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第7章「休日、後悔と信念」

 浮かれているな、と思う。
 このあいだ新調したちょっとシックなツーピース。……着られるサイ
ズを探すのに苦労したものだけど。
 不自然なところがないように、出来るだけナチュラルな、でも綺麗に
なれるメイク。ピアスも念入りに選んで、お気に入りのルージュを引い
て、出撃準備完了。
 懐かしいいつものドキドキ。
 愛しい、っていうのがどんなものだったかと再確認させてくれる、そ
んなときめきが、優しくアスカを包み込み、それが何より彼女を美しく
していた。
 今日は、土曜日。
 今日ならレイが研究室に行っててどうせ二人きりになるから、という
ことでデートはこの日に決定した。
 今日はゆっくり楽しんでね、とは朝出かける時のレイの言葉。
「私は3年間一人占めしてたんだから」
 と、昔じゃ考えられなかった悪戯めいた微笑みをアスカに向けて、楽
しそうに出て行った。
 朝食はまだ食べていない。今日は朝から街に出かけて、随分遅くまで
帰らないつもり。一日中、二人っきり。
 デートコースはシンジにお任せ。
 少しは気の効いたコースが選べるようになったかな、アイツ。もっと
も、どんなところでも、アイツと一緒なら、楽しかったっけ。……多分、
今もそうだろうな。
 まるっきり恋する乙女のようなそんな気持ち。そんな歳でもないでし
ょうにねえ、とくすくす笑いながら、気分は浮かれて絶好調。
 お気に入りのハンドバッグを手に取ろうとした時、ドアをノックする
音。
「開いてるわよ」
 ノブが回り、扉が開く。
 シンジだ。面食らったような顔、してる。私に、見とれてる。そりゃ
そうよ。この3年間、ずっと女を磨いていたもの。
「え……と……その……と、これを」
 珍しくどぎまぎしながらそう言って、シンジが背から取り出したのは
きちんとラッピングされた箱。
「プレゼント?」
 尋ねる私に、シンジはただうなずいて答える。心なしか、紅潮してい
る。
 それが、妙に可愛く見えた。
「開けていい?」
 それはそれとして、答えも聞かずに、リボンを紐解く。
 中から出て来たのは、きっと、凄く悩んだんだろうな、別にブランド
ものではないけど、センスのいい、ハンドバッグ。
 質素なのだが、どことなく高貴な感じのするダークグリーン。
 よくよく見ると、銀糸で刺繍がしてあった。「for Asuka」と。
「ねえ、シンジ……これってもしかして……」
「ん……一応、オーダーメイドのね。アスカがいなくなってから、いい
店が、出来たんだ。で、こないだ、頼んできた……まだそのバッグ使っ
てたから」
 アスカは、新しいハンドバッグをぎゅっと抱きしめた。
 何故だか、妙に暖かかった。

 まだ新しいハンドバッグ。
 古いものへの愛着もあるけれど、あのタイミングでシンジのくれたプ
レゼントを、使わない訳にはいかない。使わないなんて出来ない。
 始めてのデートのときに似た、ウキウキした気分。
 シンジのお気に入りの喫茶店での朝食
 ラブロマンスを流す映画館
 他愛もない品々を見て歩くショッピング
 ちょっと洒落たレストランで遅めの昼食
 郊外へ出てみて、想い出の公園から見る景色
 再び街に戻って……

