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第2章 孤独の心


 彼女はその部屋で一人だった。
 惣流・アスカ・ラングレー、第2の適格者、エヴァンゲリオン2号機
専属パイロット。
 けれど今、彼女は躯とほんの少しの違いしかない、無力なモノに過ぎ
なかった。

 精神崩壊。
 一言で言ってしまえば、そんな症状である。
 自己の存在意義の根本を破壊され、自分の存在する拠り所をなくした
彼女は、如何なる気力をも失くしていた。
 或いは今の彼女は、死に直面し動かぬ身体で必死にあがく者と同等か。
 いや、死への最後の瞬間にあがいている者の方が、より生者らしいか
もしれぬ。
 今の彼女は不完全なまま、ただ肉体のみが生かされているだけ。幼児、
いや、乳児ですらも持っている「心」というものを見失った彼女は、捉
え方によれば、それこそ肉塊に等しい。

 では、彼女は不幸なのか?
 生きるという事の意味すらわからずただ生きている今の彼女は不幸な
のか?
 誰にも答えられぬ問いである。答えを出せるものがいるとすれば――
その者は、神と呼ばれよう。
 だが、ここに神はいない。
 だから、誰も答えを出せぬ。

 けれど、考えてみよう、例えばある少年のように、生きる希望を掴ん
だとて絶望しか訪れぬのであれば、それは不幸。或いは、とある存在の
ように自ら望んで滅びを迎えられたとすれば、それは幸福。
 則ち、生きていれば幸せと決まるのではないし、死が不幸だとも限ら
ない。
 ただ、こうと言える事だけは確かだ。
「彼女は不幸ではないぶん幸せなのかもしれない」と。


 彼女の崩壊は、一瞬で起こったわけではない。
 その原因は、彼女が幼い頃より育まれてきたものだ。

 彼女は、母を失くした。
 亡くしたのではなく、失くした。
 アスカの前で母は母でなくなり、それから消えた。
 母であった肉体も、母であった精神も消え――だから、アスカの母親
は失われた。

 この点について、とある少年――具体的に言えば、碇シンジ――との
対比を見てみよう。
 碇シンジの母親は、消滅した。
 けれど、碇シンジと言う少年の前で、彼の母親は最後まで母親であっ
た。
 ただ、彼女は肉体を消滅させただけ、シンジの前から姿を消しただけ。
 彼女が母親であろうとしたその魂は、最後まで母親のままであり、で
あるが故に碇シンジの中には(忘却こそされたが)母親という存在があ
った。

 けれど、アスカは母親という存在を消した。
 彼女が母親でなくなったから。それから、彼女が死んだから。

 同様に、アスカは父親を失くした。
 確かに彼女と遺伝子の半分を同じくするその人間は生きているが――。
 アスカは母が母でなくなったとき、父を求めた。
 けれど、そこに父はいなかった。
 温もりを、叱責を、励ましをもらいたくても、彼は何も与えず――結
局、アスカは一人で立ち上がり、故に父を失くした。
 そして、いてくれなかった『父であった男』を憎み、だから男を憎ん
だ。

 だから彼の連れてきた「違う母」をも嫌った。
 その「違う母」はといえば、既にアスカの心のどこにも存在しない
「母」の代わりとなれるはずもなく――ただ、「母」と呼ばれるだけの
存在となった。

 例えば父を憎むのでは碇シンジも同様である。
 けれど、シンジには母がまだいる。
 そして、シンジに遺伝子の半分を与えた男は、未だもって「憎むべき
父」である。
 自分を捨てた男が、シンジの父であるがゆえに憎かった。
 男のほんの僅かな優しい言葉は、父のものゆえに温かかった。
 彼の父は――決してよい在り方ではないにせよ――未だに父であり、
その点において、彼は両親ともに失くしてはいなかった。

 両親を失くしたアスカは、一人で生きようとした。
 生きるためには、自分が自分である必要があった。
 だが、彼女が彼女であると、彼女が彼女である意味を与えてくれる両
親は失われていた。
 だから、アスカは認められようとした。
 いったい、誰が認めてくれる? どうすれば、誰かが認めてくれる?

