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終章 はじまりのための、いま
「ぅ……むぅ」
杉田貴狼はまどろみから醒めた。
すぐにやったことは、時計の確認だ。
ジュネーブを出てから5分。ほんとうに一瞬のまどろみだったということに安堵してから、違和に気付いた。
そんなはずはない。もっと長い、夢を見たはずだ。
ただ、夢がなんだったのかを、思い出せはしなかった。
気のせいか。
そう結論付け、杉田はまどろみの前の思案を再開した。
「くそぅ!」
思い出すなり、杉田は憤怒に身を焦がした。
今にして思えば、すべて己の不断の招いたことだった。何故、切羽詰まるまで決断が出来なかったのかと、決断した今では思っていた。もっと早くこうしていれば、すべてはうまく言ったのだと思えてならなかった。
「俺も、俗物ということか」
拳を固め、杉田は言った。
「VIOの僕などと、思い上がったことを」
己の甘さを痛烈に思いながら、けれど杉田は次のことを考えはじめた。犯した失敗は、取り戻せばいい。
だから、杉田は、先のことを考えていた。第三新東京までの1時間強、考えるべきことはいくらでもある。夢などに気を取られる暇もない。
しかし、それが夢でなかったことを知るものもいる。
たとえば、無慈悲な被告席に座る男。
「VIO特別裁判、第8125号について、判決を申し渡す」
声がふりかかったのは、夢の――補完の夢の、直後であった。
彼は、海に飲み込まれる寸前、ひどく強い想いで形を保っていた杉田に飲み込まれた。後は、幻にしか憶えていない
ただ、自分がひどく父親であったという、自覚だけはあった。
そして、子が己の過ちを正したことに、満足もした。
助けられたのはどちらだろうと想い、碇ゲンドウは、微笑った。
それから、海の中でささやかに願ったことが届くことを祈った。
誰もが、それを一瞬のまどろみ、一瞬の気の迷いだと看過した。
なぜなら、補完計画を知らぬものにとって、それは確かにうたかたの夢でしかなかったから、そして、あまりに世界は元のままに回っていたからだ。
ただ、補完のことを知るものもいた。
「補完の日」をかすかに記憶するものもいた。
そして。
目覚めた少年、はじまりの少年は、すぐさまあたりを見回した。
天井に大穴の開いた空間、細い通路。
横たわる二つの人影。
金の髪と、青ざめた髪。
三つではない。
少年は立ち上がり、よりつぶさに、あたりを見た。
<彼>の姿はどこにもなく――ただ、何かの溶けたようなシミを、見つけた。
「あ……あぁ」
思っていた、知っていたとおり。
<彼>は、肉体を支える壁をなくし、原液へと、帰していた。自分の選択が、彼を殺したのではということ、結局自分はやり直せなかったのではという不安が、彼の心を満たしかけた。
ただ、それは戦いの結果だった。
碇シンジはすぐにそのことを思い出し――うなずいた。
誰に向けてでもない。ただ、己に向けて。
それからシンジは、傍らで横たわる二人の少女に目を向けた。
金の髪――惣流・アスカ・ラングレーと、青ざめた髪――綾波レイ。
その片方、青ざめた髪の彼女は、既に目覚めていた。
彼女はひどく痛そうな顔をして、
「……仕方、なかったの」
と言った。
「彼は、器だけだったの。ニンゲンの作り方の、実験だったの」
シンジは、黙って、うなずいた。
それは、分かっていたこと、以前のシンジが識ったことだった。そしてシンジが識るのに使った力のすべては、元のところ――レイの中に戻っていた。
「うん」
