ふりーとーくのTips:

性別による創作物の性質

最終更新:1999.06.24

本文は、半ば覚え書きのような性質を持つ。従って、ここに書かれている内容は未整理で中途半端なものであることを明言する。ただし、半端だろうとなんだろうと、公開文書である以上、読者にはこれに反論する権利があるし、私も反論が行なわれることになんら遺憾を感じるものではない。


世の中の男女平等論者には大変不愉快な想いをさせる発言であるが、男性と女性というものは根本からして違うものである。両者は、肉体的差違はもとより、その精神的な部分もまったくもって違うものである。

これはちょっと考えれば自明のことだ。例えば目の見えない人間は、目の見えないという一点において、目の見える人間とまったく違う世界認識を行なうことになる。世界認識が違えば、自ずと精神世界も変質してくる。男女の差違も同様のことだ。男性は女性でないから女性とは違う精神世界を形成するし、女性は男性でないから男性とは違う精神世界を形成する。

さて、創作物とは、人間の精神世界の産物である。創作物は、否が応にもその製作者の精神世界を反映する。ということは、男性と女性の精神世界に決定的な違いがあるのであるから、当然創作物も男性と女性で異なる様相を見せることになる。


一般的に、男性の世界認識は大局的、女性の世界認識は現実的であるように思う。男性は目前のことよりも遠くの理想を追求しがちであるが、女性は理想は理想として目前の現実を確実に追い求める。

これが創作活動という行為によって表出するとき、男性は作品の構造的な部分での洗練に、女性は作品中の微少な部分での洗練にそれぞれ現れ出てくる。

実はこの、「構造的な部分での洗練」「微少な部分での洗練」というのは、ほぼそのまま『モノを創るための2つの意識』で述べている理性感情に置き換えることが可能だと思う。

すなわち男性は理性的な部分をより強く発揮する傾向によって構造的な部分の洗練を押し進めていくことができるのに対し、女性は感情的な部分をより強く発揮するため小さな部分や場面など構造中においては微少に過ぎない部分において燦然と輝く傾向が見られる、ということだ。

しかしながら、『モノを創るための2つの意識』で述べているように、優れた創作物というものは理性感情のせめぎあいによって生成されるものであるから、どちらか一方だけが強いと、極端にバランスの悪いものが発生する。バランスが悪かろうが何だろうが、スカラーが大きければそれで面白いのだが、それは決して洗練された面白さではないと、私は思う。


しかし世の中には困ったことに、そこらの男性よりよっぽど理性的とかそこらの女性よりよっぽど感性的とか、そういう輩が存在するわけである。で、そういう連中がその本来の性質と性別による性質を同時に発揮しちゃったりすると、そりゃあすごいもんができるわけだ。ま、そういう連中を「天才」とか評したりもするんだけどさ。そういう人に私もなりたいとか思ったりもするわけだ。