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第1章 2016年、1月8日

 人類補完計画は、破綻した。

 理由は誰一人知るところではない。
 されど、補完が行なわれなかったわけではない。
 鍵となるそれは人の心に忍び込み、その心を溶かし、一つにし
 そして、全ては離散した。

 例えば。
 一人の少年の補完について語ってみよう。
 碇シンジと言う名を持つのその少年は、自らの犯した罪を悔い、故に
自らの閉塞を願った。
 だが、それが真に罪であったかどうかは分からぬ。はたして、生きる
ために狩ることが罪であるかどうかなど、只の人の身に答えが出せよう
筈もない。
 しかし彼はそれを罪とした。
 だからこそ彼は閉塞を願い、そして彼は世界に閉塞をもたらした。

 少年は、孤独に泣いた。
 閉塞された中では、誰一人として己を認めてはくれぬ、そのことに苦
悩した。
 その中は、真に自由であるのだが――だが、少年はそれを不幸と感じ
た。
 だから、少年は閉塞の破壊を願った。
 そのために何が必要かを探した。
 自分が、誰であるのかを、求めた。
 自分とは?
 そして、自分でない自分もあり得る事を、
 自分が自分でしかない事を見つけた。
 そうして捜し当てたものは、「希望」
 あるいは「生きる意志」とも言えるその不幸を手にして。
 彼は、悩むことを止めて、閉塞から抜けでた。
 それは、永遠に続く希望に満ちた幸福ではなく、ただ不幸であった閉
塞から抜け出したためのかりそめのものであるのだが――少年に、それ
がわかる筈もなかったが。
 それでも、少年は、道に立った。

 2016年、1月8日。
 その朝、碇シンジはいつものように目覚めを迎えた。
 絶望に暮れた日常の中の、ある一瞬。
 ベッドの上に力なく放り出されていた躯を起こすと、少年は部屋を見
回した。
 そこは、彼の部屋ではない。
 渚カヲルという名の親人のものであった殺風景な部屋は、シンジの幸
福を容易く吹き消し、代わって嘆きを灯した。
 涙があふれた。
 シンジは、己が殺めた彼のために、泣いた。
 季節を失って久しい街は、シンジを癒すためのきっかけを与えてはく
れない。
 涙はすぐに渇れたが、喉の渇きに逆らっての嗚咽は彼がまだ泣いてい
ると語ってくれる。ベッドに染み込んだ水滴は、強い日射しの前に抵抗
できずに蒸発していた。
 未だ再建もままならぬ都市の残骸、そこを吹き抜ける蝉の声は、無慈
悲なまでに生を唄い上げる。生の声だけが躍動をみせる中、少年は死し
たる者のために、鎮魂の嘆きを続けた。
 やがて、泣き疲れた少年が安らかなる眠りに落ちようとした頃、突如
死の部屋の扉は開け放たれ、強烈なる生の匂いが部屋に忍び込んだ。
「誰だ!」
 この部屋が無人と思って踏み入ったのだろう、彼は狼狽した声を上げ、
右手を懐に伸ばした。
 シンジは、涙も拭わずに顔を上げ、侵入者を見つめる。
 幾度か見覚えのある姿――サングラスで顔を、黒スーツで全身を覆い、
加えてお決りの髪型で一切の個性と言うものを失くしたその姿。
 ああ、ネルフの人間だ、と思ったときには、既に銃口がシンジに向け
られていた。
 それに怯えるでも昂ぶるでもなく、シンジはただ冷静に銃口を見つめ
た。
 無垢とも言えるその視線に、彼が無害であると安心した男は、ようや
っと冷静になった。
「……サード、チルドレンか」
 それから、男は銃口でシンジを制し、周囲を見回した。
 ベッド以外にろくに物もない狭い官舎。
 この建物で唯一人気のある空間。
 その中で膝をかかえ、乾いた涙の跡を隠しもせずにこちらを見る少年。
 噂で聞いた事情で大方を察すると、男は抑揚の無い声で指示した。
「来てもらおうか、碇シンジ君」
 シンジは、しばし銃口を見つめていたが、わずかに顔を動かすと訊ね
た。
「それは、命令ですか?」
 無感動な声。
 圧倒されるような感覚を受けた男は、シンジを見つめ直した。
 そこにいるのは、14歳の無力な少年ただ一人。銃を持つ自身の方が
よっぽどこの場では力を持っているのだと、再認識する。
 それでも唾を飲み込んでから、男は答えた。
「命令だ」
 と。
 少年は視線を足元に落とす。その一つ一つの動きに男は銃に握る手に
思わず力を込める。
「……わかりました」
 視線を落としたままで少年が言うと、男は安堵の息をついた。
「今、迎えを呼ぶ。それまでは、ここにいるように」
 絞り出すように言うと、男は携帯電話を取り出し、部屋に背を向ける。
 そんな、怯えすら感じさせる男の態度に、しかしシンジは何も覚えず、
ただ絶望だけだった自分から解放された安寧に無意識に心委ねた。
 無為に聞こえる蝉の声。先刻まで感じなかったそれは、「暑さ」とい
う感覚を喚起する。その感覚に堪え切れなくなり、額の汗を、手で拭っ
た頃、迎えの車はやってきて、すぐに2人の黒服が部屋に現れた。
「どこに連れて行くんですか?」
 無造作に放たれたシンジのそれは、ただの質問だったが――だが、何
もない少年のそれは、先程の男が感じたのと同様の感覚を新たな2人に
も催した。
 冷汗混じりで1人が、「言う必要はない」と答えたが、表に待つ男の
狼狽ぶりを一笑した余裕はそこにはなかった。猛獣にそうするように1
人が銃を向け、もう1人がゆっくり近付くその姿は滑稽ですらある。
 少年はその光景をなんともなく見、そして唐突に踏み出した。
「行きましょう」
 その少年の言葉は、むしろ歓びですらあったにも関わらず、男達を震
え上がらせる、何かを抱えていた。