シンジは識る力を失くしていても、彼女の悼みを知っていた。だからシンジは微笑んで――少し無理な微笑みだったが、レイは目尻の涙を拭った。
「降下予定時刻、五分前です」
「そうか」
二人が目を醒ましたころ、杉田貴狼はオペレーターの声に反応し、立ち上がったところだった。
いくばくかの焦りを感じさせる声で、杉田は告げた。
「後の指示はこれに書いてある。降下ポッド射出後に、開け」
杉田は封書をひとつ、取り出した。
「なにも、長官がいかなくても」
「私以上のエージェントが、いるのか?」
眉をしかめた部下の苦言を、改めて一蹴すると、杉田は機体の下部、降下ポッド射出口へと向かった。対人対施設要撃用のVIO特注機だけに付けられた装備である。
軌道上から一気に突入し、目的地点を要撃するステルスポッド。普通なら馬鹿馬鹿しすぎて実用化もされないような技術であるが、実際にこうして巨額の予算が投じられ、十数年前の混乱時には幾度も活用された代物であった。
「お互い、最後の奉公というわけだ」
誰にも聞かれぬようにつぶやくと、不思議と血が昂った。自分はVIOの僕でしかない、と思っていただけに、それで昂ったのは意外だった。祈ったり、猪突猛進したり。自分には不似合なことが多すぎると、杉田は破顔した。
まぁ、いい。
大和魂とやらが、味方してくれるというのなら、存分に味方につけてやろう。一世一代の、大立ち回りになるのだから。
降下ポッドに乗り込むと、杉田は時を待った。
静寂と暗闇と。
なにもないが故に美しい世界の中、不意に杉田は、先刻のまどろみを想った。
けれど、それにふけっている暇の前に、急激な落下感が杉田を襲いはじめた。
二人は、アスカも連れて、脱出への道を再び辿り始めた。
けれど、彼らが道を辿るだけの力を持っていたのは以前までの話で、もはや彼らは無力な子供に過ぎなかった。それでもチケットの手配は万全だった。だから、三人は幸運に任せ、進むことが出来た。
だが、彼らには、あと少し、時間が足りていなかった。
それは、地上へのゲートをも抜け、最後のエレベーターのドアが開いた瞬間だった。
「鬼ごっこは、おわりだよ」
開いたエレベーターの前方に立ちはだかっていたのは、スーツ姿の男だった。
「手荒な真似はしたくない。できれば無事に保護してこいと言われている」
手には、服装に不似合いな鈍黒く光るSMGがあった。そして、男の胸元には、VIO監査員である事を示す徽章があった。
「おとなしく私の言う事を聞いてくれれば、これも不要だ」
男の目は、子供に向けられるべき類のものではない。逆らえば撃たれることは簡単にわかった。
「簡単な事だ。綾波レイ君、君に来てもらえれば、それでいい。友達のことは、見過ごそう。本来なら、NERV本部からの退出は禁じられているのだが――特別にね」
「ダメだ!」
間髪入れずに、シンジは叫んだ。
「彼女を連れて行くのは――VIO管轄の、命令によるものだ」
「関係ない、行っちゃ駄目だ、綾波!」
男は悲痛な顔を見せながら、SMGの銃口をせり上げた。
「わがままを言わないでくれ。私だって、子供を撃ちたくはない」
その先端が自分をすり抜けたのを見て、レイは全てを悟った。
「さあ」
男は手を差し伸べて、レイに来るよう促した。
レイは振り向き、少女を背負った少年の姿をしかと見つめた。
「行っちゃ、駄目だ」
少年が言った。懇願するような、出会った頃のか弱い瞳。
振り払うように、男の方に向き直り、下唇を噛み締めた。
「さよなら」
レイは言った。
「ダメだ!」
シンジが、弾かれるように叫んだ。構わず歩み出した少女の腕に、少年の手が強引に絡んだ。
「行かせない。絶対に、行かせない!
