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吸血の定め

「俺は今日、渇いているんだ」
 久方ぶりの来訪者に、チャーリー・ロイマスは告げた。
 その口元に覗いた牙は、なるほど、ぬらぬらと鈍く輝き、命の迸りを
求めているように見られた。向けた瞳も、渇望の狂気を抑え切れずにぎ
らぎらとしていて、まともに見返す事も難しかろう。
 けれど、来訪者は愉しみを唇に浮かべた。
「いつもじゃないのか? 俺が来て、そう言われなかったことはないぞ」
 茶化しながら、来訪者は断わりもせずに部屋の奥へと歩み、少々値の
張りそうなローボードからワイングラスを2つ取り出した。チャーリー
は呆れながらも、片方の壁にずらりと並んだ酒の中から、栓の開いてい
ないワインを一瓶見立てた。
 物言わず酒瓶を受け取る来訪者が、それでもいやらしいにやにや笑い
をやめないのにじれたか、チャーリーは鋭利な牙を見せながら言った。
「確かに、ろくに吸っていないから、大抵の場合は渇いてる。けど、渇
いていないときにお前が来たためしがないのも事実だ」
「だが、俺はお前が渇いていないときを見ていない。だから、俺はお前
がいつも渇いていると思う。それを止められるわけではあるまい?」
 来訪者はやはり断わりもせずにコルク抜きをみつけてくると、向かい
合う2つのソファのうち、入口に近い方に陣取った。
 チャーリーは、明らかに憮然としながら答えた。
「俺にだって血を与えてくれる恋人ぐらいいる」
 ふふん。
 来訪者は鼻を鳴らすと、コルク栓を一気に引き抜いた。
 芳醇な香りが立ち込め、窓のない部屋を満たした。
 来訪者はそれに顔一面の歓喜で応じたが、チャーリーは血を思い出し
たのか、嫌悪感をもってソファに身をうずめた。
「これを陽の下で飲むのがまたいいんだが」
 わずかだけ残念そうに言うと、来訪者は瓶の口をチャーリーに向け差
し出した。
「それとも、お前は鉄の味の方が好みか?」
 手元のグラスを手に取らぬチャーリーを促すと、来訪者はにやにや笑
いを強めた。
「いや、彼女が来るまではあと3日あるから、せめてワインで癒してお
かないと、身が持たない」
 諦めの息をつきながら、チャーリーはグラスを差し出し、赤い液体を
受け取った。来訪者は自らのグラスにもワインを注ぐと、瓶を置いてグ
ラスを持った。
「では、……そうだな、我々の再会に」
 にやにや、をにやり、に変え、来訪者はグラスを差し出した。
 チャーリーはその笑みを敢えて無視しながら、自らのグラスを差し出
し、チン、と快い音を鳴らした。
 一気に中身を飲み干すと、二人はほぼ同じくしてグラスを置いた。
「で、今日は何の用だ?」
 切り出される前にチャーリーは促した。
 来訪者は構わず2杯目のワインをなみなみと注ぐと、先程と同様に一
気にあおった。
 喉を抜ける清涼感に、ため息をつくと、来訪者はほのかな酔い心地を
目に載せながら、
「そう急きなさんな」
 と、3杯目を注いだ。
 チャーリーがそれに不満そうな視線を向け続けていると、わざとらし
く気付いたふりをして、すまんすまん、などと言いながら、チャーリー
のグラスにもワインを注いだ。
 チャーリーは律儀にもそれを飲み干してから、
「これ以上高い酒をかぱかぱ空けられては困るんでな」
 と4杯目を注ごうとしていた手を制止した。
 一瞬だけ、恨みがましい目が来訪者に浮かんだ。
 けれど、次には酒気の抜けた凄絶すら感じる視線が、来訪者の目を包
んだ。
「標的は『天使憑き』だ。元はただの罠師だったんだが、『祝福され』
ちまったらしい。今じゃすっかり神様気分で、背徳者どもを殺りまくっ
てる」
「たかが『天使憑き』の1人ぐらい、俺が出張らなくても何とかならん
のか」
 チャーリーは、来訪者から視線を外しながら、短く刈られた銀髪を右
手でかきあげた。ま白い指の間を、月光にもにた輝きが流れた。
「何とかならんから、ここに来たんだ」
 来訪者にそれまでの仮面は既になく、代わって手札の全てを晒しなが
