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リアリズム

 土曜日の朝、解除し忘れたCDラジカセのタイマーで再生の始まった
CDの音で目が覚める。
 隣に寝ていたはずの彼女がいないことにすぐに気がつき、部屋を見渡
すと、卵を焼いた匂いが気になった。
 テーブルの上を眺めると、皿に盛られた既に冷めはじめたもう湯気を
立てていない朝食がこっちを見ていた。起きだして、見てみると、紙が
一枚、添えてあった。
「もう帰ります。朝食作ったので、レンジで温めてから食べてください」
 そう書いてあるすぐ下に彼女の名前と、ハートマーク。
 そのハートマークのかわいらしさに、何故だか彼女のキスを思い出し、
そのままリアルに昨夜の情事が思い出される。
 何故かくも女と夜を過ごすときはリアルになるのか、そんな事を思っ
て回想を中断し、きれいにラップのかかった朝食を電子レンジに放りこ
んだ。
 チン
 誇らしげにレンジは温めおわったことを告げ、私は皿を取り出した。
 スプーンで湯気を立てる朝食を惰性で口に運びこむ。けだるさが妙に
リアルに感じられた。外を見ると、土曜日だというのに、朝早くから車
の列が渋滞を起こしはじめているのが見受けられた。
 昼過ぎまで新聞を読んだり雑誌を見たりしながら過ごした。
 そのうちに、また昨晩の事を思い出す。
 考えはじめて丁度あの妙なリアリズムの始まる瞬間に意識が到達した
とき、電話のベルが割り込んできた。
 妙にいやいやながら、受話器を取る。
 彼女からだった。
 これから、遊びに来るそうだ。
 帰ったばかりなのにな。そう思って時計を見ると、もう午後2時を回
ろうというところだった。これから出支度をして、ここに着くのは日も
落ちはじめたころだろうか。すぐに夕食を作りはじめてもいい時間にな
ってしまう。
 茫然と休日を過ごしたのだ、という事実にどういう事か誇りを感じな
がら、タバコを咥え、火をつけた。
 安物のタバコはゆらゆらと煙を吐き、部屋の空気を濁してゆく。彼女
は嫌いなこの匂い。多少はあきらめているようだからことさら問題はな
いが、この一本を吸いおわったら、換気をした方がいいだろう。窓を開
け放して空気を入れ替え、冷えた部屋を温め直すころに、彼女は来るだ
ろう。
 そんなことをぼうっと考えながら、ぼうっとしたまま部屋を見渡して
いると、自分がもう3本目の新しいタバコを咥え、火をつけようとして
いることに気がついた。
 ああ、こんなことではいけないなと思いながらも、それとは無縁にタ
バコは火を灯され、煙を燻らせはじめる。
 煙混じりの息を吐くと、身体に力を入れて立ち上がり、窓を思いっき
り開け放した。流れ込んでくる冷たい空気に身を震わせながらも、その
心地好さに満足する。
 灰皿にタバコを押し付けて、火を消す。断末魔のようにか細い煙をあ
げていたそれは、やがて沈黙した。
 冷えてきた部屋を再び温めるべく窓を閉め、タバコの匂いがだいぶ消
えていることを確かめてから、電気ストーブのスイッチを入れる。
 寝癖に気付いてドライヤーでも使って直そうと思い立つが、電気スト
ーブのおかげでドライヤーなぞ使ったらブレーカーが落ちることに気付
いて、櫛を入れるだけにする。
 なかなか直ってくれない寝癖と格闘し、どうにかさまになったころ、
ピンポーンという軽やかな音が来客を告げた。
 わずかなきしみを立てて扉が開くと、そこには彼女がいた。
「いらっしゃい」
 部屋に入った彼女と2、3の無駄話をして、それから彼女は台所に立
った。
 手伝おうと思って何度立ち上がっても、私一人でいいからと、そのた
びに座らされた。今時なかなかいない古風なセンスの持ち主。かといっ
て時代遅れでもない。まあ、恋人にしておくにはなかなかよいタイプだ
と思う。
 暇だからとはいえそんな思考をする自分自身にちょっとばかりの嫌気
が差す。相変わらず妙にリアリズムに満ちた日だ。
 コトコトと煮え立っていることを誇らしげに知らせる鍋、気持ちのい
い湯気を振りまく炊飯器。軽快な音を相棒と共に立てるまな板。そんな
何気ない音までも、リアリズムを持って私に届く。
 今日はいったいどうしたというのだろう。
 夕食どき、食卓の上、並ぶ皿。それぞれがそれぞれの匂いを振りまい
て食卓につく者を誘惑している。極上の娼婦のように魅力的な品々。そ
の色香に惑わされ、ついつい箸が伸びていく。
 夕食後、片付け、何もさせてもらえぬ時間の再来。
 何もかも片付いた部屋。何気ない話をする二人。
 いつの間にかかわされる何気ない愛の科白と接吻。
 気がつくと互いを絡めとっている腕と気持ち。
 酷く厭らしい、であるが故に魅力的な交わり。
 厭らしさの極み、全身の汚れが一瞬だけ消えるあのとき。
 それら全てが気分の悪くなるほどのリアリズムを持っていた。
 落ち着かぬ気分のまま、裸で横たわる彼女の首に目をやった。呼吸と
ともにわずかに動くその動きが妙に艶めかしく、それを見ている自分を
厭らしく汚れた獣だと感じた。
 落ち着かない。リアリティに満ちた現実というものが、如何に堪難い
ものなのか、身にしみてわかったような気がする。この現実から逃げ出
したい。
 その衝動が、私の信じられない行動を喚起した。
 気が付くと手にしていた包丁。
 物言わず彼女の首に突き立てる。
 轟く絶叫。
 もがく恋人。
 冷たく横たわる女。
 物言わぬ肉塊。
 かつて、女であったもの。
 血塗れの刃。
 急激にリアリズムを失った世界。
 そうだ、これだ、この非現実的な時間が欲しかったんだ。
 満足げに微笑んで、明朝の絶望も知らずに私は血塗れのベッドの上で
眠り込んだ。明朝なって唐突にに襲い来る、非現実さの代償の狂気とも
いえるリアリズムも知らずに。

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