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宿命に拠りて、裁く者

「……神が、そう仰られた」
 名を持たぬ彼は、問いかけにさように答えた。
 『ダニエル探偵事務所』に備え付けの、来客用の椅子には座ろうともせず、入口のすぐそばに立ったまま部屋中に威圧を――いや、畏怖を送り込むその姿は、なるほど、その言葉を口にするに相応しいかもしれない。
 けれど、問うた方の男は、狭っ苦しい部屋の、両面に並んだ本とファイルの山を背に、いささかの軽蔑を込めて言い放った。
「ふん……ちょっと突っ込むとお前はすぐにそれだ」
「仕方あるまい。事実なのだから」
 彼――名を持たぬでは厳しいので、『預言者』だの『御使い』だのと呼ばれたりしているが――が答えた。口ぶりには一切の抑揚がなく、表情とて石細工の調和を保っているが――問うた男にただ向けられるいだけの視線が、動きもせぬのがおそらくは不愉快を現しているのだろう。
「俺は『天使憑き』じゃないから、そのへんの事はわからんよ」
 その厳しい視線に耐えかねてか、問うた方は弁解した。
 低い背、たっぷりとした――あるいはいささか中年太りの兆候を見せ始めた身体を少し揺らして、両の手の平を広げて、一歩だけ、歩み寄って。
「ただ、神とやらの声が聞こえない俺としては、『神がそうおっしゃられた』なんて言われても、とんと信じる気にはなれんのだ。だったら、『勘だ』とでも答えてくれた方が、まだよっぽど信じられる」
「だが、事実だ」
 眉一つ動かさず答えるその様に、男は深く息を吐いた。あまり手入れされていない濃い茶色の髪が、ともなって揺れた。
「……そこでちょっと気を効かせられないのか?」
「偽りは大罪だ。神に仕える身である以上、罪を侵すなどもってのほか」
 いささか激したか、凝視の眼を半ばまで細め、名を持たぬ者は応えた。
 人殺しは、するくせに。
 男はひとりごちると、睨め返した。
 けれど、その微かなつぶやきを聞き取ったか、名を持たぬ者は言った。
「罪を、裁いているだけだ」
 矛盾している、と男は思ったが――口にはしなかった。
 どうせ狂った心に何を言っても無駄なのだ。
 それでも、感情の昂ぶりたる罵声が男の心を満たしつつあったので、仕方なしに男は胸中にて吐いた。
「この、狂人が」と。
 男が睨めた先の名を持たぬ者の視線は相変わらず揺るぎなく――ただ、いくらか嘲りを孕んでいるかもしれなかった。
「まあ、そんな観念的なことは置いておくとしてとにかく」
 胸中の罵声は十分に激情を晴らしてくれたようで、男は余裕ある笑みで云った。
「お前は神様のお告げとやらに従って、とある獣詛人を倒さねばならんというわけだ。
 で、俺はその獣詛人を見つける手伝いをする。
 お前が問題の獣詛人を見つけ、倒した後で、もしもそいつに賞金首がかかっていたなら、社会に顔を持たないお前に代わって俺が金をせしめてきて、喰いぶちを――神の使命を遂行するための肉体を生かすための喰いぶちを分け合う、と、こういう次第だ。
 少々汚いやり方もあろうが残念ながら俺は人の身、罪を侵さずに生きていくことはできぬのだ――ならばせめて、神の御意志を貫くためなら、喜んで身を血に染めようよ」
 全体に込められた軽い侮蔑は――しかし、あまりに熱っぽい口ぶりにぼやけ、かすんで見えた。
「ああ、そのためであれば、罪も赦されよう」
 だからか、名を持たぬ者――『天使に憑かれた』その男は、それまでの表情の硬化を解いて、いくらかの笑みをたたえていた。
 対する男は、笑みを笑みで受け止めた。
 口元の歪みは、うまく隠し通したままで。


「……これだから、『天使憑き』って奴は」
 名を持たぬ来訪者の帰った後で、ダニエルは苛立ちを隠しもせずにつぶやいた。 それでも、立ったままで、壁にずらりと並んだファイルの一つを手に取り、さして迷いもせずにお目当ての資料を捜し出した時には、苛立ちは消え失せていて、真剣そのもので資料をなめるように見つめる姿があった。
