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仮面

 血が、騒ぐよ。
 云って、アキラは、目を伏せた。
「満月が、近いから」
 本当は何の関係もないのだが、少しでも紛らわせてやろうと、答えた。
 だが、見透かされたようで――ああ、という声には、力がなかった。
 これ以上、どう反応すればいいのだろう。
 新たな手駒として、アキラを引き込むのは魅力的なプランだ。しかし、
そのことを告げれば、今まで秘密にしていた私の本当の姿と、そしてな
によりアキラ自身の醜さとを痛感させることになる。幼い頃から知って
いるアキラという人間は、獣詛人の醜さには、耐えられまいと、思う。
「元気、出せよ」
 言って、両肩を掴んでやる。無駄だと、知っているのだが。
 案の定、上げられた瞳はよどんでいた。笑っているのは、口元だけ。
 なぜだろうか、私は、アキラの肩を強引に引き寄せ、唇を重ねた。
 すぐに離れたが、アキラは突然の接吻に驚いたようで、慌てて口元を
押さえていた。
「な……にを、いきなり!」
 アキラの瞳に戻った生気が、私を微笑ませた。
「嬉しく、ないか」
 意地悪く、訊いてみる。
「そんなことは……ないけど」
 思っていたとおりの答えに、私は満足した。
 だからこそ、アキラは私にアキラ自身の異変のことを教えてくれたの
だし、私はたかが一人の獣詛人のことでこんなにも思い悩んでいるのだ。
「なら、いいでしょ?」
 それから、アキラに身を擦り寄せた。
 アキラの左胸に這わせた手が、激しい鼓動を伝えてくる。
 私が触れたことが、一層の鼓動を招いたようで。
「ダメ……だ、やめ……」
 だけれど、アキラがそんなか細い悲鳴を漏らしたから、私は素早く身
を剥した。
 荒く息をついている、アキラの顔に彫られた苦悶。
 アキラの中の、今はまだ密やかな獣性が、アキラを食いちぎろうとし
ている。
 それを示すようにか、アキラの両腕が、はち切れんばかりに膨れ上が
り、銀の剛毛を生やした。
 アキラの眼に浮かんでいた、深く昏い狂気の色が、こころなしか安ら
いだ。
 アキラの腕の異変が、少しずつ収まり、ようやく人のそれに戻った。
 抜け落ちていく銀の毛は、幻想的でもあったが――それより先に、憎
悪を憶えた。
 私はその間、アキラの息が落ち着くまで、アキラの横顔をただ眺めて
いた。
 そして、決断した。
 このまま、アキラと体を重ねることもできなくなるなど、思いたくも
なかったから。
 アキラは私の話に驚愕した。
 私が話したのは、秘めたる獣性と人の心とに挟まれながら、獣以上の
獣として生きねばならぬ獣詛人の宿命のこと。それから、吸血鬼や、天
使憑き、サムライなどの、『潜む者』のこと。そして、『潜む者』の掟
のこと。最後に、私の――代理引受人の、仕事のこと。
「……その、『潜む者』達を、殺して、生きろっていうの?」
 アキラは、私の話をすぐに理解した。
 今までのアキラなら、とても信じてくれなかったろう。
 この世界に『潜む者』たちがいることなど、信じられるはずもない。
 だけれど、アキラに起きた異変――耐えがたい獣性との葛藤と、そし
てなにより、その腕の獣化。否定しようもない、その事実。
「そんなことをするぐらいなら!」
 アキラは、猛った。
「落ち着け」
 私は、アキラがまた獣化するのがイヤで、引受人の顔を見せた。
 アキラには一度も見せたのなかった、狂人達を脅かすための鋼鉄の面。
 ビクリ、とアキラの肩が震えた。
「……レイ……」
 見知らぬ私の姿に、戸惑っているのだろうか。
 けれど、私は見てしまった。
 アキラの瞳の中の、怖えの色。
 私の中の、引受人が、微笑んだ。
 それが嫌で、眼を背けようと思った。
 しかし、ひとたび被った仮面は剥がれなかった。
「死ぬのは勝手だが――本当は、生きたいのだろう?」
「あ……」
 アキラの唇が震えていた。
 きっと、喉の奥には、たくさんの言葉を詰まらせているに違いない。
「それに、私を苦しめるのか?」
 冷酷だ。
 自らの言葉を、そう思った。同時に、知っているだけ扱いやすいとほ
くそ笑む、引受人の心も感じていた。そして、己を嫌悪したが――平気
なのは、引受人の心のせい。
 行き場のない悲しい魂達を、なだめ、すかし――いつかは、切り捨て
る。そんな仕事をしていれば、自己嫌悪など、麻痺もする。
 例え、己の半身と思えるその人が相手だったとしても。
 そして。
 使える全ては、使わねばならぬ。
「……アキラ。私を、愛してくれるか?」
 仮面の上にもう一つの仮面を被ると、私は最高の微笑みで腕を広げた。
 あ、……う、あ……ああ
 赤児のうめきに似た、アキラの吐息が、耳朶を打った。
「アキラ」
 全てのいとおしさを、言葉に込めて。
 アキラの体が、弾けるように飛び出し、私の胸に飛び込んで来た。
 泣きじゃくるその姿に、甘い痛みを感じながら、私の口元は微笑んだ。