 連れられた先は結局のところネルフ本部であった。
 その見なれた廊下をシンジは1人歩いていた。歩かされている、とい
う方が正しいのかも知れないが、だが、何かをしているという事が、今
のシンジにとっては安らぎだった。
 絶望的に沈黙の通路は、彼以外のどこをとっても躍動など見せない。
そして唯一の音、履き潰されたスニーカーの立てる音は、彼が孤独なの
だと告げてくれる。それでも、自分がいるということを認めた少年は、
自分の罪を見つめぬ限り幸せであった。
 だが。
 少年のくぐった扉の向こうに、人の姿を見つけて、少年の歩みは凍り
付いた。
 人の姿が悪いのではない。それが、彼女であったのが、よくなかった
のだろう。
 白い肌、血の瞳。
 シンジが殺めた少年に良く似たその顔立ち。
「……どうしたの?」
 事もなげに言う彼女。
 彼女の瞳は、相変わらずただ光景だけを映していた。
 綾波レイ。
 3人目の彼女。作られた器。
 培養槽の中の、沢山の歪んだ微笑みを思いだし、シンジは戦慄する。
 それでも、彼女の瞳の奥、紅に染まった自身の姿をみつめながら、シ
ンジは必死に言葉を探した。
「えと……ぼくは……ええと、ああ、いや、ちがうな、えと、その、綾
波は……」
 だが、たどたどしい言葉の羅列が紡がれるだけで――何か言わねばな
らないことは全くといっていいほど出て来てくれない。もどかしさを感
じながらも、いろんな感情のぐちゃぐちゃに詰まった頭では、対処でき
ようはずもない。
「……ごめん」
 そんな自分が情けなくて、シンジはいつもの言葉を口にした。
「なにを、謝ってるの?」
 彼女は、無垢な瞳を向けて訊ねた。
 シンジにはそうして重ねられた視線を外す事は出来なかった。まっす
ぐさがシンジを捉えて、離してくれなかったとでも言おうか。あるいは
ここで逃げたら再び機会が巡る事はないような、そんな予感が働いてい
たのかもしれない。
「え……と……その、ええと、そう、言いたい事があるはずなんだ。だ
けど、うまく言えないから、だから……ごめん」
 だから、必死になって、言った。言ってしまったその後で、自分がま
た謝ってしまった事に気付いて、赤面した。
「それだけ?」
 無表情なままの彼女。いつもと変わらぬはずのその顔に、何故かいつ
もと違う感じを受けたシンジは、何度かめをしばたいた後、ふと気付い
たように応えた。
「う、うん」
「そう」
 彼女はそれきり、何処か壁の一点に視線を定めて、そこをずっと向い
たままになった。微動だにする様子もない姿は、白く澄んだ肌と合間っ
て、一つの彫像のようにも見えた。その胸の呼吸のための律動がなけれ
ば、生命を感じないぐらい、静寂なままの彼女。
 その横顔を見つめるシンジもまた、動けなくなった。
 呼気ですらもこの精密なガラス細工を台無しにしてしまうのではない
か。動けば、彼女が壊れてしまうのではないか。
 シンジは、指の先の隅々までに神経の全てを使って、静寂を守ろうと
した。
 だから、場を包むのは、安らかな2つの息だけとなった。
 世界はわずか半径10メートルばかりの半球の部屋とふたりとしかな
いという錯覚のなか、ふと、シンジの右手は一つの衝動を覚えた。