「なるほど、コイツか」
 開いたそこには、2つの顔写真と、個人データの羅列。
 と言っても、片方の顔は獣毛で覆われ、肩をなす骨格もまた人間のものとは少々差異があるように見える――しかし、獣詛人を見慣れた身としては気にもならない。男はそのページをファイルから抜き出すと、ファイルの方だけを元の場所へ丁寧にしまい、紙片の方は部屋の一番奥の、頑丈そうな執務机に持って行った。
 ぴたりの高さの椅子に座ると男は紙片に改めて目を通した。
「オーロイ・ゲイウェニー、獣詛人、『生前』は市警察に勤務、か」
 普段の人の姿の写真に、獣詛人の異形の写真、市民登録表の記載内容、『死亡届』の提出日時に、死後の活動の記録まで――おそらくそいつについての一切が、そこに書かれていた。 「さて、あいつは街でこいつが人を殺してるのを見たって言ってたが……もってかれたようには見えんがな」
 凶行、恐慌ともに記録なし、『死後』の警察の対応部署での評判も上々、現在でも旧来の友人達と親交があり、いまだに良好な関係を保っているという、その記載内容を読んで、ダニエルはいぶかった。
 本当に、このオーロイという男が、あれの言っていた獣詛人なのか、と。
「人違い……なんてこたぁねぇよな」
 毛並みの色艶、瞳の色、なにより人としての骨格の特徴が、その可能性を否定していた。『天使憑き』の言っていた特徴と、あまりに合致している。
「これほど似るなんざ、双子かクローンじゃなきゃありえねぇよ」
 そして、資料は双子であった可能性もクローンが作られた可能性も否定している。
 やはり、「もっていかれた」というところだろうか。
「十年も耐え抜いといて、結末はあっけないってことか?」
 そう結論付けるのが一番簡単であったろう。
 だが、奇妙な引っかかりが残った。
 お人好しな、と舌打ちしたが、どうにも止められそうになかった。


「ダニエル探偵事務所、ねぇ」
 差し出された名刺に、金髪の若者は明らかな蔑視を向ける。
「……うさんくさい、ってわけか?」
 それを気とって、背の低いいささか中年太りの『探偵』は意地の悪そうな笑いを浮かべた。
「まぁ、そういうことさな」
 厭な笑いを浮かべて、若者は手を差し出した。
「そのぐらい、分かってるさ」
 答えながら、ダニエルは懐に手を入れ、紙の束をひと掴み、若者の手に押し込んだ。
 それだけで半月は豪遊できる量の金である。
 途端に、若者の目が輝いた。
「あんたが言ってた、その、獣みたいな野郎か、見たぜ」
 だいぶ興奮しながら、若者は言った。
 ドラッグをたたき込んだ時のように、息は荒く、目は血走って。
「落ち着いて話してくれ。そうしたら、ご褒美はもう一束だ」
 すっかり立場が逆転したことを認識したダニエルは、再び懐に手を入れ、告げた。
「おう、おう、話す、なんでも、お、落ち着いて話すぜ」
 フウ。
 ダニエルは、今度こそため息をついた。これは、落ち着くはずなどない。できるだけ話を聞いて、それ以上は期待できまい。
 それでも、なしのつぶてよりはましか、と質問を始めた。


 その日の夕刻、小洒落たレストランのガーデンで、ダニエルという名のその『探偵』は夕食を摂った。
 結局、入手できた情報は件のファイルに毛の生えた程度。
 唯一有益なことがあったとすればオーロイという男、よくこのレストランで夕食を食べるらしい、ということだけ。公園の池に面した雰囲気は、なるほど、実に心潤してくれそうだ。獣詛人などとなったであれば、確かにこのような雰囲気を欲してやまないであろうことは、よく理解できる。
 まだ陽は残っており、水辺では小供達が戯れ、はしゃいでいる。それを見て、冷徹で売るダニエルとて、頬が緩んだ。
 ひょっとすると、今店内にいる客の殆どが獣詛人やら吸血鬼であるのかもしれない。
 家族連れだの若い男女だのもいるのを見るに、それだけではないのだろうが、例えば窓越しに見えるカウンターに座る独りの男などは、それ風の雰囲気を漂わせていた。