らの言葉が突き付けられた。
 青年の面を持つ吸血鬼は、「疲れた」というふうに首を振り、息をつ
きながら、背後の木目作りの冷蔵庫に歩み寄った。開かれたその扉から
冷気が漏れ出し、よく冷やされた赤黒い液体の詰まった瓶が取り出され
た。
 再びソファに座ると、吸血鬼は半ばまでを瓶に埋めたコルク栓に手を
かけ、引き抜いた。ぽん、とよい音が響いて、鉄の香りが、部屋に広が
った。
 来訪者の眉が歪み、嫌悪を明らかにした。
 対して、吸血鬼の紅の瞳は爛々と輝き、口もとが歓喜でほころんだ。
「……話を、聞こうか」
 どろりとした瓶の中身を、自らのグラスにだけ注ぐと、吸血鬼は牙を
剥いて微笑んだ。

 来訪者――代理引受人の依頼によれば、標的の『天使憑き』は、名を
アレス・ヴァーニーというらしい。『憑かれる』前は罠師として、『掟
破り』を狩っていたようだ。
 憑かれてからは、『神の名の下において』、闇に潜む者達を狩り出し
たらしい。
 ただし、その手段は他の天使憑きと同様、見境ないものであり――関
係のない一般人も幾らか巻き込まれ、命を落としたようだ。
「あと1月もしたら、1人で最終戦争でも始めるだろうよ」
 とは、代理引受人の言である。
 ちなみに、依頼主は市警察の誰か、だそうだ。
 チャーリーは、それ以上詮索しなかった。
 誰が依頼主であろうと、正当な報酬さえ得られるのなら同じことだ。
吸血鬼である以上、世界の表に出ることはできぬのだ、ならば余計なこ
とは知らないままでいい、というのがチャーリーの考え方だった。
 既に代理引受人は帰った後で、テーブルの上には依頼主が調べたとい
う、標的についての子細な情報のレポートが残されていた。
 そのページをめくりながら、チャーリーは先程冷蔵庫より取り出した
瓶の中身――人の血を、ゆっくりと堪能していた。
 瓶に残った中身は、あと3杯分ほどであろうか。
 グラスに残った半杯ほどを一気にあおると、その冷たさとは逆の、熱
くたぎる感覚が食道を満たした。
 頭の全体が冴えながらも、後頭部だけが熱く衝動を燃やし始める。
 ふと、恋人の顔を思い浮かび、嫌悪感を憶えた。
 けれど、仕事のためだ、と言い訳をして、更なる美酒をグラスに注い
だ。
 レポートの表紙に貼られた、アレスの写真を眺める。
 細く、繊細さをたたえた顔は、ともすれば女性を思わせる流麗さを誇
っている。
 しなやかな金の髪、灰色のしかし澄んだ瞳、それに写真越しであって
もなだらかさを容易に想像させる首筋に、チャーリーは不覚にも牙のう
ずきを憶えた。
「ちっ」
 舌うちをして、その欲望を拭おうとした。
 だが、うずきは増すばかりで――知らずのうちに、少年の恋にも似た
鼓動が脈打っていた。胸に下げたペンダントを握ると、いくらか落ち着
いたが、それでもいざ標的を前にした時、衝動を止められるかどうかは
わからなかった。
 であるが、自分に話が回って来たのはその衝動を自制することを期待
してだろう。『節制の吸血鬼』と二つ名をとる自分である。いかなる時
でも流されることなく、ただ吸血病が与えてくれる力だけを利用できる
自分だからこそ、任された。
 闇にて『掟破り』を裁くことを生業とする以上、依頼は果たさねばな
らぬ。
「果たせるのか?」
 自問しながら、チャーリーは再び視線を写真に移した。
 沸き上がった衝動は抑え切れそうになく、自慰の代わりにグラスの中
身を飲み干した。

 その夜の月は満月までもうすこしであった。
 けれど、チャーリーには月を愛でるような趣味はなく、黄銀のその姿
は風景として看過されていた。
 街の明りは煌々と灯り、昼さながらであったが、しかし太陽のもたら
す烈光に敵うはずもなく、がゆえにチャーリーの肌もまた焦げ付いたり
はしなかった。
 繁華街をアテもなく歩いていると、ふと、路地裏でうずくまっている
子供を見つけた。拾ってきたものであろうボロボロの毛布にくるまって、
膝を抱えて壁にもたれるその寝顔は、汚らしいながらも無垢であった。
 思わず路地に踏み込んでみると、子供のそばにあった毛の塊がむくり、
