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第3章 回想、アスカ、3年前

「碇……くん、付き合ってる人とか、いる?」
 国連第3新東京大学の、とある筋のコンパの席。誰がどう見ても水準
以上の美人の同級生は、少しうつむいて、上目遣いでシンジを見ながら、
尋ねた。
 あからさまにむっとなるアスカ。幸いにしてレイはこの場にはいない。
 困ったようにアスカにちらりと目を向けたシンジへの無言の返答は、
「勝手に答えたら」だった。
「え……と」
 アスカがこの場にいるのが恨めしい。アスカが恋人だと答えれば、彼
女を狙う数多の男達の攻撃目標となる。そうなれば、不幸にして酒に強
くないシンジは轟沈すること確実である。
 かといってレイだと答えれば、アスカはフリーと言う事になり、当然
アスカを狙う男達がこの場で積極的な行動に出る。そんなのを黙って見
るのはシンジにとって拷問だし、後でのアスカの八つ当たりともつかな
い剣幕を考えると、決していい選択ではない。
「そうやって、人の顔色ばかり伺っているからよ」
 そんな言葉、7年前に聞いた言葉が、頭の中をリフレインする。
 薄々事情を知っているであろうもう一人の救い、洞木ノゾミ嬢は、残
念ながら遥か彼方の席で言い寄ってくる男の魔手をかわすのに懸命で、
シンジの危地を救ってくれそうな様子はかけらほどもない。
 こんなことなら、10年前加持が冗談で言っていた
「女の子をはぐらかす14の秘策」とか
「女をとろかす108の言葉」とかを習っておけばよかったと、よくわ
からない後悔をする。……そんなものが果してこの場で役に立つかどう
かは疑問だが。
「いない‥…の?」
 キラキラと瞳を輝かせる(美人の)同級生。男だったら、喜ぶべきそ
の状況に、しかしシンジは困り果てていた。
「いないのね?」
 嬉しそうに、実に嬉しそうに問い詰める(としかシンジには思えない)
(美人の)同級生。
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃ、誰なんだよ、碇!」
 外野の男の一人から、野次る声。余計な事を。
「え……と……」
 再びアスカに救いを求める視線を投げかけるも、
「はっきりしないさいよ、男でしょう!」
 との無言の返事。
 エヴァに乗っていたおかげで、ほとんどの困難を困難と思わないよう
にはなったが……これは、苦しい。
「ア……」
 アスカ、と言おうとしてそこで口が静止する。
 アスカがもしそれを機嫌とりと思ったら?
 ここにいる男どもが逆上などしたら?
 目の前の(美人の)同級生を泣かせる事になったら?
 或いはそんな事を言った事がレイに知れたら?
 様々な事が頭を駆け巡った。
 どうするどうするどうするどうする?
 アスカの視線が好奇のものに変わっている。
 男どもの視線が睨みつけるようにシンジを刺す。
 (美人の)同級生が落胆を僅かに秘めた瞳でシンジを見ている。
 心の天秤が左右に激しく振れ、同時に心臓が徐々にそのテンポを上げ
ていく。
 この様な事態に陥って、シンジは私情を殺し理想のため行動した父の
心境を唐突に理解した。
 ずいぶん情ない状況で理解したものだ。
 そういったことを考える事そのものが、この現実に目を背けている事
にほかならないという事に気付くのに、さほど時間はかからなかった。
「逃げちゃダメだ」とばかりにもう一度現実に目を向ける。
 どう、答えるべきなのだろう。
 もう一度、アスカをちらりと見た。
 彼女なら、わかってくれると期待して。
「ア……綾波だけど……」
 アスカの視線が、シンジを貫いた。
 もっとも、シンジはそれを気に留めなかった。いや、留める余裕がな
くなった。(しつこいようだが美人の)同級生が、涙をこぼしたから。
 男達の、妬みとも怒りともとれる視線が、シンジを幾重にも刺してい
て、アスカの視線に気付く余裕はなかった。
 それでまた、アスカは苛立ちを深めた。

「シンジの……バカ……」
 ウィスキー、ツーフィンガー、ロック。
 濃い琥珀色の液体が、グラスの中でダンスを踊る。
「別に、恋人ってわけじゃないんでしょ、アスカさん?」
 隣に座るノゾミが、ピーチツリーフィズのグラスを手に、尋ねる。
「……そう……なんだよね……」
 いつになく淋しげに目を伏せながら、グラスの中の液体の舞う姿を目
で追う。その秩序正しさにいたたまれなくなり、アスカは液体の半分を
一気にあおった。
「好きなんですか? 碇先輩の事」
「……ん……うん」
 静かに、でも確かに、アスカは肯定の返事を返す。
「私って……ミリョク、ないのかなぁ」
 普段のアスカなら絶対に言いっこない弱気な言葉。酔いのせいも、あ
るのだろうが。
「そんなこと、ないです……私なんかより、ずっと魅力的だもの」
 ノゾミが、答える。
「ありがとう、ノゾミちゃん。付き合ってくれて、ごめんね」
「いえ、いつもお世話になってますから。それにこういうふうに飲むの
も、楽しいですし」
 まだ飲むことそのものが楽しい年頃なのだろう、クスクスと笑ってか
ら、ノゾミはピーチツリーフィズを一口、口に含んだ。
「お姉さん、元気にしてる?」
「ええ。ほんと、今日も飽きもせずに新しい義足の訓練の補助ですって。
一途なのも、ほどがあるって思いません?」
 そんなふうに姉のことを言いながらも、それに憧れるような口調。や
っぱりこの娘も恋を求める乙女なのだと思わせてくれる。
 こんなふうに親友の妹と飲む機会が来るとは思ってもみなかった。
 ……もう、7年になるのか。
 エヴァに乗って戦っていたのも、ヒカリやノゾミちゃんと知り合った
のも、加持に恋してたのも、……シンジとレイに、出会ったのも。
「まあ、喰いっぱぐれる事はないだろうし、いいんじゃないかな?」
 メランコリックな気分を軽い言葉で叩きのめし、残る琥珀色の液体を、
残さず喉の奥へと流し込んだ。
 もう、潮時なのかな。
 私達はよくても、世間はいつか、シンジに私とレイとのどちらかを選
択させるだろう。そして、シンジは選ぶ事なんてできないだろう。昔と
違って、辛い事を知った、優しさを覚えたシンジは、苦しみながらも答
えを出さないだろう。
 恋人はレイだ、と答えたのは、私より彼女の事が好きだからなのかな。
ふと浮かぶ、そんな不安。
 はぁ。
 漏れるため息。
 頭の中を駆け巡る、あのダイレクトメール。


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