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第10章「カインとアベル」

「既に実験は最終ステージへ移行しています。機体そのものは既に完成
 しているのですが、パイロットの方が完成度がいまいちですね」
「起動そのものは可能なのか?」
「はい。さすがに当初から専用のユニットとして制作しただけあって、
起動確率とシンクロ率は相当なものです。生産にかかるコストも、対効
果で考えればさほど高くつくものではありません。 
が……」
「先の報告通り、思い通りに動いてくれないという事かね。」
「はい。
 過去の報告から、意志を持たぬ完全なダミーでは起動確率が極端に下
がる事が確認されています。そこで、現在のユニットは、計画当初から
考えていたものより数段複雑になっています」
「理屈はどうでもいい。コントロールレベルの問題はいずれ解決する。
 ところで先日の暴走事件、あれはどう説明をつける?」
「あの件は、実際のユニットの思考パターンのサンプルとして、一体を
採取したところ、他ユニットが実験時に自らの意志で動き始めるという
結果を招いたものです。
 ただ、あの一件で少なくともユニットが『仲間意識』を持っているで
あろうという事が推察されました。それも、相当強力なものです。
 ただ、思考原則がいささか幼稚と思われるところがあったので、通常
より教育課程を長くした個体を混入してみました」
「その結果は?」
「……芳しくありません。教育課程を長くした個体そのものは他のユニ
ットより性能が上昇しているのですが、仲間意識が弱いらしく、狙い通
りにはどうも……」
「そのタイプだけで固めれば?」
「教育が長いと、それだけで仲間意識が薄れるようで、現在適度な長さ
を検討中ですが、難しいかと」
「フン……まるで人間そのままだな。ところで、実戦投入の見込みは?」
「目標地点を壊滅させるためだけで良ければ、暗示をかけたユニットを
用いれば、何とかなると思います」
「……稼働時間が短いのが幸いするというわけか」
「はい。ただ、こちらで任意にコントロールできるかどうかと言うと、
Noです。一応見込みはゼロではないのですが……」
「コントロールする必要はない。必要なものがあれば手配しよう。そう
だな、10体ほどを、すぐに実戦投入できるようにしてくれ。実戦テス
トの目標が決定した」
「……わかりました。目標近辺の完全破壊しか出来ませんが」
「かまわん。それだけでも、十分だ」
 そう言った男の口の端に、残酷極まりない笑いが浮かんだ。

