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第6章「遺産、手にあまるナイフ」

「ふうっ」
 大学にいる間だけかけている伊達眼鏡を外して、額の汗をぬぐった。
 まだ学生とは言え、この研究室でもっとも知識を有しているがゆえに、
彼女は実質上の研究主任となっていた。
 まだ新しい学問、応用生物工学。
 その中でも最新の、遺伝子機械の研究。
 多大な遺産に恵まれるも、それを全く生かせぬジレンマとの戦い。
 本来この研究室を主導すべきだった人は、残念ながら別の研究に従事
してしまった。今ごろ私の足の下であれの本来の機能を発揮させるため
の研究をしているはずね、あの人は。少し弱気になってそんなことを思
う。
 しかし、10年前の彼女のハードワークぶりが、容易に推察できる。
今の私がやっている研究に加え、さらに多くの事まで彼女がこなしてい
たのだ。まったく、恐れ入る。
 あの人は、本当に人間離れしているわね。
「綾波さん、データ収集、終わりました」
 背後から、声がかかる。
 私より、3つ年上の、助手としてこの研究室にいる男性。
 私より肩書は上だが、研究室内では私の方が扱いが上だ。もっとも、
この部屋の主である教授ですら私のことを上として扱うのだが。
「ありがとう、真壁さん」
 眼鏡をかけてから、振り向く。
 データの書き込まれた紙にざっと目を通す。
「芳しくないわね……。やっぱり、ここのコンピュータじゃ限界か」
「また、下に頼むんですか?」
「残念ながらね。ここでもシステムアップができればこんなに苦労しな
くて済むのに」
「しかたないでしょう。あのシステムの運用にかかる資金を考えると、
とてもじゃないけど、たかが国立大学レベルじゃあ」
「そうね」
 今から予約をいれてもあれが使えるのは3週間は先ね、と遅々として
進まぬ研究にわずかに苛立ちを覚えながら、レイは依頼文書の作成に取
り掛かった。

「あら、……またあの娘なの?」
 >YES
 NERV本部発令所、セントラルオペーレーションステージ。
 この時間はリツコしかいないその場所で、コンソールを叩いていたリ
ツコが、画面の隅に現われたメッセージを読んでふと呟くと、ディスプ
レイに文字が流れた。
「全く……今でこそあなたがいるからいいようなものの、ちょっと前ま
でだったらこんなこと、出来るはずなかったのよ」
 >YES
「あら、随分とご機嫌ななめね。なにかあったの」
 >I'm very busy now.
「どれどれ……あら、本当。随分と今日は仕事が多いわね。全く、上は
何をやってるのか……。じゃあMAGIをサポートに回しましょうか?」
 >NO,Thank you.
「ふうん……そうね、もう少しで終わるみたいだし。じゃ、適当な所で
スケジュールを見繕って、あの娘に知らせてあげて。頼んだわよ」
 >OK
 今日も、元気なようね。
 かつてに増して複雑な気分でコンソールを離れる。
 7年前に結婚したマヤは、既に彼女の下を離れている。
 もっとも、今はそれで不都合が生じるわけではない。
 あの娘から連絡が入ったのは、確か3ヶ月ぶりだろうか。そのたびに、
どういうわけかあの時のことを思い出す。
 唯一の、最善の処置。
 号泣するシンジ。
 一つの提案。
 受理。
 遅延する計画。
 開始から3年後の完成。
 母さんを、越えられたという達成感。
 ようやく、科学者としての彼女を越えられたとき。
 女として、彼女と似たような結論を選ぶ気はもうなかった。
 にも関わらず、母になってみようかと考えたときもあった。
 人は、変わるものね。
 現に、あのレイが今では上で私が放棄した研究を進めている。
 しばしば母さんを使いに来るのは仕方無いとして、十分立派なことだ。
 MAGI、HANNIBAL。二つのコンピュータシステムを、私は
どこまで使えているのだろう。コンピュータ自体の優秀さにまかせて、
その本来の機能など全く使っていないのかも知れない。
 複雑化したコンピュータシステム、解決策としての有機化。誰もが考
え付くことを、母さんは実現し、私は発展させた。
 だが、第3のシステムを作りたいとは思わない。
 あんなのは、もうたくさん。ハードワークに、潰されるかと思った。
 もっとも、そのおかげで今こうして楽できるのか。
 苦労したわね、これまで。
 いや、これからもか。苦労もせずに、生きて行こうなど虫が良すぎる。
 コーヒーの残りを飲み干して、HANNIBALの状態を見る。
 ちょっとは負担が減っているらしい。
「ねえ、もうレイのための時間は決めた?」
 >YES,RITSUKO.

 一方、NERV本部中央区画、特殊作戦指令室では、二人の男が向か
い合っていた。
「NEUの来年度予算の減額計画、うまくいっているか?」
 デスクに座った、年の若い方の男が立っているもう一人を見上げなが
ら言った。
 しかし、見上げているのは座っている方と言うのに、年上の立って見
下げているほうにだけ、緊張の色が明かだ。
「どうも委員会の力が予想外に強いようで、難しいようです」
 たしょうたどたどしいながらも立っている男は、至って事務的に報告
した。
 座っている男は残念そうにため息をつくと、改めて立っている男を正
面に見据えて、言った。
「まあ、どうせ減額計画が失敗しても他のところで損害を与えられるの
だから問題は無いが、手は打っておいた方がいい。保険はいくらあって
も十分とは言えないからな」
「そこまでしてあの力を恐れるのですか?」
 何者をも恐れぬと言った感じのこの人が、と意外な顔をして立ってい
る男は尋ねた。
「……あの力は、持ってみなければわからないよ。本当に、恐ろしい」
 その答えは、自らに力のないことを自覚した、弱者の表情と共に現れ
た。
「人間の、手にはあまるもの、ですか」
 何度その台詞を聞かされたことか。あれについて話す時、必ずこの人
はその言葉を口にするのだ。
「ああ。そうだ。あんな力を使っていたなんて、昔のここの人間は、皆
そろって気違いだったのかと思えてくるよ。それほどまでに異常な状況
だったんだろうな、あの頃は」
 どことなく懐かしむような目。苦々しい記憶。
「……取り敢えず手は打っておきます。委員会の干渉については……」
 その唇に浮かんだ悔しげな表情は、立っている男にそう言わせるに足
る程の後悔と信念をはらんでいた。
「それは、別の手を打つ。……頼んだぞ」
 全面の信頼を渡すような最後の頼み方。これがあるから、この人につ
いて行きたくなる。信念を持つ者ゆえの、やり方というわけか。
「はい」
 部下が答えるのを聞いてから、座っている男は右拳を握りながら改め
て思った。
 あれは、人が再び手にするには、大きすぎるのだ。
 決して誰にも渡しては、ならないのだ。


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