第9章「碇シンジ、NERV」
「アスカが……あなたに侵入した?」
大学時代からの友人である彼女からはいつもの冷静さは消え、あの娘
の行動に対する戸惑いとも驚きともつかない表情が浮かんでいた。
「あの娘がこの街に来ていることはレイから聞いて知っていたけど、ま
さか、あなたに侵入してくるとはね」
「それだけじゃないわ。私を破壊しようともした。ウイルスでね」
私の声を紡ぎ出すのは、声帯ではなくスピーカーの振動。
私の目となっているのは、いたるところにあるカメラ。
「あなたを恨みたくなってくるわ。生きているときと同じような感覚を、
感情を得られるシステムを作ってくれたことにね。MAGIと同じ構造
なら、こんなふうには悩まなかった」
「今はそんなことはどうでもいいわ。保安条項通りにした?」
こんなふうに彼女が動揺しているのを見るのは久しぶりだった。
「ええ。あの二人の家に幽閉中よ」
「……だとすると、私たちだけで処理するわけにはいかないのね」
残念そうに、私はモニターの中の姿を動かした。
私は、本当に生きているのだろうか。この仮想的な生が、今日ほど恨
めしく思えた日はない。
「総司令に、話して貰いましょう。他に、いい方法が、わからない」
悲しい。そんな選択しかできない自分が、もどかしい。
この姿に――ハンニバルと呼ばれるようになってから始めてだ、これ
だけ強い感情を抱いたのは。
「……そうね。私たちじゃ、役不足だもの」
モニターの前のリツコが、少しうつむき加減で、諦めたように首を振
りながら、私に同意した。それから、モニターの中の私に視線を写して
から、
「総司令に、連絡を取って頂戴」
とだけ言って、黙り込んだ。
玄関の扉が開いた。
シンジが入ってきた。
「おかえりなさい、シンジ」
アスカの声に全く反応を見せずに、シンジは家の中に入る。
すかさずまだ開いている扉から出ようとするアスカを、シンジの腕が
無理に押しとどめた。 扉が、アスカの鼻先で閉じた。
「何故、ハンニバルに侵入した?」
そう尋ねる口調は、いつもの優しい彼のものではなかった。
「どうしてそれを、侵入したのを、知っているの?」
「そちらが質問に答えれば、答える」
「いやよ。答えない」
「答えろ。お前はどこの人間だ?」
シンジの目がアスカを射抜いた。彼の父にそっくりな、鋭い眼光。
「似てるわね、碇司令に」
アスカのそんな言葉に、シンジの目が悲しそうに笑った。だが、その
悲しそうな光とは縁のない強い言葉が、アスカに迫った。
「どうして、ハンニバルに侵入しようとした?」
……ハンニバルと、呼んでいる。ミサトとは、呼んでいない。
以前のシンジなら、彼女のことをミサトと呼んでいて、ハンニバルと
いう、正式運用後の名称で呼ぶことはなかったはずだ。
まさか。
「3年間、何をやっていた」
「教えたはずよ。統一政府準備委員会の調査員をやっていたと」
「何を調査していた?」
「守秘義務があるわ」
「……教えてくれないのか?」
「何があってもね」
「保安条項に基づいても?」
保安条項。
忌まわしき名。
その名が、シンジの口から漏れるということは。
「あなた、まさか……」
「そうだ、非公開組織NERVの総司令、碇シンジが、いまの立場だよ」
NERVの、総司令。最高責任者。彼の父と同じ地位。
「冬月司令は……どうなったの?」
確か情報では彼がNERVの最高責任者だったはずだ。
「冬月さんは、『司令』だ。名目上の最高職さ」
答える彼の目元。彼の父親によく似ている。愛しく思えていたその造
形が、今度は憎しみの火種にしかならない。
「あなたは、影の権力者といったところかしら。まるで、悪人みたいね」
「こんな若造よりも、冬月さんぐらい歳の人の方が外に対する受けがい
いんでね」
「NERVとは、縁を切ったんじゃなかったの?」
ドクン。
「かつてのNERVとはね。今のNERVは、別物だ」
「どう違うの?
レイに研究させているのは何のつもり?