 目覚めると、幾度か見た事のある天井が目についた。
 確か、ここは……。
「起きたかい、アスカ」
 シンジの声がする。
 首を向けると、彼の顔が、視界に入った。
「アスカ、ちょっとだけ話を聞いてくれるかい?」
 それからシンジはゆっくりと話し始めた。
 アスカがマインドコントロールを……暗示をかけられている事。
 それを解除するために薬物も使って催眠治療を行う予定がある事。
「……かまわないわ」
 あなたを失うよりは、その方がいい。
「それと……一つ聞きたい……いや、いい。治療が終わってでいい」
「構わないわ。あなたが側にいてくれるもの。聞きたいのは統一委員会
の事でしょう?」
 無言のまま、少し躊躇って、それからシンジはうなずいた。アスカは
身を起こし、ゆっくりと話し始めた。
「私はほとんど聞いていないわ。……朦朧としたままで、NERVがエ
ヴァの凍結解除を目論んでいるらしい、ぐらいの事しか聞いていない。
あとは……うっ」
 そこまで言って、アスカが、急に苦しそうに頭を押さえた。
「無理しない方がいい。寝ている間にも働きかけていたから、だいぶコ
ントロールは解けているはずだけど、まだ完全じゃない。後で、ゆっく
り聞かせてくれ」
 そう言い残して立ち上がろうとしたシンジの裾をアスカの手が押えた。
「……違うの……何か、思い出せそうなのよ……そう……何か……」
 苦しそうに頭を押さえ、必死に何かを思い出そうとするアスカ。その
額に大粒の汗が浮かんでいる。
「無理しなくていいんだ、アスカ」
 立ち上がったまま、アスカの肩を押しもどし、寝かせつけようとした。
 だが、アスカは力なくその手を振り払い、
「……お願い……大切な事なのよ……そう……確か……そうよ、家に電
話がかかってくるまでは覚えていたのに……どうして……どうして……」
呻き声と区別のつかぬ声で苦しそうに言った。
「そう……そうよ、確か、家に一人でいたの……そしたら、電話がかか
ってきて……急にNERVから情報を取りださなきゃって思って……!」
 断片が頭の中で徐々に組上がっていく。忘れさせられていた事実。
 電話……多分、マインドコントロールの発動キーだろう。
 自分の所のエージェントにすらマインドコントロールをかける統一委
員会。アスカの苦しむ顔。シンジの奥に沸き立つ怒り。
「アスカ、もう、いい」
 その怒りを噛み殺し、穏やかな声を向けた。
「だめ……だめよ……いやぁぁぁぁぁぁ!」
 そのシンジの声は届かず、代わりに、絶叫。
 記憶の糸が、悪夢を形作ったのだろう。
「お願い……シンジ……そんな事……しないで……」
「大丈夫、アスカ。僕はここにいる、そんな事はしない、大丈夫だ」
 うなるようにか細い声を出すアスカに、シンジは必死に語りかけた。
失敗すれば、彼女の精神が崩壊しかねない。そんな事になってたまるか。
アスカを失って、たまるものか。
 守るって、約束したんだ。
「どうしてなの……シンジ……どうして……こんな…………」
「アスカ!」
「アアアアアアアアァァァァァァ」
 先刻からのアスカの苦しみようをカメラでモニターしていたのだろう、
ようやく看護婦が駆けつけた。
 シンジに協力を求めて手際良くアスカの腕を押さえつけ、一本の注射。
精神安定剤だろう。
「ウグッ」
 その注入が終わった直後、更にアスカは苦しみ出した。
「え?」
 当惑する看護婦。 
 アスカの顔色がみるみる悪くなる。
「……抗精神安定剤か!」
 ギリッ。
 そんな音が聞こえてくるほど奥歯を悔しそうに噛みしめ、シンジは怒
りの呟きを漏らした。
 アメリカで開発された、興奮剤の一種だ。非合法な研究のため、一般
には知られていない。精神を高揚させ、暗示にかかり易いようにするば
かりか、効果後も体内に残留し、一部の精神安定剤と反応して劇薬とな
る。
 マインドコントロールにはうってつけの代物だ。
「すぐに集中治療室に運んで、赤木博士の指示を仰げ!」
「は、はいっ」
 慌てていた看護婦は、素人であるはずのシンジの指示に素直に従った。
 すぐに数人の看護婦が駆けつけ、アスカの体を移動ベッドに移して、
慌てて部屋を出て行った。
 ……統一委員会は思っている以上に、黒い組織って事か。
 誰もいなくなった病室で、シンジは呟いた。

「どうです、アスカは?」 
ひとしきり怒りが収まったあと、シンジは集中治療室へ赴き、疲れた表
情で治療室の向かいのベンチに座っていたリツコにそう声をかけた。
「ああ、シンジ君」
 知っている人間が来た、という事に妙な安心感を覚えて少し笑みを浮
かべてそう言った後、すぐにその表情は曇った。
「……芳しくないわね。……彼女の血液には相当な量の抗精神安定剤の
残存成分が含まれてるわ。一歩間違えば洗脳段階で死にかねないほどの、
ね」 
それがどんな事を意味しているか、そのぐらいは用意に推察できた。
「……そこまでして消さなければいけなかった記憶……か……」
 思わず漏れたシンジの言葉を無視して、リツコはアスカの現状の報告
を続けた。
「とにかく、早急に手をうたねばならないのだけれど、解毒剤の効果が
殆どないも同然なの……いえ、本当の事をいうと、解毒剤に反応して劇
薬になる成分が含まれてるのよ」
「打つ手がない……と?」
 リツコの落胆した表情が、その事を雄弁に語っていた。
「ええ。彼女の体が耐える事を祈るのみよ」
「可能性は?」
 聞きたくないような気がする、その質問。
「0.032% ほぼ生存は不可能ね」
「そうですか」
 それだけ言って、シンジはリツコに背を向けた。 
 無言で立ち去って行くシンジの後ろ姿を見て、リツコは思った。ずい
ぶんと冷静になったわね、シンジくん。いえ、冷酷、と言った方がいい
のかしら。本当に、お父さんにそっくり。