「VIOの決定は、絶対だ。君がダメだと思っても、覆らない」
「関係ない! ……僕が守る、守ってみせる!」
男の、銃を握る手に力がこもった。
それは、レイに対する命令だった。
レイは再び振り向き、シンジに微笑んだ。
「私がいると、迷惑がかかるもの。だから、行かないと」
「関係ない、行かせない。行かせられるわけないじゃないか!」
「――生きていれば、また逢える事もあるわ。お願い」
レイが懇願するように、声を絞った。
「生きていれば、な」
割り込んだのは、別の男の声だった。
「確かに殺されはしないだろうが――モルモットとしての生活であれば、人間の生ではない」
通路の奥から姿を現わしたのは、杉田貴狼だった。
「誰だ!」
シンジが、視線を動かし、新たな来訪者に敵対の目を向けた。
その強烈な視線に晒されたとき、杉田は既視感を憶えた。
「私は、杉田貴狼――VIOの、長官を務めている」
名乗りを上げながら、杉田は少年を見た。モニターでは見慣れた、繊細な日本人の少年。それなりに整った、けれど脆弱な印象の顔。だが確かに、碇ゲンドウに良く似た顔。
違う。
この既視感は、そんなものではない。
ただ、杉田は既視感を構わなかった。現に銃口が少年に向けられる今、それを気にする余裕はなかった。
けれど杉田は、そんな焦りを見せもせず、ただ冷静に告げた。
「命令は無効だ。あの条項を適用した。君の行動に法的根拠はない」
あの条項、という言葉に、男の顔が蒼白に染まった。
「何を、でまかせを!」
「でまかせではないよ、スライフの犬。七十一時間後に、VIOは消える」
杉田は悠然と踏み出した。
「止まれ!」
男が叫んだ。
「止まらんと、撃つぞ!」
男のSMGは、少年達に向けられていた。彼は指を引き金に乗せ、ごくごくわずかに、引き絞った。
パシュンと心地よい音が鳴り、少年の傍の床面が、弾けた。
けれど、、杉田は好相を崩さなかった。
「好きにしろ。ただし、今では私がVIOだということを、忘れるな」
変わりに、己の胸元に手を差し入れ、黒鉄の固まりを握った。
男は警告もせず、SMGの銃口を跳ね上げ、引き金を引いた――引こうとした。
けれど、彼の手にしたSMGは火を吹かず、ただ弾けるように男の手から飛び出した。
ダダン、ダン。
続く銃声が、リズムを刻んだ。
「非武装状態の民間人に対する発砲は、どこの国でも認められていない」
杉田の声を合図に、脳天を射抜かれた男の体は崩折れ、地に伏した。骸が、もう動かないことを確かめてから、杉田は少年の方を向いた。少年は一瞬だけ、驚愕の表情を見せていたが、すぐに敵意の表情が戻り、杉田を、睨めつけた。
「……私には、力がある。君たちを守れるだけの力がある」
眼差しをまともに受けながら、杉田は話し始めた。
「君には守るべきものがあるが、力がない、
私は、君を助けに来た。あの男――君を地下の牢獄から救い出した、あの男の頼みで」
シンジは少しだけ警戒をほどき、うなずいた。
再び既視感が杉田を襲った。
そのうなずきを、杉田はどこかで知っていた。
そう、あのときも私が諭し、彼が決断した。ただ、本当ならば、この少年にあんなことをさせる必要もなかったのだ。
――あんなこと?
この少年が、なにをしたというのだ?
杉田は、何かを知っていた。この少年の何かを知っていた。情報で読んだ知識でなく、杉田はもっと直接、この少年を知っている。不可思議に思いながら、杉田は少年の顔を眺めた。
少年は、杉田の目を覗き込んだ。探るように、覗き込んだ。
それからレイに視線を飛ばし、背のアスカを感じ、倒れ伏した骸を見やり、最後に唇を引き締めた。
うつむき、一粒涙をこぼし、それから少年はまた顔を上げた。
再び探るような目が向けられ、そして少年は言った。
「信じ、ます」
曇りの無い、決意の言葉だった。
唐突に、杉田の中で記憶がつながった。つながってすぐ、杉田はそれを邪魔な記憶だと思った。この少年のことを想うなら、忘れたほうがよい記憶だった。再び少年を見やろうとしたとき、白い肌の少女がうなずいた。
彼女も知っているのだ。少年は、自分の力だけで翼を手にいれるべきだということを。
「ありがとう」
だから杉田は、受け入れてくれた少年に向けて、ただ感謝を告げた。