 それは、幼児のそれに等しき類のものであったが。
 だが、この美しさを壊してしまう危うさを知る少年は、それゆえに衝
動に逆らえず、ゆっくりと右手を動かしだした。
 慎重に、慎重に。
 ただ風の一片けも動かさぬよう。
 彼女はその企みに気付かぬ。
 それでも一気に近づけぬ、もどかしさ。
 しかし永遠と思われた距離は埋まり、あと一つの決断で、企みは成る
というところまでやってきた。
 シンジは、緊張をほぐすように唾を飲み込む。その音のあまりの大き
さにびっくりして、彼は目的の少女を見た。気付かれた様子はなかった。
 それで、安堵の息をつこうとして、それでも気付かれてしまうと思っ
て、急に息を止めて――息を止めたまま、最後の距離を埋めるべく、右
手を動かそうとしたが――動かなかった。
 この右手を動かして、彼女に触れてしまえば、それきり彼女は消えて
しまうのではないか。そんな幻想がシンジを押し止めて、企みの最後の
距離を埋める決意は出なかった。
 その逡巡は、実際のところ一瞬にかなり近しかったのだが、しかしシ
ンジにとっては永遠にも等しく――そして、終焉は2人のどちらかでは
ない、別のところからもたらされた。
 果てしなく大きな、自動扉の動作音。プシューっという高圧気の排出
音は、しかし彼女というガラス細工を砕くことこそなかったが――しか
し、気付くとそれは、ただの綾波レイという少女でしかなくなっていた。
「……葛城三佐」
 少女は抑揚のあまり感じられぬ声で、その侵入者の名を口にした。
 開いた戸に、シンジが振り向くと、レイの言葉通り、彼の家族であっ
た女性が立っていた。片手には、愛用のクリップボードを持っていて、
何枚かの書類が強引に束ねられて、挟み込まれていた。
「ミサト……さん」
 ゆっくりと、その名をつぶやく。
 だが、絶望にも呆然にもとれるその言葉を聞き流し、彼女は厳粛な声
で告げた。
「現時刻をもって、あなた達をエヴァのパイロットから解任。記録を抹
消します。……同時に、あなた達の第3新東京市への居住理由も消失す
るので、即時退去を勧告します」
「どういうことなの、ミサトさん!」
 しばしあって、シンジが悲鳴に似た声をあげたが、それに構わず、ミ
サトは2人に歩み寄り、それぞれに何枚かの書面を手渡した。
 続く彼女の言葉には、先の厳粛さはなく――代わって、慈母をこそ感
じるような響きがあった。
「とりあえずの行き先を、探しておいたわ。その書面をもって、すぐに
新箱根湯本駅に行って頂戴。手筈は、調えてあるから」
 シンジは、渡された文書を見た。
 それは「文書」というよりは「手引き」と言うべきか。
 そこには、第3新東京市を出てからどうすべきかが、事細かに書いて
あった。とにかく複雑な経路で目的地までの指示がしてあって――それ
が、追手を逃れるためのものとは想像できなかったが、何か大切な意味
があるのだろうとシンジにも察しがついたのは、ミサトのいつになく真
剣な瞳のためだった。
「さ、早く行きなさい。ネルフも、あなた達の敵になるかもしれないの」
 言うと、ミサトは背を向けた。
 明るい声だった。けれど、悲痛とも思えるその声に、シンジは事態が