 
 ダンッ
 壁を思いきり叩く音。 
歯噛みする音が、今にも聞こえてきそうなほど固くつながれた上下の歯。
 少しうつむいた顔に浮かぶ、自らへの怒り。 
 結局、3年前のちょっとした答えから歯車が狂ったのだ。
 今更何を言ってもしかたない事はわかっていた。過去を顧みても何も
生まれない事もまた。だが、そうでもしなければ、この怒りをぶつけら
れる場所がない。せめて過去の自分にでもぶつけなければ、他にぶつけ
られようはずもない。
「……ミサトさん……少し、一人にしてください……」 
 多分、ミサトはこの姿を見ているだろう。NERV本部の中でミサト
に見えない場所など無い。スーパーコンピューター
「HANNIBAL」の中で死した後も心だけ生き続けている彼女。
 弱かった頃の僕を、包んでくれようとしていた人。
 その目を拒んで、それから、シンジは、泣いた。
 父さんは、どうだったんだろう。こんなふうに泣いた事があったのだ
ろうか。
 あれだけ罪に揉まれて、それでもなお生き続けた人。
 うかがい知ることの出来なかった、父の心の奥。
「……シンジくん……」
 ミサトの、声が響いた。
「……一人に、してくれないんですね……」
 わかってる。優しいから、ミサトが優しいから、苦しんでる僕から目
を離せないんだ。その気持ちが、ありがたかったが、いらなかった。
「いつまでも、泣いていないで。そんなあなた、好きじゃない」
 突如、レイの声が響いた。
 え?と思って目を上げると、メインモニターに彼女の姿があった。
「アスカを助ける方法、ある事はあるわ」
「……ごめんなさい。私が勝手に、レイに連絡したの」
 ミサトの声。
「保安条項違反ですよ、ミサトさん」
 できるだけ明るい声で言おうと思った言葉は、しかし涙で上手く言え
なかった。
「……レイ。その方法って?」
 涙を拭ってから、シンジはモニターの向こうのレイに語りかけた。
「マイクロマシンを使って、アスカの血液を直接洗浄するの。危険な方
法だけど、私にできる方法はこのぐらいよ」
「成功確率は?」
「3%前後ね」
 そう答えたレイの顔に、しかし憂いはない。
 憂いはそれだけで可能性を奪ってしまうものだと、知っているから。
「危険性は?」
「少なくとも今の状況よりは数段ましね」
「やってみてくれ。お願いする、レイ」
 リツコの話を聞いていたときには感じなかった、希望の心。なぜかそ
れが少しだけあふれてきた。
「わかりました。……病状と血液成分のデータをこちらでモニターでき
るようにしてください。マイクロマシンが完成次第、そちらに向かいま
す」
「頼む」
 微笑みを承諾の返事に、モニターのレイの姿が、消えた。 
後は、彼女を信じて、祈ることしか、シンジにはできなかった。

「準備、完了しました。輸送機に12体、積んであります。アベルの方
は凍結してあります。必要になったら解凍、投入してください。輸送機
からの信号で暴走を開始するようになってます」
「初の実戦データだ。データ保存も可能だとよいが」
「完全なデータは機体回収が出来ないとさすがに……ですが、簡易的に
衛星でデータを受信するようにはしておきます。……目標地点、聞いて
ませんでしたね、そういえば」
「わかっているだろう、君なら」
「第3新東京市、ですね」
「うかつにその名を出さんでくれよ。NERVは未だ特権を保っている
のだ。もっとも、おかげでカインを『使徒』として処理できるがね、い
ざとなれば」
「はい……」


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