 他にも見当たらぬかと見回すと――突然、ダニエルは驚愕を得た。
「あのバカ!」
 ごく小さく、洩れ出さぬように言うと、ダニエルは立ち上り、店の入口から入ってきたばかり男へ向かって一直線に歩み出した。
「こんなところでアイツが『標的』を見つけたら――間違いなく即座に戦りはじめるに決まってる」
 悪態を付きつつ、屋内への入口をくぐり、まだ席に向かわず店内を見渡していたその男に声をかけた。
「おい」
「……お前か」
 答えた声は、実に無感動であった。
 自分にはまるで関係ないと、そんなふうにも聞こえる。
「こんなところに何の用だ?」
「……神が、ここで『奴』が見つかると仰っている」
 まだ探すのを止めぬまま、名を持たぬ天使憑きは答えた。
 ダニエルは舌打ちして、天使憑きの顔を見上げた。
 全く動かぬ無表情に、いくらかの興奮が混ざっているか。おそらくアドレナリンの醸し出す戦いへの期待だろうと当て込んでから、訪ねた。
「見つけたらどうする気だ?」
「決まっている」
 答えは、それだけ。視線が向きもせず、ただ声だけで。
 けれど、予想した通りで、かつ十分な答えだった。
「とりあえず、入口でキョロキョロと眺めているのは止めておけ。
 奴が見たとしたら――警戒されるだろうよ」
 そのように提案すると、ダニエルは天使憑きの袖を引いた。
 立ち話の様子に怪しむ視線を送ってきていた店員が、どうやら連れらしいと判断したか、あちらを向いて、仕事に戻った。
 それでも、天使憑きが眉一つ動かさぬのを見ると、
「悪魔におめおめつけ入る隙を与えるつもりなのか?」
 すると、天使憑きはようやく眼をダニエルに向けた。
 見下される形になって、しかしダニエルはむしろ悠然とした。
 この手合いとの話し方は散々慣れているのだ。常に堂々とあり、対等を心に保っておく事こそが、鉄則。
「わざわざ事を不利に運ぶこともあるまい?」
 その悠然のままで、ダニエルは唇だけで笑った。
 天使憑きはそれを無言で見て――
 ややあって、ダニエルは背を向けて、自分の席に向かいだした。天使憑きは一瞬、苦い顔をしたがそれに従い、2人はガーデン席で向かい合った。
「ここからなら、店内を見回しても怪しまれんよ」
 小さな声で言うと、ダニエルは店内に視線を向けてみせた。
「この店は、ちょいと内装が洒落ているんでね。珍しそうに見てても平気だろうよ」
 フン。
 天使憑きは鼻を鳴らすと、それでもダニエルに倣って店内を見回し始めた。
 これでしばらくおとなしくなるか、と子供をあやす大人の気持ちを憶えながら、ダニエルは再び視線を池に向けた。
 親であろうか、柔和な顔の男が、先ほどの小供達に向かって手を振っていた。
「お客様、御注文は」
 そこに、店員がやって来て、『天使憑き』に声をかけた。
 ダニエルは振り向いて、その店員の方を見た。まだ若い、おそらくアルバイトか新米だろう。声をかけてもちらとも反応せぬ客に、いささか戸惑った顔を浮かべていた。
「ああ、こいつはね、集中し出すといつもこうなんだ」
 その店員に、いつもの仏頂面ではなく、仕事用の人当たりのよい顔を向けると、ダニエルはそう声をかけてやった。
 店員は安堵するように視線をダニエルに向け――そこで天使憑きが、立ち上がった。
 驚くほどゆっくりと――けれど、実際には迅速に天使憑きは右腕をまっすぐ差し出した。
「やめろ!」
 ダニエルは、血相を変えて――憤怒の形相を持って、叫んだ。
 声は、どこへも響いたが――肝心の所へは、届かなかった。
 目に見えぬ一閃が貫き、ガーデンと屋内を隔てていたガラスの1枚が派手な音を立てて崩壊した。幸い、直線上には客の影は重なっておらず、天使憑きの力はただ標的とされた男にだけに刺さっていた。
 ダニエルの向けた視線の先、天使憑きがその力を持って射たのは、確かに見覚えのある男。血に染まり、苦悶に歪んでいるが、間違いなくオーロイ・ゲイウェニーの顔。
