第14章「信頼、絆、想い」
「……取り込まれた?」
呆然とつぶやくアスカ。
「ええ、そうよ。碇総司令は完全に敵性体に取り込まれたわ」
悲痛な声で、リツコが答えた。
「どうなったの、シンジは」
「もしあれがエヴァをベースにしたものなら、シンクロ率400%のと
きと同じこと――同化が起こってるのでしょうね」
「……帰ってこれるの?」
不安。恐怖。そんなものが露骨と言う程に含まれたアスカの声。
「無理ね。少なくともあれを捕獲しない限りは。そして、あの敵性体は
外部からの刺激に対して異常に敏感になっている。とにかく、部外者は
休んでいて。これは私達NERVの問題よ」
「部外者……私達が、部外者だっていうの!」
「そうよ。第一、あなたはスパイ容疑で監禁されていてもいいぐらいな
のに、こうして放置されているだけでもありがたいと思いなさい」
そう、それは正しい意見だった。NERVの人間としては。だが、シ
ンジがいたのなら、こんな事を言わなくても済んだろうに。
「ふざけないで!」
激昂するアスカ。
「今のあなたに何が出来るというの?」
冷徹な声でそれを受け流すリツコ。
「弐号機を凍結解除して。エヴァに乗ることならできるわ」
「必要があれば、そうします」
でも、エヴァを使うしかないのかしら。強気に答えながらも、リツコ
も内心そう思わざるを得なかった。例え劣悪なコピーとは言え、エヴァ
をベースに作り出したものだ、人間の持つ力では、対抗するのは難しい
だろう。
だからといって、沈黙している目標をむやみに動かしていいものでは
ない。とりあえず害がないのなら、放っておいて、ゆっくり対策を練ろ
うというのが、MAGI、HANNIBALの共通見解だった。
「エヴァを使用して、無用な刺激を与えて、あれが動き始めれば、今度
こそシンジ君は助からないわ。そうなってもいいの?」
とりあえず、そう言っておくことで逃げた。
もし、サルベージ不能などと告げたら、この子たちはどんな顔を私に
向けるだろう。ミサトは、どうなるのだろう。碇シンジと言う人間がど
れだけここに必要だったかを、改めて思い知らされた。
本当に、彼に頼ってばかりだ。結局あれが動きを止めたのも(非論理
的ではあるが)彼の功績だと思うし、今動かないのもそうだと思う。昔
は、あんなに私達を困らせた……違うか。私達が無理に彼に頼ったのが
いけなかったんだ。世界の命運なんてものをいきなり無責任に彼に押し
付けた私達が悪かったんだ。それを悪いこととも思わず、さも当然であ
るように振る舞った私達が傲慢だったんだ。
「あの人は、きっと、戻ってくるわ」
レイが、沈黙を破った。
「どうしてそんなことがわかるのよ」
アスカが、レイを睨みつけた。
「約束したから。私達に黙っていなくなったりしない、ずっと3人でい
ようって、そうだったでしょ?」
8年前、何気なく交わした約束のことだ。たしか、高校の入学の前日
だった。
「あんな口約束、もう時効よ」
思い出して、涙が出て来たのだろうか、顔を伏せながら、アスカが応
えた。
「あの人、私達との約束は何一つ破らなかったもの。私もアスカも少し
ずつは約束を破ったことがあるのに、あの人だけは、破ったことないわ」
「……破ったわよ。もう危ないことはしないでって、そう約束したのに」
ウソだ。確か、あのときは。
「破ってないわ。皆を守るためでなければね、って約束だったもの」
涙が、溢れてきた。
レイの強さが羨ましかった。レイほどシンジを信頼できない自分が悔
しかった。
涙が止まらなかった。
「赤木博士。エヴァは、絶対に、使わないでください」
レイの視線が、リツコを捉えた。
見たことがある輝き……そう、シンジ君のお母さんに、ユイさんに見
つめられているような気分だった。
「わかりました。極力、そうします。総司令の命令も、そうでしたから」
年下の人間と話しているような気はしなかった。だから、そんな応え
方がついつい出た。この子ももう大人なんだ。そんな思いを強くした。
窓の外、未だ動かぬバケモノを見つめていた。
「まだ、帰ってこないんだ……」
寂しげに、そうつぶやいた。
「10年前は、悔しい気持ちばっかりだったのにね」
不器用だったからね、あのころは。
ちっともイイ女なんかじゃなかった。
「今は?」
レイには、負けてるかな。
でも、それなりに、イイ女。
惣流・アスカ・ラングレーなりに、イイ女だと、そう思うよ。
「でも、仕事には失敗したわ」
あんな仕事気に入ってた?