 イチバンになれば良かった。
 彼女がイチバンになると、「違う母」も「父であった男」もそれ以外
のみんなも――そう、イチバンになればみんなが認めてくれた。
 だから、彼女は努力した。イチバンになるために。なにもかにもでイ
チバンになるために。

 彼女はエヴァンゲリオンのパイロットに選ばれた。
 自分にしかできない事、自分だけが出来る事。
 誰にも邪魔されない、自分が自分でいられるわけ。

 彼は現れた。
 碇シンジ。
 嫌うべき男の一つ。
 競うべき、そして自分の下に立つべきエヴァのパイロット。
 けれど、彼はアスカの聖域を――アスカのイチバンを、奪った。
 それでも、アスカが壊れなかったのは、彼が至って従順であり、あの
家の中では自分の方が上でいられたから。シンジは、自分の下であった
から。

 アスカは失敗した。
 シンジが去って、自分が求められて。
 けれど、使徒を倒せなかった。

 シンジは、自分より上。
 自分は、イチバンでない。

 そいつはやってきた。
 彼女がイチバンでなければならなかった理由を突きつけ、そいつはア
スカの心の引き金を引いて――
 そうして、アスカはまた失敗した。

 親友は、彼女を認めてくれた。
 失敗した、価値のないアスカを認めてくれた。
 けれど、それは求める甘露ではなく――だからアスカは癒されぬ。

 それでも、アスカはエヴァに乗った。
 かつてそこに甘露があったから。
 身を委ねるべき麻薬がそこにあったから。
 もうない事は知っているのに。

 アスカはエヴァに乗れなくなった。
 だから、

  価値は無くなった。

「私は助けてもらえなかった。
 私はシンジに――初号機に、みんなに助けてもらえなかった」

 私に価値がないから。

「私はいらない」


 彷徨の果てに発見された彼女は、既にその精神を崩壊させていた。
 その医師は、彼女の崩壊への過程を推測した報告書とも診断書ともつ
かない文書を手にしていた。
「ひどいものです」
 その医師は、文書を傍らの机に放ると言った。
 医師は、まだあまりNERVというものを知らなかった。ただ、請わ
れるままに、情報を分析して、文書に起こしただけだった。
「誰も彼女の味方になる事すらできないんです。こんなひどい状態の人
間を酷使したここの神経を、私は疑いますよ」
 それは告発であった。
 けれど。
「君もNERV職員なら、そのような事は口にしない方がいい」
 医師の向かいの椅子に座っていた男は文書を手に取ると、ただ冷静に
言った。
「君の役目は、セカンド・チルドレンの精神を回復させる事と、経過を
報告する事。それ以外は、君の首を絞めることになる――文字どおりに
ね」
 その台詞に、うそぶいたところはなく、全てが真実である事を物語る
目は、氷を思わせた。
「だが、まだ14歳――精神の発達も中途な人間を捕まえて、こんなこ
とを! それもそもそも療養が必要だったほど歪んでいたんだ、それを
酷使して壊したのは!」
 対して、医師は炎で応えた。
 しかし、凍度を増した男の視線は、無理に沈黙を呼んだ。
 それ以上何も言わずに男は席を立ち、文書をもってその診察室を出た。
 医師は拳を固めたが――それ以上、何ができるでもなかった。


 ゼロという概念は、人類の偉大な発明の一つであると言われている。
 だが、ゼロを知るがために、彼女――惣流・アスカ・ラングレーは無
明へと落ちた。
 もしも彼女が数を知らなければ、彼女はしあわせでいられたろうか?
 彼女が優秀であり続けたころならこう答えるだろう。
「バッカじゃない? 数も知らないで生きてくなんて、そんな原始人み
たいな生き方、どこが幸せなのよ!」
 しかし、今の彼女は答える事すら思いつかない。あるいは自分が問わ
れている事すら気付かない。
 彼女はゼロだった。
 価値もなく、意志もなく――あとは肉体さえゼロになれば、ゼロにな
れる。
 けれど、ゼロになろうと言う思いすらない。もっとも、彼女がゼロで
あり続ければ、やがては肉体もゼロとなるであろう。
 だが。
「生きている限りそうでなくなる可能性はある」
 医師はそう思い、アスカの生命を維持させ。
「取らねばならないデータがある」
 そう言って彼女を生かすよう願うものや。
「証拠は必要だ」
 という理由で生存を求めるものなど。
 絶えて久しいアスカの思惑とは裏腹に、ゼロの彼女をゼロと思わぬ者
達はいた。

 求められる事はしあわせなことなのか?