と動いた。てっきり毛布の一部かと思っていたが、闇の中に輝く瞳の形
を見るに、猫であったらしい。
 チャーリーは、低くうなる猫に微笑んでみせた。
 猫はしばらくうなり続け、鋭く異邦人を見つめていたが、やがて興味
を失ったのか、再びまるまって、少年にわずかにもたれてまぶたを閉じ
た。
 そのふわふわとした毛の感じが、幼少の頃の記憶と重なり、チャーリ
ーの肌にほのかな温かさを思い出させた。
 同時に、陽光のもたらす抱擁の力強さも。
 チャーリーは、ふと空を見上げた。
 ビルの谷間から覗く空はどこまでも暗く、星の一つも見えはしない。
 だが、それはチャーリーが望むような暗さではなかった。
「街に生きることの宿命か」
 そうひとりごちた。
 言ってから、街で生きることすらしていないことに気付いた。
 その悲しみから逃れるために、狂気に身を任せろと告げられた。
 恋人の顔を必死に思った。
 牙が、うずいた。
 フニャァゴォォ
 いつの間にであろうか、例の猫が身をもたげ、止むことのない気迫を
剥いていた。
 どうしようもなく悲しみで満たされた気分が訪れて、風がいくらか冷
たくなった。
「邪魔をした」
 チャーリーは、極力温かく告げた。
 しかし、己の耳に入るそれは、血の通わぬようで――確かにまだ脈打
っている心臓が、偽物なのではと錯覚する程であった。
 自身に失意しながら背を向けると、追い討つように、猫がうなった。
 再び通りに戻り、街を歩いていると、やがてちょっとした広場に出た。
 けたたましいネオンが全てであるようなそこで、またも見上げると、
今度は月だけが狭い空に見えた。陽の烈光には到底敵わぬ、細くて儚い
光であるが、瞬いているはずの星よりもずっと明るく肌を焦がした。
 感じぬはずの痛みに目を細めると、視線を再び地に下ろした。
 そこに、見つけた。
 アレス・ヴァーニー。
『天使憑き』
『神』の名のもとに在らぬ鉄槌を下すもの。
 牙がうずき、血がたぎった。
 けれども理性とやらで、それを抑えた。
 アレスは、広場の中央、人混みの中心で、何者かの頭蓋を掴んでいた。
 その口がゆるりと動いて、告げると。
 ぐしゃり、と嫌な音がして、脳漿が弾けた。
 チャーリーの中で獣が吠えたが、まだ早いと抑え込んだ。
 傍観する中、事態に気付いた情婦が、いち早く悲鳴をあげた。
「これは『神』に基づいた処刑なのです!」
 アレスが、高らかに宣した。
 周囲の人間は、よくある普通のパフォーマンスかと傍観していたが、
おののく情婦が拍車となったのだろう、何事かの香りが広場を包み込み、
『天使憑き』はまさしく天使の声を告げた。
「私は神の命により下った使い。愚かにして道を外したものを、かよう
に処刑するために下った尖兵なのです」
 アレスは、ひしゃげた頭蓋を落とすと、憐れに血を首から吐き続けて
いた体の方を、右手一本でやすやすと持ち上げ、皆に示した。
 いくらかの鮮血がアレスに降り、身と衣を赤く染めた。
 ぐるぅぅぅ
 内なる吠えが高まる自覚、抑え切るのがやっとの衝動。
 それでも、突き破ろうとするそれを包んだままで、チャーリーは叫ん
だ。
「アレス、アレス・ヴァぁニィぃぃ!」
 ただ一度、地を蹴ると、チャーリーの体は空を舞って狂える天使憑き
へと放たれた。
「背徳者か!」
 歓喜の叫びがアレスを満たし、その左手が広げ、向けられた。
 世を統べるはずの物理法則は衆人環視の中で歪み、ゆえに天使憑きの
喉笛に吸い込まれるはずだった吸血鬼の右手は、間一髪、静止した。
 静止はほんの一瞬で、チャーリーの身体が弾かれると、神々しく輝く
アレスより5メートルほど離れた地点に降り立った。
「貴方も、処刑を受けに来たのですか?」
 満面に勝利への確信を浮かべて、アレスは金色の目を向けた。
 警官の接近が知らすサイレンが鳴ると、その音がくすぶっていた恐慌
の火種を刺激した。眼前の光景に唖然としていた人々のうちの誰かが、
逃げ出そうと背を向けた。
 引金は引かれ、天使憑きとと吸血鬼の周囲は、狂乱となった。
