも幾分低く、冷たかったか。
「死を背にして抗うことが勇敢なのではないよ。可能性の少ない勝利を
掴むことに賭けるからこそ勇敢なのだ」
 不快なモーターの動作音を立てて、砲口が一斉に少年の背を向いた。
 その気配を感じとりながらも、少年はなお動かない。結ばれた口元の
強い意志は、ゆらぎの欠片も見せはせぬ。
「勝利の可能性もないのに死を背にするなど、自己陶酔者か愚か者のす
ることだよ」
 けれど、揺さぶるように闇は言い、それから手を2回打ち鳴らした。
「それに、君が殺めた親友のためにも生き伸びてみてはどうだね?」
 その残酷な笑みの声に、少年はピクリと反応した。
 果たして声が動かしたのか、それとも言葉が動かしたのかはわからぬ
が。
「彼は君に託したのだ。それを無碍にするのかな?」
 そして、待ち構えるような沈黙。
 鋭く視線を返しながら、少年は拳を握った。
「入って来たまえ」
 男が言い、少年は応えて部屋に踏み入った。
「それでいい。賢明は美徳だ」
 満足に言った男を照らし出すように、部屋の明りが灯った。
 少年の視線に晒された男の顔は、彫りが深く、ともすれば白人のよう
でもあった。が、良く見れば黄色人種であるのは確かだった。
 机に載せた二の腕を広げ、とぼけた目で少年を見る男は、いかにも気
が良さそうであった。けれど、それを睨む少年の目からは、男の印象に
は似つかわしくない程の憎悪が見て取れた。
「さて、今日も語らおうじゃないか、碇シンジ君」
 愉しそうに男は言い――目を細めて笑った。

「監査部、か」
 冬月はつぶやいた。
 事態はほぼ把握していた。
 人類補完計画最終段階の失敗を契機に、監査部の裏にあるもう一つの
組織が動き出したのだ。
 しかも、ゼーレはその動きに気付いていない。ただ、人類補完計画の
失敗を追求するのみで――今にもNERV本部を木端微塵に吹き飛ばし
かねない剣幕を見せ続けるだけだった。
 ゲンドウは、詭弁や無言でその激昂を逃れ続けていたが、彼とて計画
の失敗に落胆していた。だが、あの発動の日、何かがあったようで、彼
は以前のような烈しさを失っていた。
 勿論、同様のこと――補完へ至るための刹那の夢見――は冬月自身に
も起こったようだ。けれど、歳を取った上に色々なことを見たために築
かれた落ち着きのゆえであろうか、取り立てて何かを感じはしなかった。
確かにあの日以来、わずかに増した充足感は認めよう。
 けれど、冬月の中の何かが大きく変わったわけではなかった。
 しかも、彼を取り囲む世界に目を向ければ――以前のままの緊迫に満
ちた生活に、冬月は嘆息続きだった。
 使徒が全て消え、補完計画も失敗ではあったが終わり、全ては安息に
戻るかと期待もしたが、裏切られただけだった。
「NERV内部の組織ながら、手が出せないとはな」
 苦々しく言いながら、秘かにもたらされた報告ファイルに再度目を通
した。
「勝手なことをしてくれたものだ、葛城三佐も」
 言いながらも、彼女の行動自体は賛同したいという冬月の想い。
 何もなければ冬月も彼女と同じ事をしたかもしれない。
 だが、彼女はNERVの置かれた立場を一面しか知らなかった。確か
にゼーレという協力者にして敵対者がいるのは事実だが、NERVが敵
対しているのはそれだけではない。ただ、これまでの状況――ゼーレが
力を誇っていた状況ではその敵対者達が見えなかっただけだ。
 あるいは、NERVの敵がNERV自身となる可能性もある現状で、
葛城三佐は子供達を逃そうとした。そして、当然ながら失敗した。
 今、二人の子供達――碇シンジと綾波レイは、監査部の手にある。
 公式には「逃亡後、行方不明」である以上、引渡しを要求することは
不可能。セカンド・チルドレンのアスカがシンクロ不能な現在、NER
Vにはエヴァを動かせる人間はいない。ダミープラグなら存在するが、
メンテナンスを担当する赤木博士もまた監査部に因われの身、実質エヴ
ァを動かす手段はなく――いわば無手で戦場の真ん中に立たされた兵士
も同然だった。
「文句を言おうにも葛城君自身も捉えられているとあってはな」
 もう何度目かわからぬ嘆息をつくと、冬月は報告ファイルを閉じ、机
の上に詰まれた幾多の文書の山と格闘を始めた。