「私はいらないの」
 彼女は言った。
 そこには、誰もいなかった。
 そこがどこであるか、彼女は知らなかった。
 けれど、それでよかった。
 彼女はいらないから。誰も彼女を必要としないから彼女はいる必要は
なく、いる必要がないのならいなくてもいい。

 いなくてもいいのなら。
 いないほうがいい。
 いなくなるにはどうすればいいの?
 いなければいい。

 だから、彼女はいなかった。
 例えその魂が肉体というものに縛られていたとしても、彼女は「いな
い」。
 彼女はいないことを願い、そして彼女はここに「いない」
 誰一人――彼女自身ですらも。
 何もない。彼女が立っている荒野ですらも。

「本当は寂しいの」
 けれど、つぶやいた。
 でも、どこにもとどかない声・めいっぱい叫んでも・無力
 だから、一人のまま?
 ゼロのまま。

「誰か、誰か私を!」
 彼女は求めた。

「一人はイヤなの!」
 彼女は叫んだ。

 どんなに叫んでも、届くはずもない。
 彼女のいるその場所は、神ですら立ち入れぬ領域なのだから。

 その壁を開くのは苦痛である――特に彼女の場合は。


「なるほど、酷いものだ」
 読み終えた報告書を執務机の上に置くと、彼は目頭を押さえながら呟
いた。
「仕事柄、いくつかこういった例にはお目にかかっているが――これほ
ど完璧にどうしようもない例を見せられたのは初めてだ。この集団は、
狂人の集まりではないのかね?」
 柔らかい言葉ではあるが、碧の瞳の眼光は彼の烈しさを示していた。
 彼の前に立つアジア系の男は、その眼光を受けても怯む事なく、流暢
な英語で応えた。
「かといってまだ証拠としては弱すぎます。国連を牛耳っている例の組
織が存在していますから。うかつに動けば、我々自身が取り潰されるで
しょうから」
「わかっている。だが、世論を動かして糾弾を引き起こすという方法も
あるのだよ」
 碧の瞳をアジア系の男から外すと、彼は視線を報告書に落とした。
 アジア系の男の口元が一瞬緩み――けれど、すぐに引き締まった。


「せめて、彼女に誰かがいれば――彼女を心底愛してくれる誰かがいれ
ば、あるいは立ち直れると思うんです」
 その会議の場で、彼は緊張を隠せずにはいたが、敢然と言った。
 円卓の周りにずらりと並んだ、白衣姿。
 たった一人、そうでない男の表情は色眼鏡のため見通せない。
 その彼の方をちらちらと見ながら、医師は手元の原稿にはない最後の
部分を読み上げた。
「今の彼女に必要なのは平穏です。彼女の事を考えるなら、こんな所で
なく――どこかもっとやすらげる場所に移すべきです」
 そこまで発言すると、彼は着席し、審判を待った。
 他の医師達が、彼女の肉体的状況に付いての報告を行った。
 疾病もなく、栄養もそれなりに投与しているので、肉体面に問題はな
い。
 そんなありきたりの報告が続く。
 みな、惣流・アスカ・ラングレーという患者に当たっている医師ばか
りだ。
 それを沈黙のまま聞いているのは、碇ゲンドウと名乗る、この組織―
―NERVの総司令だと言う男。
 医師は、ゲンドウの顔を見ると、頭を下げ、祈った。
 少女の命運は彼が握っているから。
 あのアスカという少女を救うには、ここから連れ出さなくてはならな
い。
 だから、祈った。
 けれど、全ての報告が終わって後、碇ゲンドウは無慈悲にも告げた。
「報告は了解した。現状を維持するように」
「待ってください!」
 医師は叫び、立ち上がった。
 ゲンドウは、彼にいぶかしげな視線を向ける。色眼鏡の隙間から鋭い
眼光が覗き、医師は気押されたが――けれど、少女の事を思い、言葉を
紡いだ。
「患者に必要なのは精神の療養です。この場所で実験体まがいの扱いを
続けるのは、患者の人権を無視した行為です」
 興奮のままゲンドウを睨むと。
 しかし、ゲンドウは何も返さずに背を向けた。
 他の医師達も立ち上がり、皆その円卓を後にした。
 何事もなかったように部屋は沈黙を取り戻した。
 医師は、己の無力を悔い、唇を噛んだ。


 その部屋には季節はなく――
 惣流・アスカ・ラングレーは最も快適に調節された部屋の中、だらし
なく悦楽な獣の相貌で天井を見つめ、ともすれば幸福すら思わせる絶望
をたたえて微笑みを続ける。
 彼女に救いの手は、届かない。
 孤独なまま、彼女は何も思わない。
 本当に、孤独だから。

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