エヴァや、使徒の細胞まで使って、何を研究させているの?」
どうして、ここに戻ってきてからこんなに涙腺が緩くなったのだろう
か。目頭が熱い。なのに、なぜ涙と裏腹にこんなに怒りが沸き立つのだ。
「そんなことより、何をするつもりだったんだ」
シンジの冷たい瞳が、アスカの心を、叩きのめした。
なにも、話したくない。
こんなシンジを、見たくない。
私を愛してくれる、シンジしか、見たくない。
だが、彼はいままで見たこともない私の知らない冷酷さで私から情報
を聞き出そうとするだろう。そんな彼が、たまらなく憎い。
「NERVの業務データを盗んで、何をするつもりだったんだ」
ドクン。
心臓が脈打つ音が、急にはっきりとアスカの耳に響いた。
口を割るわけにはいかない、そう思った。
襟元に手をやり、隠してあったカプセルを手に取った。
いままで一度も手にすることのなかった、最後の手段。
さよなら。
心の中で呟いた瞬間、力強い腕が、口元にカプセルを運ぼうとしてい
たアスカの手をつかんだ。
驚いて見上げた彼は、いつもの優しいシンジだった。
ねじり上げられた腕が痛かったが、手首をつかんでいる彼の手が、暖
かかった。
その温もりを振り払うため、アスカはシンジを睨みつけた。
受けとめる、優しい瞳。
「エヴァを、どうするつもり!」
やがて、激しく感情を露わにした声でアスカがその永遠を壊した。
「いままで通り、凍結させておく。あれは使ってはいけないものだ」
「何故レイに実験させてるの」
「NERVとは関係ない事だ。彼女は彼女の意志で実験をしている」
ドクン。
「嘘!
聞いたのよ、あなた達が何をやっているのか!」
更に憎しみに燃えた瞳。正気を感じられない色。
シンジはその色をみてはっとした。
まさか、マインド・コントロールか。統一委員会め。何を企んでいる。
おそらく、今のアスカには何を言っても無駄だろう。委員会のやり方は、
これまででよく解っている。
何がアスカを狂気から救える?
どうすればアスカの心をマインドコントロールから外せる?
……自惚れてみるとするか。
「アスカ」
名を、短く呼んだ。
偽りの怒りに満ちた瞳が、シンジの顔を捕らえた。
その彼女の唇を、強引に塞いだ。
強く、抱きしめた。
腕の中で心持ち暴れていたアスカの体が、やがて動かなくなった頃に、
シンジは唇だけ外した。
「アスカ。愛してる」
耳元で、囁く。
「君のためなら、NERVの事なんか忘れたっていい」
腕の中のアスカが急に暴れ出した。
どうやら、『NERV』がマインドコントロールのキーワードらしい。
「嘘よ!
信じないわ!
NERVなんて!
NERVに関わる全てなんて!」
「……かつてNERVの一員だった、君自身も?」
アスカの動きと言葉が、また止まった。
「アスカ」
愛おしげに、名を、呼んだ。
アスカの中のシンジへの想い。それを利用する自分が許せないが、ア
スカのためならばその程度の不快は、喜んで受けよう。問題は、アスカ
が許してくれるかだけだ。許してくれないのなら……それでもいい。こ
んなふうに苦しむ彼女は見たくない。
「アスカ」
もう一度。
何度も、何度も、繰り返して。
心を、揺さぶるように。
絆だけが、アスカを呪縛から解き放ちうるのだ。
「……シンジ……」
アスカの口が、いとおしげに、名を、呼んだ。
潤んだ瞳を見つめた。
「少し、休んだほうがいい。疲れてるんだ、二人とも」
「……だめ……やっぱり……だめよ……私は……NERVを……」
「関係ない!
あんなところなんて、関係ない!」
「嘘。NERVの総司令のあなたが……」
NERVの総司令の碇シンジ。
でも、目の前にいる彼は、私が愛する碇シンジ。
どちらが嘘なの?
それともどちらも本当?
どうなの?
どうなの?
どうなの?
どうなの?
二人だけの間で交わされた言葉。
どこだかよくわからないところで見聞きした事。
私とシンジをつなげるもの。
私がNERVを憎む理由。
私を見つめる瞳。
NERVの総司令。
碇シンジ。
碇シンジ。
どちらが本当の彼なの?
どちらが本当の彼なの?
優しく微笑んでくれる彼。
冷たく睨みつける彼。
それは本当の彼じゃない
それは本当の彼じゃない
どうしてそう思うの?
どうしてそう思うの?
私が、シンジを愛しているから
私が、NERVを憎んでいるから。シンジは、NERVじゃないわ。
彼は、碇シンジ。
彼は、碇シンジ。
私を抱いていてくれる人。
私を包んでくれる人。
いつまでも、こうしていたい……。
腕の中で、いつしかアスカは眠りについていた。
多少は知識があったつもりだが、ほとんど素人同然で、よくもまあ上
手くいったものだ。……つまり、それだけ、想われているという事か。
とりあえず、精神治療を受けさせるべきだ。
何故、エヴァは今でも僕達を苦しめるんだろう。
……宿命か、何かだとでもいうのだろうか。
安らかな寝息を立てる愛しき女を見つめながら、10年前と変わらず
シンジ達を縛る彼女の姿を思い出していた。