 私とアキラは、それまでの同棲という関係でなく、夫婦として、少し
だけ違った生活を始めた。
 もちろん、アキラに書類上の死を選んでもらっても良かったのだが―
―それだけは、避けたかった。そうまでしてしまえば、アキラを手駒と
して捨てるのを、拒めなくなりそうだったから。
 入籍したのは、代わりといえようか。野放しにしておくよりは、管理
しやすいと思ったからだ。少なくとも見かけ上は、これまでと何かが変
わるわけではない。
 それでも何かが変わったのだろうか、アキラはときどき、今までにな
かったはにかんだ笑みを浮かべる。
 私も応えて微笑むのだが、その奥にはこれまでなかった仮面があった。
 醜く、汚い、引受人の顔。
 アキラは、それを感じているのだろうか。
 けれど、アキラの微笑みはごく自然だった。
 騙しているのだろうかと感じたが――実のところ、そうなのだ。
 わたしたちの生活に、わずかの変化が生じてから7日目。
 私は帰ってアキラの姿を目にするなり、それを口にした。
「標的は、サムライ。ジェルナー・シンクレア」
 取り出した写真には、その男の、少し血走った瞳。
「飲りすぎで、『持って行かれた』ヤツだ。
 あまり大した腕じゃないが――薬の使い方が、ハンパじゃないらしい」
 容赦のない事務口調。選択の余地を与えないその語気に、アキラは目
を細めていた。
 私は構わずに続けた。
「今回は、ジェルナーの相方だった吸血鬼と組んでもらう」
 そこまでが、必要な事だった。
 やるせない息が私の内からあふれた。
「どうしても、やるの?」
 応じるか、アキラが視線を伏せた。
 優しい言葉が、口を衝いたが、漏れ出たりはしない。
 私は、『代理引受人』なのだ。
「嫌なのなら、『掟破り』と、みなすだけだ」
 掟破りの末路は、入念に聞かせてあった。それが恐怖であるように、
それが絶望であるように。
 アキラの肩が、揺れた。
「狩りに加わるか、さもなくば滅ぶか――選べ」
 言葉は、自然に流れ出た。拒絶を叫ぶ、自分は潰して。
 次いで、懐から銃を抜いてアキラの頭に向けた。
 気付いたのだろう、ギョっとした眼が向けられ、その後で私の本気を
悟ったらしい。
 哀願の瞳が私を映した。
 けれど容赦も苛責もなく、私は再び告げた。
「選べ」
 くるりと、アキラの瞳が丸くなった。奥に潜む獣性が、のぞき込めた。
 なるほど。私を敵だと、思ったか。
 にやりと、笑みがこぼれた。
 フウゥと漏れる、アキラの息に、私は恍惚すら感じた。
「狩りたい、だろう?」
 微笑ったままで、私は云った。
 はたと、アキラの眼が冷静を取り戻す。
 声ならぬ声が、その喉から漏れた。
「狩りたいのだろう?」
 だが、もう一度問うと、そのこうべは、コクリと振れた。
「それでいい」
 私は腕を伸ばすと、アキラの身をくるみ、強く、抱いてやった。

