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MOON、One、Kanonと続けざまにやった感想なのですが、話書きの主張が強すぎるかなーといったきらいがあるように感じます。書き手の人に、いいお話を紡ぎ出す力はあると思うし、実際その作品には感動しています。でもこれらのお話をぼくの中に取り込んだ今、これらのお話が共通して持っている同じテーマに、その書き手はひどく心奪われているのではないかという、危うさを作品の中から感じるのです。
作品の奥から、誰かが助けてと呼んでいる声。それは、書き手の過去の姿かも知れないし、書き手の奥の想像の産物かも知れません。でも、もっと生の声のような気がします。あなたはそこにいて、そこで泣いているような。
もしも私の言葉が場違いなのなら無視してください。でもそうでないのなら、少しだけ安心してください。ぼくは感じ、涙すると思います。ここにいること、あることの悲しみに。あるいは歓びに。
昨日はなんか途中でラリってアレなこと書いてますが、要するに言いたいことは、「あーこの話って要するに実体験リフレインさせてるだけちゃうんか?」っつーことです。想像の連鎖を広げていくといろいろ楽しいことが想像できますが、そこまで書くと流石に名誉毀損っぷりが激しくなる気もするのでパス。
ところで「たおやか」って最近憶えたんですか?>名雪、あゆ、栞シナリオ担当の方
おそらく舞─真琴が同じライターによるシナリオだと思うのだけれど、両者のシナリオの出来の違いは、狙ってやってたりしないかなーとなんとなく思ってみたり。
あゆシナリオを最高のシナリオにする斬新な方法:ラスト、別れのシーンの後であゆが死んだままならバッチリ。
某コンプティークの付録(Kanon別冊)を読む。
感想:これを小説と言うんじゃない!(激怒)
ゲームテキストと小説は違うものです。ゲームテキストとしてはオッケ─なんだけど、小説としてはうーん、な出来。まがりなりにも一次創作なんだから、ねぇ。
あゆが死んだままならバッチリに反論が来ました。文意を組んだ上で一部書き換えつつ、匿名で引用します。
「斬新な方法」についてなんですが、これは実際私としても考えました。その方が物語としてのバランスというか整合性のようなものがとれると思ったからです。(ちなみに、「モノを創るための2つの意識」も読ませていただきました)
でも、う〜ん…… やっぱりスタッフの人たちも考えたと思います。それでも結局あの形になった。それはやっぱりある種の「責任感」のようなものだったのではないかと思います。
確かにあそこで死んだままにしておけば、シナリオとしてのグレードは上がるかもしれない。でもそれではあまりに不憫。
つまりは「感情」ということになってしまうんですが、それでもやっぱり「親心」としてはできなかったんじゃないでしょうか。「生まれて」きた以上は幸せになってほしい。そりゃ限度はありますが。
……まあ、あゆファンの言葉なんで説得力はぜんぜんありませんけどね。それでもただグレードを上げるために涙を飲んでもらう、というのは見ているほうでも哀しいものです。構成の面で多かれ少なかれミスがあっても、「力」のある文章だったことに変わりはないと思うので……。
Kanonというゲームとしての方向性に「最後はハッピーがいいよね」というのがあると思います。それを大切にするという意味では、あゆシナリオのラストはOKだと、思うんです。
でも、あゆシナリオの終盤は「あゆを殺すための構成」だと感じました。最後にあゆが生きているなら、もっと相応しい構成があったのではないか、それが残念だ、というのが『斬新な方法』の発言意図でした。
お話のラストのどんでん返しは楽しいものですが、どんでん返しは来るべくしてやってきてほしい、あゆシナリオ(や栞シナリオ)には、それがいまいち足りない気がする、というのが私の主張です。
発言しといてなんですが、実際に「斬新な方法」が実行されていたとしたら、私はその作品を絶賛すると同時にけなすでしょう。「作品としては素晴らしいが、(ギャルゲーという)商品としてはなってない」などと。
それから、もう一点。私は商業上の理由で(生かす)選択をしたんだと思ってますが。もしも「親心」としてできなかったんだとしたら、私は金輪際Keyに期待しないことでしょう。
ついにこの日がやって参りました。
これまであの手この手で語らないでいようと思っていたのですが、どうも源内語録の、MAIN BOOKS―Kanon考察を読むに、語っておくべきなのかなーという実感が湧いてきたもので。
(8.14改稿)
MOON、ONE、Kanon――前2つはTacticsから、後ろ1つはKeyから発売された、ADV形式のゲームである。
この3作には共通した事項が存在する。
そのもっとも大きい点は、これらの作品のメインスタッフ(の一部)が、同じ人間によって構成されていることだ。彼らは現在、Kanonを作り上げた製作集団"Key"として活動を行なっている。
しかし、gM第4号などに掲載されたKeyスタッフインタビューなどを鑑みるに――MOON、ONEについても、"Key"の作品であると言うのが妥当だと思えてくる。(記事中に「現在のメンバーでの製作体制を維持するために独立した」という主旨の記述がある)
そこでここでは、敢えて前2つについても"Key"の製作による作品だととらえた上で、3作品通して見たときに私が感じたある危うさについて述べたいと思う。
私が、MOON、ONE、Kanonの3つの作品で共通して感じたのは「作者がすぐ後ろに見えかくれしている」という印象だ。作者が物語を突き放せていないような印象を受けた。あまりに剥き出しのまま、物語を投げてよこしていると思った。これは作品の形を借りた私文書なのではないのかとすら、錯覚するほどにだ。
