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思慕

 私は――愛している。

 男と女の関係と言うのは、ときにちっともそうでないことを特別にしたがるものらしい。
 フィドとヨーコの場合もその好例であったようで、2人は出会ったパーティの3時間後には同じベッドで裸身を重ねていた。
「みだらな女と思う?」
 ヨーコは、黒い髪と瞳のエキゾチックな日本人の彼女は、いささかの妖艶さを秘めた笑みを向けた。
 フィドは答えず、代わりに琥珀色の目の片方をしばたかせ、彼女の顎に手をかけた。
 互いの舌と唇とを求め合う、濃厚なキスがしばしの刻を忘れさせた後、離れた2人は再びそれぞれを求め始めた。

 私は、彼女を愛している。

 2人が互いを恋人と呼び合うようになるまでにそれほどの時間はかからなかった。
 最初こそ、見慣れぬ彼女の容貌に戸惑っていたフィドも、やがては彼女の微笑みの柔らかさ、瞳の放つ神秘の奥の優しさを見つけ、落ちるように彼女との関係を深めていた。
 あまりに簡単に2人は結び付いたので、2人とも恋をしたという感触を得なかった。気がつくと、互いを愛していたから。

 そう、私は彼女を愛している。

「でも、僕のやりたい事を続けるためには、時間が」
「私が聞きたいのは、そんなことじゃないの」
 断ち割る言葉が、フィドを貫く。
 傍らに打ち捨てられたキャンバスには、パステルの描線と、絵の具の鮮やか、それにヒステリックな裂傷。
 爛々とした女の手には、一振りのナイフ。その柄が原色で汚れているのを見るに、おそらく表現用に使われるこの部屋の備え付けの品なのだろう。
 壁一面の絵画は、いくつかのタッチに分けられ、何箇所かに置かれた彫像には、狂気じみた原色が塗られている。
「私といてくれる、そう約束したでしょう? どうして守ってくれないの? 私とこんなものと、どっちが大事なの?」
 女は、足元のキャンバスを踏みつけた。
 フィドは苦痛を得て、けれど仮面を被って女を向いた。
「どっちが大事って……そりゃあ、」
「芸術なんでしょ!」
 フィドが答えるよりも早く、女は叫んだ。
 フィドの顔から、仮面が剥げた。
 現われた、苦痛が女を落胆させた。
「あなたのことなんか、知らないわ!」
 苦痛に全てを委ねたまま沈黙する恋人に向かって、そんな台詞を投げつけると、彼女は背を向けてドアノブに手をかけた。最後に少しだけ振り向いたが、変らず立ち尽くす男を見ると、何も言わずに扉の向うへ消えた。

 私は、彼女を愛している?

 独りになった部屋で、彼は再び絵筆を取った。
 パステルでの下書きは、思い通りに進んだし、絵の具の色具合も先程のものよりよっぽど良かった。
 けれど、描きかけの絵を見て、何かが足りない、と感じた。しばらくして、出来のいい絵が完成しても、気に入ることができなかった。だからだろうか、彼女がそうしたように、激情でキャンバスを切り裂いた。
 壊れた絵を見て、虚脱になった。
 天井を見上げ、白熱灯のまぶしさに目を細めた。
 何が足りないんだろうと、自問した。答えは見つからなかった。
 見つけるために、壁の絵に目を向けた。今裂かれたものよりもっともっと出来の悪い作品の数々が、けれど魅力的にあった。
「何が足りないんだ?」
 独りのときの癖で、声に出した。
 虚脱を捨てて、一番気に入った絵に目を止めた。丁度彼女と出会った頃、半年前に描いたもの。記憶だけに頼って、彼女と出会ったパーティの光景が、稚拙な筆で描かれていた。
 見ていて、幸せ、を感じた。
 けれど、答えは見つからなかったので、見比べるために足元に目を落とした。
 それで、見つかった。
 絵に想いがなかった。ただ漫然と描いただけのものに、魅力を感じようはずもなかった。技術だけで描くことの意味のなさなどとうに知っていたというに、ただ描かれた絵があった。
「ヨーコ」
 衝いて出たのは彼女の名。
 それまでの虚脱と無為が嘘のように、フィドは跳ね上がり、今すぐにでも彼女を抱き締めたいという衝動に駆られた。彼女が裂いたキャンバスに傷を憶え、彼女の台詞を反芻しては痛み、彼女の出ていったドアに目を移すと悲しみが全てになった。
 せめて声だけでも聞きたいと、フィドは部屋を飛び出した。
 ドアの向こう、生活臭のあまりない空間の隅に、1台の電話。受話器を取ると、慌てて彼女の番号を思い出す。
「もしもし?」
 8回目のコールで繋がり、フィドははやる心で呼びかけた。
「……何の用なの?」
 たどたどしい、ぎこちない言葉が聞こえると、フィドの胸はこれ以上ない程に高鳴った。
「謝ろうと、おもって」
 それから紡いだ言葉の一つ一つを、フィドは思い出せなかった。
 けれど、すらすらと流れ出た言葉は、絵と彼女への想いをだいぶん伝えられたらしかった。
「……君の絵を、描きたいんだ」
 そんな願いを告げると、彼女はちょっとためらってから、「いい絵に、してね」と応えた。

 愛される事が、必要?

