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堂中の修羅


 真夏の風が、緩やかに堂を抜けていく。
 薄暗く塗り込められた堂の中は、どこか浮世離れしているようだが、外から差し込む陽光のけたたましさの前には、それも霞む。けたたましいと言えば、夏盛りを思わせる蝉の声。
「五月蝿い、五月蝿い」
 着流し姿の漢は、ほど広い堂に忍び込むと、外に向けて開かれていた左右の戸を内に引いた。戸が閉まるにつれ光が細くなり、ついには薄暗さだけが残された。風も、消える。けれども、蝉の声は相変わらずけたたましいままだった。失望するように、漢の眉根が寄る。だが、耳を凝らしてみれば、ほんのわずか、音も遮られているらしい。
「何もせぬより、まし……か」
 とてもそうとは思えなかったが、再び開け放つ気にもなれない。そのまま堂の中央に歩み、どかと腰を落とすと、片膝立ちで座り込んだ。
 眼前には、仁王の像がある。
 凄まじい形相で、こちらを見下している。見上げ睨めても、変わらない。
 仁王の眼を見つめていると、何やら苛まされているような気がしてくる。それに、悪鬼を砕くための抜き身の剣は、陽の差さぬここでは艶かしく光っているようだ。
 ひょっとすると仁王の朱塗りの剣は、今振り下ろされるためにこそあったのではないか。そんな事をふと思う。漢は下らぬ考えを拭おうと、鼻で笑ってみた。
 けれど、剣の艶かしさは拭えない。仕方なく、座を正し、腰に結わえられたままであった刀を鞘ごと外した。それからしばらく、鞘越しに刀を掴んでいたが、やがて何も起こらないと知ると、研がれたばかりの刃を剥いた。
 漢は、一点の曇りもない刃をまなざしでひとなめした。それから、柄に目を向ける。こちらは刃とは好対照に、へたり使い込まれた跡が容易に見取れる。再び刃に向き直ると、漢の口元に微かに笑みが浮かんだ。
「紅い、のう」
 漢は微笑ったままで呟くと、再び仁王に目を移した。
「ぬしの得物も、同じかのう」
 問うても、応えは返ってこない。
「それとも、鬼を砕くためのものとでは、違うか?」
 再び問うて、今度は哄笑う。野太い声が、堂中を満たす。ひとしきり笑うと、もう一度刀に目を落とし、今度は虚空に問うた。
「何人、斬った?」
 答えは、返さない。代わりに大きく息を吐き、立ち上がった。仁王立ちで仁王を見返すと、それまで意味もなく漂っていた音たちが、ひどく明瞭になった。
 蝉の声の連なりでしかなかったその中に、風のそよぎや草のざわめきが混じり込む。心地よい音の漂いに身を任せていると、そのうち、それらの全てが堂の外からの客だと悟る。ことさらに意識すると、今度は堂の内側の静寂が聴こえ始める。
 内の静寂に耳を傾けると――よどみに触れた。肌に感じるよどみは、堂の空気を完璧にしない、最後の壁のようだった。
 よどんでいるのが空気だということは、すぐにわかった。戸を閉めたからだろう。それまではわずかな風がよどみを流していたのだ。それが今は、晴れる気配もない。戸を開ければだいぶましになるだろうとは、容易に想像がついた。
 けれどだ、よどみは己の内から来ているのでは、と思えて仕方がない。
 ひょっとするとよどみが払えはせぬかと、漢は刀を構えた。
 曇りのない構えから、曇りのない刃を抜けば、その曇りのなさでよどみを拭えぬかと思ってだ。だが、よどみは一向に拭われる気配もない。それでもしばらく、刀を振るっていたが、やがて無理もないと微笑して嘲り、あきらめて刀を鞘に収めた。
 それから、不意に思い立ち、刀を鞘ごと放り出した。体を横たえ、腕を枕にすると、挑発するように言った。
「夕刻までは、寝ておるつもりじゃ。斬れるものなら、斬ってみい」