「新入り、かよ」
 細い露地をわずかに入ったところ、壁にもたれかかり腕を組んでいた
吸血鬼は、アキラの姿を見ると、嘲った。
「見立てでは、悪くないんだがな」
 軽口を叩きながら、私は吸血鬼の胸を拳で小突いた。
「……ふん。まぁ、お前の言うことだ」
 信じているとも、疑っているとも知れぬ口調で、吸血鬼は答えた。
 アキラはと言えば、凶々しい輝きで睨めてくる吸血鬼に、怖え混じり
の戸惑いを浮かべていた。けれど、震えていないのが、有望なあたりだ
ろう。
「無碍にはしないがな、無能なら、捨てるぞ」
 吸血鬼はにや、と口を歪めた。
「よ、よろしく」
 頼りない声で、アキラは応え、右手を差し出した。
「……握手はな、しない方がいい」
 吸血鬼は、笑いを収めると、つぶやいた。
「いきなり手を握りつぶされても、文句は言えないからな」
「あ……ああ」
 呆然としながら、アキラは手を引っ込めた。
 ふん。
 私は、鼻で息をついた。
「五月蝿い」
 吸血鬼が、翻りながら、言った。
 それから、背越しに告げた。
「付いてこい、アキラ」
 アキラが、戸惑いで私を見た。
 私は優しく微笑んでから、うなずいた。
「待ってるから、ね」
「……うん」
 アキラは、拳を固めると、視線をまっすぐに吸血鬼に続いた。
 見やると、首だけ振り返った吸血鬼が、嘲るような、それでいて羨む
ような面持ちで、私を見つめていた。
 慌てて引受人の顔に戻したが――吸血鬼の視線は変わらぬまま、露地
の奥へと向けられた。

 勝負を決める、というその場所に、先回りしたのは、気まぐれだった
のだろうか。
 もちろん、失敗した時の対応をやりやすくするという目的もあるが―
―アキラのことが、心配だったのだろうか。
 代理引受人としては、あるべきでない姿だ。
 けれども、仕方がないのだ。
 ――違うか。
 全てが代理引受人に染まってしまうのが、怖いのだ。
 実際、完全に引受人になりきることは、危険なことだ。ただ利益と遂
行だけを願う引受人は、『潜む者』達とさほど変わらぬ。
 代理人とはあくまで狭間でなければならないのだ。
 だが、それすらも言い訳に思えて、私は嘲笑を浮かべた。
 と、ダァン、という、銃撃の音。
 わりあい、近い。
 始まったか。
 私は銃を抜くと、人気の少ないその通りを見回した。
 スラムですらなくなった荒廃街区は、旧世紀の建築物であふれている。
 銃音のした方は、そのさらに奥。
「オォォォォオォォォォォォォ」
 その方より唸りが来て、耳を衝いた。
「アキラ?」
 それは銃を向けた時の、アキラの吐息に、よく似ていた。
「ゥガァァルゥゥ!」
 別の声が、戦端を告げた。
 それから、連続したいくつかの銃声と、猛りの吠え。
 そうして、一つの、断末魔。
「……終わった、のか?」
 私は、つぶやくと、その方へと、ゆっくりと歩み出した。
 見つけたのは、3分程歩いてからだった。
 もう骸の、ジェルナー・シンクレアと、憔悴した吸血鬼。
 それに、血を流した獣。
 私がしばし、呆然としていると、吸血鬼が、喉の奥から声を搾った。
「血を、寄越せ」
 私は、無造作に手にした瓶を放ると、獣の方を見た。
「そいつは、有望そうだ」
 吸血鬼はそうとだけ言うと、受け取った瓶のコルク栓を噛んで引き抜
き、中身を喉に流し込んだ。
 すぐにその快楽の吐息が流れたが、私は構わず人の姿をした獣の肩に
手をかけた。
「アキラ」
 そう呼びかけると、かろうじて人のものとわかる声が、返ってきた。
「あ……う……あう、あアァ」
 アキラが、私の腕の中に滑り込んできた。
 その毛皮を濡らしていた血のぬめりを手に感じたが――それでも、受
け止めた。
 アキラの剛毛に包まれた裸身を抱きとめたとき、私は確信した。
 アキラを抱きとめたときの、この心の柔らかく火照りさえあれば、私
は引受人に染まり切らずにすむということを。
 そして、使えるな、と微笑んだ。
 アキラは、私の笑みに気付かない。ただ、私の腕の中で泣いている。
 血を得て余裕を取り戻した吸血鬼が、鼻で笑うのが聞こえた。
 けれど、私は心の内で吸血鬼の笑いを嘲った。
 これさえあれば、私は完全でいられるのだ、と。
 手の中で、剛毛が抜け落ちていくのを感じた。
 なめらかな肌の温もりがするころには、人の姿のアキラが戻っていた。
 私は柔らかく微笑むと、言った。
「家に、帰ろう」と。
 アキラが、応ずるように微笑み、うなずいた。
 仮面の調子は、上々だった。


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