「『潜む者』の掟を何だと思ってる!」
 代理引受人として、ダニエルは天使憑きに怒鳴りつけた。
 すると、天使憑きは顔も向けずに答えた。
「神が、そう仰られた」
 まったくもって予想と違わぬ返答に、ダニエルは奥歯を噛みしめた。
 そばで、店員が異変に震え怖えている。客達は、ほとんどが一様に突如割れた窓ガラスに驚きと恐れの目を向けていた。中には、飛び散ったガラス片でどこぞなりを切った者もいるのだろう。窓の近くに座っていた何人かが、うずくまって朱を滴らせていた。
 そんなふうに呆然と言う時がしばしあり――そうして、小供の鳴き声が響き出して、時間が色を取り戻した。
 ざわめきが喧騒となり、喧騒が轟然と化すのにそう時間はかからなかった。
 号泣、悲鳴、騒然。洒落た雰囲気は崩壊し、代わって無惨が入り込み、そこはちょっとした刑場になっていた。
「オォォォォォォ」
 その音の渦の中、確かにその声は響いた。
 ごくかすかなはずのそれは、唸りだったのか。
 分からぬままに、それは駆けた。
 すぐにそれは猛りへと展じ、刑場をひと飛びで越え、そいつはやってきた。
 オーロイ・ゲイウェニー、獣詛人。
 その秘めし本当の姿。
 剛毛が瞬時にその身を包み、血走る狂気で青の瞳が紅を交える。変容する筋肉に耐えきれなかったか、その身の衣が、弾け飛んだ。
 それから、改めて猛りで吠えた。すると、天使憑きも応えるか、猛った。
「神の御心に従わぬ魂め、去ね!」
 轟然は未だ収まらず、戦いを見るは獣詛人と天使憑き、それにダニエルと加えて若い店員程度か。
 けれど秘やかに始まった戦いはすぐさま公然となった。
 当然であろう。もはや互いに獣の本性をさらけ出し、叫びは何者をも抑えて轟いていたのだ、気付かれぬ方が無理と言うもの。
「何が起こってるんだよ!」
 誰か、若い男が叫んだ。
 それは、その場の大半の代弁であったろう。
 けれど、答える必要なく、すぐに皆が全てを思い知った。
 天使憑きの振るうは内なる力。あまねく全てを歪め得る、世をなす法を歪める力。
 獣詛人の振るうは肉なる力。受けし呪詛のただ一つの恩恵。歪みの代わりの、人を超えし野獣の力。
 天使憑きが歪めし世の法を、獣詛人が上回る獣性をもって衝き破る。かと思えば獣詛人の繰り出した鋭い爪を、有らぬ力で弾き飛ばす。そうして数合が合わされているうち、獣詛人の爪が弾かれて――女性を、貫いた。
 なかなかの美人であった。
 ただ、眼前で起こった獣界の事件に、ひょっとすると戸惑いを覚えていたのかもしれない。貫かれたというに、まだ視線はうつろで――顧みもしなかった獣詛人が爪を引き抜いたとき、ようやっと悲鳴が――否、断末魔が上がった。
 吹き出した血が、獣と天使憑きを染めた。
 それでも戦いは冷めぬ。
「キャアアアアアアァァァ!」
 何人か、悲鳴をあげた。
 呼応して上がる悲鳴と、崩れ落ちる幾人かが床に伏せるドサリという音、しかしそんなふうにして始まった逃走は、ある意味もう手遅れだった。
「クソったれが!」
 ダニエルは吠え――けれど、戦いをどうすることなどできなかった。
 代理引受人、狂気に因われし『潜む者』達に代わって、ビジネスとして仕事を受け、表と裏の橋渡しをする者。けれど、それは所詮か細い橋でしかない。
 結局、相容れぬからこそ表と裏は分かれるのであり、『潜む者』達が潜むことを求められるのだ。無理に相容れぬそれらをつなぐ橋など、衝撃の前には脆く崩れ去るものでしかない。
 そうして、『天使憑き』は多くの場合過度な衝撃なのだ。
 だからこそ、ダニエルは痛烈に後悔していた。実体なき「天使」などという内なる狂気に流されている存在を、「飼い慣らせる」と思ったそのことを。やはり、もっと早くに――自ら狩りの獲物を求めはじめた時に、狩っておくべきだったのだ。
 けれど、そんな念とは無縁に、2つの狂気の存在は、ただただぶつかり合っていた。
 転がる骸はただ1つ。
 たった1人で済んだ、とも言える。