切迫していることだけは悟り。だから、動こうとしないレイの手を無理
矢理取った。
「また、会いましょう」
 ミサトの言葉が嘘だということは、容易に見抜けた。
 けれど、その嘘を、シンジは暖かく感じて――そして、これまで離れ
ていた心が、唐突な別れになってようやくまた通い合った事に、涙を覚
え――それでも、守らねば成らぬ右手の向こうの存在に、決意した。
「それじゃ、レイは頼んだわ。大丈夫よね、シンちゃんは、男の子だか
ら」
 すこしだけ、振り向いて、ミサトは言った。薄暗いのと、視線が重な
らなかったので、良くは見えなかったが、少し泣いていたと思う。
「はい」
 意図的に軽く答えると、シンジはレイの手を引いた。
 だが、彼女はその誘いに逆らうと、ミサトを見つめ、問うた。
「……碇、司令は?」
 ミサトは、ちょっと困った顔をしてから、ゆっくりと、言い聞かせる
ように、答えた。
「これは、碇司令の命令なの。……いいわね?」
 レイは、しばし沈黙し――答えなかった。
 答えなくても、よくなったから。
「勝手なことをされては困りますな、葛城三佐」
 シンジが向かおうとしていた扉が開き――銃を構えた数人の黒づくめ
の男達が、そこにいた。
「ネルフの持つ最大の戦力であるエヴァを使用不能にするパイロット解
任。記録の意図的な改竄。機密流出の危険性もありますよ。……十分な
背信行為ですな、葛城三佐」
 そのうちの1人が、ゆっくりと、3人に歩み寄った。
 残る男達は、入口付近で展開し、何かあらば即座に撃つ、という態度
を露わにしている。
 歯軋りの音が、シンジの頭蓋に響く。
 不思議と冷静なまま、シンジは近付いて来る男の銃口を見た。
「……責任は、私にあります。この子達には、手を出さないで」
 毅然と、ミサトは言った。
 だが、声は震えている。
 その僅かな怯えを気取った男は、唇の端を歪めた。
「承腹、いたしかねます。今回の某事が、適格者自身の発案によるもの
でないとは、言えませんからな」
 先頭に立つシンジまで、あと5メートル、というところで男は立ち止
まり、3人を順に見た。
 ミサトの怯えと怒りに満ちた視線を嘲り、レイの無感情な瞳に憐れみ
を覚え――そして、シンジの力溢るる瞳に怒りを感じた。
 絶対的なまでの力すら感じるその瞳に、男は不必要とも言える怒りを
感じ、それを壊したいと言う衝動に狩られた。それが危険であると言う
認識があったのも事実だが、それ以上に、奪わねば気が済まなかった。
 だから、躊躇いも持たずに銃口を少年に向けた。
 それでも、少年は輝きを失わなかった。
 引き金を引けば、そんなものは消えると、そう囁かれたが、男は任務
を思い出すことで狂気を払った。
「大丈夫、手荒なことは致しません」
 内心とは裏腹に、男は言った。――あるいはそうすることで、狂気の
再来を防いだのかもしれないが。
 だが、そんな男の思惑は漏れなかったようで、ミサトは落胆してこう
べを垂れたし、シンジは悔しさを拳に握った。
 2016年、1月8日。
 適格者達の捕囚の、最初の日であった。


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