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   頬

「アスカがいなくなった?」
 シンジはすぐに聞き返した。
「ええ。クラスメイトの所にもいないようだし」
「……そんな……探してきます!」
「待ちなさい、シンジ君。あなたはいざというときに備えて家で待って
いなさい」
「でも、アスカが……」
「こんなときに使徒が襲ってきたら、誰がEVAを動かすの?
 まさか、レイ一人に任せる気?
 あなたは、あなたの勝手だけで動けるわけじゃないのよ」
 少し、言いすぎただろうか、と思うミサト。
 シンジは、沈黙したが、やがて、
「……そうですね。僕が闇雲に探しても、どうしようもないですよね」
 と自分を納得させるように言葉を噛みしめた。
 不満がありありと見える瞳。それを理屈で押さえつけている。
 もっとも、無理に、ではない。
「わかってくれて、嬉しいわ。とにかく、私が警察の方にお願いしてく
るから。シンジ君は、普段通り行動して頂戴」
「はい」
 素直に返事をして、しかしキュッと下唇を噛んだシンジの顔は、何も
できない辛さでいっぱいに見えた。


 もう、これ以上は意味がない。
 そんなふうに思って家を飛び出した。
 夜の盛り場、汚らしい町並み。
 厭らしい目つきの大人。
 手に握り込まされた、何枚かの紙切れ。
 肩に腕を回され、それを嫌いながらも、自分自身の方がもっと嫌で、
男の導くままに動いた。
 ホテルの入り口、待ちかまえていた数人の男。
 警察と名乗って、私を男から引き離した。
 物陰に見えたサングラスをかけた男は、NERVのロゴを身につけて
いた。
 ああ、私はもうNERVから逃げ出せないんだ。
 絶望して、おとなしくNERVの差し向けた警察官に補導された。


「ミサトさんから、連絡があったよ」
 家に返されたアスカを、そんな言葉でシンジが迎えた。
「心配したのに……どうして、知らない大人と……あんな所に行こうと
したんだよ!」
 なによ。いっぱしに家族面なんてして。あんたなんか、大っキライよ。
「アスカ、聞いてるの?」
「私がどこにいようとシンジには関係ないでしょ!」
 口をついて出る悪態。
「アスカ!」
 シンジの右手が、アスカの頬を叩いた。
 叩かれた左の頬を押さえながら、アスカは怒りを込めた目でシンジを
見た。
 シンジの目の端に、涙が浮かんでいた。
 瞳の奥から、誰かが見つめているような気がした。
 それは、ひどく優しい視線をアスカに向けていて……『パパ……』
 シンジの瞳の中に父親の姿を見つけた瞬間、シンジの瞳が、視線から
外れた。
「ご……ごめん、アスカ」
 おそらく、叩いた左頬に伸ばそうとしたのだろう、シンジの右手が所
在なく中を漂っていた。
 謝り方も、今までみたいな反射的なものではない。自分が何をしたか
をゆっくりと確かめてから謝った、そんな感じだった。
 何度か右手が延びてくる気配を見せて前後に動いていたが、やがてす
まなさそうに引っ込んだ。
 意気地なし。
 たかが女の子の手と頬に触れる事すらできないのね。
 そんな強気な言葉がアスカの脳裏に浮かぶも、口には出てこなかった。
 急にしおらしい気分になった自分をごまかすために、アスカは背を向
けて自分の部屋へかけ込んだ。
「アスカ!」
 本当にすまなさそうなシンジの声が、耳に残った。


 枕を抱えて眠っていたんだ、と気付くにはしばしの時間を要した。
 ごめんね、シンジ。
 そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
 ぶんぶんと頭を振ってその気の迷い(と自分では思いたかった)を振
り払うと、喉の乾きを癒すため、アスカはキッチンへ向かった。
 まだ、リビングに明かりがともっていた。
 ゆっくりとのぞき込むと、シンジが、いた。
 少しうつむいて、何やら考えているようだった。
 点きっぱなしのテレビの少し有害な中身にも、心動かされる様子など
欠片もなかった。もう一度、さっきの言葉が脳裏に浮かんだ。
 何を考えているの、私。
 当惑して、凍り付いた。
 その拍子に、ちょっと派手に足音を立てた。
「アスカ……」
 シンジが、顔を上げた。
 気付かれた、と思い逃げだそうとしたが、そんな場所も必要もない事
に気付いて、リビングに踏み入った。
「ねえ、ミサトは?」
 何か言わないと、よけいな事を口走ってしまいそうなので、そんな質
問をした。
「えと、今日は仕事があるから、帰れないって」
 じゃあ、二人っきりなんだ。そう思った途端、頬が染まる感覚が伝わ
ってきた。
「ねえ、シンジの部屋で寝てみていい?」
 それをごまかそうとして適当に言った言葉が、とんでもない言葉だと
気付くのにそう時間はかからなかった。それで、顔が今度こそ真っ赤に
なった。
「……そ、そんな、男と女で一緒の部屋に寝るなんて……」
「ば、馬鹿、なに言ってんのよ。あ、あんたは別の所で寝るの!」
 フォローしようとした言葉の節々が動揺していた。もっとも、そんな
のは比べものにならないぐらいにシンジは狼狽していた。
「じゃあ僕はどこで眠ればいいんだよ!?」
 真っ赤な顔のまま、シンジが突っかかってきた。
「そんなの私が知るわけないでしょ」
「じゃ、じゃあ、アスカの部屋」
「ダメ!」
「どうして!?」
「レディの部屋にあんたみたいなのを寝させたくないのよ」
「じゃあ、僕の部屋だってダメだよ!」
「あんたの部屋はいいのよ!」
「そんな……不公平だ!」
「不公平でも何でもそうなのよ……ま、あんたみたいなお子様がおんな
じ部屋に寝てたって何にも怖くないけどね」
 アスカは普段の言い合いになって自分のペースを取り戻した。だがそ
れもシンジが、しばしの沈黙の後、
「……要するに襲っても文句は言わないってこと?」
 と切り返すまでのことだが。
 それですっかりペースを乱されたアスカは、言葉を失った。
 おまけにこのままでもまずいと思って口にした答が、
「か……考えてもいいわ」
 と来たものだ。
 おかげで二人ともゆでダコのように真っ赤になって、うつむいてしま
った。
「……も、もう寝るね。おやすみ」
 気まずさに耐えられなくなってシンジが立ち上がった。慌ててリビン
グから出ようとする彼を、アスカは呼び止めた。
「待って、シンジ」
 振り向いたシンジの頬を軽く、本当に軽く叩くと、
「さっき叩かれたお返し。これでチャラでいいわ」
 それから、全く意識せずに微笑んだ。
 ごくごく自然な、心からの微笑み。
 綾波みたいな、笑い方だ。
 そう思って、すぐにその微笑みを直視できなくなったシンジは、目を
逸らしてから、改めて
「おやすみ」
 と言いなおした。
「おやすみ、シンジ」
 アスカがずいぶんと素直に言葉を返してくる事に気付かぬまま、彼女
の手が触れた左頬の感触を思いながら、シンジは自分の部屋に篭った。
「ごめんね、シンジ。それと……アリガト」
 閉じられた扉ごしに、絶対届かない声でアスカは呟いた。
 それから、冷蔵庫の中のスポーツドリンクをコップになみなみと注ぎ、
一気に飲み干した。いやというほど並ぶビールに手をつけようかとも思
ったが、あくびが出たのを言い訳に、ビールをあきらめて、部屋に戻っ
た。
 いい夢が見れそうな、気がした。


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