「愛していることだけで満足できるとは思わないけど、満足するために
は愛することも必要だと思うわ」
 会心の出来の絵の前で、彼女は言った。
 フィドは、そのいとおしい体を抱きしめた。
「でも、愛しているだけで満足だとは思わないで」
 男の腕に身を任せながら、ヨーコはふふ、と微笑した。
 まいったな、とフィドがおどけると、ヨーコは無言でキスをねだった。
 それからの甘い時間は、けれど奇妙に醒めていた。
 求め、委ねる彼女の姿に、フィドは冷静なまま満悦し、彼女が燃え上がるのに呼応するようにますます冷めていった。
 けれども、激しい冷たさ、であったが。
「愛しているだけで満足だとは思わないで」
 事が終わってから、その言葉をつぶやいてみて、皮肉に笑った。
 今のひととき、愛しているだけで自分は満足だったから。それだけでない、彼女の姿をキャンバスに取り込むその作業中ずっと、彼は愛する事で満足していた。

 否、愛する事が、必要

 再び冷め始めたのは、また半年が過ぎてからだった。
 今度は、フィドに原因があった。何度描いても思い通りの絵が描けず、だから彼女にあたっていた。
 2人は亀裂を得た。あともう少し、何かが振れれば容易に壊れるだろうと思えた。
「……感情活性薬」
 そんなある日、訪ねて来た友人に相談すると、彼女は一本の小瓶を取り出した。
 ごく最近発売されたその薬は、大々的な宣伝でその効能をうたっていた。曰く、「無気力症、躁鬱、などの精神的疾病から、親子や夫婦の関係の改善まで、さまざまな精神によるトラブルを、これ一本飲むだけで解決!」だそうで、様々なマスメディアがその効果を宣伝したり、あるいはその疑わしさをぶち上げていた。
「ちょっと、仕事がうまく行かないときがあってね、試してみたのよ」
 フィドは、イメージデザインの仕事をしている彼女を見た。美術大学で同級だったころの、ひどく落ち着いた印象からは考えられない弱味の言葉に、意外な視線を向けた。
「効果は、バッチリだったわ。非合法でもないし、試して御覧なさいよ」
 勧める彼女に、フィドは曖昧に答えた。
 彼女が去ってから、なんとなくヨーコのことを思った。
 自分が悪いとは知っていた。
 絵がうまくいかないのが彼女への愛情が足りないことに起因しているのには気付いていたし、絵がうまくいかないために彼女への愛情が足りないことも知っていた。
 試してみてもよいか、と思った。

 愛しているよ――君を。

 薬がどのようにして愛を紡ぎ出すかの難しい説明は分からなかったが、その薬のおかげでフィドはヨーコを愛した。
 久方の房事に酔い痴れると、フィドは突如クロッキー帳を取って、裸の彼女を描いた。
 わずか3分で描かれたそれは、たっぷりの情念と艶を匂わせていた。
「恥ずかしいわ」
 と己を見た女は言った。

 絵は美しかった。
 絵は価値を放っていた。
 絵は心だった。
 筆が鈍ったと思えば、例の薬で愛を取り戻した。
 どこまでも描き続けた。どんどんと美しくなっていった。
 だが。
「愛してくれてるの?」
 彼女に告げられた。
 度毎の交わりは、2人の間を確かめさせてくれていたし、互いは互いを愛していた。
 けれど、彼女は問うた。
「愛しているさ」
 当然、答えた。
 その夜はそれで済んだが。
 しかし、次の夜、彼女が訪れずにただ絵を描いているところで、フィドは自問につまづいた。ふと緩み、手にした瓶がこぼれた。ラベルには、[Love Boost]と書いてある。
 慌てて次の瓶を取り出して飲み干したが――絵の続きは想い出なかった。床に広がる瓶の中身に、なぜだか痛みを憶えた。
 

 愛している――何を?

「終わりにしましょうよ」
 彼女が言った。
「……こんなに愛しているのに?」
 フィドは応えた。
「愛されているからなの……これ以上、あなたに愛されても重荷なの」
 ヨーコは涙を浮かべていた。
 フィドは、目を伏せてから、微笑んだ。
「わかった……愛してるよ、ヨーコ」
 それから、立ち上り、手早く衣服を見に着けた。
 呆然としたままの彼女の顎に手をかけ、引き寄せた。あっさりとした接吻の後、フィドは告げて、背を向けた。
「もう、来ない」
 それから、見慣れた部屋の扉を開けて、永久に立ち去った。
 背後で彼女の嗚咽が聞こえたが、フィドは声もかけず、振り向きもしなかった。
 自宅にたどり着くと、例の薬を飲んだ。
 愛した。
 描いた。
 筆はいつものように雄弁であり、そうしてフィドの思った以上に美しく軌跡を見せてくれた。成果を眺めながら、フィドは自問した。
「何を、愛している?」
 答えず、代わりに描いた。
 筆はどこまでも、雄弁だった。

 私は、愛している。


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