 だが、1人たりとも殺させてはならなかった、それこそが表と裏を繋ぐダニエルの役目だったのだから。
「掟破りは、裁かねばならぬ」
 獣詛人が、半ばうなりと化した声を発した。
「……その子羊を殺めたのはお前だ」
 天使憑きが、言った。
「違う。我々だ」
 獣詛人が、応えた。
 その声に、いくばくかの苦悶。
 けれど、気付きもせずに天使憑きは問うた。
「罪を認めぬか」
 今度は、獣詛人は応えず、静寂が訪れた。
 ふと、ダニエルが眼を向けると、父親らしき例の男は、子供の眼を必死に隠そうとしていた。が、惨状は既に子の瞳の中。
「……罪を認めぬは、裁かれねばならん。であろう、人の子よ」
 云って天使憑きは、ダニエルに瞳を向けた。
 同様に、獣詛人もまたダニエルに振り向いた。
 4つの眼が、ダニエルの応えを待っていた。
 狂気に染まった天使の瞳。
 微かな理性を血に染めた、獣詛人の瞳。
 どちらも正気とはほど遠く――信じたいとは思わなかった。
 けれど、すがるようなところを残した天使のまなざしと決然たる意志をはらんだ獣詛人のまなざしとが、共に心を揺さぶった。
 だが、ダニエルは、己もそれを呼び起こして、言った。
「お前らは、罪を犯した。
 だから、裁かねばならん」
 獣詛人が瞳を細め、天使憑きが瞳を丸めた。
「背徳すると?」
 訊ねた天使憑きに、ダニエルはしかし凄絶に微笑ってみせた。
「違う。狂ったお前に引導を渡してやるんだよ、リカルド」
 すると、天使憑きの大理石の仮面が歪み、怒相が現れ、
「その名を、呼ぶな!」
 久しく聞かれなかった神ならぬ声が、男の喉より漏れた。
「どうしてだ、リカルド? その名を捨てて、狂気に忠誠を誓ったからか?」
 ダニエルは、スーツの前を開き、懐に右手を入れた。
 どうみても銃を引き抜くそのそぶりに、しかし男は吠え立てた。
「私が仕えているのは神、貴様の言うようなものではないわ!」
 そうして、拳を固め、そこに見えぬ力込め、ダニエルに向け放とうとした。だが、確かに滅びをもたらすであろうその力の奔りの直前、ダニエルは、笑った。
 その笑いの理由を、神と名付けた狂気に心を渡した男が知る事はなかった。何故なら、力を走らせるその寸前に、獣詛人の爪がその脳を砕いたから。
 ただ、散った破片で、男は考えたろう。『神の下へ、還えれるのだ』と。
 しかし、そんな思いを吐き捨てるようにダニエルは笑みを収め、獣詛人は猛りを失くした。見る間に剛毛が消え男は裸身を晒し、入れ替わるようにダニエルは、銃という名の牙を剥いた。
「……表にいくらか未練があると聞いているが」
 銃身の前に抵抗の様子なく身を晒すオーロイに、ダニエルは問うた。
「裏に堕ちたときから、覚悟はしていた。皆にもそう言ってある」
 オーロイは顔の上半分を失って横たわる天使憑きの骸に目を向けた。
「それに、こんなふうにはなりたくない」
 それから戻って来た目のあきらめは、ひどく清冽であった。
「狂気が抑えられないのは、知っているんだ」
 せめて理性のあるうちに。
 流石にその陳腐な台詞までは口にしなかったが、オーロイは微笑んで、ただダニエルを待った。
「遺言は、あるか?」
 場違いな気楽さでもって訊ねたが、オーロイは微笑んだまま軽く首を横に振ただけだった。
 ふう、とやりきれぬ息を吐いた。
 けれど、何かが変わるはずもなく――ただ、その前に、例の小供のいた方を見た。
 もう親らしき男も子もおらず、だから、安心してダニエルは銃を構え直した。
 銃は強烈な光の束を奔らせ――さしたる気配も立てずに、オーロイの心の臟を貫き、ややあって微笑んだままのその身体が、崩れ落ちた。
「必要とは言え、嫌なものだ」
 広がっていく血の染みに一瞥をくれると、ダニエルは銃を収め、戦場であった場に背を向けた。広がる夜のとばりが、いくばくかの寒さをその背に載せていた。


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