「……どうもレイは今夜、帰って来れないらしいね」
 シンジが家の電話に残されていた伝言を、自分の携帯電話で確認した
ところ。
「夕飯も、何処かで食べてくとするか」
「いいとこ、知ってるの?」
「と……ゆっくり、飲みたいな。久しぶりに」
 勿論、いくらでも付き合うつもりだ。
 とあるビルの地下、ちょっとだけ俗世離れした雰囲気を持つ店。
 3年前、アスカがこの街を離れる最初の決心をした、あの店。
 前に来たときは……そう、あの夜、ノゾミと一緒に来た時だ。
「久しぶりね、ここも」
「……そうだな。いなくなる前は良くここで飲んでたっけ」
「時々は、ヒカリとかリツコ博士も一緒にね」
 カウンターに座る。
 マスターが、おや、という顔をする。
 もの言わず、グラスに液体を注ぎ、二人の前に置く。
「男の方はワンフィンガー、女の方はツーフィンガー、ロックでだね?」
 昔の、いつもの頼み方。覚えていてくれたらしい。
「もう一人の綺麗な肌の娘はどうしたんだい?」
 思わぬ昔話。思わず笑みがこぼれ、懐かしさが胸をいっぱいにする。
「何か食べたいな」
 なら、ソーセージのいいのがあるよ。
「もう一杯、頂戴」
 ウイスキーはきついだろう、ワインなんかどうだい?
 ほろよい加減で、また来店することを約束して、店を出た頃には、も
う10時になっていた。
「そろそろ、帰るか」
「……ねえ、シンジ。……その……いやらしい女って、嫌い?」
 少しうつむき加減で、ちらちらと上目づかいでシンジを見ながら、出
来るだけいじらしく、質問する。男を誘惑する時の極意の一つ。
 シンジは、クスリと余裕のある笑みを浮かべてから、
「好きでも嫌いでもない……もしその『いやらしい女』ってのがアスカ
のことを言ってるんなら、好きだけれどね」
「……もう……」
 期待通りの、いや、それ以上の返事に顔を赤らめながら、嬉しそうに
アスカはそう言った。
 街の中心からちょっとだけ外れたところ、いわゆるそういったホテル、
いかにもそれが当然であるかのように入って行く。
 いかにもそれが当然であるかのように部屋をとり、いかにもそれが当
然であるかのように準備を済ませ、いかにもそれが当然であるかのよう
に愛撫を交わし、いかにもそれが当然であるかのように交わる。
 いかにもそれは当然。いかにもそれが当然。
 とりあえずの事の終わり、脱力感が全身を痺れさせている中、アスカ
の口だけがそれとは全く別物のように踊り始めた。
「……私ね、後悔してるの。3年前、この街を離れた事を。
 どうしてあんな答えを選んだんだろうって、思うの。
 あのときあんなことしなければ、前みたいに3人でいられたのにって。
私があんな勝手なことしなければ、あのまま、幸せなままでいられたの
にって、そう思うの……。
 あんな事、しなければよかった……そうすれば……」
 あんな事、しなければ。こんなに苦しまなくて済むのに。
「……ごめんね……私がみんな悪いのに、私がのこのこと帰って来ても、
こんなに優しく受け入れてくれるなんて……思ってなかった」
 せめて突き放してくれれば、よかったかもしれない。
「本当に、感謝してるわ。……ありがとう……」
 親友としては、恋人としては、感謝してるわ。
「馬鹿ね……私」
 そう、馬鹿だ、私は。
 心の奥の、シンジの知らないアスカの声は殺しながら、アスカはいつ
の間にか涙を流していた。その間じゅうずっと、心の奥は暗くうずいた。
「……でも、アスカは3年前ここを出る事を選んだ。だから、こうして
ここにいる。その選択が無ければ今のアスカはここにはいない。だから、
その選択は、間違いじゃない、そう思うよ」
 シンジの言葉。わずかずつしか流すつもりのなかった涙が、急に溢れ
て来た。泣いちゃダメ。泣いちゃダメ。
 ……ダメだ、止まらない。
 裸のシンジの胸に寄り添って、泣いた。
 肩に回された手が、優しかった。
 ようやく涙も収まって来た頃、シンジがまた口を開いた。
「だから、後悔なんてせずに、次の事を考えなきゃならない。少なくと
も僕はそうしてきた」
 うなずくアスカ。優しい、しかし強い想いのこもった言葉が、アスカ
を素直にしてくれた。やっぱり、この人が好きだ。愛している。
「だから……」
 シンジの次の言葉を聞くまでもなく、少し赤く腫れた目で、微笑んだ。
 シンジも微笑んで、それから二人の唇が重なった。
 とりあえず、今夜はこの男に溺れていたい。
 自分のことなど忘れたままで。


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