 幾人かが押されて倒れたのだろう、怒号がなった。それをかき消すよ
うに恐慌した一団が飛び込んで、悲鳴が助けを求めた。しかし、じきに
悲鳴だけは止んで、しばらくして人影が消えると、いくつかの骸のみが
残った。
 吸血鬼は、骸の一つを一瞥した。
 何も感じなかった。
 何も感じぬ事に、畏れを感じ、嫌悪を得た。
 けれど、再び目を天使憑きに向けると、己に対する卑下の念など、綺
麗に消し飛んだ。
 フゥゥ。
 チャーリーの喉が、戦いを求めるうなりを立てた。
 どこかが叫んだ。
『狂気に身を任せてはいけない』
 と。
 けれど、目前の敵は強大であり、狂気に全てを任せでもしなければ、
敵いそうに思えなかった。
 錯覚かも知れぬ。けれど、金色を放ち、吸血鬼の圧倒にも臆せず、神
々しく立つ姿に、チャーリーという名の背徳者は確かに恐れ怯えていた。
 その恐れに、怯えに抗うために、狂気を選ぶことを、肉体が欲してい
た。
「処刑の、刻です」
 ぶしゃりぶしゃり、という音を供に、アレスの掲げていた骸がひしゃ
げた。
 肉塊がそのまま生温かい汁に変じ、それを浴びたアレスは、全ての表
情を失くした。
「お前も、こうなる」
 どこか柔かだった声は、既に鋼鉄であり、その全てが、刃に思えた。
 それでも首筋はあの艶を放ち、金の髪もしなやかに、牙にうずきを与
えてくれる。
 狂気に委ねられているゆえだろう、これまでの何時よりも強く、その
血を欲していた。
「消えろ」
 伸ばされた左手が、一層に輝いた。
 チャーリーの肉体が、縛られ、締められた。
 吸血鬼が苦悶に顔を歪めると、アレスは一瞬、歓喜を唇にした。
 それが呼び水になったか、吸血鬼が、微笑した。
 すぐにもうアレスには憐れみしかなくなっていたが、吸血鬼の方には
笑みが残っていた。
『狂気に、委ねろ』
 チャーリーの理性が、降伏した。
 くわぁ、とその口が広がり、牙は月光に妖しく映った。
 野獣は吠え、全身がうなり、天使の戒めは無理矢理に解かれた。
 天使が驚愕を憶えるその前に、吸血鬼が奔った。
 吸血鬼の左手が喉笛をえぐり、右手が腹に突き立った。
 ごほり、と天使は紅を吐き、昂ぶりに開かれた口でそれを受けた吸血
鬼は、鉄の味に歓喜した。
「神……よ」
 ひとすじの抵抗か、天使の瞳が金を越えて銀となり、吸血鬼の頭蓋が
甚だ歪んだが、激痛にしかならずに収まり、銀は鈍い灰となった。
 こときれたのを知ったか、狂気の吸血鬼は骸の首すじにむしゃぶりつ
いた。
 美酒にその頬が染まり、瞳が縮み――ふたたび開かれたとき、そこに
は理性が戻っていた。
 悦びとともに血をすすっていた己に、吸血鬼は至上の嫌悪を憶え、ど
さり、と骸を取り落とし、理性のままに叫びを上げた。
 狼の吠えを思わせるそれは、どこまでも悲しくあった。

「仕事は、完遂した」
 ただ、事務的にチャーリーは告げた。
 瞳は濁り、酷く疲れているように見受けられた。
 そんな姿に、しかし代理引受人は構わずに応えた。
「報酬はいつもの口座に振り込む。それと、コイツを持って来た」
 重い音を立てて置かれたのは、赤黒い――血をたっぷり詰めた瓶だっ
た。
 けれど、吸血鬼はその瓶から目を逸らし、苦々しくつぶやいた。
「俺は……人だ」
 確かにそれは理性が言わせたものであったが、見ようによっては獣以
上に狂気であった。
「せいぜい、逢瀬で癒されてくれ」
 代理引受人は、吸血鬼に聞こえぬように言うと、瓶を手に取り、吸血
鬼の背後、木目作りの冷蔵庫にそれを押し込んだ。
「しばらく、来ないでくれ」
 いつも通りの苦悶を吸血鬼は漏らした。
 その姿に、一瞬だけ憐憫を向けると、代理引受人は興味をなくしたよ
うに視線を上げた。
「こだわるから、苦しいんだよ」
 侮蔑明らかな言葉を別れ代わりに、代理引受人は窓のない地下室を立
ち去った。
「俺は……獣じゃない」
 吸血鬼の慎しやかな領地いっぱいに、領主自身の理性の苦悶が響き渡
った。


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