「全然。どうしてあんなことしてたんだろうって、思う」
自分の意思ですらなかった。
「そうね。……でも、悔しかったのかも知れない。シンジとレイが……
いえ、レイが幸せなのが、許せなかったのかも。最低だね、私。ちっと
もイイ女なんかじゃないや」
そう思うんなら、イイ女になればいいよ。
今はイイ女じゃなくても、そうなれるようにすればいいよ。
「そうね」
目の端に浮かぶ涙を人差指でさっと拭って、窓に向かって微笑んだ。
絶対シンジは、帰ってくる。
だから、それまでに女を磨いとかなくちゃね。
そう思って、窓から離れた。
強がり。
なのだろうか。どうしてここまであの人を信じられるのだろう。答え
は出ない。どうしてだか、信じる気になれる。
本当はアスカみたいに泣きたい。泣いて、気を紛らわせたい。そうで
きれば、楽なのに。でも、あの人の笑顔が、泣かせてくれない。
その分、あの人が帰ってきたら泣いてしまいそうな気がする。私が泣
いたら、あの人は優しく受けとめてくれるだろう。
そうか。
帰れるところが、安心して泣けるところがあるから、私は強くなれた
んだ。
その帰れるところがなくなるかも知れないのに、こんなに安心してる
なんて、私は意外にバカだったのかもしれない。
約束したんだもの、帰ってきてくれる。幼い子供のように固く信じ、
それを確かめるように胸の前で手を組んで祈る。
それから、おもむろにベッドに潜り込んで、いつものように、囁いた。
おやすみなさい、あなた……
……ますますもってエヴァそのものだ。
HANNIBALが――ミサトが示したデータを見て、リツコは呟い
た。
「間違いなく、エヴァを元にしたものね。多分参号機と四号機の建造時
に漏れたデータを使ったんでしょうけど……サンプルもなしにあんなも
のを建造するなんて、バックはやはり……」
ミサトの声が、リツコの個室に響いた。
「多分、統一委員会でしょう。あそこの動きは以前から怪しかったわ。
あれを完成させるためにアスカを送ってきたんでしょう。レイから聞い
たアスカの話が本当なら、あれはまさしくエヴァね」
「エヴァに勝てるのはエヴァだけ……とでも言うわけ?」
「そうね」
「他に方法を考えて貰わないと困るわ、赤木博士」
「考えてるわよ。でも、そういったことは寧ろあなたの得意分野じゃな
くて?」
「そうかもね」
それから、二人とも黙りこくった。
リツコはカップを手にして、中で揺れる珈琲の香りを楽しんでいる。
ミサトは、相変わらずHANNIBALの有機ユニットとしての稼働
を続けている。
「ねえ、ミサト。あなたは奇跡ってものを信じる?」
おもむろに口を開いたのはリツコだった。
「信じるわ。10年前はいわば奇跡の連続だったもの。あと、私がこう
してここにいることもね。でも、最善は尽くさなきゃ。最善を尽くして
こそ、奇跡は意味がある……あれ、確か10年前もいつだかこんなこと
言ったわね」
「なあに、コンピューターのくせにもの忘れ?
まったく、あなたってば」
「しかたないでしょ、10年前のことはメモリバンクに記録されてる事
項じゃないんだから。そういうふうに設計したのは誰だったかしらね」
「ずいぶん、明るいのね。シンジ君がいなくなったというのに」
「……彼は、自らの意志で行動したわ。彼がそうするべきと信じた事だ
もの、きっと大丈夫よ。彼なら、きっと。これまでもそうだったもの、
これからも、きっと」
「そう……ね。信じましょう。これまでと同じように」
優しく微笑んでから、リツコは珈琲の残りを飲み干した。