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第8章「潜入 運命の出会い」

 電話を静かに置いた彼女の瞳は、どことなくいつもと違っていた。
 酷く怒りに満ちた、酷く悲しい瞳だった。

「MAGIと接続しました。培養シミュレーション第1段階開始します」
「待って、真壁さん。データを、前回処理のままじゃなくて、……そう、
A−30螺旋のあたりを、+0.02ポイントぐらい調節してください。
調節ロジックは、b17でお願いします」
 レイの綺麗な声が、殺風景な実験室に響いた。
「はい」
 すっきりとした返答に続いて、コンソールのキーを叩く音。
「ええ……それでいいと思います。じゃ、お願いします」
「はい」
 気持ち良く一回、リターンキーを叩く音。
 シミュレーション開始。
 信じられないほどの高速でシミュレーションがこなされていく。通常
のコンピュータによるシミュレーションよりも、パラメータが10倍近
くに膨らんでいるというのに。
「相変わらず早いわね。……でも……結果は芳しくないか」
 半ば一人ごとのように、レイはモニターを見つめながら言った。
「やはりA−30の精密度に問題があると思います」
「やっぱりあそこを改良しないと駄目ね……。Eだけじゃ、進化が足り
ないか」
「まさか、Aを使うんですか?」
「それこそ、まさかよ。Eですら使用するのにあれだけのチェックが必
要なのに。Aなんて、とてもじゃないけど……そうね、原始細胞の進化
を促進させると、どのぐらいで実用域に達するか、やってみてください」
「はい……14年、だそうです」
「……無理ね、それじゃ。そんな調子じゃおばあさんになっちゃうわ。
Aを使用してみるとどう?」
「暴走確率89%で、3週間かかるそうです」
「維持を最優先すると? 暴走確率を1%に押えられる?」
「最低でも、12%です。それで、8年」
「リスクが大きすぎるわね。A−30の設計の欠陥を洗い出してみて下
さい」
「引っかかってるのは、fg37ロジックの一部です。そこの精密性が、
他に比べると極端に悪くなってます」
「他には、特に問題ない?」
「個々ならば許容値です。が、全体を見るとちょっと精密性が……」
「fg37と、あと歪みに大きく影響しそうな部分、例えばr28とか、
vq53とかのブロックを、再設計してみてください」
「はい」
 3週間かけて自前のコンピュータで再設計するよりも、MAGIに再
設計させたほうが圧倒的に早い。
 実際、自分の所でも人格移植コンピュータを運営したいという願いは
あるのだが、問題は「誰を」移植するかである。
 クローン技術を利用した所で、脳神経の接続までは複製できない。と
なると、唯一確実なサンプルは脳そのものである。頭蓋の中身だけを走
査して、完全な複製を作る……ことが出来るほど、医学も生物学も発達
していない。
 いや、可能なのだが、その費用はまさに天文学的で、少なくとも大学
の1研究室で出るようなものではない。
 結局、誰か優秀な人間の死亡直後の死体がなければ、とてもじゃない
が完全な有機コンピュータは合法的には作れない。研究初期でこそ、疑
似的に人格を生成して、論理回路から非論理――勘――を取り出す方法
も研究されていたがその方法には多大な無理があることが露呈し、現在
では使われていない。
 結局、生命体と言うものの力は、未だ未知数なのだ。
 10年前に痛感したように。

 いきなり開くウインドウ。見知った顔が、現れる。
「久しぶりね、あなたと逢うのは。……こんな所で、何をしているの、
一体。第一あなたは部外者のはずでしょう。こんなことをしているのが
知れたら、どうなると思っているの?」
「MAGIのサポートがないのはわかっているわ。逃げ切れるわよ、あ
なただけからなら」
「無理ね。逃がすわけには行かない。私を、なめないでね」
「赤木博士に応援でも頼むの?」
「私一人で十分よ。あなたは逃げられないわ。答えなさい。このデータ
バンクにアクセスして、何を調べていたの?」
「わかるでしょう、履歴を調べれば」
「本気なの、アスカ。あなたのやっていることは犯罪なのよ!」
「あなたみたいな死にぞこないに言われたくないわ」
「下手な挑発ね。その程度で私が動揺するとでも思うわけ?」
「無理でしょうね……でも、これなら!」
 勢いよく叩かれるコンソールのキー。
 送られる刃。
「……これは……しまった!」
 彼女の顔を写していたウインドウが閉じ、コンソール画面が再び現れ
た。
 効果時間は15分といったところか。急いで必要なファイルを落とし
て来なければならない。
 そうしたら……
 涙が溢れて来る。
 3年前の、今となっては忌々しいダイレクトメール。
「無駄よ、アスカ」
 再び開かれるウインドウ。見知った――10年前と変わらぬ彼女の顔。
「私の対ハッキング機構のレベルを読み違えたようね。
 すぐにデータを破棄なさい、今なら不問にするわ!」
「もう遅いわ。これまで取得した分のデータは、もう転送してしまった
もの」
「見えすいた嘘はおよしなさい。アクセス記録は残ってないわ」
「あなたを……第3新東京市を通じてはね」
「無線か……あなた、この3年間、何をしていたの?」
「秘密よ。どうせ私を捕まえるためにに人をよこすんでしょう? その
人に拷問でも何でもやらせてみれば?」
「……その部屋のロックは閉じたわ。もうあなたはそこから出られませ
ん」
「そんな勝手なことしていいの? いくら知合いの家とはいっても、あ
なたの家じゃないのよ」
「惣流・アスカ・ラングレー。あなたを、保安条項に基づいて、拘束し
ます。異議、不服申し立ては認められません。この決定は、国連の非公
開理事国会議によってのみ、変更が認められます」
 失敗、か。
 旧友に捕まったのは幸いなのか、不幸なのか。
「わかったわ。でも、私は簡単には口を割らないわよ。せいぜい冬月司
令と念入りに相談する事ね」
「こんな形で、再会したくはなかったわ」
「わたしもよ。死人と再会したくなんて、なかったわ」
 一度は仲良くなれたのに。こんな風になりたいと願ったわけではなか
ったのに。
「私も、死んでまであなたに会いたくはなかった。……こんな事になる
と、わかっていたのなら」
「無駄よ……もう。現に、起こってしまった事だもの。そうでしょう?
 ミサト……いえ、ハンニバル」
 その知人の二つの名を読んだ瞬間、回線が切られた。
 出口のない家の中、アスカは一人、取り残された。


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