カタカタとキーを叩く音だけが響いている。
ふと、虚無感に襲われた。
何故こんなことをしているのか?
碇シンジ。第3の適格者。彼を、エヴァの中からサルベージするため
の計算。複雑さを極めているそれは、リツコの技術力をもってしても手
に余るものだった。
「……どうしてかしらね」
あの人の心を未だ捉えて離さぬあの女の子供だというのに。憎悪の対
象にすらなり得る存在なのに。
けれど、あの人は碇シンジを必要としている。
だから、私はあの人のためにこうして計算を続けている。
「でも」
少しだけ、昨夜の瞳は、曇っていた。
あの凶々しいまでの輝きが、どこかしら影っていた。
同じ瞳を、見た覚えがある。
あれは、まだ母が生きていた頃、あの女が消えた直後。
あのころは、その意味が分からず、ただ違う、とだけ思っていた。
だけれど今はわかる。
だから、憎いと思った。
父親の顔など、見たくないと思った。そんなもの、私は求めていなか
った。
でも、あの人はその顔をして私を見ていた。
否、私など見ていなかった。
「どうしたんですか、先輩?」
すぐ側で作業しているマヤが、手を止めて声をかけた。
「……ああ、何でもないのよ。続けましょう」
そう言うと、リツコは本当に何でもなかったように再びキーボードを
叩き始めた。
「マヤ、もう上がっていいわ。あとはMAGIが実行するのを待つだけ
だから」
しばらくの時間が過ぎ、やがて、リツコはそうマヤに告げた。
「はい…じゃあ、お先に失礼します」
立ち上り、発令所を出て行くマヤを見送ると、リツコは疲れた体を席
に埋めた。
傍らのコーヒーカップに手を伸ばすと、それは予想よりずっと軽かっ
た。
いつの間にか、飲み干していたらしい。それだけ、没頭していたとい
うことか。
諦め加減でカップを置いて、そのまま椅子に身を任せる。
自然、意識は昨夜のことを向いた。
私は、あの人にとって何なのか。
冷たい瞳で私を抱くあの人。
冷たい瞳のままで抱くのはいつも通りだった。心のかけらも感じられ
ぬような冷たさ。でも、それでいつも通り満足がいくのだ。
だけれど、曇っていた。
だから、憎かった。
いや、憎かったのは、これまでずっとなのかもしれない。
だが、その憎しみゆえに離れられない自分がいることもわかっていた。
憎いがゆえに愛しく、愛しいがゆえに憎い。
どんなに愛しても愛は得られない。わかっていながら、何故愛し、抱
かれるのか。
わからなかった。
男と女は、論理ではない。
そう言ってしまえれば、楽なのに。
だが、男は論理で私を抱いている。それを知っている。
なのに、抱かれる。
矛盾ばかりの自分を嘲笑い、憎んだ。
憎かった。あの女が、憎かった。
だから、少年のことも憎かった。
そして、少女のことも憎かった。
なにより、男が、憎かった。
道具。
わかっている、わかっている。だけれど、道具であっても、必要とさ
れている。あの男に、必要とされている。だから、満たされた。どんな
に憎くても。
馬鹿だと、わかっている。
けれども――馬鹿でなければこの世界は辛すぎるのだ。だから、馬鹿
でいたかった。
だから、憎くても少年を取り戻そうとしている。
或いは、あの女と男の間にできたものですら男には道具でしかないこ
とを確かめたいがために取り戻そうとしているのかもしれない。
どちらにせよ、構わなかった。
ただ、今は疲れた体を休めたかった。
だから、ぐるぐると回る思考を中断して、リツコは眠ることを選んだ。
動き続ける母親に、眠りに落ちる前の挨拶をすることもなく。
冷房が効きすぎていることは、気にならなかった。