 しばらくすると、寝息が立ち始めた。
 蝉は、相変わらず鳴いている。がなりたてるような音の洪水の中に、ときどき草のそよぎが姿を見せても、漢は見向きもしない。ただ、ときたま寝苦しそうに声を立て、寝返りを打つ。
 仁王は宙を、見下している。漢には、見向きもしない。
 それが、夕刻まで続いた。
 やがて、陽の傾きもいよいよ大きく、もうさほどもせずに日が暮れるという頃になって、漢はついにその身を起こした。
「ふむ……」
 刀を手にし、立ち上がると、よどみがだいぶ薄らいでいるのがわかった。
「斬られなんだは――堕ちよと言うか」
 そのままよどみを気にせず突き進み、堂の戸を開けた。
 するとだ。堂を出てすぐの所、ちょうどそのためにあつらえてあったような置石に、相手が座っていた。相手は、細面をした若者であった。腕も、漢に比べ、やや細いか。けれど、座る姿に隙がない。よほどの手練と見えた。
 漢が品定めをするように若者の横顔をうかがっていると、若者はそのままの向きで問うてきた。
「何人、斬った?」
 問われると、しばし迷ったが、今度は答えた。
「四十と、九人」
 決断するまでの惑いが嘘のように、答える声には迷いも躊躇いもない。
 その答えに、若者は刀を抜き放った。立ち上がり、振り向いて、切っ先を漢に向け、鞘を投げ捨てた。
「……死合、願おう」
 若者が言ったのはそれきりだ。理由は言わない。
 ただ、瞳が尋常でない。どう尋常でないのかと覗き込んでみると、昏い瞳だと思った。だが、眩しいとも思った。果てしなく昏いが、夕の陽より激しく燃えている。
 その昏さに、仇なのだろうと、直勘した。戯れとは言わぬが、実のところ、およそろくでもない理由で斬ってきた者いずれかの、縁者だろう。
 試しに、訊ねてみた。
「何故、死合う?」
 若者は、しばしの間のあと、「承けるか、承けぬかだ」とだけ、返してきた。
 若者の構えには、座り姿と同様、隙が見えなかった。かなりの修練を積んだのだろう。おそらくは、この死合のために。
 漢は、肩越しに首だけを向け、堂の中に目を転じた。
 仁王は、相変わらずの姿で立っている。その眼も相変わらずの様子で、丁度漢の眼を射抜いている。何もかもが、寝る前にねぶるように見た、そのままの姿だ。
 だが、不思議なことに、何も思わなかった。悪鬼を苛む眼を見ても、朱塗りの剣に目をやっても。仁王のまなざしは、ただ、責めも認めもせずに、漢を射抜いているだけだった。
 漢は、破顔すると若者に背を向け――体ごとで仁王に相対した。それから、破顔を、いっそうにする。
 思った通りだ。何も、想わぬ。
 漢は、そうかとつぶやいた。口元からこぼれた犬歯が、牙のようにぬめっていた。
 漢は一つ武者震いをすると、背中越しに告げた。
「来い。仁王の前で、死合いたい」
 蝉の声しか返ってこない。戸惑っているのだろう。構わず歩みを進めると、やがて足音がついてきた。堂に入り、右に寄ると、若者は左に行った。
「ならば、死合うか」
 漢はいささか大仰に刀を抜き、鞘を投げ捨ててみせた。それは、ともすると仁王に示すための振る舞いだったのかもしれぬ。
 若者は、既に構えていた。青眼の、曇りのない見事な構え。いささか我流が混じっているようで、どこの構えだかはよくわからぬ。だが、飾りだけの剣でない。殺めたことがあるかどうかはわからぬが、人に向けて振るわれたことのある、本物の剣だ。
 久方ぶりに、楽しむか。
 そう哄うと、漢も構えた。若者のそれと同じく、青眼の構え。けれども、若者のそれとは違う、血に飢えた修羅の構え。
 もはや、修羅に、迷いはない。


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