「ここまで来た苦労を台無しにするが――中に戻ろう。アスカは私が」
シンジは素直に従い、近寄った杉田にアスカを手渡した。
そして杉田がアスカを背負い、歩み出そうとした時。
杉田の背後で大きな息がした。
「あなた――だれ?」
その声に、シンジもレイも、息を呑んだ。
VIO規定、特別条項。
『VIO長官の決定あるとき、本条項を除くVIO規定は即座に永久停止する。移行措置としてVIO長官に七十二時間に限り絶対権限を与える。ただし、この絶対権限は本条項の適用を妨げる事は出来ない。また、権限終了後直ちにVIO全職員について弾劾裁判を行うものとする』
それは、VIOを廃止するための条項であった。
杉田貴狼は出発の直前、最初の命令書で自分を除く全VIO職員を即時解雇した。杉田一人だけの組織となったVIOは、特別条項の発動を決定した。
絶対権限で彼はVIO専用機を飛ばし、第三新東京市に降り立った。
少年達を助けてすぐ、杉田は布告した。
第三新東京市を新態勢NERV管轄の下で三年間の退出禁止区域とする、と。
それは、誰も子供達に触れないようにする、子供たちを守るための決定だった。
次いで、杉田はVIOの持てる資料のすべてを駆使し、世界に撒かれた腐敗の種に甚大な被害を与えた。ヒトの敵のヒトのほぼすべてにそれは及び、統一準備委員会も免れることはなかった。そうやって、腐敗の大半は洗われた。
杉田は眠りも忘れ、たった一人であらゆる事を検討した。膨大な資料を調べ、開示し、時には秘した。NERVに関するあらゆる事を決定し、第三新東京市をありとあらゆる法で包み込んだ。
そして最後に、杉田貴狼は自身に対して決定した。
「VIOの解体、及び現職員全員の処罰」が、要求された内容だった。決定せずとも、免れない運命だった。VIOは完全なる必要悪だった。ゆえに、杉田は悪だった。VIOの総てが開示された今、杉田の破滅は自ずと決まっていた。
法による、自殺と言えた。当然、要求が覆る理由もなかった。弁護の必要もなく判決は即刻下った。杉田には、十日後の破滅が約束された。
すべてを捨てた杉田に成せたことは、時間を作ることだけだった。エヴァの力を世界が痛感するまでの時間、エヴァ封印の道具としてのNERVが認められるまでの時間、そして、子供たちが自分を守れるようになるまでの時間を。
そして最後の夜、杉田はシンジとレイを呼んだ。本当はアスカも呼びたかったが、心を取り戻し始めたばかりの彼女にはまだ早いと、主治医の許可が下りなかった。
「君たちを檻に縛ることになった」
第三新東京市の措置を聞かせてから、杉田は二人に謝った。
「でも、それが一番いいんでしょう?」
シンジの問いに、杉田は応えなかった。
何も応えずにいると、シンジが笑って言った。
「ぼくたちは、大丈夫ですから」
強い、とても強い笑いだった。無邪気でない、秘めるための笑いだった。けれど、ウソではない、本当の笑いだった。
「ひとつ、お願いがあるんです」
それから、彼は約束して欲しいと頼んだ。
「約束? 何をだ?」
「約束というか――決めた事を、聞いて欲しいんです。僕も、強くなります。杉田さんとは違う強さで。綾波や、アスカや、大切なものや人を守れるように、強くなるって、決めたんです」
ひどく稚拙な、未熟な決意だったが、杉田は思わず、微笑んだ。
「どうして私に?」
「――父さんの、変わりに。聞いて欲しかったんです。今までの人たちには、聞いてもらえなかったから」
少年の眼の端に、涙が浮かんだ。
杉田は涙の理由を悟った。彼を守ってきた、父や母たちに向けての涙を。
「わかった。君の誓いは、確かに、聞いた」
また裏切ることになる。そう思いながら、杉田はうなずいた。
十日後、二人の男が処刑された。
片方は大罪の結果として、他方は多くに知られることなく。
ただ、何より彼らを良く知る少年は、悲しむことはあっても瞳を曇らせることなくそれを受け入れた。
「僕も――守れるようになるから」
彼は誓いをより強く想い、それが彼の生きる理由になった。
ただ、すべてと共にあるために。
それは、少年が青年になる、最初の出来事だった。
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