「さて、碇シンジ君、君は第3新東京市からの逃亡を企てた。
 そうだね?」
 男が尋ねても、シンジは答えなかった。
「そろそろいいかげんに答えてくれないと、僕は君からもっと自由を奪
わねばならなくなる。そうはしたくないんだ」
 彫りの深い顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 好対照な形相を向けたシンジは、眉一つ動かさない。
「今まで、沢山の自由を奪ってきた。居場所を固定し、睡眠を規定し、
食事も定めた最低限。靴を奪ってあの廊下を毎日歩かせても、服を剥ぎ
取ってみても、君には効果がなかった」
 男はシンジの全身をなめるように見つめた。
 そこには、視線を遮るなにものもなく――少年の未成熟な裸身が晒さ
れていた。
「さて、今日はどうしてみようか? とりあえず、暖かく眠れる権利を
奪ってみよう。毛布をすぐにでも撤去させるよ。あの部屋に裸のままな
らどうなるかね?」
 著しく歪んだ男の口元が、歓びを見せた。
 それでもシンジは応えぬ。ただ、男を見つめている。
「それとも、規則正しい生活というものを奪ってみようか。睡眠不足は、
洗脳にはもってこいらしいからね」
 シンジの視線には、何の感情も見られない。
 ただ一点、色が見られるとすれば――嘲り、か。
「もっと直接的に、薬を投与してもいいんだよ。ただのモルモットにし
てあげてもいいんだ。どうするかね?」
 狂気を孕んだ笑みがシンジに迫っても、何も変わりはしなかった。
 男は一瞬、怒りのぎ形相をしたが、思い直したように真顔に戻った。
それでも、だいぶ不愉快そうに席を立つと、
「まあいい、またしばらくしたら来る。それまで、考えておいてくれた
まえ」
 と告げ、背後に開いた出口に消えた。
 その戸口が閉まると、部屋は再び暗黒を取り戻し、太古の夜でも訪れ
ぬ闇が部屋を包んだ。根源からの恐怖の手が迫る中、それでもシンジは
敢然と立ち、いもしない観察者に対して堂々と対峙し続けた。

 同じく補囚を受ける彼女もまた、羽織るように体をくるませている毛
布を除けば、何もまとっていなかった。
 恥ずかしいとかいった感情にはまるで無縁の血の瞳が、ただ彼女を包
む檻を写し続けていた。その真白き身体は、微動だにせぬゆえか、鉄に
埋もれた骸にも見える。
 やがて、彼女を包む檻の一角が開かれても、彼女は動かない。
「出なさい」
 電子音の合成が告げても、彼女は動かない。
 逆らっているわけではない。純粋に興味が無いのだ。
「出なさい」
 レーザー砲口が彼女を捉えても、彼女は微動だにしない。
「どうして?」
 抑揚の無い声で、彼女は問うた。
 誰かが答えるはずもなく、代わって電子音が告げた。
「出なさい」
 彼女は答えが無いのを知ると、興味がないといったふうに沈黙し、寒
さに抗うように毛布にくるまった。
「出なさい。さもなくば、発砲します」
 天井全体がスピーカーとなっているらしい、天より降り来たる声は、
どこか神の託宣のようでもあった。ならば、その言葉を唯一受け取る彼
女は神子というわけか。
 選ばれし娘は、無色の視線を天に向けた。
 単眼の監視者と重なった視線は、しばし動きを止めた。
「出なさい、レイ」
 遂に、天は自らの声での説得を諦めたらしい。降り来たる声は、彼女
の愛するただ一つの存在の持つものと酷似していた。
 少女の瞳がごくわずか輝き、彼女は立ち上がった。
 冷気と肌とを遮っていた毛布が、はらりと舞い落ちた。
 成熟の最盛期を過ぎつつある肉体には、まだいくらかの幼さが残って
いたが、十分に女性を感じさせる程には成熟は成し終えられていた。
 けれど、肉体が女を示しているわりには、彼女はあまりにも無垢に裸
身を晒していた。
 瞳にいくらかの安らぎをたたえ、彼女は回廊へと踏み出した。
 背後で扉が閉じ、彼女もまた回廊へと幽閉された。
「レイ、進みなさい」
 低く太い男の声――碇ゲンドウのそれを模した声が、回廊に響くと、
彼女は踊るように静かに足を踏み出した。

「今回の件は、全て私の独断です。あの子達にはなんの責任もありませ
ん」
 彼女は、毅然と告げた。
 けれど、それを聞き取るべき人物はそれを聞き流した。いや、聞こえ
ぬふりをした、というべきか。
「君は碇シンジと綾波レイに要請されて、2人の逃亡の手助けをしよう
とした、そうだね?」
 代わりに男は問い詰めて、唇を歪めた。
「いいかげんに、認めたらどうだね?」
「私の独断です」
「答えたまえ」
「あの子達にはなんの責任もありません」
「黙秘権を行使するのは自由だが――ここにはそんなものを規定した法
はないのだよ」
「全て私の独断です。あの子達にはなんの責任もありません」
 ちらとも曇りの見えない瞳が、まっすぐに向けられていた。
 男は愉しげに歪めていた唇を解き、怒りを目元に現した。
「答えろ」
 感情を殺しているがために感情的な問い。
 彼女は応えなかった。
 男の怒りは変わらず――いや、唇がこころなしか結ばれたか。
「答えろ」
「今回の件は、全て私の独断です。あの子達にはなんの責任もありませ
ん」
「やめたまえ、君」
 頑な彼女に、男が遂には形相を怒りへと変じたとき、道化を思わせる
声。
「我々は彼女をなぶっているのではない。質問しているだけなのだよ?
 それなのに、そのように感情をあらわにすると言う事は」
 道化がぬるり、と闇より姿を現した。
 ともすれば白人に見える深い彫りの顔に満面の笑みを浮かべて、けれ
ど突如に鬼神に面持ちを変じて。
「貴様が無能だと言う事だ!」
 道化は、決して太いとは言えぬその腕を振り、拳を男に向けた。
 男の体が椅子より弾かれた。
「失礼したね、葛城三佐」
 道化は再び笑みに転じ、着衣ではあるが椅子に拘束された彼女を見た。
 今の救済にちらとも感謝せぬ、怒りの視線を向けられて、しかし道化
は仮面のまま変じなかった。
「では、続けようか」
 安心したまえ、私は今の愚か者のように気が短くはないのでね。
 言うと、道化は主を失い空を抱えていた椅子に腰かけて、更なる笑み
をたたえた。


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