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If it's not on Phone...

 電話の向うの、彼女が泣いた。

 週末には充分逢いに行ける距離であるはずだが、生活する上では付き合いと言うものやら休息を含めた自分の時間と言うものも必要であった。  なにより、週末でなければ逢えない距離そのものが面倒で、最初の頃こそしばしば逢っていたものの、半年もした今では月に一度も逢えればいい、となってしまっていた。
 そんな折である。
 友達伝いに、彼女の噂を耳にした。
 なんでも、彼女を巻き込んでどうの、という話らしい。
 らしい、というのは、実は「なにかあったらしいよ」ということだけしか聞いておらず、具体的に何があったのかなど、ちっとも聞いていなかったのだ。
 実際、ひいき目を差し引いたとしても、彼女は実に魅力的で――寄ってくる男の二三人など、不思議ではないし、そんな話があったとしても当然、という印象の方が強かった。
 それでも、忙しくてしばらく電話もしていなかった頃だったから、
「ひょっとすると、まずいのかな」
 と、そんなふうに思って、機を見て電話を書けた。
 主用件は週末遊びにいくこと、である。
 ボタン一つで彼女を呼び出し、いつもの挨拶から始まった。
 何気ない世間話と、近況報告、それに互いを案じてのいくつかの沈黙を交えつつ、三十分も過ぎた頃、ようやく用件を切り出した。
 彼女はなにか用事があったようで、ちょっとためらっていたが、じきに決断したのだろう、うなずきが目に浮かぶような返事が返ってきた。  対して、「楽しみだな」と告げる私の声もやはり弾んでいた。
 それから、再び他愛もない会話が続き――それがまた三十分も続いた頃だろうか。
 幸い、というべきか、話が途切れた。
 どちらも話題がなく、しかし繋がっていることが温かい瞬間が続き――けれど、私はその温かさを無視して唾を飲み込んだ。
「あのさ」
 意を決して、切り出す。
 だが、彼女は私の真剣な声に気付かないらしい。
「なに?」
 といういつも通りの明るい声が、返ってきた。
 彼女の微笑みが、脳裏に浮かんだ。
 ただ、ちょっと、尋ねてみるだけが。少しだますことになるかもしれないけれど、モヤモヤしているよりはずっといい筈だと、自分に言い聞かせた。
 にもかかわらず、涙の粒が思い浮かんだが――構うものかと、私は続けた。
「ちょっと、小耳に挟んだんだ。その、なにか、君の周りでごたごたがあった、とか」
「ごた……ごた?」
 こころなしか、彼女の声が凍っていた。
 その声の調子が私を刺したが、今更だった。
「ええと、いわゆる、色恋沙汰の話、だとか」
 彼女は、何も応えなかった。
 訪れた沈黙は相当に気まずく、重苦しかった。
 堪えがたいほどに重いそれに、口を開いてみたが、何も紡げず、静かに唇を閉じ直しただけで終わった。
 3分、いや、5分ぐらいの沈黙だけの時間が続き、その毎刻ごとに、剥離の魔手が伸びて来るような、そんな予感が漂ってきた。
 そんな重さを壊したのは、彼女の言葉だった。
「違うの……何でも、なかったの」
「何でもなかった?」
 わざとぶっきらぼうに訊き返すと、苛責が胸を痛めたが、まだ平気でいられた。
「ええとね、その、こないだ言ったけど、ちょっと忙しかった時にね、その、手伝ってくれて、」
 繕って明るい声が、耳を衝いた。
「それで……ちょっと、いいなって、思った、だけで」
 けれど、その声は次第に細く、はかなくなり、明るさも失われていった。
「だから、なんでも……なんでも、ないの」
 その言葉の最後は潰れたようで、よく聞こえなかった。結局、重さが消えたのは僅かな間だけで、より増した重苦しさが舞い戻ってきただけだった。
 沈黙は、甚だ雄弁だった。二人の沈み込んだ気持ちがそこにあり、一層心を重くした。
 けれど、惜しいかな、沈黙は沈み込んだ気持ちしか伝えず――それ以外のことは、なに一つ分からなかった。
 これが、電話でなければ、と一度目に思った時、再び彼女が口を開いた。
「ごめん……ね」
 嗚咽だった。