源内語録のKanon考察にて、源内氏が物語の「今日性」と「普遍性」について、そしてKanonには強い「今日性」を感じる、という論を展開している。
しかし、私の印象に従って述べさせていただくならば――Kanonは、「今日性」も「普遍性」も描こうとしていない、ように思う。ただ作者の裡に込められた個人的な想いを吹き出しただけのシロモノであると感じる。語る言葉が比較的雄弁であるので物語の体を成しているが、語ったことを物語に変じようとする、一抹の客観性が、私には感じられなかった。
3作品には、共通して語られる事項がある。
特に最後の項目は重要だ。3つの物語は、いずれもこれを主題に近いところに含んでいる。
変奏曲という楽法が、音楽に存在する(*1)。同じ主題(モチーフ)をベースに、多様な展開を織り混ぜて一つの楽曲を成す方法だ。好意的に解釈すれば、3作品は変奏曲であるかもしれない。しかし3作品は変奏というにはあまりに似すぎている。
いいや、ある意味では変奏と言えるかもしれない。ただ、それは通常の変奏曲とは違っている。変奏曲においては、主題は最初に提示されるものであるが、上記の3作品においては後になるほど物語は主題に近づいていると感じる。
3つの作品はいずれも、弱い心を強くして、苦難に直面していく物語である。しかし、直面の仕方が微妙に異なると思った。私の感じた違いを簡単にまとめるならば、こうだろう。
曰く、MOONは掴み取る物語だ。戦い、勝ち残り、幸福を自ら掴み取る物語だ。
ONEは足掻く物語だ。耐え、生き抜いて、幸福が来ることを信じて待つ物語だ。
Kanonは、与えられる物語だ。ただ苦難が訪れたそののち、都合よく幸福が降ってくる。
邪推することは簡単だ。 彼ら("Key")は、MOONにおいて語る機会を掴み取った。 ONEにおいて自ら語る機会がやってきた。 Kanonにおいて、彼らは語ることを請われるようになった。 次第に幸福がやってくるようになった。
MOONが、ONEが、評価されていくことで、彼らは語りたいことを語れるようになった。そういう好意的な見方もある。ただ――一抹の不安を感じるのだ。彼らにとって。語ることが、戦いでなくなっていったのではないかという。
Kanonもまた評価を受けた。前2作より大きな反響で。次はどうなるだろう。この変奏を続けるのだろうか? ならば予言しよう、次に訪れるのは、もっと腑甲斐無い物語だ。立ち上がるための活力をもたらすのではなく、ただ望むがままに与える物語だ。
彼らの作品は、ある共通した痛みに近づいている。作を追うごとに、よりむきだしの形になっていく。すなわち「幼い日に封じた苦痛に、向かい合う」こと。そこに近づいているように、感じる。
近づいていく代わりに――昇華させた想いが削がれていく。物語中で痛みを解き放つための手段が、掴み取るものから与えられるものへと変遷してゆく。
それは閉塞ではないのか? かつてある作品から感じたのと同種の不安。だから私は警鐘を鳴らしたくなったのだ。同じ主題を変奏するなら――より想いに昇華させていくべきだと。
これは邪推だ。ひどく恣意的で、歪んだ――まさしく、邪推であると思う。しかし、まったくの間違いでもないと思う。
非難を浴びることを敢えてよしとして、断言しよう。 "Key"の物語は、次第に病んでいっている。一つの物語にこだわるあまり、彼らの想いは澱み始めている。 そして商業作品としての完成度はともかく、単純に物を語ることについてのみ論ずるなら――3作品の中でもっとも高みにあるのは、MOONであると思う。それは澱みない想いでまさしく掴み取られた物語であるように、思う。
先に挙げた源内氏のKanon考察の最終章にて、氏はKanonの持つファンタジー性ゆえに真のメッセージはプレイヤーに届いていない、プレイヤーは表層のファンタジーだけを楽しんでいるという主旨の指摘を行なっている。が、私の主観からするならば、一つ加えるべき言葉がある。
伝わるべきメッセージは失われつつあるのだ。メッセージの焦点は痛みの克服から痛みそのものへと近づいているが、痛みは伝えられるべき性質のものではないのだ。それを無理にがなり立て、理解してもらおうとしている。そんな気色の悪さを感じてしまう。そして、結果として削がれていく昇華を、ファンタジーという化粧で塗り込めているように思うのだ。しかも彼らは化粧を仕上げられるぐらいに上手くて狡い。
嫉妬かもしれない。語る機会を与えられた彼らへの。語る機会を掴み取った彼らが、進むのではなく回帰して行くように見えることへの、単純な嫉妬なのかもしれない。
けれど、そう思われても仕方ない発展をしていると感じる。そしてこのまま系譜を辿るなら、次は幼子にすら与えるべき物語でなくなると思う。傷ついたからと傷を癒すだけの、単純な癒しの物語になると思う。
単純な癒しを否定するわけじゃない。立ち上がれないほど傷ついた人には、単純な癒しが必要だから。
もっとも、商業作品としては正しい行為なのかもしれない。時代はそれを求めている。求められたように創り上げた。より受け入れられるように、より広範に広がるように。
しかし、過去において行きすぎた資本主義が幾多の植民地支配を産んだように、あるいは現代において利を得る大国の投資家と未来を食い物にされる諸外国という構図があるように――行きすぎた商業主義は危険である。それが人の心を商売にするのであればなおさらだ。
物語は深く人の心に染み入るものだ。狂乱に惑い、行く先を見失った人々に希望を与えるものだ。ときには、立ち上がれない人を立ち上がらせるほどの力を見せる。であるからこそ、多くの物語は単純な癒しであってはならないのだ。
――ひょっとすると本当に憂うべきは、Kanonというちっぽけな物語などでなく、もっと大きなものかもしれない。
(*1):余談だが、Kanon(追想曲)も変奏の一種である。