 電話の向うで、彼女は泣いていた。
 私は、呆然とその嗚咽を聞いた。
 かけるべき台詞がいくつも巡ったが、どれもこれも役に立ちそうに思えなかった。
 これが、電話でなければ、と二度目の後悔をして、それでもえいと口火を切った。
「……謝るのは俺の方だ」
 しばらく返事はなかった。
 聞こえているのか、と不安になりながら、しばらく待ち――諦めて、次を言おうとした時、嗚咽のままで、彼女が言った。
「どうして?」
 幼子を思わせるそれは、少しはかなく――なにより、いとおしかった。
 この瞬間、なによりいとおしい彼女に言い聞かせるように、私は答えた。
「君を……泣かせるようなことを、言ったから、だから、ごめん」
 後にして思えば、実に気恥ずかしい、どこかで聞き憶えのある台詞だが、そのときは、何の抵抗もなく流れ出た。何の飾り気もない、シンプルな言葉だからこそかもしれない。
 けれど、私の真剣な言葉にもさしたる効果はなく、また、沈黙がやって来た。きっと、彼女は泣き続けているのだろう。
 罪悪感が心を衝いた。
 これ以上彼女の涙が流れ続けることが、自分の罪になるような気がした。
 だからと言って、何ができる分けでもない。
 今の二人を繋いでいるものはただ一本の電話線だけで、言葉などという、気持ちを伝えるにはあまりに不十分なものしか伝えられない。
 それでも次の言葉を探した。躍起になって、必死になって、見聞きした限りを掘り返して。だけれど、どんな流麗な言葉を思いついても、足りなかった。
 だからだろうか、言葉を必死に探す頭とは裏腹の、至ってシンプルな言葉が、またも口を衝いて出た。
「泣きやんで、くれないかな。……その、泣かれてると、俺も、辛くなる」
 ダメか。
 言い終わった後の沈黙に、私は落胆した。
 だが、私が次の言葉を探し始めたそのとき、涙混じりの声。
「あのね」
 めいいっぱい強がっている声だった。
 どうしてもしゃくりあげるものを止められないで、それでも気持ちがあふれてくる、丁度子供がそうするように、彼女は泣いたまま話し始めた。
「きっと、私があなただったら、私、耐えられないと思うの。
 あなたが、私以外を、好きだなんで、そんなの、考えるのもイヤなの」
 たどたどしい言葉の列は、私に、肩を震わせる彼女の姿を思わせた。
 これが、電話でなければ。
 3度目の後悔は、彼女の元へ駆けつけたいという衝動だった。
 勿論、無理なことなど承知である。
 結局、代わる手段は言葉でしかなく、だから私はかけるべき言葉を探した。
 私が言葉を見つけられないでいる間も、彼女の言葉は続いた。
「だから、あなたにそんな想い、させたのがイヤで、だから……
 だからかな、悲しいの
 だから、謝るんなら、私の方だと思う」 
 きゅう、と胸が締めつけられた。
 ズルいな、と心のどこかが言った。こんなふうに、こんな声で言われたら、抵抗のしようもないじゃないか、と。
 抵抗する気もないくせに、そんなことを思いながら、私はようやく言葉を紡いだ。
「謝るんなら、代わりに、泣き止んでくれると、嬉しいな」
 少しわざとらしく、明るい声で。
「……うん」
 それから、また沈黙。
 けれど、それは今までとは違い、確かに軽くはなかったが温かく、心地よかった。
「ごめん、ね」
 少しだけ晴れた声がした。
 これが、電話でなければと、4度目の後悔をした。
 きっと最高の微笑みが見られたろうに。
 彼女の嗚咽が止むまでのしばらくの間、何と言うこともない話をした。
 しばらくすると、彼女も話しだし、また他愛のない会話が戻った。
 気が付くと、もう夜もすっかり遅くなっていて、どちらからともなく、「もう寝ようか」と言うことになった。
「じゃあ、おやすみなさい」
 微笑みが浮かぶ声を耳にすると、たまらなく衝動が襲って来て、別れの挨拶の前に、どうしても言葉を挟んだ。
「えと、その……好き、だから」
 え、という彼女の戸惑った響きと共に、突如気恥ずかしさが舞い降りた、私は慌てて「おやすみ」、と別れの言葉を告げた。そうして、慌てて受話器を置くと。
 ふう、と一つ息をつきふと鏡を眺めた。
 真っ赤な顔をした私の姿がそこにあり、思わず一つ吹き出した。


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